ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ: オーケストラ(海外)

2020年11月12日
於:サントリーホール(1階18列中央ブロック)

ウィーン・フィルハーモニー・ウイーク・イン・ジャパン2020
指揮:ワレリー・ゲルギエフ

ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
      :交響詩「海」

ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」全曲(1910年版)


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ウイーンフィルが来日するという話はかなり前から聞いていた。しかし欧州は依然コロナの感染者が増えており、今ではロックダウンしている国もあるのだ。ただザルツブルグは縮小版ながら夏の音楽祭を執り行ったらしいので、もしかしたらと云う思いはないこともなかった。しかし発売されたとき、キャンセルの手続きがめんどくさいので特に手を出さなかった。余談ながら今年の前半はキャンセルの続出で、国内の定期公演やら、オペラやら、外来のオーケストラやら、一時は毎日郵便局へやれ特定郵便だとか、何とか証書だとか出しに行っていた。だから今回もてっきりそうなると思っていたのだった。

 しかし、友人が間違いなく来るといわれるし、北九州の公演が行われたニュースを見たときは、軽い後悔を覚えたのは事実。その様なときに11月12日に追加公演がありチケットが売りに出されるという朗報が入ったのだ。早速予約をして今夜聴きに行った次第。東京はコロナの新規感染者が300人以上に上りびくびくものだった。会場もそうだが往復の交通機関の不安も絶えない。

 さて、余談が長くなってしまった。今回のこの公演ウイーンフィルの実力を再認識する公演に私にはなったといえよう。実は昨年ティーレマンが来日してウイーンフィルとブルックナーを演奏した時、さすがのウイーンフィルもインターナショナル化したのかと云う感想をブログに書いた。レコードでもCDでも聴けばすぐわかるあのウイーンフィルサウンドがあの時は私にはあまり感じられなかったからだ。もしかしたらそれはティーレマンの演奏が大きく変貌を遂げた驚きで、ウイーンフィルまで気が回らなかったかもしれないが、それはそれとしても自分にとってはちょっとショックで、ウイーンフィルはもう聴かなくていいかなと思うようになったのである。

 それなのに今回聴きに行ったのはなぜか?それは12日のプログラムが独墺系の音楽ではなく、フランスおよびロシアの作曲家の曲だったからである。ロシアでもチャイコフスキーではなくストラヴィンスキーであり、生粋のロシア音楽とは言えない音楽だったからである。

 タワーレコードのカタログで調べて見てもドビュッシーは単独でのウイーンフィルのレコードは見つからなかった。ストラヴィンスキーの「火の鳥」はゲルギエフが録音しているが数少ない。要するにレコーディングだけ見るとウイーンフィルは今夜のプログラムはあまり演奏していない(その他の独墺系の音楽に比べると相対的に見て)のではないかと思うのである。したがってここでの演奏と云うのは興味深いものが聴けるであろうと云うのが私の推理であり、それがコロナのなか敢えて聴きに行った理由である。

 聴いた印象はどうか?これは実に面白いというか印象的な演奏だった。ウイーンフィルの音色の魅力は管楽器もあるが、最大の魅力は弦楽器にあるだろうと思う。今夜牧神が始まってが弦が参加した時に、ああこれはいつも我が家で聴いているCDの音だと思ったのだ。つまりウイーンフィルの最大の特徴の弦の魅力は、昨年感じたように、消えたのではなく、しっかりと、今夜聴かせてくれたのである。乱暴な言い方をすれば、ドビュッシーもストラヴィンスキーもウイーンフィルの魅力的な音色に染められた演奏に聴こえる。これは今までに聴いた事のない演奏といえよう。

 牧神の冒頭のフルートが支配する部分はゆっくりとして、繊細を極める。ゲルギエフもねっとりと指揮しているように見えるが、出てくる音は至極さわやかである。そしてしばらく進むとクラリネットが支配する部分が現れ、そこから大きくオーケストラうねりクライマックスを迎える。しかしここでのクライマックスは身悶えするような官能的な音楽ではなく、むしろいささか抑制的に聴こえる。そこがミュンシュやカラヤンと比べると物足りないところだが、しかしそれがゲルギエフ/ウイーン流の牧神なのだろう。私はこういう牧神も大いにたたえたい。実に聴きごたえのある牧神だった。

 「海」も同様である。オーケストラはトッティになっても、けっして野放図に音を大きくがなり立てない。例えば1曲目の後半とか、2曲目の中間のイメージでいうと波が走ってゆくような部分、そして3曲目のクライマックス。そのすべてが性急にならず、巨大な音響にはならない。抑制的と云ったら誤りかもしれない。節度あると云うのも変かもしれない。言い方はふさわしくないかもしれないが、これは実に気品のある「海」だ。アンセルメの演奏もそういうところがあるが、アンセルメのは気品と云うより、音楽が小粋で洒落ているのだ。ゲルギエフ/ウイーンはそういうのとは違うように思う。要するにこのコンビしかできない唯一無二の演奏といえよう。ウイーンフィルに染められた「海」大いに堪能した。

 ストラヴィンスキーの「火の鳥」全曲は、私にとってはシャルル・デュトワがフィラデルフィアと来日した時の演奏が、唯一無二の演奏だと思っていた。しかしCDでゲルギエフ/マリンスキーの録音を聴いたときに、ああ、これライブで聴きたいなと思った。そして今夜オーケストラは違うが聴くことができた。CDより幾分速いテンポで音楽が進むのでゲルギエフもせっかちになったのかと思うが、まあそれほど違和感がない。ゲルギエフの「火の鳥」はデュトワのような極彩色の絵巻物にはしていない、むしろ彼の指揮する各場面場面はメリハリを聴かせて、つまり緩急や強弱を変化させて、少し厚塗りの油絵のように感じさせる。これはもしかしたら独墺系のオーケストラとアメリカのオーケストラとの差かもしれない。同じ色彩感でも触感がずいぶん違うのである。
 曲の前半の静かな部分は、ウイーンフィルの木管と弦の滑らかな響きで繊細感の極限まで聴かせる。
そして、10曲目の王女たちの踊りあたりから、音楽は大きくうねり始める。イワン王子のカスチェイ城への突入からカスチェイ一味の不気味な踊りまで一気に音楽は駆け上がり、そして子守歌で一呼吸して、終結のクライマックスを迎える。後半のオーケストラ機敏な動きは流石である。ここでも一言言っておく、オーケストラはいささかもがなり立てないのである。それはどんなに金管が大声出しても、弦の音はかき消されないからそうなるのだと思う。ここが彼我のオーケストラの違いだろう。日本の場合まず間違いなく弦は埋没してしまう。だから音楽がやかましくなる。この曲もウイーンフィルに染められ、おそらくどこへ行っても聴けない名演となった。
 この組み合わせによるドビュッシーとストラヴィンスキーはおそらく私の人生でもう聴くことはないだろうが、深く耳に刻み込まれたといえよう。
  
 アンコールは十八番のウインナワルツ「皇帝円舞曲」、ここではウイーンフィルの地がでて実に聴きごたえがあった。

 なおそれぞれの曲の演奏時間は以下の通り
 牧神の午後への前奏曲(11分強)
 海(25分強)
 火の鳥(46分強)なおゲルギエフ・マリンスキーのCDは約50分である。

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 これからは余談。
 ドビュッシーの「海」を初めて聴いたのはアンセルメのレコードだ。大体ドビュッシーなど知らなかったし、フランス音楽が「幻想」くらいしか聴かなかったのだから、ドビュッシーもラヴェルも教えてもらったのはアンセルメだ。そうだ、サンサーンスのオルガン交響曲もアンセルメが初めてだった。

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アンセルメの「海」は1956年。もうステレオの最初期の録音である。私にとっては今もって現役のCDである。いまでも「海」を聴くときはどれにするか迷ってしまう。

 衝撃を受けたのはミュンシュ/ボストンのCDだ。これほど激しい「海}というのは聴いた事がない。まるで北斎の絵の大波のよう。ここでの海は地中海でなく大西洋なのだろう。
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このCDは1957年の録音である。これも今聴いても少し音が近いが全く不満がない。ライブのへなちょこ録音に比べると実に音がたくましい。

 しかしアンセルメの後最も衝撃を受けたのはカラヤンである。カラヤンは生涯3度もこの「海」を録音している。1964年、77年、85年である。このうち77年はEMIの録音である。他の2つは当然グラモフォンだが64年はイエスキリスト教会、85年はフィルハーモニーでのセッティング録音である。録音は私は64年が一番気に入っている。おそらく演奏も気に入っているからだろう。ベルリンフィルによるドビュッシーは今夜のウイーンフィルと同様、絢爛華麗にはならないところがかえって魅力になっている。ほの暗いオーケストラの響きはとても魅力的。カラヤンの3つの演奏のうち77年は少し異様である、あまりに遅く、音楽が大げさで、まるでブルックナーのように聴こえるので、今はほとんど聴かない。85年の録音も良いが、やはり私には50歳代のカラヤンのフレッシュな演奏を好む。

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1964年盤である。

今はこの3人の指揮者の「海」しか聴かない。大体64年のカラヤン盤を聴く。
コロナの不安の中「海」のフレーズをくちずさみながら駅に向かう。



クレンペラー
 オットー・クレンペラーに関心を持ったのは、クラシカ・ジャパンでクレンペラーのドクメンタリーを見たからだ。波乱万丈の人生とはこの人の事を云うのだろう。ユダヤ人としての差別、舞台での大事故、火災事故など幾多の苦難を乗り切って88歳までの長命を保った、強靭な生命力。それが如何に作品に反映されるのだろうか?
 この映像を見て、それについて大いなる関心を持った。クレンペラーについてはマーラーの「大地の歌」とベートーヴェンの「交響曲・ピアノ協奏曲・序曲」全曲盤の2種類のCDしかもっていない。大地の歌はよく聴くが、ベートーヴェンは購入して以来全く聴いていないという失礼なことをしている。なぜ、どこで買ったのかも覚えていない。

 私の持っている盤は交響曲は大半が1955年から59の間に録音されている。場所は一部を除いてキングスウエイホールである。EMIやDECCAがセッティング録音に多用したホールである。50年代にしてはありがたいことにステレオ録音になっており、今日聴いても全く色あせていない。広がりばかりでなく、奥行きも感じられる(ライブではない)録音である。クレンペラー自身はステレオはおもちゃだといったような発言をしたそうだが、それでもこのような作品を残してくれたことはとてもありがたい。

 過去の大指揮者はほとんど録音に関心を示さなかった。フルトヴェングラーがその最たるもの。それは彼の再生音楽の生成にかかわることだからだろう。しかしもし彼が今生きていて、、今の2つのスピーカーから形成される音場を聴いたらさぞや悔やむことだろう。俺も録音しておきゃよかったと!フルトヴェングラーの録音はただし放送録音などおびただしいものがある。それは本人が後世を考えて録音したものでは、ほとんどない。音質は劣悪でこのような狭い音場の中からオーケストラの音を聴きとることは私には不可能である。
 レコード芸術の世界はSPとLPモノラルが一群、そしてLPステレオとCDが一群で、この2つの境目にはとても深くて大きい谷がある。再生芸術としての価値は別として、レコード芸術としての完成度から云って、私にとってはフルトヴェングラーは聴く対象からははずれているといわざるを得ない

 クナパーツブッシュも録音嫌いの大指揮者だった。しかし彼はパルジファルのバイロイトライブをステレオで録音しており、その1曲で彼のレコード芸術家としての輝きは残る。しかし彼もカルショーと
ゴードン・パリーの云うことを聞いていれば世界最初の「リング」のステレオ録音の指揮者になれたのである。かれがけったおかげでショルティが恩恵を被ったのである。
 クナパーツブッシュのバイロイトのライブの「リング」はあるが、モノラルで聴くに堪えない。もし、パリーがカイルベルトでなく、クナーパーツブッシュの「リング」をバイロイトでステレオ録音してくれていたらと云う思いが残る。これはカイルベルトはどうこうではなくカイルベルト盤の演奏にはそれなりに大きな意義があると思うが、言いたいのはクナッパーツブッシュの偉大なリングの記録をステレオで聴けたかもしれないという無念さである。
 まあクナには「パルジファル」やそのほかではブルックナー交響曲八番があるので、レコード芸術面ではフルトヴェングラーに比べるとはるかに偉大である。

 ステレオ初期には指揮者によってそういう録音秘話、悲話はあまたあるが、次に続く指揮者にとってはそれが自分たちの武器になるということがよくわかっていたのだ。カラヤンやらショルティやバースタインらの巨匠たちである。
 まあこれらは、クレンペラーとは関係のない余談である。


 さて、クレンペラーに戻ろう。このCDは2000年にEMIから発売になっている。ベートーヴェンの交響曲全曲、ピアノ協奏曲全曲(ソロはバレンボイム)、序曲はコリオラン、プロメテウス、それとレオノーレの序曲が3曲が9枚のCDに納まっている。

 ここでは交響曲のみ印象を述べたい。

 全曲を聴いた第一印象はまず演奏時間が長い、というより演奏が平坦で変化が少なく長く感じると云ったらよいのかもしれない。曲の速度記号、例えばPRESTOやALLEGROがその通りに聴こえないし、遅い表記はたとえばADAJIOはそれよりずっと遅く感じるのである。
 例えば第九の1楽章はALLEGROだが2楽章のVIVACE-PRESTOとの差がほとんど感じられない。要するにテンポの緩急で音楽を表現することを最小にしているような気がする。その代わり、音の強弱についてはほぼ作曲家の指示通りであり、ここで感情表現を加えているだろう。
 もっと言えばこの演奏はクレンペラー版ベートーヴェンであるいえるかもしれない。こういう逸話がある「田園」の3楽章で村人が踊るが、クレンペラーはどたどたと踊る。軽快なダンスにならない。
演奏者が聴くとベートーヴェンの時代に、そんな軽やかな靴を農民が履く訳がないという。まあそういう解釈なのである。

 その結果かどうか、ベートーヴェンの精神的成長の成果がクレンペラーのベートーヴェン全曲ではあまり感じられない。つまり1番から九番までほぼ同じスタンスで演奏しているように感じられたならない。「英雄」でベートーヴェンが編み出した、苦悩~闘争~勝利・凱歌と云う構造はクレンペラーが強調しているとは思えないのだ、「英雄」、「運命」「七番」はそういう意味では私にはあまり面白くなかった。とても気持ちよく聴けたのは1番や4番である。これは実に堂々としていてベートーヴェンではないようだが、音楽の構造が明らかになっていて、構造物としての素晴らしさを強く感じた。2番はベートーヴェンの若き覇気が消え去っているような演奏なので、ノリントンのやんちゃな演奏になじんだ耳には物足りない。
 全体を通して最も素晴らしいのは、「合唱」だろう。1-2楽章には若干不満は残るが、しかしその巨大な歩みには圧倒されることだろう。3楽章は耽溺しないのがよく、素晴らしく透明な音楽だ。そして圧巻は4楽章であり、これは一種の宗教曲を聴いているかの如くの神々しさを強く感じる。ホッターやルートビッヒなどクレンペラーお気に入りの熱唱もあり大いに感動を受けた演奏だった。

 カラヤンがベルリンフィルとステレオでベートーヴェン全を、このクレンペラーの数年後(1961-2ころ)録音したが、ほぼ同じ時代のベートーヴェンがまるで違って聴こえると云うのは驚きである。
 今日ではベートーヴェン演奏は収れんしているようで、それはピリオド楽器による影響や、新しい楽譜の影響などを乗り越えて多くの指揮者が独自のベートーヴェンを演奏し始めたように思われるが、じつはそれほど違うわけではないのである。モダン楽器の楽団がベーレンライター版でノリントンみたいにパンパンやるような演奏をしていると誰が指揮しているのかそう違いが分からないような気がするのである。すべて同工異曲。そのなかで私はシャイー盤、ティーレマン盤、ラトル盤が現代のベートーヴェン演奏の規範になっているような気がするのだがいかがだろうか?
つまり、それほどカラヤンとクレンペラーは異次元に聴こえる。
 

ブロムシュテットブロムシュテット盤

ブロムシュテットのシューベルト交響曲全集がピュアアナログリマスターリングと称してETERNAのテープによるSACD化がされるというニュースをタワーレコードのホームページで見た時、大いに心を揺るがされた。聴いてみたいという気持ちはとても大きかった。

 ブロムシュテットのシューベルトはさかのぼると2006年キングインターナショナル発売の交響曲五番と未完成をカップリングした、CDが最初である。東西統一で東独のシャルプラッテンを原盤にしたCDがリマスターされて大量に発売された時である。
 スイートナー、ザンデルリンク、マズアなどの指揮した盤であり、その中にブロムシュテットのシューベルトがあったのだ。この一群のシャルプラッテンのCDは知り合いから相当数もらったのだが、いまではこのブロムシュテットのシューベルトだけしか残っていない。それだけ捨てがたいということだろうか?

 それまではシューベルトと云えばベーム/ベルリン(1963-71)が私には定番でもうそれ以外はいらないという、そんな塩梅だった。やや武骨ながら、がっちりした構成で、軟弱な(失礼)シューベルトを引き締めて、なおかつ、たっぷりとした優しさをたたえており、もうこれを聴いたらほかはいらない。

ベームベーム盤


 しかしこのブロムシュテットは一聴とても刺激的だった、この少々ぶっきらぼうな演奏に聴こえるシューベルトは、とても若々しく、まさに等身大のシューベルトを聴いた思いだった。飾りっ気がなく、直截な演奏はものたりないという方もおられるかもしれないが、私にはじつにこれだという思いだった。それと錦上花を添えたのは録音だった。音響で有名なルカ教会での1980年の録音で、
アナログの最後のころの録音で、完成度は高い。教会での録音と思えないような透明感がすごいし、ふんわりした弦楽器や木管がとても素晴らしい録音だった。それ以来五番と云えばすぐブロムシュテットが出てくるのだった。

 五番がこれだけよいのだから、全曲を聴いてみたいというのは当然だろう。そこでカタログをあたったが当然日本盤はもうなく輸入盤を求めた。ブリリアントクラシックと云うところから発売されている。しかしこれは聴いていささかがっかりした。少し音量を上げると、弦はきんきんして、聴くに堪えないというほどでないにしても、キングインターナショナルからの国内盤の五番に比べるとまるで違うといっても良いだろう。あのルカ教会の透明感とふんわり感を兼ね備えた音はどこへ行ったのだろう。
演奏はともかく、録音で聴く気にならずお蔵入りしてしまったのだ。そういうなかでのSACD化である。

 迷いに迷って、とうとう買ってしまった。すべて聴きなおしての印象は、演奏の良さが、改めて強く感じられた。五番のように、飾りっ気がないが、それが荒々しさではなく、若々しさをとても感じさせる。特に1-6番までのごく若いころの作品には強く感じられるのだ。なかでも2,4,5番はおそらく今まで聴いたシューベルトで最良の演奏といって良いだろう。もちろん最高峰は五番であることはいうまでもなかろう。
 そして録音が実に素晴らしい。キングインターナショナルの五番をさらに進化させた印象だ。まず奥行きがとても出てきて、ライブを聴いている印象さえ受ける。特に、木管楽器群の分離の良さは教会で録音したようには感じられない。混濁したようには決してならないのである。そして教会では緩くなる低音部は決してだぶつかないのである。「みっちのブログ」で紹介された内容の受け売りだが、ルカの残響時間はウイーンゾフィエンザールの大ホールとほぼ同じの2.1秒だそうだ。しかしそこそこ人が入った場合は低音の残響時間が長すぎないという。それが低音部のだぶつき感がないという原因だろう。

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ルカ教会/ドレスデン

一つ不満を言えば音場でいうと、高さがもう少し欲しい。金管の聞こえる位置が低いのである。
これは教会でもベルリンのイエスキリスト教会で録音したベルリンフィルの録音と違うところで、フィルハーモニーで録音する前のベルリンフィルは低音は肥大気味だが、金管の高さが実に気持ちが良いのだ。カラヤンの演奏したベルリンフィル/ベートーヴェンの七番の4楽章の終結部はその代表例である。

 まあ、それはそれとしてしばらくはシューベルトはブロムシュテット一筋になりそうである。


 シューベルトのそのほかの演奏ではスダーン/東京交響楽団の2009年前後の録音が好きである。これは実際にホールで聴いておりそれがCD化されたもので、一時は会場でしか売っていなかったもの。私は1-7番とロザムンデを愛聴している。速いテンポでピリオド楽器のように小気味よく音楽が進む、実にはつらつとした演奏だった。一時はこればかり聴いていた。

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 最近印象に残ったのはアーノンクール/ベルリンフィルの全曲盤2017(SACD)である。これはかなり楽譜の見直しをしたそうだ。聴いた印象では、見直したことにより、システィナの礼拝堂のような印象にはならず、むしろ厚塗りになったような印象さえ受けるのでいまではお蔵入りになっている。もう一度丁寧に聴いてみなくてはと思っているうちに、ブロムシュテットの演奏がSACD化され、わたしには、こちらがシスティナの礼拝堂のように感じられ、しばらくは離れられないだろう。

2020年5月4日

シベリウス

1970年後半のボストン交響楽団とコリン・デイヴィスの組み合わせの録音がリマスターされ、SACDハイブリッド盤としてタワーレコードより発売された。
 ブラックディスク時代に何枚か聴いた記憶があるが、その御失念してきた録音である。1975~80年にかけての録音ということはアナログ録音が行くつくところまで行った録音であり、今回リマスターしたものを聴くと、あの当時のアナログの芯のある音が聴ける。
 このごろライブ盤が多く、よく言えばホール音をうまく取った音場の広い録音と云えるが、中には力感がなく、いくらスピーカーの音量を上げても音に芯が見えてこないものも散見されるなか、このシベリウスの録音ははオーディオマニアにとっても決して知らん顔できないはずだ。

 交響曲全曲と管弦楽曲はトゥオネラの白鳥、悲しきワルツ、タピオラ、ポポヨラの娘、エン・サガ、フィンランディア、カレリア組曲が収録されている。

 私が音楽を聴くとき、必ず軸がある。つまりベートーヴェン、ブルックナー、ブラームスなどドイツ物はカラヤン、マーラーはバースタイン、フランス物はアンセルメかミュンシュ、バッハはリヒター、モーツァルト、シューベルトはベームなど。交響曲は大体これらの演奏が私の規範なのである。
 しかしどうもこのシベリウスと云う作曲家にはそういう規範が見つからないでつまみ食いのように聞いてきた。例えば五番はカラヤン、一番はバルビローリなど、その他フィンランドの出身の指揮者たちも良く聴いてきた。ライブで聴いたオスモ・ヴァンスカなどは忘れられない。さて、家でシベリウスを聴こうというときには迷ってまるで「迷い箸」のように、あちこちみて、結局聴かなかったなんてこともあった。

 しかし、このデイヴィス盤を全部聴いてやっとめあての演奏が見つかった思いである。バルビローリの全曲盤がそれになりかけたが、2つを比べるとこれはもう好みの世界であるが、私はデイヴィスの男性的な筆運びに惹かれる。端正な演奏家と知られるデーヴィスだがここで聴くシベリウスはそう単純ではない。それはたぶんボストン響との組み合わせの相乗ということがあったかもしれない。例えば二番の4楽章のクライマックスの輝かしい金管がスピーカーの中間に浮かび上がるとき、その圧倒感に叩きのめされてしまう。最も素晴らしいのは一番だろう。両端楽章の筆使いの力感は今まで聴いた事のないもの。五番も素晴らしい。特に1楽章は圧巻。三番の両端楽章の歌謡的部分がシベリウスらしくて、この曲を再発見した。七番の1楽章の音が膨れ上がるさまはシベリウスのオーケストラ曲の魅力たっぷりだ。
 管弦楽曲は全体に端正さが勝った印象、フィンランディアもカレリアも決して羽目は外さない。
 これに、ヴァイオリン協奏曲をおまけにつけてもらえればいうことなし。
これで、シベリウスを聴くときに「迷い箸」をしなくて済む。


2019年12月7日
於:東京文化会館(1階9列中央ブロック)
マリンスキー2019

マリンスキー歌劇場管弦楽団/ワレリー・ゲルギエフ2019来日公演
   チャイコフスキーフェスティバル

東京での最終日である

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第二番

         交響曲第五番(セルゲイ・ババヤン→代演藤田真央)

チャイコフスキーフェスティバルは彼のピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、交響曲の全曲を東京で3日間で演奏する。今夜はその最終日である。異例のことながら、今日は13時から1回目、16時から2回目の公演となる。つまりコンサートのダブルヘッダーなのである。12/5のプログラム量に感心したが、このダブルヘッダーでも感心した。水準はたもられるのだろうかという不安は、少なくとも私にはよくわからなかった。あくびしている人がいたり、ミスも散見されたりしたがそれとダブルヘッダーとの相関はわからない。そういうこともあってか、会場に着いたら開演20分前になっても会場の入り口が開かない。おそらく会場整備に時間がかかっているのだろうと拝察する。会場は12/5のサントリーに比べると1階席も満席にはならず、左右にはかなり空席が目立った。やはりダブルヘッダーの2試合目を嫌がったのだろうか?

 さて、1曲目は珍しいチャイコフスキーのピアノ協奏曲第二番。滅多に日本では聞けない。私はもちろんCDですら聴いた事がない。聴いて、この曲はなぜもう少し日本でも演奏されないのかという気持ちと、やはりこれは何度もプログラムに載せる曲ではないなあと云う気持ちが交錯した。
 この曲はおそらく技術的には相当のレベルをピアニストに要求することは間違いない。したがってピアニストはチャレンジ甲斐がある曲のはずだ。特に1楽章のカデンツァや3楽章の舞曲風の跳ね回る音楽などがそうだろう。しかし全編流れるこのなんとなく甘ったるいメロディには、最初は良くても次第に辟易してくるのは私だけだろうか?まるでムード音楽と紙一重なのだ。例えば2楽章、1楽章の2主題、3楽章の舞曲など。要するに同じ人の一番の有名な協奏曲は何度でも聴きたくなるが、この曲は1~2回聴いたらもういいやとなりかねない曲だと私には思える。もう一つ2楽章はピアノの出番がほとんどない。2/3はヴァイオリンソロ、そしてそれにチェロが加わった協奏曲になっていて、ピアニストはぼーっとしてみているだけ。ブラームスの協奏曲にもそういう場面があるがここまでひどくはない。
 終演後もピアニストとヴァイオリニストとチェリストが3人舞台前面であいさつさせられていたが、自尊心の高いピアニストは馬鹿にするなと怒るだろう。

 だからといって、ババヤンというベテランから若い藤田真央というピアニストに変更になったわけではあるまいが!このごろキャンセルの理由に本人の都合と云うのが多い。先日の新国立の椿姫のアルフレート役はそうだった。今回のババヤンもそうだ。個人情報も大事だろうが、何か月前から高い切符を買って会場に来たら演奏者が変わっていたなど、まるで詐欺まがいではあるまいか?以前は病気によりとかご家族の事情とか、それなりに聴衆は仕方がないなあと思ってしまったが、本人の都合と云うのは面妖な理由ではある。
 藤田は真央というから女性かと思ったら男性だった。今年のチャイコフスキーコンクールの第2位だそうで、今日の1楽章の長大なカデンツァを聴いているとその片りんを感じ取ることができる。激しい部分とチャイコフスキーの甘いメロディの繰り返しなので、切り替えが大変だったろうが、私にとって初めて聴く曲だったが案外楽しめたのは、彼のピアノのおかげかもしれない。
 アンコールはグリーグの抒情小曲集から愛の歌。なお、彼は来年も来日するマリインスキーと共演してこんどはチャイコフスキーの一番を弾く予定だ。

 五番の交響曲も先日の悲愴と並んでこのコンビでは何百回となく演奏しているはずだ。私は全曲を聴いて、これは先日の悲愴以上に外連味がたっぷりの演奏で、少々手あかが感じられた演奏のように思えた。まず緩急の幅がとても大きい。例えば1楽章の第1主題普通のテンポだが、第2主題がとても遅くなる、時には止まりそうになるのだ。こういう部分がこれからいたるところで出てくるがこれ、問題なのは、次に何をやるのかが予測がついてしまうがことだろう。ああここで遅くなるな、ああここでははやくなるな、ここでは音がでかくなるなという細かい指示が見えてくるから始末が悪い。だから次第に退屈になる。しかし4楽章はそういうきょろきょろしたスタイルではなく、一気に凱歌に駆け上がる潔さが颯爽として、これは聴きごたえがあった。しかし最後のだだだだだんは予想通り大げさだ。演奏時間は49分。ゲルギエフはここでは指揮棒を持たずに、指だけで指揮をした。また指揮台には乗らず、弦楽器群が彼を取り囲むように配置されていた。特に第2ヴァイオリンは完全に客席に左背中を見せて、つまりゲルギエフを内側に見て、囲むように配置されていた。
 アンコールは同じくチャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形から」アダージュ、これは実に劇的で素晴らしい演奏。くるみ割り人形の全曲と云うのは聴いた事がないので、このアダージユ、始めてだったが初めてのような気がしなかった。印象ではエウゲニオネーギンのモチーフが使われているように感じた。それはどうでもよくこれはもう一度聴きたいくらい素敵な演奏だった。
 こうしてみるとゲルギエフはやはりオペラやバレエなどの舞台芸樹の人ではあるまいか?今回オーケストラを2回とオペラ「スペードの女王」を聴いたが、印象に残ったのはスペードの女王だけであった。



 

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