ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

  昔は5月の連休が1年の折返しで子供たちと遊んだり、仲間とゴルフをしたり、何かと外出をする機会も多かった。そうして後半戦に備えて英気を養ったものだったが、もうこの年になると、孫が受験だったり、こっちもゴルフをやめちまったり、音楽会もお休みだったり、頼りのジムまで連休で、行くところもなく、近所の散歩が日課の今年の連休だった。そのなかで映画を見たり、本を読んだりゆっくり過ごすのが、なんとも贅沢な気持ちで、この数日を過ごした。そのなかで気になった作品をいくつかまとめてみた。まず映画から。

ぶんぶんのへそ曲り映画日記その10
最初は「サウンドオブフリーダム」である。
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  世界中に小(幼)児性愛異常者がごまんとおり、その犠牲者の子供たちが誘拐され数百万のレベルで毎日辛い生活を送っているという。
  本作はそういう実態にメスをいれた力作である。映画の作りはなんとなく素人っぽく、おぼつかなく、たどたどしいところもあるが、テーマの厳しさが四の五のといわせない。

  主人公はロスで幼児犯罪を担当している警察官ティム・バラード。ある時幼児性愛者のシンボルのような男を捕まえた。彼はそのてのテーマの著作もあり、この分野では一種のオピニオンリーダー的な男である。その男が大量の映像と子どもたちのストックを持っていた。ティムはその男への尋問を通じて一時は精神的に耐えられなくなるが、その男の資料に載っている少年がメキシコから入国するという情報を得たことで、自らを鼓舞し、そのメキシコ男を逮捕し、少年を救助する。

  少年の名前はミゲル、ホンジュラス生まれらしい。まだ6歳くらいの少年。少年はティムになつき、やがて彼にはルシオという姉がいて、彼女もミゲルと一緒に誘拐されたこともわかってきた。そしてホンジュラスからのルートも少年のおぼろげな記憶から、コロンビア経由ということが次第にわかってきた。しかしコロンビアは手を出せない。ティオは上司を説得し1週間だけ猶予をもらい、コロンビアのカルタヘナ警察の協力を取り付ける。

  姉のルシオを救済するまでの物語がそれ以降描かれる。
  サウンドオブフリーダムとはルシオが誘拐される前に叩いていた太鼓の音、解放されて自宅でその太鼓をたたく場面で映画は終わる。
  これは事実を訴える厳しい映画であり、誘拐された子供たちの境遇を思うだに辛い作品である。


2作目は「陪審員2番」
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これはクリント・イーストウッド監督の最新作である。「真実は正義であるか?」と云う問いかけに、「そうだ」と答えられるか、ということがテーマになっている。

  法廷劇である。そして映画「12人の怒れる男たち」と同様に陪審員たちの評決は割れる。
  ジョージア州でサイスというならずものが恋人を殺したという事件。警察はろくに捜査もせず、サイスの過去を見て、決め打ちで送検してしまう。検事もそれをうのみにする。サイスの頼りは国選弁護人のみ。

  陪審員らも最初からサイスが犯人と決めつけほとんどの陪審員が有罪と認定。しかしヘンリー・フォンダのような男がいて、その流れを食い止めて、もう少し議論をしようという。彼は「陪審員2番」、この映画のタイトルである。タウン誌の記者でアルコール依存症を克服しようとしていて、妻は臨月。
  ジャスティン・ケンプという。

  彼には簡単に有罪にできない事情があったのだ。この先は言えないが、しかし「怒れる12人の男」のような終わったあとに何となく爽快感が残る法廷劇ではなく、クリント・イーストウッドがこの映画の聴衆に、あとは君たちで考えろよと投げつけられたような気分にさせられる映画だ。さてあなたならどうする?

  それは担当検事にも投げつけられたテーマでもあり、ケンプ夫妻にも投げつけられたテーマでもある。やるなあ、クリントさん。



最後は日本映画の「CLOUD]
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菅田将暉主演の日本の現代の1断面を切り取った作品だろう。だろうというのは私にはこの作品の話の展開について行けなかったからである。書き込みを見ても前半と後半とのギャップについてのコメントが目立った。

  菅田は「転売ヤー」を裏家業にしている。一応企業に勤めていて社長の覚えめでたく、管理職にも推薦されている。しかしそれを蹴って独立して「転売ヤー」を専業で始める。はじめは何とかうまくいっていたがジリ貧。そんな時彼のハンドルネームについての悪いうわさがSNSに流れ始める。

  要するに菅田は相当あくどいことをやっていたらしい。そしてそれを糾弾すべしという有志連合がネット上で結成され、さらには制裁をすべきというところまでエスカレートした。

  ここからが少々荒唐無稽の銃撃戦。日本では入手が困難な最新式のハンドガンでの撃ち合いとなる。この前半と後半のおり返しにもう1フレーズ必要な気がする。菅田を糾弾するという動きが暴力に転換される触媒が欲しい。

  これはできの悪い台本のヴェルディのオペラのようなもんで、空隙を埋めるのを聴衆にげたを預けているように感じた。ヴェルディでは音楽でカバーできるが、映画ではシナリオと演技でしかカバーできない。それを聴衆に預けたということなら私にはちょっと無理。


ここからは読書。
ぶんぶんのへそ曲り読書日記その25

読書は3冊だけれど、全て北国に関係ある。

最初は「流氷の果て」という作品。一雫ライオンという奇妙なペンネームの作家の作品

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ミステリーである。差別の問題も含み、少年少女の放浪(精神的)もあり、初老の刑事の鋭い推理あり、若い部下の献身的な協力があるなどというのは、いかにも松本清張の「砂の器」を彷彿とさせる。

  事件の発端は1985年に起きた北海道でのバス事故である。そこで生き残った7名の内、小学4年生の修一と6年生の由里子が主人公。2人は事故後の、ある犯罪にかかわったとして、東京に逃げ、そこで成人する。事件から15年の間に、修一は老人ホームの設立などの事業にかかわり、由里子は小さなラジオ放送局の人気DJとして活躍。しかし二人は直接会うことは避け続けてきた。

  ある日、ホームレスの自殺現場にこの二人は呼び寄せられるようにきて、遭遇、そこに臨場していたのが、もう引退間近の58歳の新宿署の刑事、高宮、かれは由里子と修一のその場での立ち居振る舞いに疑問を持つ。これが高宮が壮大な推理を展開する発端になった事件である。

  高宮の調査の過程でこの二人の周りで、過去とそして現在にいくつかの殺人事件が起きていることがわかってくる。さて、これからが推理小説の面白さだが、本書はそれはあたかも高宮刑事の妄想のごとく扱う。つまり何の物的証拠も上がらないのであるから!そしてこれは刑事部長直属の形での単独捜査であるという不思議さ。
  さらに話をややこしくするのはこれに、政界、右翼、財界などもからめることだ。このおかげで純粋推理小説の魅力はかなり薄れたと思う。それはなんとなく絡めたということによるもののように感じられたからだろう。

  最大の問題はこれはネタバレになる。この物語の発端のバスの事故原因は運転手で修一少年の父親の酔っぱらい運転ということで片づけられているが、真相は違うということを高宮は突き止める。しかしその真相のオリジナル調査書は黒塗りで何が書いてあるかわからないまま没になっていた。結局このバスの事故は修一の父親の酔っぱらい運転が原因で片づけられ、黒塗りの部分は消え去り、なにが真の原因かさっぱりわからないまま終わってしまう(小説の中で明らかにされない)。これは矢張り問題だろうと思う。発端の事故につき解明されないで、終わってしまうのは如何にも乱暴だ。その他細かいところをサーっと通り過ぎることもあり、砂の器の後継者になり損ねた佳作と云っておこう。もったいない。


  2作目は門井慶喜の「札幌誕生」
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これは実に面白い本だった。一気読み必至。
  単に札幌の町が今日のように大発展をする歴史を描いたものではなく、それにかかわった人々に焦点を当てているところにこの著者の目の付け所の良さを感じる。

  しかもここに出てくる人々はまるで主題が循環するように、全て何らかの形でクラーク博士の札幌農学校が絡んでくる面白さ。勿論この農学校が名前がいろいろ変遷するが根っこはいっしょなのだ。

  しかしそれは第2話からで、第1話は開拓判官の島 義勇が主人公である。かれはわずか3か月の間に現在の札幌の都市の形の大まかを作り、いまの北海道を北海道と命名する。島の前には2人の先人がサッポロが北海道のへそだと見抜いて、それを島に伝承しているという逸話も描かれている。島は後の佐賀の乱であえなく斬首されてしまうが、たとえそうであっても彼が今日の札幌の原点を作ったことには変わらない。

  それから4人の人々の話が続く。第2話では農学校の第2期生の内村鑑三、あの新渡戸稲造が同期である、3話ではアイヌの少女の物語バチラー八重子が描かれる、そして第4話では彼も農学校に入学している、あの小説家の有島武郎が描かれる。最後は第5話で石狩川の治水に生涯をかけた、岡崎文吉が描かれる。

  それぞれの人々は精神的に、宗教的に、社会制度的に、文化的に、地理的に札幌にかかわる。

  中でも面白いのは第3話のアイヌの少女、八重子の数奇な生涯とその文学的、社会的貢献である。彼女はアイヌでも裕福な家に生まれ、むしろ内地からの開拓民よりずっとお嬢様だったが、父親の早逝で一家は没落する。八重子は単身札幌に行きキリスト教布教で知り合った、バチラー夫妻の家に住み込み、やがては養女になる。彼女はバチラー牧師のアイヌ/英語/日本語辞書の編纂の過程で知り合った金田一京助を通じてアイヌ語の短歌を発表、単行本まで発行する。話はそれで終わらないが、まあこの話が私には一番面白かった。

  循環という意味では八重子はアイヌの子供たちの教育を通じて新渡戸ら農学校のOBの支援を受けるという縁がある。

  次いで5話の石狩川の治水事業に生涯をささげた岡崎文吉の物語が面白い。かれも札幌農学校から発展した国立大学の卒業生。難事業への取り組みは読みごたえがあった。まあ書いていったらきりがないが、どの人物も魅力的で実に面白い。
大推薦図書である。


 最後は柚月裕子の多分これは警察小説というのだろう。 「逃亡者は北国へ向かう」である。
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警察小説で、独自の世界を切り開いた柚月氏の東日本大震災を舞台にした最新作だ。多分警察小説だろうと思うが、ヒューマンドラマとも言っても可笑しくはない。

  あの大震災の発生の前後がこの小説の舞台である。
  主人公は真柴 亮という22歳の男性である。繁華街で傷害事件を起こし、警察に留置されていたが、そのさなか、この震災ということで証拠も固められず、とりあえず仮釈放になる。
  真柴はある企業に勤めて4年、やっと安住の地を見つけた。彼は誕生と同時に父母が離婚、母は彼が2歳時に死去、祖父に育てられ、その祖父も9歳の時に死去、彼は養護施設に預けられ、今日に至る。一言でいうと不運の星に生まれた男、友人もおらず、将来の希望もなく、ただ毎日が過ぎてゆくそういう人生を送ってきた。
  そういう彼の仮釈放後に数奇な運命が待っていた。震災の直後に2人の人間を殺してしまったのである。彼は自分でもなぜそういう運命になったのかわからないまま逃亡する。北を目指して!

  真柴を追う刑事の代表が陣内警部補、そもそも発端の傷害事件の真柴の取り調べを行ったのが陣内だったのだ。陣内は真柴がなぜ北へ向かうのかが、真柴逮捕の決め手だと思い追跡を始める。

  とまあ、そういうあらすじだけれど、それはただ話の流れを示したものにすぎず、全体像は簡単には語れない。それは真柴の逃避行に接点を持つ人々が何らかの形で、震災の被害者なのであり、この小説の影の主人公なのであるからだ。例えば陣内警部補も娘を失っている。
  つまり逃げる真柴も、刑事も、真柴に遭遇する人々も、皆苦悩に顔が歪んでいる、そういう小説である。正直途中で放り出そうかと思うほど、読み進むのが辛い。

  果たして、ここに登場した人々の顔の歪みは最後には笑顔になったかどうか?

  読む人によっては辛い結末だろうし、そうでない人ももちろんいておかしくない。読み手が試される厳しい小説といえよう。

                                         〆

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  4月27日の公演を聴いた。テアトロ・ジーリョ・ショウワでの公演。ダブルキャストである。
小田急線の新百合ヶ丘というところにあるこの劇場で、毎年藤原歌劇団は何かの演目をやる。新宿からわずか20分だが何となく億劫で、ほとんど毎年このホールでの公演を、このごろは避けてきたが、さて、グノーの「ロミオとジュリエット」は初めてのライブなので聴くことにした。

  プログラムには「テアトロ・オペラ・コレクション」とあるが、今日の公演のスタイルを言うらしい。もともとこのホールにはオーケストラピットがあり、千数百人の定員ながら立派なオペラハウスである。新国立の中劇場よりもずっと立派である。それなのにこのテアトロ・オペラ・コレクションというスタイルはほとんど演奏会形式である。
  通常の演奏会形式は指揮者のほぼうしろ、つまり指揮者に非常に近いところで歌い手は歌う。しかしこのテアトロ・オペラ・コレクションというスタイルは、オーケストラピットにふたをして、そのうえで歌う、つまりオーケストラとはかなり離れたところで歌うことになる。指揮者とは4~5メートルは離れているのだ。指揮者の園田氏は「初めは難しいと思ったが、そうでもなかった」というコメントを開演前の解説で述べておられたが、それはけっして本音ではあるまい。背中の真後ろならともかく、かなり離れたところで、後ろ向きで、歌い手と精緻なコンタクトができるはずがない、と私は思う。
  しかも、オーケストラの人員はピット並みに少ないから、ステージの奥から聴こえる音は、迫力の乏しい音になる。ヴァイオリンなどは響きが薄くて寂しい。
  コストダウンでそうなったんだろうけども、しかし、バルコニーやバルコニーへの階段などの装置や小道具はかなりそろっているので、ピットにオーケストラを入れても十分公演は成り立つと思うのだが、これはチト、アイディア倒れ。指揮者がなぜ反対しなかったのか疑問である。
  昔ゲルギエフがこのようなスタイルで「ランスへの旅」を指揮したことがあった。ただそこはオペラができるホールではなく、コンサートホールだった。それだとまた響きも違うので印象も変わるだろう。まあ長々と書いてしまったが印象としてはグノーのオーケストラの音がどこかへ行ったような気がしたので一言。

  さて、今日のキャストは以下の通り
指揮:園田隆一郎
演出:松本重孝
(演奏会形式スタイルだが、衣装はほぼ同時代ものを着用、簡単な装置や小道具はきちんとある、もちろん譜面台はない、演技は通常の公演と同様である)

ロメオ:山本康寛
ジュリエット:米田七海
メルキューシオ:市川宥一郎
ティバルト:工藤翔陽
修道士ローラン:久保田真澄
ステファノ:石田 滉
キャピュレット:小野寺 光
ジェルトリュード:山本千鶴
パリス:相沢 創
グレゴーリオ:岩美陽大
ヴェローヌ大公:東原貞彦
ベンヴォーリオ:勝又康介

合唱:藤原歌劇団合唱部
管弦楽:テアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラ

  園田の指揮はいつも丁寧だし安定していて楽しめるが、上記の通り今日の演奏は、オーケストラが浮き上がったような印象で終演後、耳には声だけしか残っていない。まあこのスタイルはやめたほうがよい。

  さて、歌い手は土曜日の「仮面舞踏会」と異なり、かなりぎくしゃくした印象だ。

  ロメオの山本は2019年の藤原歌劇団の「ランスへの旅」公演(新国立劇場)でリーベンスコフを歌っているのを聴いている。その時のブログを読み返すとあまり冴えない。調子が悪かったのだろうとコメントしている。
  今日のロメオもきっと調子が悪かったのに違いない。高音がほとんど出ているようには聴こえない。出ているのだろうと一応したとしても、力強さがまるでない。素晴らしいアリアの「太陽よ登れ~」も、これでは登れまい。逆に繊細さはあるのかと思うと、これもほとんどファルセットになって少々だらしがない。カーテンコールではブラボーも飛んでいたが?

  その代わりといっては何だが、ジュリエットの米田は満足行く歌唱。3幕の毒を飲む場面「私の愛しい人よ~」は実に感動的、血の通った生身のジュリエットの心が聴こえる。本日最高の歌唱だった。

  その他ではステファノの石田が素晴らしい。持ち歌は1曲だけだけれど、「白いキジバトよ」を軽妙に、かつしっかりした声で聴かせてくれた。前日の「仮面舞踏会」のオスカルを思わせる歌唱だ。彼女はまたどこかの劇場で会うのを楽しみにしたい。
  メルキューシオの市川もしっかりした声をベースに演技も軽妙、楽しめた。脇だがローレンス神父の久保田はベテランの味。
  キャピュレットの小野寺は声がふがふがで冴えない。ティバルドの工藤は、貴族なのにならずもののような歌いっぷりは気に入らない。
  ということで、歌は凸凹が激しく、このオペラを部分的には楽しめたが、全体を通してみると、この悲劇に感動したとは言えないのは残念。

  なお本作品は5幕形式だが、本公演では2幕構成にしている。1幕から3幕の1場で休憩、その後後半を続けて演奏。演奏時間は138分。多少のカットあり。
  もう一つの組み合わせで聴いたらどうだったんだろう。ダブルキャストはこれだから困る。
  まあこういう日もある。酒は飲めないので、晩飯はおごって、ステーキを食べた。とんだ散財だ。

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カーテンコール、中央の指揮者を挟んで、左手がジュリエット、その左がティバルト、キャピュレット、ジェルトリュード、そしてパリス
  指揮者の右手はロミオ、ステファノ、マキューシオ、ローレンスと続く
                                        〆



オペラの旅Vol.1omotes

  前にも一度書いたが、在京のオーケストラが演奏会形式でオペラをシリーズで上演する企画が増えているように思う。東フィル、東響、読響、そして今回は日本フィルで指揮者の広上と組んでの企画である。サントリーホールで行われた。
  本日(4月26日)はその第一回目でヴェルディの中期の傑作「仮面舞踏会」を取り上げた。
「仮面舞踏会」というオペラはそう言われている割には私はあまり聴いていない。過去2009年までさかのぼってみても2013年トリノ歌劇場の来日公演、同じく2013年の藤原歌劇団、そして2023年のムーティの春祭での演奏会形式での公演この3回である。
  このオペラは当然主役はリッカルドだがそのほかアメーリア、レナート、オスカル、ウルリカとこの五人がそろわないと芝居にならない。どれが弱くてもよい公演とはならない。それゆえの難しさで公演数が少ないように思った。

  今回のキャストは以下の通り
指揮:広上淳一(日本フィルの芸術顧問)
演出:高島勲
(演奏会形式であるが歌手はすべてその時代と思われるか類似の衣装を着ている。譜面台はなし。舞台はないが歌は指揮者の前とオーケストラの後方にセットされたミニ舞台で歌われる。また会場からステージに登場という場面もある。など装置のない演奏会形式といってよい。歌い手も通常のオペラ公演に近い動きをする)

リッカルド:宮里直樹
アメーリア:中村恵理
レナート:池内響
オスカル:盛田麻央
ウルリカ:福原寿美枝
サムエル:田中大揮
トム:杉尾真悟
判事:岡山正孝
召使:岸野裕貴

合唱:東京音楽大学 管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団
振付:広崎うらん、バレエシーン(3幕)の振付と自身も登場し運命をつかさどるルシファーとして演技する。

  印象としては久しぶりの「仮面舞踏会」いいオペラだなあと改めて感じた。それは歌がいいことだと思う。主役級の5人にそれぞれつけられた歌が数曲づつあるがそれが皆素晴らしい。単に美しく聴き映えがするだけではなく、そこには切れば血の出る生身のヒトの苦悩が詰め込まれているから。特にリッカルド、アメーリア、レナート。

  さて広上の指揮だが、かつてはタコ踊りのような指揮だったが、それは息をひそめ至極まっとうな指揮ぶりに変容していてびっくりした。ここでの彼の役割はオーケストラや歌手を煽り立てて火の玉のような音楽にし立てるのではなく、あくまでも歌手に寄り添う料理人のごとく繊細にオーケストラを駆動する。演奏時間は134分。1・2幕は通して演奏、休憩があって3幕という構成。
場面転換の時間はあるがごくわずか。

  歌手たちはどうか?私は予想外の立派な歌唱(失礼)で、久しぶりにこの曲を聴いて、何度も云うが、いいオペラだなあと改めて感じた。

  5人の主役たちのバランスがとれていて歌唱が崩れていないのが何より良い。

  宮里は相変わらず立派な声だがもう少ししなやかさが欲しいのがいつも思うこと。悲劇の主人公を堂々と歌って立派な歌唱だった。
  中村は新国立でヴィオレッタを歌うなど実力者でありいうことはない歌唱だが、私には少々線の細いアメーリア。たとえ不倫したと疑われても、自分にも女としての矜持があると自己主張をする、そういう女の強さが感じられないのは、その声のせいかもしれない。往年のテバルディやステルラの歌唱を聴くと違いは分かるだろう。中村には例えばヴェルディの中期のオペラなら「シモン・ボッカネグラ」のアメーリアならぴったりかも!
  素晴らしいのはレナート役の池内。いささか宮里に比べると声量が落ちるが、レナートの実直な性格が見事に歌唱に出ていた。そしてそういう人間が裏切られたときの怒りの激しさも十分。私は今日は彼が一番だと思う。
  オスカルも爽やかな声で、この陰惨になりかねない芝居のムードを変える、ムードメーカーになった。
  ウルリカも熱唱だが、私には少々声のオーバーアクションのような気がした。私の思うウルリカの性格とは違った歌唱はあってもよいが、この公演では、少々浮いた印象で、全体の形を壊しているように聴こえた。
  広崎うらんは振付師らしい。ルシファー役として舞台回しのような役割を演じていたが、その機能はしていないように思った。たとえばシルヴァーノに任命書を渡す役を演じているが、果たして必要な役なのかどうか?最初は邪魔っ気で何をしているのかわからなかった。プログラムを読んでやっと存在の意味が分かった。アイディア倒れ。

  さて、これだけ充実した舞台を聴かされると、2023年の春祭のムーティのプロダクションのように、一人一人が切れば血の出る、生身の「ヒト」になる、火の玉のような歌唱・演奏まで指揮者、歌手ともども、一層高い水準を目指してほしい。決して不可能ではないと思われる公演だった。

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カーテンコール、中央の燕尾服が広上、左がアメーリア、その左がオスカル
広上の右手がリッカルド、その右がレナート、その右がウルリカ
P席は合唱、オルガン前はバンダ(3幕で活躍)





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