ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ: バレエ

slide01
今日は上記の公演を見に行く予定だった。しかし残念ながら昨夜遅くから持病の心房細動の発作が出てしまい、涙を呑んで今日の公演はあきらめることにした。

  日本では「ロミオとジュリエット」のバレエと云うとマクミラン版が多いのでクランコ版と云うのは是非見て見たかった。彼はシュトットガルトの歌劇場の芸術監督の時にこの振付を初演したそうで、今日の公演の元祖はシュトットガルトである、ただマクミランとはロイヤルオペラで一緒の時もあったので、影響しあっていたのかもしれない。

  クランコの映像はなかなかないらしく、我が家では2017年のNHKのBSプレミアムの録画で見ることができる。おそらく東京バレエ団の今回の公演はこれと大差がないものと拝察する。(この公演は現在はタワーレコードのカタログに載っている)
  この公演を見た印象は、どうしてもマクミランと比較してしまうことになるが、マクミランはジュリエットの女性としての成長に焦点を当てた感情の機微が全体として細やかな振り付けだが、クランコの振付はそういうことよりも、シェークスピアの戯曲のバレエ化、つまりドラマ重視の質実剛健な振り付けといってよいだろう。だから見せ場の騎士の踊りも地味な衣装で、踊りもマクミランに比べると派手さがない。市場や祭りなどの人の動きもどちらかというと派手さよりもリアルさを重視している。それゆえシェークスピア戯曲を読みながらバレエを見ているように、悲劇に突入する道のりをきりもみ状に私たちは共体験するだろう。

  反面1幕のまだジュリエットの少女時代の乳母との戯れの場面などは、ジュリエットのおとなへのなりかけをマクミランのように丁寧には見せない。
  1幕の3場のキャピュレット家の外の情景もマクミラン版のような丁寧さはない。要はドラマとあまり関係ないところはあまり重視していないということだ。
  見せ場の1幕6場のバルコニーの場は両者とも魅力的な振り付けだが、マクミラン版の公演の新国立劇場でのポスターになったもあのバルコニーのジュリエットへロミオを手を伸ばすシーンは、情景としては素晴らしいので、クランコの実質的な振り付けと比べると好悪がわかれるだろう。

  また2幕のタイボルトの死の場面、キャピュレット夫人の悲しみ表現は、クランコは静だが、マクミランは動だ。私はこれをかつてロンドンのロイヤルオペラで見た時、バレエと云うのはなんと素晴らしい感情表現ができるのかと驚嘆したのを記憶している。マクミランの振付は人によっては過剰と云われるかもしれないが、それに一度触れたら、その魅力に取りつかれるだろう。

  ジュリエットの成長を描いた場面で最も感動的な場面も、マクミラン版のほうが感動的だ。3幕で両親やパリスに迫られたジュリエットは気も狂わんばかりになるが、やがて放心状態になり、ベッドの端に腰を掛ける。そこには踊りがない。ただ座っているだけだ。やがてジュリエットの顔に精気が現れ、すっくと立って、決然とローレンス神父のもとに向かう。さなぎが蝶になったなったかのごとく、ジュリエットが大人になったことを暗に示している。クランコはあまりそういうことには目を向けていない。
  最終場のロミオの死とジュリエットの死の場面。特にジュリエットが目覚めたときにロミオの死体を見たときの驚き。この振付はもうバレエではなく、演劇かオペラの領域だろう。そしてジュリエットの自死の場面はまるで同じシェークスピアのオセローをオペラ化したヴェルディの「オテロ」の死に匹敵する感動的な場面だ。クランコの振付はそういう場面を過度に演出していない。そこが物足りなさでもあり、わかりやすさでもあるのだろう。

  果たして今回の東京バレエではどういう舞台ではクランコの振付がどのように演じられるのだろうか興味津々だが、返す返すも見逃すのは誠に残念。
  なお、マクミラン版は古いのは入手が難しそうだ。いま手に入るのはロイヤルオペラの2019年盤である。

2019年10月26日
於:新国立劇場(1階5列中央ブロック)
20191026_122411

プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」、新国立劇場公演
      
振付:ケネス・マクミラン
指揮・マーティン・イェーツ

ジュリエット:木村優里
ロメオ:井澤 駿
マキューシオ:木下嘉人
ティボルト:中家正博
ベンヴォーリオ:速水渉吾
パリス:小柴富久修
新国立劇場バレエ団他
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

この公演の直前に今年のロイヤルオペラのコベントガーデンでの録画収録したものを見た。4/13及び27の公演である。この公演には日本人の高田 茜と平野亮一がジュリエットとロメオを踊っている。そのほかの踊り手は、皆西洋人であるのでどうかと思ってみていたが、全く違和感がなく、日本人の体格の向上に驚いた。そしてそれ以上にバレエそのものの素晴らしさによって、主役に抜擢されたのは当然といっても良いだろうと改めて感じた。そしてこれは快挙ともいうべきことだと私は思う。

 ひと昔前は、日本人がバレエを踊ると何か違和感があった。しかし今の若い人たちを見るとすらっと伸びた長い手足で全く違和感がない。先日の熊川版カルミナブラーナでは特に男性陣のバレエの素晴らしさに感嘆した。
 そして今日の公演。今では新国立の舞台は全員日本人であり、それがもう当たり前のように受け入れられるのである。今日の公演の振付は新国立劇場のもう定番になったマクミラン版である。大体なにやかにやでほぼ毎年ロメオとジュリエットの公演に接しているが、ほとんどがこのマクミラン版である。わずかにマリンスキー劇場の公演が原典版のラヴロフスキーの振付である。今日のマクミラン版を見てやはりこの振付が優れているなあと改めて思った。それは踊りを通じて人間とそのドラマを描いているからである。けっして踊りのための踊りではない。すべてはこの若い二人の性格描写や悲しい運命を表現することに捧げている。

 今日の公演でジュリエットの木村の踊りに感心させられた。それはジュリエットの心の動きや人間としての成長がその踊りを通じて明確に感じられたからである。1幕での乳母との戯れは本当に幼い少女である。次の場面では少々驚いた。パリスが婚約者として登場。この場面はパリスに対しての恥じらいがパリスを避けているというのが普通の解釈だろうが、過去のマクミラン版ではどれもジュリエットのパリスへの嫌悪を感じさせてきた(そう感じるのは私だけかも)。しかし木村の演技は幼い少女の恥じらいそのものである。それはその後の舞踏会でのパリスとジュリエットの関係を見てもよくわかる。ジュリエットはロメオに会う前はそれほどパリスを嫌っていないのではないかと木村の演技で気付かされる。ここもいままで見てきたマクミラン版ではジュリエットのパリスへの感情が決して好意的でないように踊られてきたように思っていたから実に新鮮だった。
 1幕のバルコニーの場では木村はもう少女からもう一つ成長した姿を感じさせる。そのすっくとたった立ち姿のりりしさがそれを物語っている。
 3幕ではもう大人のジュリエット。パリスを毅然と拒否する姿などでそれを感じるし、見せ場のベッドで静止する姿はけなげなジュリエットを感じさせる。この部分は木村の表情は少し幼いが、それは14歳の少女としては自然なのだろう。最後のジュリエットの悲痛な叫びはもう少し演技力をみがく余地はあるだろうが、二人の運命を思い、深い共感を呼んだことは間違いない。

 その他の踊り手はどれも過不足なく素晴らしい。また今回公演で感心したのは1幕や2幕の冒頭の群衆シーンである。2016年の公演では少々機械的な踊りのように感じたが、今日の公演ではどの人々も生き生きとその役割を演じており、素晴らしく活気を帯びた、リアリティのある場面だった。
 2幕幕切れの、キャピュレット夫人の悲嘆の演技もこれぐらいオーバーにやったほうが見ていて、悲しみが伝わると思った。本島の演技に拍手。

 イェーツはバレエのスペシャリストのようだ。手堅い指揮で2016年に引き続き指揮をしていた。群衆シーンなどもう少しパンチが欲しいほどおおらかな演奏。ただそれが騎士の踊りでは豪壮な雰囲気を出していて満足のゆくものだった。3幕は特に幕切れがさらっと行き過ぎているように感じた。ここはもう少し大きくオーケストラをあおっても良いのではないかと感じた。演奏時間は130分。なお高田 茜の今年のコベントガーデン演奏時間はほぼ同じの126分強だった。






2019年9月5日
オーチャード・ホール(1階28列左ブロック)
karumina

Bunkamura 30周年記念 特別企画
 K-BALLET COMPANY/東京フィルハーモニー交響楽団

カール・オルフ(楽器群と魔術的な場面を伴って歌われる、独唱と合唱のための世俗的カンタータ)
    「カルミナ・ブラーナ」
指揮:アンドレア・バッティストーニ
演出・振り付け・台本:熊川哲也

カンタータ歌唱
 ソプラノ 今井未希
 カウンターテナー 藤木大地
 バリトン 与那城 敬
 合唱:新国立劇場合唱団、NHK東京児童合唱団

バレエ
 アドルフ 関野海斗
 フォルトゥナ 中村洋子
 太陽 宮尾俊太郎
 ヴィーナス 矢内千夏
 ダヴィデ 堀内将兵
 サタン 遅沢佑介
 白鳥 成田紗弥
 神父 石橋文月
 他

熊川プロデュースの世界初演に惹かれたわけではない。一度きちんとしたバレエ付きの「カルミナ・ブラーナ」を見て見たかったのである。この曲は学生のころからずっと聴いてきた曲で愛着があるが残念ながらバレエ付きは見たことがなかったのである。1937年の初演もバレエがついていたので、オルフの指定はやはりバレエ付きが標準と云うことなのだろう。
 事実今日の舞台を見て、なるほど舞台付きのほうがずっと面白く、音楽も生きるように思った。熊川版ではいたずら書きに近い聖職者たちの書いた歌詞、それは愛、性愛、酒、ばくちなどを主題にしているが、をそのままなぞることはしていない。彼自身そういう世俗的な歌詞をなぞることにより音楽に負けてしまうのではないかとの危惧を述べている。
 彼の描いた大枠は以下の通りだ
  「悪魔の子の名はアドルフ
    アドルフの母である女神フォルトゥナを失脚させ
      人間の世に紛れ込む
   彼が操る世界には
    あらゆる悪が蔓延する
      立ち向かう人間の姿は悪魔にも良心を芽生えさせるのだろうか?

   運命を支配するのは果たして悪魔なのか、女神なのか」

この枠組みに沿って舞台は動く。舞台上はァドルフやら(ヒットラーを思わせるが、ネーミングがちょっと安易のような気がする)、女神やら、ダヴィデやらが登場するが半分くらい誰が誰やらわからないのが不満だ。字幕で舞台の人物を紹介しても良いのではあるまいか?初演なのだから!オルフの音楽につけた歌詞にはアドルフや悪魔やダヴィデなどでてこないのであるから?
 しかしそれをのぞけば、踊り手の動きはオルフのカンタータに整合してように感じた。そういう意味ではとてもうまく振り付けてある。最後にルドルフらしいダンサーが全員に持ち上げられていたがこれは女神が勝って、ルドルフの救済を表すのだろうか?
 なかには面白い振付があって笑ってしまった。第2部の12曲「むかし、湖に住まっていた」である、白鳥が丸焼けになるシーン。白鳥役はまるで白鳥の湖の主人公のようだ。ただ衣装は灰色だったが?こういうお遊びは楽しい。
 バレエを見ていて感心したのは、日本人の体格の良さだ。皆とても足が長く、すらっとしている。したがってとても舞台映えする。それもそうだよ、ロイヤルオペラの「ロミオとジュリエット」で主人公が2人とも日本人が踊る時代なのだから!そういう時代の流れを痛感した舞台だった。

 さて、音楽だがまず歌い手。ソプラノの今井は線は細いがきりっとして気持ちが良い声だ。3部の17番「少女が立っていた」や21番「天秤棒に心をかけて」はとてもよかった。ただ3部の22曲、児童合唱団と歌う場面は声がかき消されて全く何も聞こえなかったのは席のせいだろうと思う(オーチャードの後方は音が悪い)
 バリトンの与那城は1部は声が十分にできっていないのか冴えない。彼が良くなったのは第2部、13曲「わしは院長様だぞ」からだ。ここはふっきれて実にのびやかな歌だ。歌詞にふさわしい歌唱。また3部の16曲の「昼間も夜も、何もかもが」もファルセットもうまくゆき、聴きごたえがあった。カウンターテナーの藤倉は成功していないのではないか?丸焦げになった白鳥の割には声が美しすぎる。ここはテノールが汚いファルセットで歌い、絶望感を出してほしい。歌詞を読むと実に絶望的ではあるまいか?

 バッティストーニはもうこの曲を何度も演奏しており自家薬籠中の物にしているように感じた。オペラなどで聴けるように緩急強弱を嫌味なくつけるすべを身に着けており、劇的効果が大きい。ただこの音楽の持つドイツの少しどろんとしたかたまりのようなものはあまり感じられなかったが、これは一つの標準としての位置づけになりうる演奏だと思う。
 このどろんというのはなかなか言葉では表しにくいのだが、たとえばヒトラーが演説した後に聴衆が歌うドイツの民謡のような歌、このような場面は戦前の記録映画で見ることができるだろうが、そこに流れる音楽は、おそらくドイツ人しかできない音楽だと思う。そこでいつも感じるのはなにかどろんとした感触なのだ。この感触を感じ取れるのはCDだがオイゲン・ヨッフムの録音だ。古い録音だが今でもこの演奏を超えるものはない。歌手もヤノヴィッツ、ディースカウ、シュトルツェなど揃えてすばらしい。特にシュトルツェの歌唱は白鳥の絶望感が聴こえてくるようだ。このCD、シングルSACD化されて録音も一層素晴らしくなった。

 東フィル、合唱団いずれも素晴らしいが、どうも私の席からは音楽がぶあーっと盛り上がらなくて、ホール前面で鳴り響いているおこぼれを聴いているような感触で、音響的には不満だった。前日のサントリーの都響のブルックナーの素晴らしいサウンドを聴いた後だけに余計そう感じた。おそらく座席の問題だろうと思うが?そういう意味では合唱団はもう少し増やしても良かったのではあるまいかとも思った。特に聴きどころの1曲目と2曲目は響きが薄く物足りなかった。今日の、演奏時間は62分。

 終演後はスタンディングオベイション。熊川氏の登場で大騒ぎだった。会場の約8割はご婦人と云うのもバレエ公演らしい。
 それにしてもプログラムは配布されずにぺらぺらの配役表のみと云うのはいかにもみみっちいではないか?しかも正式なプログラムはなんと2500円と云うばかばかしさ。初演であり、演出意図などをきちんと書いたものを全員に配るくらいの配慮が必要ではないだろうか?
 それとやはり字幕付きにすべきだろう。字幕を付けるとバレエに目が行かなくなるという心配はあるだろうが、熊川の演出意図と歌詞とは密接しているのだから、この複雑(ラテン語もあればドイツ語もある)な歌詞の字幕は必須ではないだろうか?
 しかし初めて見たバレエ付きの「カルミナ・ブラーナ」、この曲の全貌を初めて垣間見た思いで満足のゆく公演であったことは間違いない。


カルミナ・ブラーナ


2017年9月9日
於:新国立劇場

プロコフィエフ「ロミオとジュリエット」

芸術監督・指揮:西本智実
振付:玄 玲奈

ロミオ:法村圭緒
ジュリエット:中村美佳
マキューシオ:中家正博
ティボルト:グリゴリー・バリノフ
パリス:アンドレイ・オルロフ
ロレンス神父:東 文昭
キャピュレット夫人:境田公実
乳母:大力小百合

イルミナートバレエ
イルミナートフィルハーモニーオーケストラ

今年も「ロミオとジュリエット」をみることができた。一年に一回見たいもの、聴きたいもの、読みたいものはいろいろあるが、バレエではこの曲だろう。しかも新国立劇場での公演なのだから言うことはない。

 さて、今回の公演は全編西本節で覆われている。演出もそうだし、指揮もそうだし、しかも字幕付きという発想で公演が行われている。ジュリエットが自害して幕となる。カーテンコールではバレリーナたちが拍手を受けるがまあ正直お義理のようなもの、それが西本がたった一回しか顔を出さなかったが、その時の拍手たるや踊り手たちの倍はあった。要するにお客は西本を見に来ているのだ。終演後のサイン会も長蛇の列。こういう客寄せパンダ的な扱いは本人はどうなのだろう?それを知っていてカーテンコールで一度しか顔を出さなかったのか、照れくさくてださなかったのか?いずれにしろすべて自分が仕切るというのは芸術家冥利に尽きるものだろう。イルミナートフィルというからなにやら宗教臭いが、プログラムによると毎年ヴァチカン音楽祭とやらに招聘されているとのことだ。演奏者は大半が日本人である。西本が芸術監督であることは言うまでもない。

 したがって、まず音楽から。彼女の作る「ロミオとジュリエット」はプロコフィエフの旋律美を極限まで引き出そうというもの。また抑揚が大きく、したがってスケールも大きい。けれんみたっぷりのようでもあるが、多くの名人のようにぎりぎりのところで節度を保っているのが好ましい。音楽だけ聴いていても私は十分満足だ。しかし手足のオーケストラは少し問題はなかったか?高弦は少々響きが薄く、西本の狙いのように豊かには聞こえないのがちょっと残念。管楽器の不安定さも気になった。だからといって彼女の作るプロコフィエフの音楽の枠組みを壊しているわけではないのがなにより。

 本公演の問題は踊りも含めた振付だろう。簡単なところから。このバレエは多くの群衆シーンがある。例えば町の広場で民衆が躍るシーンは2か所あるが、人数が少なく、また踊り自身にダイナミズムが感じられなくて、新国立の広い舞台を生かしていない。人数が少なくても一人一人がもう少しのびやかに踊ればまだよいのだが振付のせいかこじんまりとした踊りになっている。これは騎士の踊りでもそうである。豪壮華麗な音楽の割には動きの乏しい振付、舞台上の人数も少ない(16人)ここも新国立の舞台がスカスカに感じられる。その他の群衆シーンもみな同じである。
 ソロにつけた振付も動的な楽しさが乏しい。むしろきめ細かい手足の動きのみで感情を表現しようとしているような気がして、このバレエの持つ楽しさを引き出せていないのではないかというようなきがした。コンテンポラリー出身の振付師だからだろうか?特にジュリエットにつけた振付は実に地味で華がない。ロミオとジュリエットのバルコニーの場、ロミオはまだしも、ジュリエットの動きは実に静的で、14歳の少女の若々しい愛の喜びと恥じらいが感じられない。後半のロミオとの別れの場面、悲しみが伝わらない、そして最大の見せ場。ジュリエットがパリスとの結婚を強要され、逃げられないと悟る。ここではベッドで泣き伏せる、そして立ち上がって変な格好で舞台に立ち尽くす。そしてローレンスのところに走る。しかしこれではジュリエットの大人への目覚めが全く感じられない。これは振付の問題か、踊り手の問題かはわからない。いつも例に出すがマクミラン版の素晴らしさはこの部分に凝縮されている。いつも書いているのでここでは書かない。
 最後のロミオの死、ジュリエットの目覚め、その死の場面。ロミオの悲しみは踊りでは伝わらない振付だ。ちょっとあっさりしているのだ。ジュリエットの目覚めのシーンも目覚めの喜びと、目の前のロミオの死とが結びつかない、その驚愕が全く伝わらない。この場面涙なしには見ることができないが、これではこちらが感情移入できない。
 振付でわずかにダイナミズムを感じたのはティボルトの死の場面、キャピュレット夫人の悲しみが音楽とともに伝わる。しかしよくみるとこの場面はマクミラン版の振付とあまり変わらないのだ。ということで私の印象は難しいことはしないで定評のあるマクミラン版を採用した方が良かったのではないかということだ。ただその場合ロミオがその激しい踊りに耐えられるかはちょっと疑問。
  演奏時間は110分、通常の公演ではあまりカットされない、乳母がロミオにジュリエットの手紙を持ってゆくシーン、友達の踊りなどカットされたようだ。またベローナ大公やキャピュレット家の当主もでてこない。

 字幕付きのバレエというのは初めてだ。これは一見親切なようだけれど、バレエというのは本来踊りですべてを語る(+音楽)芸術ではないのか?なにやら難しい字幕で踊り手の気持ちを表そうとしているが、踊り手たちはよくクレームをつけなかったものだ。

 装置は張りぼてだが、時代の雰囲気を出している。左右に3本づつの列柱があり、奥は露台、さらにその奥はベローナの市街。これが基本の装置。これにバルコニーが付け加えられたり、ベッドが置かれたり、祈祷台が置かれたりする。衣装もそれほど違和感がなかった。

イメージ 1

イメージ 2

2016年10月29日
於:新国立劇場(1階10列左ブロック)

新国立劇場バレエ団公演

 プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」
振り付け:ケネス・マクミラン
指揮:マーティン・イエーツ

ジュリエット:小野絢子
ロメオ:福岡雄大
マキューシオ:福田圭吾
ティボルト:菅野英男
ベンヴォーリオ:奥村康祐
パリス:渡邊峻郁
キャピュレット:貝川鉄夫
キャピュレット夫人:本島美和
ロザライン:堀口 純
乳母:丸尾孝子
ロレンス神父:輪島拓也

管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団

マクミラン版のロメオはもう新国立劇場の定番である。過去何度かこの劇場での公演に接しているがやはりマクミラン版の素晴らしさ、今回も改めて感じることができた。この振り付けの素晴らしさは要はシェークスピアの戯曲と同様、ここでの踊り手は皆生身の人間であるということを感じさせてくれる、人間はみなそれぞれ必死に生きてゆくというリアルさを体験させてくれる所にあろうかと思う。なお今回の公演はバーミンガム・ロイヤル・バレエの協力によるものである。しかし振り付けや装置は過去見てきたものと大きな差があるわけではない。このバーミンガム版は1992年初演だそうである。

 今日の公演、3幕が圧倒的に素晴らしい出来栄えだと思う。幕開け冒頭のロメオとジュリエットの踊りは少々物足りないが、その後からこのバレエは実にリアルな踊りを示すことになる。それは何よりジュリエットの踊りの素晴らしさによるものだ。パリスの求愛に対する嫌悪感、両親の勧めは孤独感を与え、ロミオを求めてもいない、少女の心は絶望しかなく、涙しか出て来ない。そして誰も助けてくれないとわかった時、自分で切り開くしかないと決意する。ベッドに腰掛けるジュリエット。悲しみから決意へ、小野の眼力(めじから)がすごい。この心の動きを踊りと動作で実にリアルに指し示す。そこには踊り手ではなく生身のジュリエットしかいない。ローレンスから薬をもらったジュリエットは再びパリスの求愛を受けるがその時の心は偽装である。もう子供ではなく、心装う技を身に付けた大人の女、パリスへの拒絶の厳しさ、そして毒を飲むが、その恐怖感、そして最後の幕切れのロミオの死体を前にしての絶望的な叫び、全て共感を呼ぶもので涙を禁じ得なかった。誠に素晴らしい3幕であった。

 しかし前半の1幕2幕は少々物足りない。その要因はいくつかあるが、まず群衆の踊りに生命感がないことだ。1幕、2幕の町の踊りはルネサンスを前にした民衆の自由な気持ちが現われて来なければならないと思う。それが感じられない。皆きちんと踊っているようには見えるが、それは振り付けに従っているだけの様な気がする。もっと自発性が欲しい。わずかにロザリンデの奔放さはそのなかでは印象に残る。
 ただ1幕の舞踏会の騎士の踊りは中世の重苦しい階級性を表わすように踊りは画一的であるので、振り付け通りきちんとやることによる効果は大きいと思った。
 つぎに3幕で良かった小野のジュリエットは1幕では少々物足りない。大人になりきれない少女ジュリエットにしては少し立ち居振る舞いが大人っぽく、3幕との成長の差が少ない。ここは少しオーバーでもジュリエットの大人への成長を踊りでも示して欲しかった。
 3つ目は男性陣に物足りなさを感じたことだ。マキューシオはもっとのびのびと自発性の富んだ踊りをしてもらわないと彼のユニークな性格が描かれない。ティボルトは一応ロメオの敵役なのだと思うが、その性格が演技や踊りでは感じられない。要はロメオもティボルトもマキューシオもベンヴォーリオも衣裳を見ないと誰が誰やら分からないと云うことでは困るのである。ロミオの踊りも少々迫力がなく、影が薄いのも物足りないところだ。例えばバルコニーの場や3幕冒頭の二人の踊りもちょっとハラハラする。
 わずかにベンヴォーリオのスケールの大きな踊りは男性陣では印象に残った。その他では2幕でのキャピュレット夫人のきちんとした感情表現が素晴らしかった。最近の公演はここまで感情露出しない演技が多い印象を受けていたので本島の演技は印象に残った。

 イエーツはイギリス人のベテラン指揮者の様だ。てなれた指揮だと思うがめりはりをきかせすぎと云うべきか、少々粗いのが物足りないところ。オーケストラにもその心が移ったのか金管などかなり東フィルのこの劇場の演奏にしては荒っぽい印象を受けた。とはいえツボをはずさないところは流石で、3幕の素晴らしさはこの演奏によっても大いに助長されたと思った。演奏時間は134分。今回の版も一部カットあり。

↑このページのトップヘ