今日は上記の公演を見に行く予定だった。しかし残念ながら昨夜遅くから持病の心房細動の発作が出てしまい、涙を呑んで今日の公演はあきらめることにした。
日本では「ロミオとジュリエット」のバレエと云うとマクミラン版が多いのでクランコ版と云うのは是非見て見たかった。彼はシュトットガルトの歌劇場の芸術監督の時にこの振付を初演したそうで、今日の公演の元祖はシュトットガルトである、ただマクミランとはロイヤルオペラで一緒の時もあったので、影響しあっていたのかもしれない。
クランコの映像はなかなかないらしく、我が家では2017年のNHKのBSプレミアムの録画で見ることができる。おそらく東京バレエ団の今回の公演はこれと大差がないものと拝察する。(この公演は現在はタワーレコードのカタログに載っている)
この公演を見た印象は、どうしてもマクミランと比較してしまうことになるが、マクミランはジュリエットの女性としての成長に焦点を当てた感情の機微が全体として細やかな振り付けだが、クランコの振付はそういうことよりも、シェークスピアの戯曲のバレエ化、つまりドラマ重視の質実剛健な振り付けといってよいだろう。だから見せ場の騎士の踊りも地味な衣装で、踊りもマクミランに比べると派手さがない。市場や祭りなどの人の動きもどちらかというと派手さよりもリアルさを重視している。それゆえシェークスピア戯曲を読みながらバレエを見ているように、悲劇に突入する道のりをきりもみ状に私たちは共体験するだろう。
反面1幕のまだジュリエットの少女時代の乳母との戯れの場面などは、ジュリエットのおとなへのなりかけをマクミランのように丁寧には見せない。
1幕の3場のキャピュレット家の外の情景もマクミラン版のような丁寧さはない。要はドラマとあまり関係ないところはあまり重視していないということだ。
見せ場の1幕6場のバルコニーの場は両者とも魅力的な振り付けだが、マクミラン版の公演の新国立劇場でのポスターになったもあのバルコニーのジュリエットへロミオを手を伸ばすシーンは、情景としては素晴らしいので、クランコの実質的な振り付けと比べると好悪がわかれるだろう。
また2幕のタイボルトの死の場面、キャピュレット夫人の悲しみ表現は、クランコは静だが、マクミランは動だ。私はこれをかつてロンドンのロイヤルオペラで見た時、バレエと云うのはなんと素晴らしい感情表現ができるのかと驚嘆したのを記憶している。マクミランの振付は人によっては過剰と云われるかもしれないが、それに一度触れたら、その魅力に取りつかれるだろう。
ジュリエットの成長を描いた場面で最も感動的な場面も、マクミラン版のほうが感動的だ。3幕で両親やパリスに迫られたジュリエットは気も狂わんばかりになるが、やがて放心状態になり、ベッドの端に腰を掛ける。そこには踊りがない。ただ座っているだけだ。やがてジュリエットの顔に精気が現れ、すっくと立って、決然とローレンス神父のもとに向かう。さなぎが蝶になったなったかのごとく、ジュリエットが大人になったことを暗に示している。クランコはあまりそういうことには目を向けていない。
最終場のロミオの死とジュリエットの死の場面。特にジュリエットが目覚めたときにロミオの死体を見たときの驚き。この振付はもうバレエではなく、演劇かオペラの領域だろう。そしてジュリエットの自死の場面はまるで同じシェークスピアのオセローをオペラ化したヴェルディの「オテロ」の死に匹敵する感動的な場面だ。クランコの振付はそういう場面を過度に演出していない。そこが物足りなさでもあり、わかりやすさでもあるのだろう。
果たして今回の東京バレエではどういう舞台ではクランコの振付がどのように演じられるのだろうか興味津々だが、返す返すも見逃すのは誠に残念。
なお、マクミラン版は古いのは入手が難しそうだ。いま手に入るのはロイヤルオペラの2019年盤である。
〆
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