
今年の前半はコロナでライブ音楽はほぼ全滅となった。最近になってクラシックコンサートなどいろいろ工夫をしながら復活しつつあるが、主催者側も聴き手もおそるおそるという印象だ。ブラボーもなく、終演後も時差退場ということで、ぼーっと座席で待っていなくてはならない間抜けな姿。私語もするなと云うアナウンスも流れ、ひそひそ。もっともへっちゃらな人もいるが!
本書はそういう環境の中でライブ音楽はどう生きて行くのかを述べている。一部は大学の講義の内容をもとにしているそうだ。ライブ音楽なのでクラシックだけではなく、ポップスやジャズなどにも言及しているが、主にクラシック音楽を扱っている。
コロナのあとに第九が歌えるかという衝撃的な副題がついている。これはコロナの未曾有な災禍の後にベートーヴェン的な「苦悩の後の凱歌、勝利」といった数式の音楽が受け入れられるかということと、物理的に人が相集いて歌いあえるかという問いであろう。著者は素直にシラーの歌詞でこの曲を歌うのは難しかろうといっており、ではベートーヴェン的な終わり方でない音楽とはどういうものか、そしてその後に続く音楽はどういうものがあるのか?について述べている。誠に時宜を得た問題提起だと思う。
しかし、本書の立場は音楽を業としている人々にとっての危機であって、聴き手にとっては果たして危機かどうかは、あまり気にしていないように感じられた。そしてクラシックに限って言えば、ライブのほうが「録楽」(録音された再生音楽のことらしい)よりも優れているという。私には再生音楽を蔑視しているように感じられたがどうだろうか?
そういう切り口からすると私のようなクラシック音楽の愛好家は、こと音楽に関していうと、それほどおおごとには感じていない。それ程と云うのはいくつかの理由があるのだが!
ひとつは、今年はほぼオペラやオーケストラの定期演奏会はほぼ全部キャンセル(前半)になってしまったが、とにかくキャンセルして払い戻しする手間が大変で往生したことだ。各団体が皆異なる方式で手続きをするのでまあ煩雑でした。
もう一つはオペラが見られない/聴けないのはやはりつらい。オペラは総合芸術であり、どんなへなちょこ演出でも、CDで聴くより、くやしいけど良いのである。オペラがコロナで崩壊する様は矢張りおおごとと云わざるを得ないだろう。ここへきて新国立や二期会などでおそるおそる公演が再開されたので胸をなでおろしているところだ。
オーケストラコンサートについては実はライブに行っても行かなくても私はあまり問題ない。というのは筆者と異なって、私はライブと録楽(私はレコード芸樹と呼びたい)は異なるものだけれど上下関係はなく、同列のものと考えているからである。
だから定期がなくなっても家でCDを聴いていればことたれる。じゃあ、なぜ聴きに行っているのか?それはいくら工夫をしても、今の私の部屋では、これ以上良い音がでないからだ。やはり、ライブの音はどんなへなちょこの楽団だろうと、演奏だろうとよいものだと思うからだ。だから時々ライブを聴いて耳をイコライズして自分の部屋の装置で聴くと、それほどライブの演奏にこだわる必要を感じなくなる。
それにライブは隣席のノイズや私語、首振り人間など煩わしいことが多い。もちろん自分自身もノイズの発生源になっているわけで、家にいるように鼻くそをほじくりながらやせんべいをかじりながら音楽を聴くわけにはいかない。もっとも筆者はそういうライブならではのノイズこそなつかしいといっている。
結局最近(12月)の情勢を見ていると、年末には相変わらず第九の演奏会が続く(例年より多いのではないか)ので第九が歌えなくなった日というのは一過性なのだろうと思われる。そしてワクチンができ、抗体ができれば、やがてコロナ禍は過去のおぞましい事件と云う記憶は残るが、音楽の世界はまた元に戻るのではないだろうか?
著者の云うようにベートーヴェン的世界のかわりに新しい音楽が取って代わることはないだろう。それよりむしろ今の日本のクラシック音楽の危機は聴衆の高齢化ではないだろうか?特にオペラの公演の高齢化ははなはだしい。先日の二期会のメリーウイドーなどまわりはじじばばばかり。これこそ避けられない危機ではあるまいか?
〆