ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ: 歌舞伎、演劇

新・絶望的音楽三昧の、第2週はオペラ編で息が切れ、昨日は中断、本日「その2」として再開します。


里見八犬伝
NHK/BSで通し狂言・南総里見八犬伝が放映され、視聴した。これは実に面白かった。
里見八犬伝はとても懐かしい。小学校のころ講談や講談本にはまり、そのなかで少年用に書かれた里見八犬伝はとりわけ面白く、貸本屋から何度も何度も借りて読んだ。たしか1冊10円だったと思う。そのころは扇谷定正やら古河公方などさっぱり意味が分からなかったが、お家再興のため8つの珠をもった犬の文字のついた名前を持つ、八剣士が死力を尽くす物語に感動したものだった。

 今回歌舞伎でこれを見て、その頃を思い出した。講談本とのイメージとはずいぶん違ったがこの歌舞伎3時間半ほどあっという間であった。この公演を見て歌舞伎と云うのは実に様式美の芸術なのだなあと改めて強く感じた。欧州のオペラはその様式美を破壊して今日に至っているが、歌舞伎は少しづつ変わってきているのだろうが、様式美が基本にあるのは変わっていないように思う。
 一つ一つのシーンの最後に必ず見えを切るその形の美しさ、花道を退場する姿の型の均整の取れた美しさ。例えば尾上松緑の演じた犬飼現八の退場シーンなどの、見事さは感動ものであった。

 役者の中で印象に残ったのは尾上菊之助の気品のある犬塚信乃、坂東彦三郎のダイナミックな犬田小文吾、松緑の現八の小気味よさ、などである。これをみるとまた歌舞伎座に行きたくなる。

続いて本を2冊。
コロナ禍のアメリカ
原題の「FUCKED at BIRTH」は「生まれたときからどん底」と云う意味である。この作品はアメリカにおけるコロナの現状をルポしたものではない。そうではなく、コロナによってさらに格差社会が促進されているということを、西はカリフォルニアから東はラストベルトのオハイオまでかつて自分が通った道をたどったものである。

 これを読むと、アメリカの格差社会は過去数世紀にわたるふるいによって今日に至っていると思わざるを得ない。最初は人種差別、これは通奏低音のように続き、その中でWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)が国の頂点に立つ。
 二次大戦戦後高度消費社会を迎え多くのミドルクラスを生み、生活水準も上がった。しかし製造業から金融業と云う産業シフトといくつかのバブル崩壊などの不況により、大きくふるいにかけられる。ふるいに掛けられた人々は多くの場合もう戻れない。まさに「生まれたときからどん底」の人々を大量に生み出してゆく。
 そしてとどめはコロナである。労働者階級だけでなく、高い教育を受けた人々もコロナ失業でふるいにかけられる。そして行き着くところはホームレス。本書で紹介された何人かのホームレスへの転落ステップの事例は読んでいて恐怖すら感じる。自助の国アメリカだから、政府はほとんど知らん顔?
日本のような生活保護制度はないようだ。アメリカの行きつく先はどこなのか?
 一度落ちてしまうと敗者復活戦にすら登れない社会。だから生まれたときからどん底なのだ。これは夢の国と思っていたアメリカを世界の多くの人が幻滅するであろう衝撃の作品だ。


トリカゴ
これは日本版「生まれたときからどん底」だ。無国籍の人々15人が篤志家の実業家により家と仕事を与えられる。国籍がないということはかつては、住民票、健康保険、年金、パスポートなどが手に入らなかったのだ。つまり社会ではどん底としてしか生きてゆけない。だから彼らはその狭いコミュニティをユートピアとして、大切に思い、生活している。
 しかし、そんな生活から外の世界に興味を持つ人も現れてくる。そして外の社会で異性と接し。結局傷害事件に及んでしまう。そこで初めてこのコミュニティが外界から異物を迎え入れざるを得ない状況に陥る。外界の代表が本作の主人公の森垣里穂子部長刑事である。はたしてこの15人はいかなる経緯で無国籍になったのだろうか?次第にその謎が解き明かされてくる。
 この話の発端は幼児虐待である。どうもこの幼児虐待と云うのは苦手で、そういうつもりで本書を買ったわけではなかったが、読み始めて、しまったなあとおもったが最後まで読んだ。結局主題は格差社会のようだから案外とまともの作品だった。




ここからは映画。
科捜研の女
ちょっと重たい読書の後にこういう脳天気な映画を見るとホッとするが、それにしてもこのTVの長寿番組「科捜研の女」を劇場版にする理由はどこにあるのかがよくみえない。これではTVを大画面で見ているのと同じである。
 すべて主人公の思うように物語の進行する安直さはTVではよいだろうが、劇場用の映画としてはもう少しつくり込が欲しい。



総理の夫
この作品も底が浅い。これは日本では女総理は誕生しないだろうと云っているのか、誕生してほしくないといっているのか、誕生してほしいといっているのか、作品の立場が分からない。ただたまたま大企業のぼんぼんの結婚した相手が、直進党という政党を立ち上げ、総理になっちゃった。あら大変。旦那は大慌てと云うストーリーを面白おかしく描いたもの。コメディとして見ればよいのなら、それはそれで面白いが、でもちょっと食い足りないなあ。もう世界各国では決して驚くべきことではないのだから、それがなぜ日本ではこう大騒ぎになるのか?そこを深堀してほしいと思うのだが!田中圭も中谷美紀も好演しているのに、もったいない。


最後はドキュメンタリー。「相撲道」
sumoudou

境川部屋と高田川部屋にカメラを持ち込み、力士たちの凄絶なけいこを迫力の映像で見せる。これでも昔から比べれば大人しくなったというのだから、かつてはどれだけの稽古をしていたのだろう。
ただ、後半不祥事をおこした竜電がクローズアップされるが、これは監督も予期せぬ出来事だったろう。親方や竜電のインタビューが少々虚しい。〆

2013年11月11日
於:歌舞伎座(1階13列中央ブロック)

歌舞伎座新開場杮落とし・顔見大歌舞伎
仮名手本忠臣蔵
五段目:
早野勘平:菊五郎
斧定九郎:松緑

六段目:
早野勘平:菊五郎
おかる:時蔵
おかや:東蔵
判人源六:團蔵
一文字屋お才:魁春
不破数右衛門:左團次

七段目:
大星由良之助:吉右衛門
おかる:福助
大星力弥:鷹之資
鷺坂伴内:松之助
斧九大夫:橘三郎
寺岡平右衛門:梅玉

十一段目:
大星由良之助:吉右衛門
小林平八郎:錦之助

通し狂言・仮名手本忠臣蔵初体験。11月の顔見せでは昼の部が四段目~道行まで、夜の部が五段目から討ち入りまでの一日仕事、流石にそれはくたびれるので今回は午後の部を鑑賞した。この名作をこの名役者が勢ぞろいなのだから悪かろうはずがなく、新聞などで詳しく批評などが出ており、浅学の私などが偉そうに書く術もない。
 忠臣蔵は歴史ドラマでもありそうでもないということが、この舞台を見ていると良くわかる。そう人間ドラマだと云うことがである。特に六段目~七段目は痛切にそれを感じる。夫を世に出すために自らが犠牲になり遊女になるおかる、誤って父親を殺したと思いこんでしまう勘平、亭主を婿に殺されたと思うおかや、三者三様の心の葛藤と動きが手に取るように分かる六段目の見事さ。特におかると勘平との別れは涙なしには見ることができないくらい、現代人にも共感できる場面だ。そういう意味では七段目の、遊女になったおかると兄との心のすれ違いから、最後は兄弟愛につながる後半も素晴らしい世界だ。従って私は見ていてこの二つの場の時蔵、菊之助、福助、梅玉の演技の様式に彩られながらも、しっかりと感情の機微を表現する様に感嘆せざるを得ない。まさに人間は1700年の頃と今とは本質的に何も変わっていないのだと云う事をこの舞台が教えてくれた。   
 それにしても歌舞伎の鑑賞法というのはどういうものだろうかということが分からなくなってしまった。というのは私の前の12列目の団体のご婦人がたはほとんどのべつまくなしにひそひそとしゃべり、がさがさやり水を出して呑んだり食べたりと忙しい。こういうのが当たり前なのだろうか?しかも悲しむべき時に笑うなど、反応が私には異様である。ほとほと嫌気がさしてしまった。                    〆 

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2013年7月18日
於:歌舞伎座(1階15列中央ブロック)
 
歌舞伎座杮落とし、七月花形歌舞伎「東海道四谷怪談」
岩/佐藤与茂七/小仏小平:菊之助
民谷伊右門:染五郎
薬売直助:松緑
お岩妹お袖:梅枝
お梅:右近
按摩宅悦:市蔵
伊藤喜兵衛:團蔵
 
鶴屋南北作の「四谷怪談」は子供のころから映画などで見知っていたが、歌舞伎で見るのは初体験。今月の花形歌舞伎の夜の部、全四幕の通しで約3時間の芝居だったが、全く飽きさせない面白さで、今までの数少ない歌舞伎体験でも最も印象的、というより、やはり面白かったという表現が的確だろう。
 その要因はなんといっても原作の面白さ。この作品は1825年の初演だから、明治維新まであと40年ちょっとというその時代だ。だから出てくる人々はそんな大昔の人と云うより、現代に通じるものをもった人ばかり。夫に裏切られた岩の怨念、芝居を見ていると伊右衛門の非情が度を越しているだけに、共感を呼ぶ。伊右衛門のような人間は今でもいそうだ。この悪さ加減はどうだろう。バサバサと人を殺す非情さは「悪の経典」のハスミンのようだ。お袖の貧窮の中で親を救うために体を売るところまで決心するその気持ちも共感を呼ぶ。その他与茂七や直助、お梅など皆切れば血の出る生身の人間として描かれていて、それぞれが性格のエッジを鋭くはしてはあるが、リアルである。
 もう一つの要因は演者たちの、秀逸さだろう。菊之助の岩の心の移り変わり、怨念の塊になった幽霊の演技の素晴らしさ、また3役の早変わりの巧みさなど、見ていて楽しく、なおかつ舞台上の人物への感情移入を強く誘う。染五郎の伊右衛門も素晴らしい、きれいな顔をしていながら、やっていることは、何とも凄まじい。その2重人格的な表現が時には美しく思い、時には卑しく、不快に思える。松緑は出会うたびに印象強くなる。最初に見た時は聴きとりにくいと思っていた台詞もが、きりりとした言い回しになっていて、直助の小悪党ぶりをうまく演じていた。袖の梅枝の演技も哀れを誘う。若い人中心の配役であったが、初体験の私にとっては関係なく彼らの演技を十分堪能できた。満足の一夜であった。
 今回は1階席だったが、2階や3階席とは違って、前の席との空間が広くてゆったりしていた。それにしても2階3階と1階の席の差はあまりに大きくてこれは劇場の設計としては納得できない。また傾斜が少ないので前にちょっと大きな人が座ると舞台がマスクされてしまって、見にくい。こう云う点も再オープンの際に何とかできなかったのか、疑問を感じた。2階席は以前にも書いたが更に見にくいポイントがあって、同じ1等席でも随分違うなあと思った。いまさら直せまいが残念である。写真の2枚目は座席の空間を示している。                  〆                                          

2013年6月13日
於:歌舞伎座(3階6列右ブロック)
 
歌舞伎座杮落とし六月大歌舞伎
2回目の歌舞伎座は3階席を試してみた。しかし驚いたことに3階席はどうも席が狭いようだ。写真2枚目がそうである。私の膝が前の座席の背にぶつかってしまう。2階席はそうでもないように思ったが気のせいだろうか?来月は1階席をとったので比較できるだろう。3枚目の写真は自席から舞台幕を撮ったものである。案外と視野が広く2階席より天井が気にならないだけ、空間が広くてゆったりしている。花道も4月の2階席のすみに比べて、ほぼ同じくらい見える。6000円対20000円だから3階席はかなりコストパフォーマンスが高いように感じた。とにかく2階席は中央をとらなければ金を捨てるようなもの。3階は少々舞台から遠くなるが視野として2階に遜色ない、よほどすみの席でない限り楽しめるだろう。近くで掛け声をかける人もいてなかなか楽しかった。
 さて、本日のの出し物は以下の通り。
1.鞘当
  不破伴左衛門:橋之助
  名古屋山三:勘九郎
  茶屋女房:魁春
2.喜撰
  喜撰法師:三津五郎
  祇園のお梶:時蔵
3.俊寛
  俊寛僧都:吉右衛門
  丹波少将成経:梅玉
  海女 千鳥:芝雀
  平判官康頼:歌六
  瀬尾太郎兼康:左團次
  丹左衛門尉基康:仁左衛門
 
 なかでも俊寛が面白かった。船が出てゆき俊寛一人取り残される、最初は泣き叫ぶ、狂わんばかりの俊寛だったが、やがて船が視界から消えると。諦観が強く出て身じろぎひとつせず、岩の上でじっと海を見続けて幕。この変化を吉右衛門が見事に演ずる。特に岩の上での姿は怖ろしいばかりの寂寥感にあふれて、見るものの心をゆさぶる。1719年近松作の浄瑠璃「平家女護島」の二段目に当たるのが「俊寛」である。ただこの話は平家物語でおなじみだけれども、今日の芝居は、日ごろなじんだものとは随分違う。成経は島の海女「千鳥」とできてしまい、祝言をする、そこに迎えの船が到着。成経と康頼は赦免され、なんと俊寛も重盛からの特別赦免状で許される。しかし祝言を終えた千鳥は乗せられないと云う。俊寛は自分の妻が清盛の魔手にかかり、殺されてしまったと聞き、絶望的になり、自分は下船するから千鳥を代わりに乗せてくれと、とてつもない自己犠牲を発揮する。しかし役人の兼康はそんなことは認められないという。俊寛はそこで兼康の刀を奪いなんと兼康を殺し、強引に千鳥を船に乗せ自分は島に残る。まあこんな話になっている。このあとが、俊寛の狂乱の場になる。千鳥の為に下船したものの、郷愁の念、やみがたく狂ったように泣き叫ぶ。まるでドニゼッティのオペラの狂乱の場の様だ。この芝居ではその他、千鳥と成経との細やかな愛情、悪玉兼康と善玉基康との対比の面白さ。最後のセットのダイナミックな変化など見どころ満載で十分楽しめた。
 鞘当は20分ほどの寸劇のようで鞘が当たったの、女がどうのという話であまり面白くない。これは長編の一部を切り出したもので、杮落としに相応しく華やかな舞台を狙ったもの。様式美を楽しむものと思うが、そちらの知識に欠けるので退屈だった。
 喜撰は苦手な舞踏劇。坊主が茶屋の女に惚れ、口説くと云う他愛のない話。コミカルな踊りと清本と長唄交差する音曲が豪華で楽しいが、これも踊りの知識がないので解説を聴いてああそうかというくらいだから、本当に楽しんだとは思えない。
 来月は夏らしく四谷怪談で期待している。
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2013年4月23日
於:歌舞伎座(2階4列左ブロック)
 
歌舞伎座こけら落とし「四月大歌舞伎」第二部
弁天娘女男白浪
忍夜恋曲者
 
新橋演舞場しか知らない、新参歌舞伎ファンにとって新歌舞伎座のリオープンは待望のイベントだ。マスコミでいろいろと報道されかなり機能的になったとのことで大いに期待したこけら落としである。
 東銀座駅を降りるとものの100メートルもゆかぬうちに、地下の広場に通じるのはものすごく便利だ。ここが歌舞伎座の真下になる。この広場にはお土産屋さんが陣取るが、セブンイレブンやタリーズコーヒーなどもあり、まあ雑然とした感じ。そこからエスカレーターを上がると、なんと外に出てしまって歌舞伎座の前に出る。雨の日などは濡れながら会場を待たねばならぬので、ちょっと不便。エントランスホールとエスカレーターが直結すればよいのだが、歌舞伎座のエントランスホールはものすごく狭くてそういう機能的なことが期待できない。(写真三枚目はエントランスを2階から撮影したもの) エントランスもそうだが通路も昔ながらなので狭くて、1階は大混雑。私は2階席だったので掻き分けてエスカレーターで2階へ。2階のほうがゆったりとしていて落ち着く。席につくが、席のゆったり度は新橋とあまり変わらないような気がする。(写真二枚目は自席付近からとったもの)なお写真一枚目は3階席からとったもので、3階席もそう悪くない。そういう意味で云うと2階の端っこの席が2万円と云うのは少々高い。花道は3分の1しか見えないし、前に大きな人が座るとマスクされて舞台が欠けてしまう。もう少し段差が欲しいところだ。まあ従来の器を残してのリオープンなのでいた仕方あるまい。私の様な新参ものはあまり古い歌舞伎座にこだわらないので、新国立のオペラパレスのように、歌舞伎座タワーのなかにもっとゆったりしたホールを作った方が見る者にとっては良いのでないかと思う。余談だが歌舞伎見物に来たのか、お土産を買いに来たのかわからないような、お土産売り場の混雑はいまひとつ釈然としない。お土産屋は歌舞伎座タワーのギャラリーなどに集中し、歌舞伎座の各階には置かないようにすればもう少しゆったりするだろう。
 鑑賞の手助けのイヤホンガイドは相変わらず。新しい端末で画面で解説を見るのは便利なようで、舞台がほとんどおろそかになるので、おそらくだんだん使われなくなるだろう。前の座席に嵌めこむ方式は特に不便。はずして首にかけるほうがよさそうだ。歌舞伎の新参者にとっては一番困るのは事前の予習材料が乏しいことだ。オペラだと通常のものなら台本が手に入るし、台本の翻訳サイトもあってそこからも入手できる。歌舞伎の場合はまず台本と云うものが売られていない。DVDはあるがオペラほどカタログが豊富ではない。私は歌舞伎もオペラ同様字幕付きにするべきだと思う。なぜなら舞台で話している言語は日本語だが100%聞きとることは困難だからだ。特に今日の2つ目の出し物の様な場合、浄瑠璃の内容が私にはほとんど聞き取れない。ただ白浪のような芝居は役者のアドリブなどもありかなり理解度が上がる。情けないことではあるがそれが現実である。歌舞伎ファンを増やそうとしたらそういう努力が必要だろう。最も今しばらくは歌舞伎座は満席に近い日が続くだろうから、そういう努力はしないだろう。
 
「弁天娘女男白浪」浜松屋見世先の場より滑川土橋の場まで
弁天小僧菊之助:菊五郎
南郷力丸:左團次
赤星十三郎:時蔵
忠信利平:三津五郎
浜松屋宗之助:菊之助
浜松屋幸兵衛:彦三郎
鳶頭 清次:幸四郎
日本駄右衛門:吉右衛門
「知らざあ云って聞かせやしょう・・・」の弁天小僧の台詞で有名なこの芝居は河竹黙阿弥の作。1862年初演。1862年と云えばもう明治維新まであと6年後で騒然とした中でのこの華やかな芝居というのもなかなか興味深い。1862年と云えばベルディの「運命の力」がザンクト・ペテルブルグで初演された年である。同時代の舞台芸術がこうも違うのかも驚かされるが、今日運命の力が現代風に読み替えられて上演される、無用の柔軟性を示しているのに反して、この弁天娘は初演当時の様式、型を保っているように思われる。次々と「みえ」をきるのも様式の連続である。舞台もほとんど書き割りだ。わずかに滑川土橋の場では大掛かりなセットが組まれるが、それは全く昔ながらのように見える。しかしそれでありながら見ていて、全く古臭さは感じられないし、むしろこの型や様式を厳しく追求している役者の気合いと云うものを強く感じ、感動を呼ぶ。今日の芝居は役者が勢ぞろいして誠に豪華絢爛で、私の様な新参ものも大いに楽しませてもらった。菊五郎の存在感はやはり大きくて見せ場での、台詞のためなど随所に観客をひきつける技を示していたようだった。左團次のとぼけた力丸も楽しい。吉右衛門は私には少々ディクションに問題があるように感じた。
 
「忍夜恋は曲者」将門
傾城如月:玉三郎
大宅太郎光圀:松緑
これは1836年に宝田寿助原作で初演された、舞踏劇である。従って役者の台詞は少なくほとんどの台詞は浄瑠璃で語られる。玉三郎は実際に見るのは初めてだが、その容姿を含めた美しさは流石だと思った。踊りもきっときれいなのだろうがそちらはよくわからなかった。松緑は以前見た時は少々ぽっちゃりしていたがスリムにしまって、台詞の声も良く通り立派だった。最後の大掛かりな装置も楽しかった。
開演:14:40
終演:17:25
歌舞伎の凄いのはバイロイトと同じ。全く時間どおりに始まることだ。日本のオペラやコンサートの様に指揮者などがもったいぶってなかなか登場しないでいらいらさせられることはない。
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