ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ: > ノンフィクション

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高野氏で覚えているのは「ソマリランド」だ。あれは面白かった。本作はあれほど話は収れんしておらず、拡散に次ぐ拡散であるが、それが今のイラクを表しているようで、興味ぶかく読んだ。

  そう、彼は今回は彼はイラクに飛んだ。しかもイラク南部の湿地帯に住む、イラクの人にはアウトローとみられている人々に焦点を当てた。この地域はシュメールの遺跡とともに世界遺産になっているが、イラク人にとっても、世界の人々にとっても知られざる土地で、文献もほとんどない。

  大体イラクと云うのは砂漠の土地ではなかったのか?そしてまたまたしかしこの国にはチグリス・ユーフラテス川が流れているのだ!そうみると湿地帯があってもおかしくはないのだが?
  最初は半信半疑で読み始めた。読んでゆくとァマーラとバスラの間に巨大な湿地帯があることがわかり、そこには雑多な人々が、ある人は土着であったり、ある人々は移り住んだり、多くの人々が生活を営んでいる。高野はそういう人々に直撃する。

  高野は2018ねんから2022年の間の4年間に3度訪問しこの本を書いた。それゆえこの本はいろいろな話に拡散してゆくのはやむを得まい。またその当時まだイラクの治安には不安があり、自由にどこでも行けるという状況ではなかったしヴィザも簡単にはおりない。
  もともとはこの湿地帯をこの地域の古典的な手漕ぎボートで旅をすることが目的だった。その顛末は最後に出てくるが、そういう行動制限がありこの旅行記に限界があったことは否めない。
  もう一つこの旅行記の制約は21世紀になって湿地帯が縮小していることがあげられる。トルコにできたダムの影響や、堰からの水の流出などによるものでトレンドになっている。

  こういった制約の中、湿地に住む人々の蘆の家に住んだり、立てるのを手伝ったり、イラク名物を作ったり(食べ物:ゲーマルがうまそう)、そして極めつけは船旅用の11mもの船を作ったり(本書の表紙がそれである)、そしてこれは予想外の展開だがアザールというシュメール時代から伝わる織物のルーツを探訪したり、そしてその合間に多くの湿地の人々の交流。
  まあ出だしは少々読みにくいが、幾多の障害(コロナもそうだ)を乗り越えてこの大作を残した力業は見事。異文化に触れ日本との違いに驚くばかり。
  この作品を読んでいるときにハマスとイスラエルの衝突があり、この中近東の地域歴sの複雑さも改めて本書から感じられた。

  一つ不満を言うと「水滸伝」と絡めたことだ。登場する湿地の人々を水滸伝中の人物にあてはめるなどあまり意味のないことだと思う。私が水滸伝を読んだのは高校生でもうあまり記憶がないこともその理由だが、水滸伝と絡めて話が分かりやすいようにと云う配慮だろうが、無用のように思った。

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私が他県から東京都中野区に引っ越したのは2003年である。もう来年で丸20年過ごしたことになる。中野はちょっとした縁があって越したのだが、別に中野区に特段の思いがあったわけではない。本書に書かれている、中野ブロードウェイも実は引っ越すまで、存在すら知らなかったのである。

  私の家は中野と云ってもJR沿線ではなく西武新宿線沿線であって、引っ越した時には中野駅は遠いところにあるというイメージであった。しかし近隣をぶらぶらしているうちに、新井薬師やら哲学堂やらに遭遇した一環として、中野ブロードウエイに出会ったのである。しかしその出会いは中野駅北口からのブロードウエイではなく、裏口の早稲田通り側の入り口だった。つまり新井薬師からぶらぶら歩いていたら早稲田通りにぶつかり、そしてアイスクリーム屋の横に、ビルの入り口があったのである。それが私のブロードウエイとの出会いである。

  しかし、中に入ると、これはなんとも独特の雰囲気。新宿などにあるショッピングモールとは一線を画した実に面妖(と云うしかない)なビルだったのである。第一、1階からエスカレーターで2階に行こうと思ったら、3階に直行してしまうなどと云うビルがあるだろうか?「まんだらけ」などという漫画の古本屋があったり、ブティックがあったり、電気屋があったり、食べ物屋があったりするのはまあいいとして、それは一つの考え方でテナントが配置されているのではなく、あたかもアメーバが増殖するかのような、雑然とした店の配置なのである。

  それ以来のお付き合いだが、最近はあまりゆくこともなくなった。最初のころは目当ては中古のオーディオショップとDVDのショップだった。しかしもう私のオーディオは行くところまで来てしまったし、もうDVDを買って映画を見ることもなくなった。ツタヤのレンタルやNETFLIXに置き換わってしまったのである。

  そのようなときに本書「中野ブロードウェイ物語」/竣工55周年記念出版、を書店で見つけたのである。早速買って読み始めたが、これは私がブロードウェイについて疑問に思っていたことが氷解するような作品で、例えばどのようにしてこの建物ができあがったのか、どうしてテナントがこのように雑然と配置されているのか、時計店や漫画店(まんだらけ)や変なフィギュアの店とかがなぜ多いのか、などについての疑問である。
  それと間抜けな話だが、このビルの5階以上はマンションになっていて、多くの著名人が住んでいたというのも初めて知った。要するにこのビルは4階建てだと思っていたのである。

  著者はこの5階以上のマンションの住人であり、ブロードウエイへの思いれも強い。そういう視点から丹念にブロードウエイ論を展開しており、これはブロードウエイを知っている人にも知らない人にもおすすめの作品である。これを読んで久しぶりにブロードウエイに行きたくなった。


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ロシアのウクライナ侵攻により、ロシアの音楽家が踏み絵を踏まされている。プーチン派と云われているゲルギエフはなんの声明も出さずに、世界中の音楽界から締め出された。ネトレプコもそうだ。
  逆に音楽家からプーチンと距離を置く発言、たとえばウクライナ侵略に反対などを出す音楽家にもお目にかからない。わずかにソヒエフのように欧州のオーケストラの音楽監督を辞任し、そしてロシアのオペラハウスの音楽監督も辞任するという、板挟みになっての苦渋の決断のようだ。
  そのせいもあってか、来シーズンのN響の定期には登場することになっている。またすでに終わったが、プレトニョフ/東フィルの「我が祖国より」の演奏も日本では聴けた。どういう基準かはよくわからないが、微妙な判断が下されているのだろう。

  さて、音楽界ではこの100年、このような政権と音楽家の葛藤が繰り広げられてきた。本書は第二次大戦から20世紀末までの事例を挙げて、音楽家たちの苦悩を描いている。これらは書下ろしではなく、過去の書き溜めたものを2013年単行本化し、そして今回加筆修正したものを文庫化している。上記のような状況下時期を得た発売といえよう。

  本書で最も印象的なのは、ナチズム、ファシズムと音楽家たちはいかに対してきたかである(1~4章)。この中ではファシズムに反対して亡命する音楽家もいれば(例えばトスカニーニ)、自国に残って生き残りを図る音楽家もいた。これはフルトヴェングラー、カラヤン、ベーム、クナパーツブッシュ、ミュンシュなどである。またやむを得ず自国を去らねばならぬ音楽家もいた。それは迫害が予想されていたユダヤ系の音楽家である。例えばワルターがそうである。
  読んでいて、亡命した人たちの苦悩もさることながら、自国に残ってファシズムのリーダーと共生せざるを得なくなった音楽家の苦悩を強く感じた。偉大な指揮者たちの自伝を読んでもこの部分は、自分の都合の良いように書かれていたり、ぼかされていたり、真相は分からない。

  ただ、本書に書かれていたように、ファシスト国家になった時点で、すでに偉大な音楽家になっていた人々(例えばフルトヴェングラー)とその当時はまだ無名の若い音楽家だった人々(例えばカラヤン)では生き方が違っていたということはいえる。本書でもそれは指摘されている。
  つまりこういうことだ、カラヤンの云うことを信じれば、ナチスの党員になったのは、アーヘンの音楽監督になるための必須条件だったからだという。かれはそのころウルム劇場を追い出され、新しい仕事を求めて求職活動に必死だったはずだ。もしそれが本当なら、同情はできよう。アンチカラヤンの方からはブーイングが出そうだが!後に(戦後)疑惑に巻き込まれないために彼(彼ら)はなにをすればよかったか、亡命すべきだったのか?そうしたらおそらくカラヤンの人生は相当変わったろう。これは永遠の「IF」だろう。

  もうひとつ面白いのはロシアの例である。面従腹背のショスタコーヴィチである。彼の作品は表面通り受け取れるものは少ないといわれている。例えば戦闘を鼓舞するレニングラード(交響曲七番)や乱痴気騒ぎのような最終楽章を持つ、交響曲五番など例としては枚挙のいとまがない。こういう音楽に含まれる暗喩というか隠喩というか、いろいろ分析されているが、本当のところはよくわからないのである。こういう戦い方もあったのだ。

  ヴェルヴェット(ビロード)革命(チェコ)の逸話も興味深い。ソ連に蹂躙され、共産化されたチェコスロヴァキアにおける指揮者の物語だ。クーベリック、アンチェル、ノイマンの3人のチェコフィルハーモニーの音楽監督。そのうち、ノイマンだけ自国に残りチェコフィルを守ったといわれている。そしてヴェルヴェット(ビロード革命)を迎えて、アンチェルら亡命組とノイマンとの再会のシーンは感動的だ。ノイマンの苦しい戦いは本書には書かれていないが推して知るべしなのだろう。
  NHKのドキュメンタリー(映像の世紀・バタフライイフェクト)でヴェルヴェット革命のルーツはハヴェルの活躍もさることながら、彼が1968年にアメリカで発見した1枚のLPにあるという。それはアメリカでもそれほど有名ではないロックバンド、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」、性や薬物に対する自由を歌ったものらしい。それをハヴェルがチェコに持ち込み、チェコのロック音楽界にも大きな影響を与え、後のヴェルヴェット革命の導火線になったという。
  クラシック音楽ではなかなかこうはならない。映像ではクーベリックの帰国やノイマンの孤軍奮闘などは全く描かれていなかった。

  結局本書で描かれているのは、また本書の背後にあるのは、人間の心の本質ではあるまいか?つまり人間が危急存亡の折、自らの「節」を曲げずにいかに生き抜いてゆけるか、ということである。これは私たちの人生の共通命題だがいかに困難なことか。自分の75年の生涯を振り返って、節を曲げたことはなかったか?自問してみて、忘れたい事々が実に多く、走馬灯のごとく頭に浮かぶ。生きることはそれほど難しいのだということを本書は指し示している。本書に登場する音楽家の苦悩をひしひしと感じさせる作品だ。



  

  

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競馬の事を書いてみたい。本書のタイトルはサイレンスズズカだが、それ以外にもナイスネイチャとかライスシャワーとか、メジロパーマーとか個性的な名馬について描かれている。(2000年前後に活躍した馬が中心、そのころの著者の作品を寄せ集めたもの)
  やはり本書で印象的なのはレース中に故障を発症し、予後不良となったサイレンススズカとライスシャワーだろう。骨折するまで走り続けるサラブレッドというのは、人間が作り出した素晴らしい動物だが、彼らや彼女らのひたすら前を向いて走る、その精神力には、それ以上の「なにもの」かがあり、その「なにもの」かを持つ馬がおそらく名馬と呼ばれるのだろうかと思う。
  本書でのライスシャワーがメジロマックイーンを破った天皇賞の描写が、その「なにもの」を如実に語っている。ライスシャワーはおそらく考えられる最大の厳しい訓練を受けてこのレースに臨んだ。これ以上削ぎ落せないほどの鋼のような筋肉、そして誰も近寄れないほどの精神力の高揚、そういう状態でこそ初めてメジロマックイーンの天皇賞3連覇を阻んだのだろう。そのけなげなともいえる「精神力」を私は愛して毎週競馬を見る。まあ馬券はついでのようなもの。(負け惜しみ)

  馬を題材にした作品は数々あるが、最近読んだ本では馳星周の「黄金旅程」が印象的だ。勝ちきれない馬の物語だが、それ以上に印象的だったのは、主人公の牧場主が引退後の行き場のない馬を預かる牧場を経営するのを夢に見て、それを実現させようとする物語でもあったことだ。

  G1を勝つような馬はおそらくけがさえしなければ安楽な余生をおくれようが、そうでない凡庸な馬たちの生涯と云うのは、まったく表に出てこないし、競馬関係者もあまり触れようとはしない。例えばあのディープインパクトの子供たちでさえ1勝もできない馬が多くいる。ディープは1597頭を競馬場に送り出したが、1勝以上した馬はそのうちの1008頭(2022年まで)しかいない。あのディープインパクトの子ですらそうなのだ。毎年7000頭のサラブレッドが生まれるのだそうだが、もうすぐスタートする、競馬関係者の夢であるダービーの勝ち馬は一頭だけなのだ。ダービーとは言わずとも1勝もできない馬が数多くいるのだ。

  私は毎週馬券を買っている。しかしあまり当たらない。本命はあまり買わなくて、個性的というか面白そうな馬を買う。面白いというのは例えば血統だ。サンデーサイレンスが日本に来る前は、外国産馬に日本産の馬は勝てなかった。ジャパンカップがいい例だろう。その当時の私の馬券の買い方は、父親が内国産(日本馬)を狙って買っていた。だから当たらない。まあ応援馬券のようなもの。
  正直言って今はあまり面白くない。というのは一時はレースによっては、サンデーサイレンスの家族が競っているような様相だったからだ。今日(5/8)の新潟記念を見ると15頭の内全頭にサンデーサイレンスの血が入っているのだ。最近は随分と新種牡馬でサンデーの血が混ざっていない馬が増えてきたので面白くなった。

  話がそれるが競馬ゲームというのがある、今は任天堂のスイッチでプレーしている。これは馬を育ててダービーを目指すというものだが、種付けから考えなければならない。しかしここでも同じ現象が起きていて、種付けできる有力種牡馬はほとんど、サンデーサイレンス系なのである。だから牝系の選択、サンデーの血をいかに薄めながら、強い馬を作るかと云うことに頭を悩ませている。しかしサンデーの血が混ざらない交配も不安があるので、そこは腕の振るいどころなのだ。

  まあいろいろえらそうなことを書いたが、今日のNHKマイルカップ(G1)の私の本命はインダストリア、しっかりサンデーサイレンスの血が入っています。

  今日のレースとにかく全頭、怪我のないように完走してほしい。ついでに馬券も当たりますように!
  〆

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映画研究をしている、大学の先生のロサンジェルス、食の探訪記。サバティカルと云う制度で、USCへ研究のために、1年間、妻子とともにロスへ。

 アメリカ料理と云うのは単一性か、つまり肉やハンバーガーばかり食っているのか、それともずっと多様性のある料理なのか?アメリカでは多様性の代名詞のようなロスでは、どうだったのか?を探求したノンフィクションである。興味をもって読んだが、少々看板に偽りありで、食の探訪記と云う面では物足りない。むしろ食をネタにした文化論の開陳という作品のように感じた。だからちょっとがっかり。聞いた事のないカタカナがポンポン飛び出し、ついて行けない。

 一番の不満はフードダイアリーといいつつ、詳しい食レポは「ゲリラ・タコス」のみで、あとはさらっとしか触れない。むしろジョナサン・ゴールドというアメリカでは有名らしいが、その人の食の本の引用が非常に多いので、三浦氏自身はどうだったのよ、というところが希薄ということだろう。

 第二にこの本は随分とそっけなく、写真は全くないのはいかがなものか?せめて、店で許可を得たものでよいから、食材や店や、食べた料理などを掲載してほしかった。料理の説明がそっけないうえに、映像もないのだから、これは食レポ本ではないと、断じてもよいくらいだ
 第三に二項と関係があるが、地図くらい載せて欲しいものだ。多様なカルチャーと料理の多様性、それは移民の州としてのカリフォルニアの特徴だろうが、そういう人々の住み着いているエリアやそれと料理の関係など、家にある大雑把な地図で見るが、細かいところはさっぱりわからない。
 第四に、ロスでの生活感が希薄に感じたのだが、それはなぜだろうと考えたのだが、著者は物価が高い、高い、家賃も外食費も、食材も高いというが、それがいくらなのか、まったく紹介がないと云うのはいかがなものだろう。例えば、家賃ていくらなのかとか、ロスでビッグマックはいくらかなんて知りたい。高級すし店の値段も知りたい。普通のステーキ屋さんはいくらくらいで食べられるのかなどなど。普通に生活をしている人たちが日常で何を食べて、いくら払っているのか、そういう生活感がすっぽり消えている。
 最後に、これは不勉強な私が悪いのだが、聞いた事がない言葉が突如現れるときがある。たとえば「シット・オン・ア・シングル」なる言葉が出てくる。これは米米辞典でも出てこないのでどんな料理かさっぱりわからない。想像するに軍隊食らしい、何かをパンの上にのせて食べる料理の総称ののようなのだ。そういう「注」が全くないのが、読んでいてそこで停滞してしまう。
なお、後半の4章は食レポとはほとんど関係ない、著者のUSCでの講演原稿やら、旅の印象記である。
思うに、この本の価値は、コロナ禍に襲われる直前のロスの最後の食レポと云う事だろう。

 私が初めてアメリカに行ったのは1973年である、シカゴの近郊に2年間住んでいたのであるが、アメリカの食生活と云うのは如何に豊かであるか、毎日味わった。
3ドルもせずステーキが食える(あの当時私の給料では日本で牛肉のステーキなんてまず滅多に口に入らなかった)、1ドル98セントで卵2個、ベーコン何枚かついて、トースト、コーヒーのメニューが町のカフェでいただける。
 定期契約している食堂に行けば、飲み物はフリードリンク。コーラ(ペプシ)なんて、何杯も飲めたのだ。あの当時一番困ったのは日本食だが、私の住んでいた町にはお店は一軒もなかった。白いご飯が食べたいときは、中華に行った。中華料理店は驚くべきことにある。
 私が住んでいた2年間で最大の食事の出費は単価30ドル。一つはシカゴの和食屋、アメリ人の友人が食べたいというからおごってやった。そしてもう一つはジョージ・ダイアモンドというステーキ屋。30ドルだった。驚いたことに、自分の腕のようなヒレが出てきた。そして、サラダはなんと、レタスを半分に切ったものに、甘いサザンアイランドドレッシングだ。レタスだけで腹一杯だ。
 町の食品マーケットでも驚きの値段を体験した、オレンジが1個100円もしないのだ。その当時グレープフルーツが日本に入ってきて、一個1000円近かった、オレンジも滅多に食べられる果物ではなかった。とにかく何でも安かった。高いのは人手がかかるもの、例えば床屋。切るだけで10ドルもした(およそ3000円だ)。本当に豊かな社会だった。いまのアメリカはどうもそうではないようだ。

 1975年にアメリカから帰ってきたとき、羽田からの車窓の景色は、まるでふうてんのとらさんの映画のようだった。


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