ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ: オーケストラ(海外)

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待望のブロムシュテットのベートーヴェン全曲、ドイツシャルプラッテン・エテルナ盤がリマスターされた。しかもシングルレイヤーのSACDとして発売されたのだ。

  ブロムシュテットは日本ではN響と組んで多くの名演を聴かせており、絶大なファンも多くいる、おそらく日本でも有数の人気指揮者だろう。そのベートーヴェンも最近では(2014)ライプチッヒと組んで録音していて名演奏の誉れを獲得している。実は私はそのCDを聴いていない。
  彼のベートーヴェンはライブでバンベルグ響と「運命」(2016年)をそしてN響と4番(2018年)を聴いている。このベートーヴェンはすこぶる立派な演奏で、圧倒されたが、しかしこれは少し昔のブロムシュテットとは違うのではないかと云う疑念がわいてきて、新しいCDは聴かずじまいになっていた。
  ブロムシュテットを初めて聴いたのは何度も書いているが、キングレコードがドイツシャルプラッテンの録音を大量に発売した時である。その時は東独の演奏家の膨大な録音がプレスされた。レーグナー、スイートナー、マズーア、そしてブロムシュテット。結局今ではその大量のCDのうち手元にあるのは数枚のブロムシュテットの録音である。
  それはシューベルトの交響曲第5番と未完成である。この演奏を聴いたときなんと素晴らしいシューベルトか、この清冽さ、厳しさ、豊かさ、深い悲しみと喜び、シューベルトの持っている音楽のすべてがここにはあった。私はこの2曲でブロムシュテットファンになったといって良い。当然シューベルトの全曲盤(1980年、2020年にリマスターされてSACD化)も手に入れて今ではベーム盤とともに私の唯一無二のシューベルトになっている。オーケストラは10年間コンビを組んだシュターツカペレ・ドレスデン、録音はルカ教会である。
  実は私はその当時にベートーヴェンも聴いているはずなのだけど全く記憶がないのだ。つまらなくて放出したのか、はてどうしたのだろう?まあそれはおいておこう。

  私が2016年と2018年に久しぶりにブロムシュテットのベートーヴェンを聴いたときにびっくりしたのは、シューベルトで持っていたブロムシュテット像とはずいぶんかけ離れていて、音楽は厳しいが少しあわただしく、息苦しくできていて、シューベルトで感じられた安息感のようなものは感じられなかったのである。ははあ、これがブロムシュテットの本来の?姿なのか?曲が違うので同列にいう危険はあるが、率直な私の印象であった。
  これはドレスデンの時の演奏を聴かねばならぬと思い立ったがなかなか手に入らない、そんな時、キングインターナショナルでの発売予告を見た次第。そして2月6日に我が家に到着。まあ長い話だがそういういきさつでこの録音を聴き始めた。

  このCDを手に取った時にまず驚いたのはこのセットはわずか2枚組なのである。最初の1枚には1番から6番まで、そして2枚目には最後までとおまけにドヴォルザークの交響曲第6番までついている。
  SACDの容量の大きさは以前から聴いていたが、ここまで凄いのは珍しい。むしろその容量を無駄づかいしているディスクがいかに多いか!たとえばデッカの最新のリングなどはもう少しその利点を生かして、例えば神々の黄昏の1幕などは1枚にしてほしかった。要はオペラは各幕通して聴きたいのだ。SACDならそれができるのにやらない。行った例としてはクナッパーツブッシュのバイロイトライブのSACD化(最新のもの)では長大なパルジファルの1幕が1枚にすっぽり収まっている。
  このブロムシュテットのベートーヴェンを見てやればできるんではないかとと云う思いと、姑息な音楽会社の発想にあきれてしまった。まあシングルレイヤーと云うこともあるかと思うが、まあよくぞやってくれたと感謝したい。ちょっと本題がそれて失礼。


  さて、聴き始めて思ったのは予想通りだった。いまのブロムシュテットとはまるで違う演奏だ。もちろん今はベーレンライター版を使って指揮しているので速度などが異なるのは分かるが、これをただの変化とみるか、指揮者の成長とみるかは素人の私にはわからない。はっきり言えるのはライブで聴いた2曲は聴き手を緊張させ、興奮させ、もっと言えば圧倒さえさせられる演奏だったが、今回聴いて9曲の演奏はもっとやさしいベートーヴェンということである。
  この演奏は1975~79年にかけてドレスデン、ルカ教会で録音されたものである。オーケストラはシュターツカペレ・ドレスデンである。録音は少し低音が過多のようでこれが少々気になった。それがその音圧レベルにばらつきがあるのは、指揮者の指示なのか、録音上のものなのかは定かではない。

  さて、最も見事な演奏と思ったのは「英雄」である。これは剛毅な演奏である。骨組みががっちりしておりいささかも揺るがない。全曲通しての印象は習字でいえば楷書風で、きちんとした演奏と云うのはどの曲にも感じられる。しかしこの「英雄」はそれを踏まえて大きく飛び立とうとしている、新しい交響曲の技を身につけたベートーヴェンの気概と高揚感が大きな感動を生む。

  次いで「八番」が素晴らしい。これも楷書のようできちんきちんと音を刻むが、その音の一音一音が軽快なようでいて、大地を踏みしめる重さを感じるあゆみで、この曲の新境地を切り開いた印象を受けた。
  「四番」も素晴らしい。これはゆったりしたテンポの中で音楽が進むのは他と共通しているが、八番と同様、一音一角を揺るがすことなく音楽が進むので、ギリシャ乙女と云う印象は薄いが、アポロン的な清冽さを感じる。それはシューベルトの五番で感じた世界に通じるが、しかし、これはベートーヴェンである。この清冽さの根底には、どっしりした根っこのようなものが絶えずうなっていて、やさしさと凄味が同居している音楽であることも知らせている。

  「七番」はちょっと奇妙な演奏だった。1~2楽章はまるでフルトヴェングラーを思わす壮大さだが3~4楽章はまたブロムシュテット流、楷書に戻ってしまう。しかしこの楷書に戻って、実は私はほっとしたのを忘れない。むしろ後半の方が、ずっと音楽が締まっていて聴きごたえがあった。
  初期の一番や二番は少々期待外れ。ここにはきちんとした音楽の運びは感じられるが、若きベートーヴェンのやったるぞと云う気迫とか、例えば二番の4楽章で聴けるような高笑いのような、高揚感は聴けない。

  「運命」も七番と同じで楽章ごとの演奏スタイルが変わっているような気がして落ち着かない。特に4楽章になってなんで急に走り出すのかわからない。これを聴いているとブロムシュテットはあまりベートーヴェンが好きではないのかと勘繰りたくなる。

  「田園」は期待外れ。録音のせいか弦や木管があまり美しく聴こえない。5楽章の高揚感も乏しくここは淡々と音楽が進む印象。「合唱」は正直言ってよくわからなかった。前半の2楽章は現代の演奏とは違って、懐かしかった。これは堂々たる名演と思うが、3楽章はこじんまりして、音楽が蕾のまま終わってしまった感じ。4楽章は録音のせいもあるかもしれない。独唱の4人が離れすぎているのと、合唱が引っ込み過ぎているのとでバランスが悪い。ブロムシュテットもここでは興が乗ったかテンポを動かしているが、私にはいこごちが悪かった。
  まだ1回しか聴いていないのでもう一度聴いたらまた違うかもしれない。

  ベートーヴェンは私の音楽史にとって重要で、CDの数も群を抜いている。交響曲全集だけで何セットあるのかは定かではない。しかしこれだけは絶対最後まで取っておこうという全集は4つである。

1.カラヤン/ベルリンフィル(1961-2)
  カラヤンはステレオでは3種類録音している。そのなかでこれは最初のもの。最充実期の70       年代の録音といつも迷う。どちらも私のベートーヴェン史の原点である。

2.ノリントン/ロンドンクラシカルプレイヤーズ(1980年代)
  古楽団体によるベートーヴェンの初体験。ここで聴く「二番」は初めて聴いたときにはのけぞってしまうほどショックだった。

3.ジンマン/チューリヒトーンハレ(1990年代)
  ベーレンライター版のモダンオーケストラによる初の全曲演奏。まあこのあと同工異曲のものがぞろぞろ出てくるが、先鞭をつけたジンマンの偉大さを忘れてはいけない。たしか1枚1000円のCDだった。その完成版が2000年にウイーンフィルと録音したラトル盤

4.シャイー/ライプチッヒ
  これが私のベートーヴェンのゴールである。今もってこれを超える演奏はない。

  ブロムシュテットを聴いて、しばらく聞いていなかったベートーヴェンをまた聴きなおそうという気になった。2か月くらいかかるかな(笑い)
  今日はこれから「ドン・パスクワーレ」を聴きに行きまーす。

                                     〆

  

  

カラヤンのオペラの作品は数々あってどれも捨てがたいものがある。

  まず独墺系の作品から。ワーグナーはカラヤンのレパートリーでは最も重要なものといえよう。ここでは2つの作品を挙げたい。
  「ニーベルンクの指輪」はゲオルグ・ショルティが世界に先駆けてステレオ録音をしたのだが、おそらくカラヤンは非常に悔しがったのではなかろうか?グラモフォンにはジョン・カルショーとゴードン・パリーがいなかったからといわざるを得ない。しかしそのおかげでカラヤンのリングは実にオリジナリティのある仕上がりになっているのだから不思議なものだ。

  カラヤンはザルツブルグ復活祭の音楽祭で毎年リングの1作品を上演、そしてその都度レコーディングをするというシステムを作った。最初が1966年の「ワルキューレ」で、最後が1969年の「神々の黄昏」である。一言でいうとショルティのリングは伝統的なバイロイト様式のリングであったが、カラヤンはその反対の事をしているのである。例えば「神々の黄昏」の第2幕の冒頭のアルベリヒ(ゾルタン・ケレメン)とハーゲン(カール・リーダーブッシュ)の対話からして、ショルティ盤とはまるで違う。ショルティ盤はバイロイトではおなじみグスタフ・ナイトリンガーがアルベリヒ、ゴットロープ・フリックがハーゲンを演じていて、悪役同士の凄味のあるやりとりがじつにスリリングだが、カラヤン盤ではまずリリックなリーダーブッシュをハーゲンに据えたところから、明らかに、アンチショルティ盤ということがわかる。ケレメンとの対話は歌詞を見ながら聴いていると、まるで歌曲を歌っているかのように聴こえる。万事がそうなのである。
  現在はリングの全曲盤は数々あるが、私はショルティ盤、ベーム盤、カラヤン盤の3つがあればもう十分だ。それにあえて加えるとすればカイルベルト盤だろう。それほど最初の3つは歌手もオーケストラも傑出している。
リング全曲
(ニーベルンクの指輪全曲盤、ベルリンフィルハーモニー、イエスキリスト教会にて録音)

  ワーグナーからもう1曲「パルジファル」をあげたい。これもカラヤンはクナッパーツブッシュと正反対のことをしている。音楽は澄明かつ透明であり、いささかも威圧的なところはない。歌手もそういう人たちをそろえていて、バイロイトの公演とは一線を画している。「ニュルンベルクのマイスタージンガー」も名演だがこの頃この音楽がとても長く感じるようになってしまい、よほど気合を入れないと聞きとおせないのではずしてしまった。
パルジファル
(1979年、ベルリンフィル、フィルハーモニーにて録音)

  モーツァルトは今は「ドンジョバンニ」がお気に入りだ。 SACD化されて音質がさらに良くなり舞台を彷彿とさせる。歌手はジュリーニ盤などに比べると小粒で物足りないところもあるが、カラヤンのゆったりとした進め方が気に入っている。クルレンティス盤の後にカラヤンを聴き、カラヤン盤の後にクルレンティスを聴いている。
ドンジョバンニ
(1985年、ベルリンフィル、フィルハーモニーにて録音)

  ドイツ物で最後はリヒャルト・シュトラウス。「サロメ」か「ばらの騎士」か迷ったが、結局「ばらの騎士」にした。
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(1956年、フィルハーモニア管弦楽団、キングスウエイホール)

 この録音は1954年のザルツブルグ公演のキャストを若干変えて録音したもの。ザルツブルグではウイーンフィルだった。歌手ではオクタヴィアンがセーナ・ユリナッチからクリスタ・ルートビッヒに代わっている。なおザルツブルグの公演はブルーレイディスクで発売されてみることができる。素晴らしく美しくリマスターされている。
 このCDではやはりエリザベート・シュワルツコップの元帥夫人の圧倒的な歌唱にひれ伏すしかあるまい。オットー・エーデルマンの悪役だかおどけ者だか分らぬ狸おやじぶりも秀逸。DVDとCD(SACD化されている)と両方を楽しむべきだろう。

 1982年にウイーンフィルと再録音しているが、アンナ・トモワ・シントウとアグネス・バルツァでは旧盤には太刀打ちできまい。
ばらの騎士
(1982年録音盤)

  さて、イタリアオペラ他に移ろう。カラヤンは多くのイタリアオペラを録音しているが、今日でも燦然と輝いているレコードのほとんどがジョン・カルショーが手掛けたデッカ盤である。

  まず第一にヴェルディの「オテロ」。言わずと知れたマリオ・デル・モナコがオテロを、テバルディがデズデモーナを歌っている。プロッティのイヤーゴもゴッビのの様に癖がないのがよく、歌い手に穴がない。おそらくもこれ以上のオテロ録音は出てこないだろう。SACD化されてさらに音質が良くなった。
  カルロス・クライバーがスカラ座と来日した公演がおそらく唯一太刀打ちできる演奏だが、クライバーはきちんとした録音をしないで亡くなってしまった。
オテロ
(1961年、ウイーンフィル、ゾフィエンザールにて録音)

  ついで同じくデッカからヴェルディの「アイーダ」、テバルディとシミオナートとの対決が素晴らしい。ベルゴンツィのラダメスも正統派テノールの良さを聴かせる。
  カラヤンはオテロもアイーダも再録音しているが、旧盤には及ばない。

アイーダ
(1959年、ウイーンフィル、ゾフィエンザールにて録音)


  続いてプッチーニ「トスカ」、レオンタイン・プライスのトスカ、ジュゼッペ・ディ・ステファノのカヴァラドッシ、ジュゼッペ・タッディのスカルピアという強力歌手陣とカラヤンとのケミストリーは素晴らしい演奏を生んだ。トスカはマリア・カラスというのが定番だが、私はあのカラスの金切り声が嫌いでほとんど聴かない。「ノルマ」もスリオティスがノルマを歌っている盤を第一に押しているくらいだ。カラヤンはトスカを1979年に再録音しているが1962年盤の方が断然優れている。
トスカ
(1962年、ウイーンフィル、ゾフィエンザール)


  カルショーのプロダクションの最後はイタリアオペラではなくフランスのビゼーの「カルメン」だ。
  レオンタイン・プライスのカルメンとフランコ・コレルリのドン・ホセという強力な組み合わせ、フレーニのミカエラも素晴らしい。カラヤン指揮のウイーンフィルのバックアップも強力で、後年(1982年、アグネス・バルツァで再録音しているが成功していないと思う)の再録音も残念ながら旧盤にはかなわない。今までカラヤンの再録音はほとんど旧盤を凌駕できないとしているが、聴き比べていただきたい。一聴瞭然であろう。なおこのカルメンもSACD化されており素晴らしく音質が改善されている。
カルメン
(1963年、ウイーンフィル、ゾフィエンザール録音)

  ここからプッチーニが続くが、カルショーのプロダクションではない。以下の2曲はいずれもパヴァロッティとフレーニの組み合わせであり、この組み合わせに太刀打ちできる演奏は当分出てこないだろう。
  「ボエーム」と「蝶々夫人」である。ボエームはベルリンフィルでイエスキリスト教会での録音。蝶々夫人はウイーンフィルとの録音である。
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(ボエーム、1972年)

蝶々夫人
(蝶々夫人、1974年)

  さて、またヴェルディに戻って「ドン・カルロ」。この演奏については2021年の5月のブログでも書いているので詳しくは述べないが、4幕版と云うのが少々残念。いまでも超一級品の演奏である。
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  最後はムソルグスキーの「ボリス・ゴドノフ」である。今では貴重なリムスキー・コルサコフ版である。第1稿の暗い、ロシアの大地を感じさせる音楽とは真逆な版であり、それゆえカラヤンの豪壮華麗な音楽つくりがフィットする。
ボリスゴドノフ
(1970年、ウイーンフィル)

以上ざっとカラヤンの演奏鑑賞史を書いてみた、読み返してみると。私自身、懐古趣味老人と云うのが歴然であるが、古い録音が新しい技術で音質がどんどん良くなるなか、みょうちくりんの演出のオペラや「がさごそ」うるさい隣席の御仁を気にせず、自室で、もうだいぶ枯れてきた装置で静かに音楽を聴くほうがだんだん居心地がよくなってしまった。
  といいつつ今年久しぶりに来日するパレルモ・マッシモ歌劇場の来日公演のチケットやもう聴くのはやめたと思っていた「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の春祭のチケットを買ってしまうこの矛盾。どこかで断ち切ろうとは思うのだが!
  1974年にカラヤンが演奏したあのブルックナーの交響曲第八番の時のような、感動と感激と興奮を感じさせる演奏にまたいつか会えるのではと云う期待でついコンサートに足を運んでしまうのだ。
                                       〆
                                      



  

さて、カラヤンについて、「その2」は各論である。ここでは交響曲、管弦楽曲で私の鑑賞史において重要な演奏を見てゆきたい。

  カラヤンの演奏で最初に夢中になったのは「ミサソレムニス」である。
ミサソレムニス
(1966年、ベルリンフィル、イエスキリスト教会にて録音)

この演奏は本当によく聴いた。一時は毎日と云って良いくらいだった。宗教曲だったが、高校生の自分にはそういう宗教心よりも「グロリア」や「クレド」での凄まじい迫力にただただ圧倒されてしまったのだった。1974年に再録音されているが私は66年盤のほうが好きである。

  ベートーヴェンで最も重要なのは交響曲だろう。カラヤンはベルリンフィルで3回録音している。
ベートーヴェン全曲
(1961年~62年、ベルリンフィル、イエスキリスト教会)
  初めてベートーヴェンの全曲に触れたレコードだけに印象が深い。なかでも交響曲第七番は昨今のベーレンライター版では不満の残る両端楽章を颯爽と駆け抜ける素晴らしい名演だ。この後70年代と80年代にも録音しなおすが、私は60年代と70年代と比べてどちらを聴くかいつも迷う。いずれもSACD化されていて音質は改善されている。特に奥行きがよく出ていて、イエスキリスト教会での録音の優秀さを示した60年代の録音の改善は大きい。

  カラヤンはグラモフォン以外にデッカ/ウイーンフィルと契約していてオペラ以外にいくつもの名盤を残している。(1959年~)デッカでは9枚組でその当時の録音を集めて発売した(今は廃盤のようだ)デッカ、ウイーンフィル

  中でも素晴らしいのは59年録音のベートーヴェン交響曲第七番、61年録音のドヴォルザーク、交響曲第八番(これは後に切り出されてブラームスの三番とのカップリングでSACD化)、61年録音のホルストの「惑星}など。いずれも後年再録音しているが、それと比べてもこれらの演奏は傑出している。特にドヴォルザークは郷愁を感じさせながら、素晴らしい前進姿勢の音楽を示しており、圧倒的な感銘を受ける。なおこれらはすべてウイーンゾフィエンザールでの録音、プロデューサーはあのリングのジョン・カルショーである。勿論録音技師はゴードン・パリーだ。

  さて、真打はブルックナーである。1975~79年にかけて全曲録音されているが、そのうち四番から九番まではSACD化されていて、録音はその効果が出てはるかに優れている。CDでは狭い空間に押し込められているような音で窮屈だが、SACD化されて、解き放たれている。素晴らしい空間。それも体育館の様にだだっぴろくはなく、ホールの響きを感じさせるもの。
ブルックナー75
(1975年~、ベルリンフィル、フィルハーモニーでの録音)
  演奏はどれも素晴らしいがやはりライブを聴いた八番が素晴らしい。このCDでも4楽章の圧倒的な感銘は失われていない。これ以上の演奏はまずないが、あえていえばクナッパーツブッシュかヴァントかといったところ。
  ついで七番が素晴らしい。七番はカラヤン最後の録音をウイーンフィルと89年に行っているが、それと甲乙つけがたい。89年盤は胸がいっぱいになりすぎて、滅多に聴かない。通常は75年盤を聴くことが多い。ハース版を使っていも2楽章でティンパニやシンバルが盛大になるのはカラヤンらしいといえばらしいが、ここだけがいささかうるさいのが難点。ヴァントの虚飾を排した2楽章にはかなわない。しかしそのほかの楽章の雄大さは、この美しすぎる交響曲はそれだけでないということを指し示している。そのほか四番もすぐれているが、八番の領域に到達していないのは音楽のせいともいえよう。

  そのほかではチャイコフスキーの「悲愴」が得意のようで何度も録音している。私はザルツブルグでもライブを聴いていて、やはりこの曲ではまだ若い人には負けていない。クルレンティスに一時嵌まったが、最近又カラヤンに戻った。
ウイーンフィルとの最後の録音は、すすり泣くような、4楽章が鬼気迫るよう。私は1964年に録音した(ベルリンフィル)方が好きで、若々しさとたくましさを感じる悲愴である。
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  管弦楽曲はどれもすぐれているのでひとつひとつ上げないが、ここでは1曲だけドビュッシーの「海」を上げておく。
海
(1977年、ベルリンフィル)
  この演奏を聴いていると、この海はどこの海か、どうみても地中海ではない。おそらく北海ではあるまいか?暗く、うねる波を感じる。ついでにフランス物ではベルリオーズの「幻想」もミュンシュの演奏とはえらく異なっていて、独自性を発揮している。ここではフランスらしい洗練された響きはなく、荒々しい魂の叫びが聴こえる。
幻想交響曲
(1974年録音、ベルリンフィル、フィルハーモニーでの録音)


  協奏曲は1曲もないのは奇異な感じがするが、カラヤンは自分のスタイルを逸脱する演奏家とは、共演しない主義のようで、ヴァイオリンのクリスティアン・フェラス、若いムターやピアノのツィンマーマンとの共演が多い。正直聴いていてすぐ飽きてしまう演奏ばかり。わずかにリヒテルとのチャイコフスキーのピアノ協奏曲は手に汗握る競演で唯一聴く協奏曲だ。
リヒテル
(1962年録音、ウイーン交響楽団)

そのほか一時ワイセンベルクとの演奏も聴いていたが今はどこかにうずもれている。(1970年、パリ管との録音)

  交響曲で大事な曲を忘れていた。マーラーの「交響曲第九番」である。カラヤンはブルックナー指揮者と思われているかもしれないがマーラーも歌の入っていない曲中心に何曲か録音している。(大地の歌と四番は例外)
  その中で彼にしては珍しくライブ録音をOKした、「九番」はバーンスタインが同じくベルリンフィルを指揮した同曲と甲乙つけがたい。
  カラヤンのほうが音楽の進め方が冷静だが、その分研ぎ澄まされたような透明感は、オリジナリティを示している。
マーラー九番
(1982年、ベルリンフィル、ライブ録音)


  最後に宗教曲をもう1曲。ヴェルディの「死者のためのミサ曲」
メッサダレクイエム
(1972年、ベルリンフィル、イエスキリスト教会)
再録音の1984年盤でも問題いないが、歌手の好みで72年盤を聴くことが多い。冒頭のミサソレムニスほどの圧倒感はないが、名演の一つといえよう。ただ最近はアバドの演奏をよく聞くようになってきたのは年のせいか!

  さて、次ににオペラについてみてゆこう。   その3に続く


  



2022年12月31日

  今年もわずかとなった。もう聴きに行く音楽会もなく、ブログのネタもないが、最後に私の音楽鑑賞史の中で、燦然と輝く指揮者カラヤンについて、見つめなおしてみたい。

  カラヤンの指揮をした演奏を聴き始めてもう半世紀以上たったのだが、その初めのころ、1960年代からカラヤン一筋であったわけではない。その頃はほとんど交響曲か管弦楽曲、後はワーグナーしか聴かなかった。モーツァルトとベートーヴェンはベーム、フルトヴェングラー、カラヤン、ブラームスはベーム、カラヤン、ブルックナーはクナッパーツブッシュ、ドヴォルザークはケルテス、などなどすみわけをしながら聴いていたのだが、それがある時を境に、音楽鑑賞の中心がカラヤンになったのだ。

  素晴らしい演奏をするカラヤンとベルリンフィル、そしてウイーンフィル、それはずっとそう思っていろいろな曲を聴いてきたのだが、しかし体中が金縛りになるような、心打ち震えるような体験というのは、残念ながら未体験だった。レコードを介してと云うこともあろうが、決してそうでもないような気もしていた。
  それが、1974年秋を境に大きく変わったのだ。そのころ私はシカゴの近郊のエヴァンストン(シカゴのダウンタウンまで車で40分くらい)と云う所に住んでいて、オーケストラホールでシカゴシンフォニーを、リリック・オペラ・オブ・シカゴでオペラを楽しんでいた。そんななか、11月5日にオーケストラホールでカラヤンがベルリンフィルとブルックナーの八番の演奏をするという。早速チケットを求めたのは言うまでもない。座席はいつもの1階席はとれずに2階、ステージに向かって右側に張り出したバルコニー席だった。
  この演奏が私を金縛りにした。これがカラヤンなのか、初めて体感したのだ。終演後足が震え、車の運転もままならぬ有様、おかげでハンドルを切り損ねて、右側をこすりそれ以来、マイカーの右側ドアは開かなくなった。(友人から買った250ドルのシボレーマリブ、一人しか乗らないからまあいいか)
  特にこの演奏の最終楽章の巨大さは文章にはできないほどだ、音はオーケストラホールの宙を舞い、圧倒的な迫力で迫ってくる。体は総毛立つほどの大興奮状態で、後にも先にも、このような状態になったことはなかった。1楽章の提示部の凄まじい気迫、それが音に乗り移る。2楽章のティンパニの連打の威力、3楽章の静寂、そしてコーダの大宇宙。これがカラヤンなのだった。

  しかしこの体験にはその前にもう一つの布石があった。
  その年の夏休み、欧州旅行を計画した。何とかバイロイトへと、旅行社にねじ込んだが絶対無理ですと云われ、代わりに提示されたのがザルツブルグ夏の音楽祭と、それに引き続いてのスイスのルツェルン音楽祭だった。
  夏のザルツブルグでカラヤンの指揮、ベルリンフィルでチャイコフスキーの「悲愴」(8月28日)、モーツァルトの「魔笛」ウイーンフィル(8月29日)、そしてポネルの演出の「フィガロの結婚」、ウイーンフィル(8月24日)、さらにはルツェルン音楽祭ではブルックナーの交響曲第四番を聴いたのだった。
  これらはいずれも素晴らしい体験だった。とくにルツェルン音楽祭でのブルックナーは後にシカゴで聴く八番を予見させるような見事な演奏で、圧倒されたのを覚えている。オペラにシンフォニーこの年の後半の音楽体験は、カラヤンの真価は今までレコードで聴いてきたものでは十分に感じられないということを体感したのであった。その時に思ったのは、もう一度カラヤンの演奏を聴きなおそうということだった。それは日本へ帰国してから(1975年)の目標だった。

  カラヤンにからめていうと、もうひとつ覚醒した事件があった。私はオペラと云えばワーグナーでそれも「リング」一筋、ショルティのデッカのレコードの信奉者だった。ワーグナーはそのほかでは「さまよえるオランダ人」、「タンホイザー」、それと「パルジファル」くらいしか聴かなかった。
  イタリアオペラやモーツァルトはほとんど眼中になかったのだ。わずかにヴェルディの「オテロ」、イタリアオペラではないがビゼーの「カルメン」程度でプッチーニなどは避けて通ったほどだった。
  しかし1972年に何回目かの「イタリア歌劇団」が来日して、プッチーニの「トゥーランドット」を聴きに行って、圧倒的な感銘を受けたのだった。はじめてイタリアオペラと云うのはスゴイと思い始めたのだった。その時これはFMで聴いたのだがベッリーニの「ノルマ」のスリオティス(当日は体調が悪かったそうだがそれでもあの歌唱だった)を聴いて、ますますこれはイタリアオペラをもっと聴かねばと思うようになっていったのだった。

  そして、それを布石に1974年のザルツブルグでのモーツァルト体験(この時カラヤン以外の指揮で、「コジ・ファン・トゥッテ」と「後宮からの逃走」も聴いた。)
  さらには1974年の暮れにはニューヨークに行きメトロポリタンオペラで「蝶々夫人」、「トゥーランドット」、「カヴァレリア・ルスティカーナ」そして「ボリスゴドノフ」を聴いた。ここではカラフとトリッドゥはフランコ・コレルリだった。
  またまた更にはリリックオペラオブシカゴでは「ジークフリート」、「神々の黄昏」をフェルディナント・ライトナーの指揮で聴いたりして、ライブでオペラを見る/聴く体験を増やして、帰国したころにはすっかりオペラ男になったのであった。
  アメリカ滞在中及び帰国してから、イタリアオペラを中心にディスクを買いあさって、ひたすら聞きまくったのだった。その時に多くのレパートリーのなかでカラヤンが燦然と輝いていたのであった。

  要するに1974年を境に、オーケストラとオペラの中心はひとりでにカラヤンになっていったのであった。

  以下ではオーケストラとオペラの両面で私の鑑賞史で印象に残った名盤について触れてゆきたい。

                                その2に続く

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ボストン交響楽団が来日した。3種類の名曲ぞろいのプログラムで6公演を行った。それぞれマーラーの六番、内田光子の皇帝とショスタコーヴィチの五番、そしてモーツァルトの40番とアルプス交響曲、の3つだ、お値段がお高いので三つ行くわけにゆかない。ので随分迷った。ただマーラーの六番は今年マケラ/読響で聴いているので2回も聴くことは無かろう、そしてもし内田がモーツァルトを弾くならそっちにしたのだが、ベートーヴェンではちょっとと思い、結局アルプス交響曲でボストンのサウンドのシャワーを浴びようと思い、本日15日(彼らのツアーの最終日)の公演を選んだ。

  当日のプログラムは以下の通り
  ショウ:「Punctum」(オーケストラ版)、日本初演
  モーツァルト:交響曲第40番

  R.シュトラウス:アルプス交響曲

  ひさしぶりのボストンサウンドを聴いて、大変感動したし勉強になった。ポイントは2つ。
ボストンは超一流の楽団であることを改めて感じたこと。そして、ネルソンズの指揮者としての力量をこれも改めて強く認識した。

  アメリカのオーケストラは5大メジャーが代表のように扱われている。ニューヨーク、シカゴ、ボストン、クリーブランド、フィラデルフィアである。いずれも来日公演を聴いているが、それだけの印象でいえば、ニューヨークは音が大きいだけの大味のオーケストラだった、シカゴはムーティになって、音がきらびやかになりすぎてはいないかと云うことで、私のリストから外れている。
  クリーブランドは日本でベートーヴェン全曲をウェザーメストと演奏して、そのサウンドはセルの時代をしのばすようでとても印象に残ったし、フィラデルフィアはかなり前だが「火の鳥」を聴いたときにその極彩色の(きらびやかとは違う)サウンドに度肝を抜かれた。しかし何と言っても最も印象が強いのはボストンである。

  かつて、ネルソンズと来日したとき聴いた、ラフマニノフの二番の交響曲の素晴らしさ。私にとっては5大メジャーの最高峰に君臨するのは、ボストンと云いたい。ボストンのオーケストラホールはまだ聴いた事がないが、とても素晴らしい音響らしい。ウイーン楽友協会の大ホールと同じくシューボックス型だという。

  ボストンの音響の秘密は残響時間にあるらしく、ボストンは1.8秒である。例えばシカゴのオーケストラホールはコンサート専用ホールとしては異例の1.3秒である。私は2年ほどシカゴのオーケストラjホールに通ったが、印象としてはデッドであり、細部までよく聴きとれるが、響きが薄いのが難点のように感じた。

  そのせいか、かつてのシカゴの録音はメディナテンプルで行われることが多かった。ボストンの豊かなサウンドとシカゴの少しきらびやかなサウンドの違いはホールによるところが大きいのではないかと思っている。

  最近ではこのような5大メジャーを脅かす存在が各地に出てきて、私はレコーディングでしか知らないが、それぞれ素晴らしい演奏を残している。例えばティルソン・トーマスが率いるサンフランシスコ交響楽団(マーラーのいくつかの交響曲が素晴らしい)、マンフレード・ホーネック率いるピッツバーグ交響楽団(マーラーの一番、三番が素晴らしい)、そしてオスモ・ヴァンスカ率いるミネソタ交響楽団のシベリウスやベートーヴェンなどいずれも、聴きごたえがあるものである。

  しかし、アメリカで一つと云われれば、迷わずボストンと云うことになるだろう。私は古いシャルル・ミュンシュのCDを時たま聴くが、そこでのボストンの金管のサウンドが忘れられない。もうそのころからの、伝統的のサウンドなのだろう。小澤征爾の時代のCDではマーラーの二番が私のベスト盤である。ここでも金管がとても印象的だった。だからボストンと云うとあのかつての名手が率いたときの金管が聴きものだと思っていた。

  さて、今回聴いて改めてボストンの金管の威力は、特にアルプス交響曲ですこぶる付きの素晴らしさでききごたえがあったが、しかし今回は金管以上に弦楽器の素晴らしさがとても印象的だった。弦5部は別々のパートであるが、それが勿論独立して素晴らしい音を出すのは当然として(いや当然ではないかもしれないが、とにかく各パートが一つの集合体として完ぺきに存在しているのだ)、ここではネルソンズの繰り出す棒に対応して、ある時は全体(五部)が交じり合い、ある時は、特定のパートと交じり合い、ある時は独立して動き、それはまるで各パートが生き物のように聴こえてくるのだ。

  最も印象に残ったのは、モーツァルトの40番の2楽章だ。これはネルソンズが実に細かく、各パートに指示を出す、各パートはあるときは重層的に、ある時は独立して、しかもそれは、ネルソンズが指示をしているのだが、そのことは聴こえてくる音楽には関係なく、まったく自発的な音楽として聴こえてくるのである。こういうモーツァルトは初めてだった。

  ここから少し今夜のネルソンズについて書こう。段々熊みたいに大きくなってしまった体を自由自在に動かしてオーケストラをドライブしてゆく。最初のモーツァルトはこのもう手あかにまみれたような超名曲に、新たな息吹を感じさせる演奏だった。この曲は美しい、しかしそれだけではないということは多くの人が語っている。しかし私がそのことを生の演奏で感じたのは、今夜が初めてだ。つまりここではモーツァルトは人間モーツァルトとしてこの音楽を響かしている。この40番は、かつて交響曲31番(パリ)のように、ここでこうやったら拍手喝采だったと手紙に書いたようなことは微塵もない音楽だということをネルソンズは示している。

  それは、ベートーヴェン世界の交響曲へ一歩踏み出しているかのようだが、さらにすすんで、ロマン派の音楽の領域まで、踏み入れているかのようだ。ベートーヴェンが「英雄」で初めて交響曲を、音の美しさや面白さで聴衆を楽しませるのではなく、自分の苦悩を描いて、勝利にたどり着くという、人間ドラマとしての音楽として描いた。
  モーツァルトもまさにこの40番で同じことをやっているのではあるまいかと云うことを、ネルソンズは教えている。1楽章はあまりそういうことを感じさせずに耽美的に通り過ぎる(ここはベームが素晴らしい)が2楽章以降、作曲家の心の襞をを抉り出す。たとえば先ほど述べた2楽章の融通無碍な弦楽部のコンビネーションは、ギャラントな音楽を演奏しているように聴こえるが、しかしそこにはモーツァルトの心の苦悩がにじみ出ているし、3楽章のトリオの悲痛さはどうだろうか、あたかも苦難に立ち向かうさまを描くように、屹立している。そして4楽章は疾走するモーツァルト。ここでの切羽詰まったような音楽の動きは、もうモーツァルトの叫びとしか感じられない。
  この名曲の手あかを落としネルソンズが再創造した世界は、私にとっては未知の世界であり、大いに感動した。演奏時間は32分。反復はしている。

  後半は「アルプス交響曲である」、これはまた気宇壮大な演奏である。果たしてシュトラウスはここまで考えてこの曲を書いたか?と思うくらい。
  この音楽のクライマックスはなんと言っても「頂上にて」と「景観」だろう。まあこれを一緒にしてみてもいいだろう。ネルソンズの「頂上」の描き方のきめの細かさには、人間業とは思えないくらい、微に入り細を穿つが如く、指示を出しまくる。印象に残るのは頂上のパノラマを描いた部分もさることながら、その前の静かなオーボエの響きだろう。これほど超スローに演奏されたのは聴いた事がないが、奏者の優秀さもあって、実に聴きごたえがある演奏になっている。音が美しいだけでなく、神秘さに呑み込まれそうになるような音楽だ。

  「雷雨と嵐」の場面は音のシャワーだ、たっぷり浴びて、聴きごたえがあるのは言うまでもないが、素晴らしいのはその後の「夜」までの音楽の緻密さだろう。これもいささか冗長と思えるくらい緩やかだが、音楽が詰まっていることがわかるので、冗長とは全く感じないのだ。
  戻るが、冒頭の「夜」から「日の出」までの音の変化も実にスケールが大きく、思わず身震いするほど見事なサウンドだ。しかしそこから頂上までの道のりは、いささか長かった。ここだけが不満と云えば不満。しかしネルソンズは場面場面を緻密に描かずにはいられないのだろう。

  「登り道」や「山の牧場」ではバンダが入るが、前者では2階席ステージに向かって左手のバックステージからホルン中心、後者は舞台左手のバックステージからカウベルが聞こえてくるが、いずれもドアを閉めているため、明瞭に聴こえないのはどういうことだろうか?それと座席のせいか、私の耳のせいか、オルガンがオーケストラに埋没してしまっていたのが残念。
  演奏時間57分は超弩級。カラヤンの1980年盤とティーレマンの2000年盤はいずれも51分、ショルティの1979年盤は44分だから、ネルソンズの、音楽の穿ち方の凄まじさがわかるだろう。

  ホルンの首席奏者が今夜で引退らしく、ネルソンズが近くによって謝意を述べていたのが印象的。アンコールもなく終演。まあこのような「アルプス交響曲」を演奏したら、団員はへとへとだろう。

  最初の曲はショウという若い作曲家の作品。弦楽器が運動すると音が出るという、練習曲のような曲で、素晴らしいプログラムの最初に入れる理由がわからない。

  なお、アメリカのオーケストラの常だが、開演時間前には団員はコンサートマスターも含めてすべて着席して練習していた。休憩時間も一緒だ。だから舞台のうるさいこと。誰も聞いていない、サントリーホールのアナウンスも全く聞こえなかった。
  日本もまねしたらよいと思う。まあ日本はヨーロッパ至上主義だから無理か?
                                       〆

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