ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ: 歌曲、合唱曲、宗教音楽

2022年9月20日(於:サントリーホール)
読売日本交響楽団、第621回定期演奏会
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指揮:セヴァスティアン・ヴァイグレ

ソプラノ:ファン・スミ
バリトン:大西宇宙
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新国立劇場合唱団

ダニネル・シュニーダー:聖ヨハネの黙示録(日本初演)

ブラームス:「ドイツ・レクイエム:

 重量級の宗教曲2曲の贅沢なプログラム。ヴァイグレの読響における指揮はコロナなどもあって、おそらくこれが初めてかもしれない。過去二期会の「パルジファル」の指揮で大いに満足した記憶があるが、外来の在京オーケストラの常任指揮者、ファビオ・ルイージ、ジョナサン・ノット、アンドレア・バッティストーニなどに比べると今一つ地味な存在だが、その堅実な演奏は、次第に大輪に結びつくものと信じている。

 今夜の、最初の「ドイツ・レクイエム」はそういうヴァイグレにとって、相当気合が入ったのではあるまいか?終演後1分以上静止状態が続いた。ドイツ出身者による「ドイツ・レクイエム」の演奏は聴き手の期待も大きかろうし、指揮者も本場の演奏を聴かせたいと思っていたに違いあるまい。

 期待にたがわぬ今夜のこの「ドイツ・レクイエム」は見事な演奏。一言でいえば剛毅なドイツレクイエムと云えるだろう。いくつか例を挙げるが、1曲目の「祝福されたるは~」3節の繰り返しは誰が振っても単調になりがちだが、それを打ち破るのは「涙とともに種をまく人は~」,ここでのヴァイグレはオーケストラを十分にドライブして、がっちりとしたサウンドを聴かせる。こういうところに演奏の剛毅さを感じさせる。

 剛毅さとは「意志が強固で気力があり、何事にも屈しないさま」をいい、まさにここでのヴァイグレを言う。

 2曲目の「人は皆、草のごとく~」の荘重な響き、ティンパニのゴロゴロいう音、低弦のうなり、いささかも揺るぎのない音楽で、さらには「種に救われた人々は~」からのフーガの強烈な前進力は、剛毅と云わずしてなんと言おう。
 3曲目も「正しいものの魂は神の手にあり~」からのフーガが圧倒的であり、終結の勢いも素晴らしい。
 6曲目も「地獄よ、どこにあるのだお前の勝利は~」から大フーガ、そして終結部までの壮大な音楽も見事なものである。まだまだ取り上げたら枚挙のいとまがない。

 ソロもファン・スミの5曲目の透明感のある歌唱は、歌詞にピッタリであり、6,7曲目の大西の歌唱も感動的である。この二人の歌手はいずれも若い歌手だが海外で活躍しているらしい。大西は私が2年間通い続けたシカゴリリックオペラの座付き歌手らしい。ファン・スミはその声の美しさは同じスミだがスミ・ジョーの親戚かと思わせるほど。

 「ドイツ・レクイエム」はアナログのころからカラヤン・ベルリンフィルの演奏を聴いてきて、いまはCDもSACD/シングルレイヤーで聴いている。もうカラヤン以外には目もくれなかったが、今夜の演奏を聴くと演奏芸術と云うのはそこが深いものだと感じられた。
 カラヤンの演奏はゆったりと堂々としており、もしかしたら微温的に聴こえるかもしれないが、私には意心地が良い演奏だった。脱線するがこのころのベルリンフィルはイエスキリスト教会での録音がほとんどだが、この録音はウイーン楽友協会大ホールである。どことなく従来のベルリンフィルより柔らかい。余談です。

 久しぶりのこの曲のテキストを読んでみると、キリスト教新教の教義と云うのは実に厳しい生き方を人間に課しているのだなあと改めた感じた。この教義が資本主義の精神的バックボーンになっているのもむべなるかな。ヴァイグレの演奏はそういうこのテキストの持つ厳しさとそれに対する救いとを見事に描き分けた剛毅な演奏と云うことができると思った。

 一つだけ不満を言うとコロナで仕方がないが、合唱(P席)の響きが少々薄いように感じた(50人強)。だからオーケストラと溶け合わないように感じた。オーケストラ陣は充実しており、低弦の重厚さはヴァイグレの好みだろうが、指揮者にこたえていた。なお演奏時間は68分。これはカラヤンよりも8分ほど早い。まあ希望を言えばオーケストラも増強、例えばホルンを倍とか、したらもっと迫力は増したろうが、ヴァイグレの剛毅さと云う面はもしかしたら、薄れるかもしれない。


2曲目のシュニーダーはスイス生まれだが、今の拠点はアメリカこの「聖ヨハネの黙示録」は2000年の作品である。本邦初演である。現代音楽だからと構えて聴いていたら、途中のアニュスデイや終結部(第三部)などはずっと耳に優しく、とてもなじみやすい音楽だ。怒りの日のような場面での盛り上がりも迫力があり、これから日本のオーケストラの定期の常連になるかもしれない。「第九」の前に「四季」なぞ演奏しないで、こういう曲を演奏したらどうでしょう。〆

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都響のBプログラム、サントリーシリーズである。コロナ禍であるがかなり入りは多く、音楽会も少しずつ日常に戻りつつあるようだ。そうはいっても入り口での手指消毒、検温、時差退場、マスク着用、ブラボーなどの掛け声禁止など、まだまだ制約が多い。このまま慣れてゆくしかないのだろうか?

  コロナになって変わったことと云えば、オーケストラの楽団員が入場する際に拍手で迎えるようになったことだった。(これは都響だけでなくどこでもそうだ)以前は外来のオーケストラのみ、そういう習慣だった(ただしアメリカのオーケストラ場合はもう最初からほとんどの楽員が入場していて練習している)。コロナ禍で演奏を聴かせてくれてありがとう、と云う意味での拍手だろうが、このところ昔に戻りつつあって、拍手もパラパラになってきた。そういうのにも変化を感じる、なにせもう3年なのだから。

  さて、都響の今日のプログラムはオールボヘミアンである。ドヴォルザークの交響曲第五番とヤナーチェックの「グラゴルミサ」である。いずれも大野/都響の魅力たっぷりの公演で満足のゆくものだった。

  特に「グラゴルミサ」素晴らしい。キャストは以下の通り。
ソプラノ:小林厚子
アルト:山下祐賀
テノール:福井 敬
バス:妻屋秀和
合唱:新国立劇場合唱団
オルガン:大木麻里

  この曲を初めて聴いたのは2010年の都響の定期、ヤコブ・フルシャ指揮だった。それまではインバル指揮/ベルリン・ドイツ響のCD(1995)で聴いていたが、言葉(グラゴル:古代スラヴ語)に違和感があるし、インバルの演奏もあまり覇気が感じられなくて、陰気なミサだなあといった程度でほとんど聴かなくなっていた。フルシャの演奏で一応開眼したが、この曲の魅力を理解ずるまでに至らず、今日に至っていた。

  しかし、今夜のグラゴルミサはまさに目からうろこ、初めてヤナーチェックのこの曲の素晴らしさを味わえた思いである。それにはいくつかの理由があるが一つは大野の指揮である。彼のコンサートは何度も聴いているがどの曲を聞いても今一つ何かが欠けているようでいつも少々の不満が心に残っていた。
  彼の演奏で忘れられないのは新国立劇場での「トリスタンとイゾルデ」である。遅いテンポで進められたが決して緩みはなく、最後まで緊張感のあふれる指揮ぶりで、象徴的な演出と実にうまく合って
感動的な公演となった。新国立で再演を期待したい公演である。
  まあそれは余談として、今夜の大野のグラゴルミサでの演奏は今までの不満を払しょくするものだった。一言でいうと精気あふれる演奏。これは抹香う臭いミサ曲ではなく、輝かしい人間の生命の讃歌のように聴こえた。

  二番目の理由は今夜の演奏に大野が初稿(1927年)を使ったことであろう。ヤナーチェックは初演に当たり、いくつかの手を入れたがそれはリハーサルの短縮化など実用的な理由だったらしい。今回聴いてみて、慣用版のインバルの演奏と比べると、音楽のスケールがまるで違う。明るく輝かしく、スケールがすこぶる大きいのだ。
  この曲は一部典礼文に合わせているも9つのパートに分かれている。
1.イントラーダ(音楽辞書によると16~17世紀の舞台音楽や祝祭式典で、重要人物が入場するときに演奏された器楽曲)
2.序奏
3.キリエ(ラテン典礼文表記)
4.グロリア
5.クレド
6.サンクトゥス
7.アニュスデイ
8.オルガンソロ
9.イントラーダ

1.9のイントラーダは同じものである。慣用版では最初のイントラーダは省略されている。
  慣用版と初稿版と逐一比較することは到底私にはできないが、例えばクレドのオルガンとティンパニ(3台:初稿版)との掛け合いの迫力などははっきり初稿版の方が優れていることがわかる。その他多くのパートが実に輝かしく響き、インバルの地味な演奏とは懸隔があるように感じた。特にグロリア、クレドのスケールの大きな音楽には感銘を受けた。

  歌手はソプラノの小林がキリエやグロリアで素晴らしく、明るく明快な声には宗教曲と云うのには合わないのかもしれないが、このヤナーチェックの生命讃歌のような音楽にはフィットした。
  アルトの山下はそういう小林に対して、サンクトゥスやアニュスデイでの落ち着いた歌いぶりで好対象、良いコンビネーションだた思った。
  福井はかつて二期会でローエングリンを聴いたときには、声の衰えを感じたが、今日のような歌を聴くとその輝かしい声はまだまだ保たれていると感じた。妻屋はいつものことながらきちんと、安定した歌唱。歌手たちには穴がなかった。このミサにソロの重唱がないというにも今日聴いて初めて気付かされた。

  忘れていけないのはオルガンで8曲目のソロの圧倒的な響きもさることながら、各曲で存在感は見事なもの。合唱も人数が少ないなかで健闘。

  1曲目のドヴォルザークも素晴らしい。ドヴォルザークはブラームスに認められ、ヨーロッパの楽壇で評価された人で、ボヘミア臭が比較的少ない。それは一つにはヨーロッパで開発されたソナタ形式などの「型」に忠実だったからだろう。この五番の第1楽章などは典型的なソナタ形式であり、あのくそまじめなブルックナー以上にきちんとした形式感が感じられる。音楽に乱れがなく常に清新で、清潔感があふれている。
  彼の交響曲では「新世界より」が圧倒的な人気者だが、音楽の型としては八番の方がきちんとしていて、そういう意味での聴きごたえは八番にある。この五番のシンフォニーも遠くに八番が見えるような音楽で、大野もそういうことを意識していたかいなかったかわからないが、この曲の持ち味を十分感じさせた演奏だった。2~3楽章は八番の魅力にはかなわないが、4楽章は八番とはまた違った独特の凄味があり、大野がそれを素晴らしく再現していた。見事な演奏。

  都響の演奏も一言申し上げねばならない。ヤナーチェックのもつオーケストラ音楽の魅力、金管の輝きや躍動感などを十分に聴かせてくれた。録音されているようなので、我が家でどう鳴るか聴いてみたい演奏だった。〆



2019年1月31日
於:東京文化会館(1階6列左ブロック)

シカゴ交響楽団来日公演
   指揮:リッカルド・ムーティ

   ヴェルディ:レクイエム

ソプラノ:ヴィットリア・イエオ
メゾソプラノ:ダニエラ・バルチェッローナ
テノール:フランシスコ・メーリ
バス:ディミトリ・ベロセルスキー
合唱:東京オペラシンガーズ

静と動が相まった素晴らしいヴェルディ。予想通りと云うべきだろうか?シカゴとのコンビでは、すでにライブCD(2010)が聴けるのでどうしても比較したくなるが、基本的にはあまり大きな変化がない。歌手と合唱の違いくらいだろう。

 第1曲のレクイエム~キリエからもうムーティの世界に引きずりこまれる。これはもう明鏡止水の世界。全体に静の部分の澄み切った音楽はCDでは聴きとれない部分だろう。
 しかしいかにもムーティらしいのは、次のスピード感あふれる怒りの日だろう。ここではオペラの練達者としての剛腕が素晴らしい。「トゥーバ・ミルム」は迫力満点だが、ちょっとやりすぎの感あり。大げさに聴こえる。ここではバンダの管楽器がステージ両袖と云うのはいかにもお手軽で物足りない。ここは2階席か3階席に配置してもらいたいものだ。その後は「クイド・スム・ミゼル」の3重唱、「レコルダーレ」の女声2重唱、「インジェミスコ」のテノールソロなど静的な部分が実に美しく印象に残る。

 後半は「オフェルトリウム」の4重唱が静と動が混ざり合い圧倒的な感銘を与える。これは実に熱くなる演奏だった。終曲の「リベラ・メ」は怒りの日の後の「レクイエム」が感動的だ。ソプラノは決して熱くならないが、静かに語るように歌うのが印象的。この部分は第1曲と対になる音楽が心に残る。ムーティが到達した清澄な心境を垣間見る思いだ。しかしムーティのよいところはそこで辛気臭くならないところだ。「トゥーバ・ミルム」や「レックス・トレメンダ」、「コンフィターティス」などで時折みせる、云い方は悪いが、生臭さがなんともうれしい。

 ソロは皆素晴らしい。メーリは昨年の期待外れの歌唱から見違えるよう。力強く透明な美声だ。バスのベロセルスキーは初めて聴く歌手だが、朗々と響く声は魅力たっぷりだ。バルチェッローナはやはり「ラクリモーザ」の深々と沈み込むような歌唱が忘れられない。
 ソプラノはどうしてもスカラ座が来日した時のフリットりの印象が強く比較してしまう。フリットりのような熱き心は感じられないが、上記のように、静かに語るような歌唱が印象的。
 合唱も「サンクトゥス」をはじめ聴きごたえがあった。

 シカゴ交響楽団は過去何度も聴いているが、この「レクイエム」ははるか昔シカゴのオーケストラホール(多分1974年)で聴いている。指揮者はショルティだったと思うが、あの当時のプログラムを引っ越しの際に全部処分してしまったので定かではない。どういう演奏だったかも思い出せないのが残念だ。
その後ショルティと来日したのを聴いているがあの時のマーラーの五番とモーツァルトのジュピターは忘れられない演奏だ。ムーティの演奏もマーラーの一番を聴いているがあまり印象は良くなかった。やはりムーティはオペラの人だと改めて思った。
 曲も違うし、ホールも違うし、座席も今日はかぶりつきのような席だったので、比較にはならないが、やはり昨年聴いたドレスデンの厚みのある音とは違う印象だった。思っていた以上に明るい響きが意外だった。なお演奏時間はライブCDと同じ89分だった。


 

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2019年1月12日
於:サントリーホール(1階11列右ブロック)

東京交響楽団、第667回定期演奏会

 ヴェルディ「レクイエム」
  指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
  ソプラノ:森谷真理
  メゾソプラノ:清水華澄
  テノール:福井敬
  バス:ジョン・ハオ(リアン・リが体調不良のため代演)
  合唱:東響コーラス

ブログを書き始めてから、この大曲を7回も聴いている。も、というのはこういう大曲は滅多に聴けないだろうという先入観があるからだろう。しかしヴェルディの「レクイエム」はお客を呼べるののだろう、案外と公演回数がこの手の大曲の中では多いように思える。この7回の公演についてはすべてブログにて述べているのでご関心のある方は検索してみていただきたい。どれも感動的な演奏であることは間違いない。危険を恐れず言えば、この曲はどのような凡演であってもそれなりの感銘を与える1曲なのだと私は思う。しかしその中でどうしても忘れられない公演は2009年の9月1日のミラノスカラ座/バレンボイム/NHKホールでの公演だ。詳しくはブログを読んでいただきたいがここでのフリットりの歌唱は一生忘れられないだろう。ブログ以外ではアバドがスカラ座と来日した時に演奏したものやシカゴのオーケストラホールで聴いたショルティのものなどがうっすらと覚えているがあまりにも昔なので記憶が定かでないのが残念である。

 さて、今夜の若きビオッティと邦人を中心とした歌い手のコンビの成果はいかがなものだったろうか?
過去のこの曲の演奏を聴いた後のように充実感がいっぱいの演奏だったといっておこう。特にビオッティの丁寧な音楽運びはいままで聴き飛ばしたところも聴きとれるように思い、フレッシュな感じがした。歌い手ではソロは4人とも、バランスが取れているように思った。海外でも活躍のリアン・リが体調不良でジョン・ハオ氏に交代になったのは少し残念だった。合唱は100人以上が舞台に乗る巨大合唱団だが、決して音像は肥大せず十分コントロールされた歌唱だったのは特筆したい。ただ過去の多くの名演を凌駕しえたかと云うと残念ながらその領域には今一歩、もしかしたら二歩くらい足りない。

 まずビオッティの指揮。丁寧な音付けは印象に残ったが、私には少しもたれる。最初の「レクイエム」から妙に深刻で重々しく、粘っこい。もうすこし速く回してよ、と云いたくなってしまう。怒りの日やくすしきラッパのような部分は良いがレコルダーレやインジェミニスコ、ルックス・エテルナなどソロがしんみりと歌うところは大体もたれると思って良い。ここをもう少し細部からではなく、大局を見て演奏してくれれば一層音楽は締まったことだろう。それと休止が無暗に長いのもいかがなものか?最終曲「リベラメ」でも「ディエスイレ」が復活する直前の無暗に長い休止は実にしらける。ここは一呼吸程度で突入してほしい。演奏時間は91分弱。過去聴いた中では最も長い演奏だった。

 歌手陣はみなそこそこよかったが、かなり演技過剰で鼻についた歌唱もなきにしもあらず。そのなかでソプラノが凛とした声で、宗教的な雰囲気で締めていたのが印象的。常に他の歌手や指揮者の動きに目線を移して歌っていたのは彼女だけだったのも意味があるのかないのか?ただしソプラノも最後のリベラメでは少し声が荒っぽくなったのは残念、肝心なところで声がかすれたのもドキッとしてしまう。

 オーケストラは相変わらず立派なものだが、怒りの日やサンクトゥス、呪われしもの、レックス・トレメンダなどは大オーケストラの割には拡散も凝集もせず中途半端で、力感に欠けた音響といわざるを得ないだろう。バンダが配置のせいか、今一つ盛り上がらなかったこともあるかもしれない。昨日のN響の
「ローマの松」くらいぶち上げてよと云いたいが、宗教曲だから抑えたのだろうか?
 特にくすしきラッパ(トゥーバ・ミルム)でのバックステージや2階席のバンダはあまりに力がなくおどろおどろしさに欠ける。ビオッティは純粋宗教曲として扱うのか、それともヴェルディの特質であるオペラティックにやるのか(ヴェルディは嫌がるだろうが)どうも一貫していないように思った。〆

 

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2018年7月14日
於:サントリーホール(1階11列左ブロック)

東京交響楽団、第662回定期演奏会(サントリーホール)

指揮:ジョナサン・ノット

テノール:マクシミリアン・シュミット
メゾソプラノ:サーシャ・クック
バリトン:クリストファー・モルトマン
合唱:東響コーラス

1900年初演の大曲(演奏時間は93分)は初演後大いに人気を博したようだ。R・シュトラウスも絶賛という人気。今日ではイギリスではレパートリーになっているが、はたして日本ではどうだろう。大体日本におけるイギリスの作曲家というのはどちらかと云うと、言っては悪いが、みそっかすで、ドイツ・オーストリア音楽が主流であり、英国音楽を特に取り上げる指揮者も例えば尾高高明くらいで数少ない。
 大体ヘンデルやバッハの子孫に乗っ取られ、その後はメンデルスゾーンやドヴォルザークという塩梅で、真にイギリス純音楽作曲家と云うとやはり今日聴いたエルガーを待たねばならない。エルガーはいくつかの曲で日本でもおなじみで、交響曲第一番は私の愛聴曲である。その後イギリスはベンジャミン・ブリテンという偉大な作曲家を生み復権する。
 今日の音楽界でもエリオット・ガーディナーとかロジャー・ノリントンのような革新的なベートーベンを指揮する音楽家を排したり、サイモン・ラトルのようにベルリンフィルの常任指揮者になったりとイギリス人の活躍は目立っている。

 余談はさておき、今夜の「ゲロンティウスの夢」はお初である。オラトリオらしいが、もともとはカトリックの枢機卿のヘンリー・ニューマンの長編詩である。したがって典礼文に基づく宗教曲とはずいぶん違う。ブリテンの「戦争レクイエム」の戦場詩の部分のようでもあり、ボイートの「メフィストーフェレ」のような印象を受ける部分もある。ただファウストのように永遠に女性なるものに救われるというような物語にはなっていない。
 全体は2部からなり、1部はゲロンティウスの肉体の死をあらわす、2部はゲロンティウスの魂の、つまり死後の世界を描く。煉獄や地獄を垣間見ながら、天使に導かれ、最後の審判の裁きの門に立ち、精神の解放を暗示して終わる。
 死後の世界の姿がいまひとつ無宗教のものにはピンとこないが、これがニューマン卿の考える死後の世界なのだろう。エルガーは原詩からかなり宗教臭を取り除いて、万人に受け入れられるようにしつらえているとのことだが!
 音楽はオルガンあり、大編成のオーケストラ、150人もの合唱があるが、節度のある音楽のせいか、それともノットの指揮のせいか、ヴェルディの「レクイエム」やブリテンの「戦争レクイエム」のような音楽で死後の世界をおどろおどろしく描くということには今ひとつの感があった。

 しかし、今夜の聴きものはなんといっても3人のソロイストだろう。
 特に驚いたのはバリトンで出番は2か所しかないが、その存在感は圧倒的で、この公演を支配している印象。それはなにより豊かで、力の強い声が魅力である。そして天使の役のメゾソプラノの美しさ、グンドラ・ヤノヴィッツの声を少し太め(メゾ)にしたような声だ。鈴を転がすようにころころと美しい中に、それだけではなくしっかりした芯が声の内奥にありそれが聴き手を刺激する。この二人でドンジョバンニとドンナ・エルヴィーラを演じさせてみたいと強く思った。ゲロンティウス役のテノールも負けていなくて満足のゆく歌唱だ。このキャスティングを聴くと、ノットにとっての初演にあたる今回の演奏会には相当気合が入っていたということがよく分かった。東響の演奏の充実ぶりは大いに満足、特につややかな弦楽部のサウンドの心地よさは特筆したい。東響コーラスも安心して聴ける高水準。はいじめた聴いた曲だが、この曲を理解するのに十分以上の熱演だったといえるだろう。もうすこし他のオーケストラでも取り上げられて、レパートリーに入ると人気も出るのではないかと思われた。

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