ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ: 音楽DVD,テレビ映像

この1~2年のクラシカジャパンの放送を見ていると、やっぱりきたか。と云う思いである。クラシカジャパンが先月末にとうとう放送終了したのである。

 クラシカジャパンは有料ながら、唯一のクラシック音楽の専門チャンネルである。私は加入してかなりたつが、最初のころはこういうチャンネルは珍しいためか、録画したり、終日つけっぱなしにしたりしていた。これを見るまではクラシック番組といえば、ほとんどNHKしかなく、特にBSのプレミアムシアターは水準も高く、また鮮度も新しいということで、今でも毎週楽しみにしている。

 さて、ここからは自分のクラシカジャパンの最近の印象である。クラシカジャパンが存続するために、2つの障害があったように思う。
1.ソフトの鮮度
  最近のクラシカジャパンの放送を見ているとほとんどすでにDVDなどで発売されているものばかり。
  例えば欧州の音楽祭やオーケストラの定期、常設オペラハウスの公演など最新のものはほとんどなく、使いまわされたものばかり。ダビングする気も起らない代物ばかりだった。印象に残ったのはボリショイオペラの「ボリスゴドノフ」それとたしかモネ劇場だと思ったが、「ホフマン物語」くらいであった。やはり今のような鮮度であれば、加入者はあまり増えないだろうと思う。

2.デジタル配信化
  ベルリンフィルのデジタル配信で代表されるように、今ではペトレンコ指揮のベルリンフィルをライブで聴ける/見ることができる。余談だがペトレンコはセッティング録音はほとんどなし、ライブ録音も少なく、またベルリンフィルが来日しても、ペトレンコは来ない。新ベルリンフィルはどういうスタイルなのか知るためにはこのデジタル配信を頼るしかないのである。思えばカラヤン時代が懐かしい。
豊富な録音で、名曲はほとんどすべて、彼の指揮で録音され、聴くことができたのだから!
  要するにハードで録音したものの時代ではないのだろう。したがってクラシカジャパンもその流れに沿って、デジタル配信にかじを切って、クラシカジャパンの放映を終了したわけである。
  デジタル配信と云うとパソコンで見るしかないので(私の場合)どうしても制約がある。インターネットつきのTVを買うしかないのだろうか?

  ということで来るべきものが来たという感想だ。

 

リヒャルト・シュトラウスの数あるオペラの中で今一番の関心事は「影のない女」。長らくシノーポリのCDを聴いてきたが、台本の内容が今一つピンと来なくて、ライブで見ればまた違うのかと思い、マリンスキーの公演や新国立の公演を見たがこれもト書きとは随分と違ってよくわからなかった。ホフマンスタールはモーツァルトの「魔笛」を意識しているらしいが、どうもその点が皆希薄なのである。

 私の頭には昔たしかTVで見た、猿之助演出のバイエルン歌劇場の引っ越し公演(1992年、サヴァリッシュ指揮)があるがこれがもうタワーではカタログ落ちしており見ることができない。そうしたところが、アマゾンが私の心を見透かしたかのように「在庫がありまっせ」とメールしてきたのである。お値段を見てびっくり、中古で18000円、新品で20000円、定価は8190円なのに!
どっひゃーである。詐欺かとも思ったが、ようく考えようとそのメールを消さないで翌日もう一度見てついに買ってしまった。馬鹿ですねえ。

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 この公演は日本の愛知芸術劇場のこけら落としに行われたもので、演奏団体はバイエルンで演出・舞台などは日本の実に独創的な公演だった。
 私の頭には白塗りの乳母や皇后が鮮明に残っているだけでそのほかは何も覚えていない。たしかこの公演がこの作品に接した最初の機会ではあるまいか?
 だから、ほとんどちんぷんかんぷんで、そうそう最後の2組の4重唱を橋の上で歌うというところも記憶に残っていた。
 この映像を見て見たいという気持ちをずっと持ち続けてきたのだった。まあ大枚はたいたわけだけれど夢がかなうのであれば止むをえまい。

 スタッフとキャストは以下のとおりである。
指揮:ウォルフガング・サヴァリッシュ
   バイエルン国立歌劇場管弦楽団、合唱団

演出:市川猿之助
装置:朝倉 摂
衣装:毛利臣男
照明:吉井澄雄
舞台美術:金井勇一郎
振付:藤間勘紫乃

皇帝:ペーター・ザイフェルト
皇后:ルアナ・デヴォル
乳母:マリヤーナ・リボウシェク
霊界の使者:ヤン=ヘンドリク・ローテリング
鷹の声:カロリーネ・マリア・ペトリッヒ
バラク:アラン・タイタス
バラクの妻:ジャニス・マーティン

この舞台の特徴はなんと言っても日本側が作った、演出・舞台・装置・衣装であろう。皇后、皇帝、乳母は白塗りで歌舞伎役者のようだ。衣装も、日本の着物をイメージしたもので、実に豪華な雰囲気である。所作も歌舞伎の仕草から持ってきている部分が散見され、日本的なものとゲルマン的なものの融合がうまくいっている。それに加えて、サヴァリッシュの指揮が素晴らしい。いつものようなきびきびとした棒さばき。音楽がじつに締まって聴こえる。シュトラウスの持つ重々しい音楽がそれにより、軽減され、おとぎ話としての魔笛の世界が表出してきているようにすら感じた。
 演出は2組の男女、バラク夫妻と皇帝夫妻が試練を乗り越え愛を見出すまでの物語を忠実になぞっていてわかりやすい。影は生殖機能を現わしているが、それをそれとなく感じさせる演出に日本らしさが感じられる。2019年のウイーン国立歌劇場の記念公演ではこの影の機能について何度も強調するのが煩わしかったが、1992年のこの公演ではそういうことがない。
 全体にと書きに忠実である。大きな装置と云ったのはものはなく、歌舞伎の幕のようなものが原色で舞台を仕切ったり、揺れ動かすことにより、火や水を表す。
最後の場面でも、金色の水も金色の布をひらひらと動かすだけで、命の水の流れを表す。象徴的な方法で、リアリティを感じさせるということがうまくいっていたと思う。
 久しぶりにこの作品に接して、感激もひとしおである。日本で再演しないのが不思議でならない。是非新国立や二期会や藤原などで実現してもらいたいものだ。今でも
一級品の演出である。私に言わせれば2019年のウイーンの舞台の基本形は猿之助の舞台が範になっていると思う。


ティーレマン

 最近2011年のザルツブルグの公演のDVDを見たが、これはおそらくこのオペラを初めて見た方にはちんぷんかんぷんだろう。何度も見て見飽きた人用の演出である。
歌い手は普通の洋服を着ていて、舞台にはあたかも録音スタジオのような趣、マイクが林立している。どれがだれやらさっぱり。歌い手はマイクの前で歌い自分の出番が
終わると退場する。はてさて、こんなものをを見て面白いか????


ザルツブルグ


 1992年のサヴァリッシュ盤、2011年のティーレマン盤、2019年のティーレマン盤が今入手可能な映像だろう。私は1992年盤を押すが、関心ある方はすべてご覧いただきたいと思う。猿之助の演出のオリジナリティを十分感じ取ることができよう。

 歌い手は3つの盤とも全く不満がない。ただ現在のベテラン勢を集めた2019年盤は歌唱では一歩抜けているように感じた。特に乳母役のヘルリツィウスは素晴らしい。カミラ・ニールンドの皇后、ニーナ・シュテンメのバラクの女房も秀逸。女声陣がじつに強力である。
 2011年の盤ではミカエラ・シュスターの乳母が異様な凄味で他を圧倒していた。彼女はティーレマンの指揮でクンドリーを熱演していたが、驚くべき歌手だ。
 1992年盤ではペーター・ザイフェルトの皇帝、とルアナ・デヴォルの皇后がじつに若々しく魅力的だった。メイクにによってさらに凄味が強調された、乳母のリボウシュクも忘れられない歌唱だろう。ジャニス・マーティンのかわいらしいバラクの女房も若々しく新鮮。ベテランの2019年盤かその当時の若手の1992年盤か迷うところだ。

 なお映像は30年前とは思えないほど鮮明である。勿論今日の水準からすれば物足りないところはあるかもしれないが、ないものねだりだろう。

2020年5月27日

ワーグナー舞台清祓祝典劇「パルジファル」は見れば見るほど奥深いオペラ(とりあえずそう言っておく)である。最初に聴き始めてからもうすでに半世紀以上経過し、その間にいくつかのライブを見るが、そのたびに音楽の素晴らしさに感動すると同時に、手をかえ品を変え舞台を形成してゆく演出家たちの手練手管に毎度舌を巻く思いである。

 このオペラは道を踏み外したアンフォルタス王が、キリストの身代わりともいうべき聖器の中の、キリストを傷つけたという、聖なる槍をクリンゾルなる異教徒に盗まれる、そのうえその槍で傷つけられ,永遠にふさがらない宿命となるが、パルジファルによって奪還された槍で救済される話と、はるかな昔キリストをあざ笑ったということで死ぬことのできない苦しみ、泣くことのできない苦しみを与えられたクンドリーの救済と云う2重の救済劇である。
 
 クンドリーと云う人物は見れば見るほど興味深い人物であり、かのハンス・クナッパーツブッシュが学位論文にクンドリーを選んだくらいである。

 このクンドリーが第三幕でト書きとおりならば、死を得てこの大作は幕を下ろすことになっている。しかしこれからお示しする最近の演出では決してクンドリーは死なない。わずか1演出でクンドリーは死の救済を得られるのである。今日は5つの事例でそれを見て見よう。

 まずこの最終部分のト書きを見て見よう。
 パルジファルが「さあ、聖杯の覆いを獲れ。厨子をひらけ」と歌う。
(パルジファルは、祭壇の階段をのぼって、少年たちの手で開かれた厨子の中から、聖杯グラールを取り出し、黙とうのうち、跪きながら、じっと聖杯を見守る。聖杯はなごやかな輝きをましてゆく。上方からの光が加わるにつれて、下方は暗さを深める)

一同(最高所ならびに中段の高所からの声に合わせて、ほとんど聴きとれないくらいに静かに)

 この上ない救いの奇跡よ
 救済者への救済よ

(光線、すなわち」聖杯グラールの灼熱の輝きは、今や頂点達する。円天上からこの時白鳩が舞い降りてきて、パルジファルの頭上あたりにとまる。クンドリーはパルジファルを見上げながら、彼の前で静かに息が絶えて床にくずれおれる。譲位したアンフォルタスは王と長老グルネマンツはうやうやしくパルジファルの前に跪く。パルジファルは祈りをささげる騎士たち一同の頭上に聖杯をかざし動かしながら、祝福を続ける。幕(高木 卓訳)

さて、このと書きに一番近いのは1981年バイロイト公演だ。演出はウオルフガング・ワーグナー、指揮はホルスト・シュタイン、パルジファルはジークフリート・イエルザレム、クンドリーはエヴァ・ランドヴァである。

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 舞台設定は中世であるから違和感はない。ト書きの部分はこうだ。パルジファルはクンドリーとグルネマンツと登場し、アンフォルタスを救い、厨子を開けるように言う。厨子には赤く輝くグラールがあり、パルジファルは槍をグルネマンツに預け、聖杯を抱いて騎士たちに順次掲げてゆく。クンドリーは聖杯を前にして手を組み、かすかに会釈する。しかしそれだけでクンドリーは死なない。
 クンドリーは死なないがこれはト書きの文章を最もよくあらわした舞台と云える。ウイーラント・ワーグナーの弟、ウオルグガングは凡庸と云われていたが、どうしてどうして、この舞台はおじいさんの空気を一番持っているのではないかと思った。シュタインの指揮は速いテンポで豪快に進める素晴らしいもの。これは実に感動的なパルジファルである。

さて、次は2013年METのライブである。演出はフランソワ・ジラード、ガッティ指揮、カウフマンがパルジファルを、ルネ・パペがグルネマンツ、カタリナ・ダライマンがクンドリーを歌っている。この時期で最高の歌い手であろう。
 現代への読み替えである、全体に抽象的な要素が大きいので違和感がなく、何より最終場面の演出が私は最も気に入っている。

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 ここでは、ト書きにないがクンドリーがグラールの入った厨子を抱えて登場する。アンフォルタスの苦悩の歌を聴いている。やがてクンドリーは舞台前面に座り、パルジファルを待つ。パルジファルはグルネマンツを従え登場。ティトレルの墓に横たわる、アンフォルタスの傷に槍を当て彼を救う。
 クンドリーは金色のグラールを掲げる、横からパルジファルは槍でグラールと合一させる。やがてクンドリーはグラールを厨子に置き、アンフォルタスと一瞬視線を合わせる、そして横たわり、グルネマンツに抱かれながら息絶える。この場面はいつみても感動的でト書きのイメージを生かしている。最も好きな結末である。
指揮のガッティはスキャンダルがなければと惜しまれるほどの公演。パペ、カウフマン、ダライマンの歌唱も相まってMETでは最高のワーグナー。

続いて、だんだんおかしくなるが、2016年バイロイトライブ。フォークトのパルジファル、ツェペンンフェルトのグルネマンツ、パンクトローヴァのクンドリーである。指揮はハルトムートヘンヒエンである。演出は、ウヴェ・エリク・ラウフェンベルクである。舞台は現代の中近東のモスク。シリアかもしれない
 最終場ではもうクンドリーは登場しない。グラールもなく、聖槍はティトレルの柩に入れられる。アンフォルタスはもう血を流していない。ここはアンフォルタスやクンドリーの救済は主題ではなく、むしろ虐げられたいろいろな宗教の人々(かつては仲良く住んでいたのに)が融和し平和に生きることを示している。

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 なお、クンドリーは3幕の冒頭でもう呪いから解かれ、完全に老化している。車いすにのって家族とツーショット?などという脳天気な終わり方。息を引き取ったかは不明だが、パルジファルの洗礼はあまり効果がなさそうだ。この演出で見ものは1幕だろう。DVDで売っているはずだから興味ある方はご覧ください。

 2012年のバイロイトになるとわけがわからない。ステファン・ヘアハイムの演出でワーグナー家とナチスの没落をかけたような舞台で、とにかくさっぱりわからない。今もって何度か見ているがわからない。最終場はパルジファルは地底に消えてしまう。グラールは子供の作った小さな城、そこに槍を刺すと光り輝く。グルネマンツとクンドリーと子供は仲良く肩を組んでおしまい。

 それを超えたのは2013年ザルツブルグイースターでの公演。指揮はティーレマン、演出はミカエル・シュルツである。ボータのパルジファルがとにかく素晴らしい声だったが、見た目が太っているので本当に損している人だが、彼の歌では最高の歌唱だ。若くして亡くなったのが惜しい。クンドリーのミカエル・シュスター。なお、アンフォルタスとクリングゾルは同一人が歌う。ウォルフガング・コッフ。

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最終場はこうだ。アンフォルタスはもう情欲に溺れ厨子を開く意欲がない。パルジファルが槍を示してもすぐ女の方に逃げ込む。クンドリーはなんとキリストと和解してラブラブである。しかし二人は騎士たちにとらえられ、やがて聖なる槍でキリストはもう一度刺される。クンドリーはもう一度キリストをあざけるように強要される(ここは自信がない)とにかく。パルジファルはもう役立たずで棒立ちのまま幕。なんとも奇妙な演出でこれと、2012のバイロイトはいまもって未消化である。ティーレマンの演奏はシュタインとならんで気に入っているのだが!

 さて最後に変わり種を一つ。2012年の二期会公演、飯森泰次郎指揮、演出はクラウスグート。歌手はみな日本人である。
 ここでは、クンドリーは息絶えるのだが、なんと生き返って、カバンに荷物を入れて旅に出るのである。それを窓からパルジファルが見ている。
 そして表のベンチにはクリングゾルがやがてアンフォルタスが近寄り、和解するという。2016年のバイロイトに通じる演出だ。でも不思議なことにこれは実に自然なのが不思議だった。

 これから、どういう演出が出てくるかはわからないが、せめて最後にクンドリーに死の救済は与えるべきではないかと思うのだが、いかがでしょうか?

 冒頭の「救済者の救済」とは何をいうのかは論議があるところだが、もう書く気力が失せた。これから床屋に行こう。



 

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2020年5月21日

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先日映像でバレンボイムのバイロイトの「トリスタンとイゾルデ」を見たが、そのころのほかのDVDがないか、本棚をあさったら出てきたのがこのパルジファルである。
 パルジファルはCDでは古いがクナッパーツブッシュ盤をよく聴く。そして映像は2013年のMETのカウフマンがパルジファルを歌った公演の演出が好きで引っ張り出すことが多い。
 しかし今日の主題のこの1981年のパルジファルはつまみ食いはしてきたが、全曲通して聴いた事がない。それは一つはウオルガング・ワーグナーの演出が面白みがないということであった。一幕冒頭は奥がうっそうとした森だがカラフルな装飾、手前は円形のくぼみに芝生というそれだけのセットで、そのなかで歌い手たちはほとんど動きがなくすぐ飽きてしまうのだった。
 改めて今回じっくり聞いて、この公演は今日の凡百の公演と比べたらだんちに優れた舞台であることを再発見したのである。最も感銘を受けたのは1幕の幕切れ、聖餐の式が終わり騎士たちは退場してゆく、アンフォルタスはがっくりと首を落とし、輿に座っている。グルネマンツとパルジファルはそれを遠くから見ている。歌は何もない。悲痛なそれこそ胸が張り裂けるような悲痛な音楽が鳴る。それは今まで聴いた事のないような悲痛さで聴き手の胸に迫る。この場面でこれほど強くアンフォルタスに同情、共悩したのは初体験である。そして聴き手に与えたショックはそれ以上のものをパルジファルに与えたのだということを私たちは潜在的に感じ取り、最終幕につながったのだということを、舞台が終わって初めて私たちはパルジファルに共体験したということで気が付くのである。この場面をなんどもなんども繰り返してみたが何度見ても素晴らしい音楽と、静寂な舞台。感動的である。
 ウオルフガングの演出はト書きに忠実だ。兄に比べて凡庸だと悪口を言われているが、スタイルが違うのだから仕方がない。彼の演出したこの「パルジファル」はト書きを読みながら見ても何の違和感がない。初めてこの楽劇に接する方には最適な映像だと思う。
 ただ唯一不満なのは最終幕最終場のクンドリーの覚醒~死の部分で、クンドリーは死なずに祈りながら幕となる。ここの部分はMETの2013年の演出のほうが好きだ。まあそれは些末なことかもしれない。

 指揮はホルスト・シュタイン。バレンボイムやティーレマンとは違い、ベームばりの直截な演奏が好ましい。1幕の深い感動は彼の指揮によるところが大きい。
 歌い手ではクンドリーのエヴァ・ランドヴァガが素晴らしい。透明感あふれる声は妖女クンドリーの違う面を出していて魅力十分。それは妖艶さやなまめかしさを表面にださないのだ。
 イェルザレムのワーグナーはこの時代何度も聴くことになるが、あまり感心したことがない。ちょっと前のジェス・トーマスやルネ・コロに比べると歌い方が雑駁なところがあるようなきがしてならない。
アンフォルタスのヴァイクルやグルネマンツのゾーティンらは安定した歌唱で、今のバイロイトに比べると全体に歌唱はレベルが高いように思った。
 久しぶりにパルジファルを楽しんだ一日だった。

2020年5月8日

バイロイト



不思議なもので、クラシカジャパンではトリスタンとイゾルデを2度続けて放映した。一つはつい前日にブログにも書いたように、2018年ベルリンでの公演、そして今回の1983年のバイロイトである。
これも、偶然か、意図的かは不明だが、指揮者はダニエル・バレンボイムである。

 バレンボイムと云う人は指揮者になってからもう数十年もたっているが、彼の基本コンセプトは指揮を始めたころと今とは大きくは変わっていない。それを教えてもらったのは、彼がベルリン国立のオーケストラを引き連れて来日した時に(2016年)、ブルックナー全曲を演奏した時だ。バレンボイムはシカゴと70年-80年にブルックナー全曲を録音しているが、それを聞くとその時来日した時の演奏と基本は大きく変わっていない。特にテンポはカラヤンやヴァントとは違って、昔風の揺れ動くテンポである。ベルリンとの来日公演でも大きく変わっていないということだ。ただ音楽のしなやかさやスケールは変化していてそれが彼の成長分と云うことが云えるのかもしれない。
 まあそれは、余談だが、今回1983年のバイロイトの公演を見て感じたのは、2018年と基本は大きくは変わっていないということだ。休止は多く、テンポは緩やか、しかしここぞという時は駆け出す、要するに緩急強弱の抑揚が非常に大きいということだ。ただ1983年で気になった、休止の多さや、止まりそうな部分は2018年ではそれほど目立たなくて、音楽は随分と流れるように聴こえた。それゆえか、1983年はいささか音楽がチマチマ、ちょこまかしたように聴こえたのだが、2018年では実にスケールが大きい。と同時に心理描写的にきめ細かく、聴いていて胸打ち震える部分も多く発見した。素晴らしいワーグナーだと思った。ブルックナーにおける変化よりワーグナーにおける変化のほうが、当然良い意味だが、はるかに大きいと感じた。

 歌手では、トリスタンを歌っている、ルネ・コロが若々しく素晴らしい。ヘルデン・テノール的に大げさな歌いっぷりは皆無だが、バレンボイムの繊細な棒に合わせたしなやかな歌いぶりが共感を呼ぶ。ヨハンナ・マイヤーもニルソンに洗脳された私の耳からすると、大人しく聴こえるが、これもバレンボイム流なのだろう。若々しい清純な乙女の印象で悪くはない。2018年のカンペのイゾルデも古のイゾルデ像とは違って、かわいらしいが、これもバレンボイム流なのだろう。その他サルミネン、シュヴァルツらの脇も充実していて、今日のバイロイトに比べると、はるかに歌唱としての魅力を感じた公演だった。

 今回は演出がポンネルである。美しい舞台が印象的だが、演出では3幕が面白い。
 イゾルデの船が見えたら牧童が笛を鳴らすということだったが、船など見えないのに、クルヴェナールは牧童に鳴らす指示をするのだ。見えようが見えまいが、トリスタンはいずれにしろ錯乱状態なのだ。だからトリスタンが浜辺に行けといっても、クルヴェナールはその場にとどまり、トリスタンの死の行為を見送るのである。
 しかし、イゾルデとマルケが来る。これは、ただしこれもおそらくトリスタンの幻影なのだろう?なぜなら、ト書きではトリスタンがイゾルデに抱かれながら「イゾルデ」とかすかに歌い、死ぬことになっているが、ここでは彼は死なないからだ。トリスタンは朦朧としながらイゾルデの「愛の死」を聴いているのだ。だからこれもトリスタンの幻想なのだと思う。最後は舞台が暗くなり、トリスタンとイゾルデは消えてしまう。そしてふたたび明るくなったと思ったら、そこには大きな木の根元に、抱き合って死んでいる、クルヴェナールとトリスタンがおり、それを牧童が眺めている。ここで幕となる。
 まあ、もしこうなら、ポンネルの演出もなかなか巧緻を極めてはいまいか?なおこの公演はDVDで発売されている。

 これを書いていて思い出したが、2018年の公演でも、クルヴェナールはイゾルデが来たという笛を、クルヴェナールの「指示」ここでは手ぶりで、牧童に吹かせている。ただしこの3幕の結末は今も少しすっきりしない。
また思い出したのだが、マルケとブランゲーネはなぜ、二人一緒にソファに腰かけていたのだろう。
二人はそういう仲だったのかもしれない。オペラの演出もなかなか知的好奇心を掻き立てますね。

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