2019年10月26日
於:新国立劇場(1階5列中央ブロック)

プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」、新国立劇場公演
振付:ケネス・マクミラン
指揮・マーティン・イェーツ
ジュリエット:木村優里
ロメオ:井澤 駿
マキューシオ:木下嘉人
ティボルト:中家正博
ベンヴォーリオ:速水渉吾
パリス:小柴富久修
新国立劇場バレエ団他
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
この公演の直前に今年のロイヤルオペラのコベントガーデンでの録画収録したものを見た。4/13及び27の公演である。この公演には日本人の高田 茜と平野亮一がジュリエットとロメオを踊っている。そのほかの踊り手は、皆西洋人であるのでどうかと思ってみていたが、全く違和感がなく、日本人の体格の向上に驚いた。そしてそれ以上にバレエそのものの素晴らしさによって、主役に抜擢されたのは当然といっても良いだろうと改めて感じた。そしてこれは快挙ともいうべきことだと私は思う。
ひと昔前は、日本人がバレエを踊ると何か違和感があった。しかし今の若い人たちを見るとすらっと伸びた長い手足で全く違和感がない。先日の熊川版カルミナブラーナでは特に男性陣のバレエの素晴らしさに感嘆した。
そして今日の公演。今では新国立の舞台は全員日本人であり、それがもう当たり前のように受け入れられるのである。今日の公演の振付は新国立劇場のもう定番になったマクミラン版である。大体なにやかにやでほぼ毎年ロメオとジュリエットの公演に接しているが、ほとんどがこのマクミラン版である。わずかにマリンスキー劇場の公演が原典版のラヴロフスキーの振付である。今日のマクミラン版を見てやはりこの振付が優れているなあと改めて思った。それは踊りを通じて人間とそのドラマを描いているからである。けっして踊りのための踊りではない。すべてはこの若い二人の性格描写や悲しい運命を表現することに捧げている。
今日の公演でジュリエットの木村の踊りに感心させられた。それはジュリエットの心の動きや人間としての成長がその踊りを通じて明確に感じられたからである。1幕での乳母との戯れは本当に幼い少女である。次の場面では少々驚いた。パリスが婚約者として登場。この場面はパリスに対しての恥じらいがパリスを避けているというのが普通の解釈だろうが、過去のマクミラン版ではどれもジュリエットのパリスへの嫌悪を感じさせてきた(そう感じるのは私だけかも)。しかし木村の演技は幼い少女の恥じらいそのものである。それはその後の舞踏会でのパリスとジュリエットの関係を見てもよくわかる。ジュリエットはロメオに会う前はそれほどパリスを嫌っていないのではないかと木村の演技で気付かされる。ここもいままで見てきたマクミラン版ではジュリエットのパリスへの感情が決して好意的でないように踊られてきたように思っていたから実に新鮮だった。
1幕のバルコニーの場では木村はもう少女からもう一つ成長した姿を感じさせる。そのすっくとたった立ち姿のりりしさがそれを物語っている。
3幕ではもう大人のジュリエット。パリスを毅然と拒否する姿などでそれを感じるし、見せ場のベッドで静止する姿はけなげなジュリエットを感じさせる。この部分は木村の表情は少し幼いが、それは14歳の少女としては自然なのだろう。最後のジュリエットの悲痛な叫びはもう少し演技力をみがく余地はあるだろうが、二人の運命を思い、深い共感を呼んだことは間違いない。
その他の踊り手はどれも過不足なく素晴らしい。また今回公演で感心したのは1幕や2幕の冒頭の群衆シーンである。2016年の公演では少々機械的な踊りのように感じたが、今日の公演ではどの人々も生き生きとその役割を演じており、素晴らしく活気を帯びた、リアリティのある場面だった。
2幕幕切れの、キャピュレット夫人の悲嘆の演技もこれぐらいオーバーにやったほうが見ていて、悲しみが伝わると思った。本島の演技に拍手。
イェーツはバレエのスペシャリストのようだ。手堅い指揮で2016年に引き続き指揮をしていた。群衆シーンなどもう少しパンチが欲しいほどおおらかな演奏。ただそれが騎士の踊りでは豪壮な雰囲気を出していて満足のゆくものだった。3幕は特に幕切れがさらっと行き過ぎているように感じた。ここはもう少し大きくオーケストラをあおっても良いのではないかと感じた。演奏時間は130分。なお高田 茜の今年のコベントガーデン演奏時間はほぼ同じの126分強だった。
〆
於:新国立劇場(1階5列中央ブロック)

プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」、新国立劇場公演
振付:ケネス・マクミラン
指揮・マーティン・イェーツ
ジュリエット:木村優里
ロメオ:井澤 駿
マキューシオ:木下嘉人
ティボルト:中家正博
ベンヴォーリオ:速水渉吾
パリス:小柴富久修
新国立劇場バレエ団他
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
この公演の直前に今年のロイヤルオペラのコベントガーデンでの録画収録したものを見た。4/13及び27の公演である。この公演には日本人の高田 茜と平野亮一がジュリエットとロメオを踊っている。そのほかの踊り手は、皆西洋人であるのでどうかと思ってみていたが、全く違和感がなく、日本人の体格の向上に驚いた。そしてそれ以上にバレエそのものの素晴らしさによって、主役に抜擢されたのは当然といっても良いだろうと改めて感じた。そしてこれは快挙ともいうべきことだと私は思う。
ひと昔前は、日本人がバレエを踊ると何か違和感があった。しかし今の若い人たちを見るとすらっと伸びた長い手足で全く違和感がない。先日の熊川版カルミナブラーナでは特に男性陣のバレエの素晴らしさに感嘆した。
そして今日の公演。今では新国立の舞台は全員日本人であり、それがもう当たり前のように受け入れられるのである。今日の公演の振付は新国立劇場のもう定番になったマクミラン版である。大体なにやかにやでほぼ毎年ロメオとジュリエットの公演に接しているが、ほとんどがこのマクミラン版である。わずかにマリンスキー劇場の公演が原典版のラヴロフスキーの振付である。今日のマクミラン版を見てやはりこの振付が優れているなあと改めて思った。それは踊りを通じて人間とそのドラマを描いているからである。けっして踊りのための踊りではない。すべてはこの若い二人の性格描写や悲しい運命を表現することに捧げている。
今日の公演でジュリエットの木村の踊りに感心させられた。それはジュリエットの心の動きや人間としての成長がその踊りを通じて明確に感じられたからである。1幕での乳母との戯れは本当に幼い少女である。次の場面では少々驚いた。パリスが婚約者として登場。この場面はパリスに対しての恥じらいがパリスを避けているというのが普通の解釈だろうが、過去のマクミラン版ではどれもジュリエットのパリスへの嫌悪を感じさせてきた(そう感じるのは私だけかも)。しかし木村の演技は幼い少女の恥じらいそのものである。それはその後の舞踏会でのパリスとジュリエットの関係を見てもよくわかる。ジュリエットはロメオに会う前はそれほどパリスを嫌っていないのではないかと木村の演技で気付かされる。ここもいままで見てきたマクミラン版ではジュリエットのパリスへの感情が決して好意的でないように踊られてきたように思っていたから実に新鮮だった。
1幕のバルコニーの場では木村はもう少女からもう一つ成長した姿を感じさせる。そのすっくとたった立ち姿のりりしさがそれを物語っている。
3幕ではもう大人のジュリエット。パリスを毅然と拒否する姿などでそれを感じるし、見せ場のベッドで静止する姿はけなげなジュリエットを感じさせる。この部分は木村の表情は少し幼いが、それは14歳の少女としては自然なのだろう。最後のジュリエットの悲痛な叫びはもう少し演技力をみがく余地はあるだろうが、二人の運命を思い、深い共感を呼んだことは間違いない。
その他の踊り手はどれも過不足なく素晴らしい。また今回公演で感心したのは1幕や2幕の冒頭の群衆シーンである。2016年の公演では少々機械的な踊りのように感じたが、今日の公演ではどの人々も生き生きとその役割を演じており、素晴らしく活気を帯びた、リアリティのある場面だった。
2幕幕切れの、キャピュレット夫人の悲嘆の演技もこれぐらいオーバーにやったほうが見ていて、悲しみが伝わると思った。本島の演技に拍手。
イェーツはバレエのスペシャリストのようだ。手堅い指揮で2016年に引き続き指揮をしていた。群衆シーンなどもう少しパンチが欲しいほどおおらかな演奏。ただそれが騎士の踊りでは豪壮な雰囲気を出していて満足のゆくものだった。3幕は特に幕切れがさらっと行き過ぎているように感じた。ここはもう少し大きくオーケストラをあおっても良いのではないかと感じた。演奏時間は130分。なお高田 茜の今年のコベントガーデン演奏時間はほぼ同じの126分強だった。
〆