ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

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2020年1月7日

とうとうコロナ第三波がとどまるところを知らなくなった。そしてついに非常事態宣言が発令される。ただし、1都3県が対象である。最大の自粛対象は飲食業界だが、その他では私が特に関心を持っているのはイベント関連である。
 白鵬がコロナにかかった、相撲協会ははたしてこのまま初日を迎えられるのか、定員を1/2に制限したホールは今発券しているチケットの数との整合性はどうか?夜八時以降の外出制限に対して、七時開始のオーケストラコンサートはどうするのだろうか?要するに決めるのはあなたのような非常事態宣言と云うのは名前だけのジェスチャーのような気がしてならないのだが?こんな対策では横ばいが良いところだという研究もあり、政治が危機管理に絡んでいない、無責任さが嘆かわしい。ますます絶望的音楽三昧に没入せねばなるまい。

 さて、昨日はカルショーとショルティについて書いたが、今日はカルショーとカラヤンである。カラヤンはEMIとグラモフォンとの契約の中間期にDECCAと契約を結び、ウイーンフィルと組んだ多くの演奏をカルショーのプロデュースのもと録音している。一部エリック・スミス(指揮者のハンス・シュミット・イッセルシュテットのご子息)ともかかわっている。
 全くの余談だがエリック・スミスと内田光子は後年ウイーン楽友協会ホールでシューベルトのピアノ曲集をCD八枚組で録音している。このピアノの音の素晴らしさは、カルショーの薫陶を得たスミスの力によるものだろう。内田の録音に際するスミスへの信頼も相当なものだったらしい。

 カラヤンの短いDCCAの時代のウイーンフィルとの録音はオーケストラ曲については九枚物で「KARAYAN LEGENDARY  DECCA  RECORDING」というタイトルを付けて発売されている。ここでの演奏については詳細は延べないが、ブラームスにしても(一番、三番)、ベートーヴェン(七番)、ドヴォルザーク(八番)そしてリヒャルト・シュトラウスの作品にしても後年なんどもベルリンフィルと録音されているが、私はそのどの演奏もこの時代のカラヤンを大きく凌駕しているとは思えない。むしろこの時代の実に生き生きとした演奏、大げさに構えない直截な演奏は何もにも代えがたいカラヤンのまさに遺産といえよう。
 カルショーの本「レコードはまっすぐに」から一つだけ逸話をを紹介すると、カラヤンは最初にカルショーと組む曲を「ツァラツーストラはかく語りき」にしたいといったとか!今日ではこの曲はポピュラーになっているが、その当時は指揮者が積極的に録音したい曲ではなかったそうだ。結局録音する事になったが、問題は録音会場のウイーンゾフィエンザールにはオルガンがないことだった。まあこれにカルショーはかなり苦労するが結局カラヤンも大満足だったらしい。後年この曲がスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」の冒頭のシーンで採用された、一躍有名になり、ベストセラーになったらしい。まあこういう話が「レコードはまっすぐに」にごまんとあるので、読み始めたらもう止まらなくなる。

 さて、カラヤンはDECCA/カルショーと組んで、素晴らしいオペラレコーディングを残した。これらはカラヤンの演奏でも代表作だし、これらの作品の決定盤ともいえよう。なお、録音技師はほとんどがゴードン・パリーであり、ワーグナーなどのオペラなどで培ったDECCAのオペラの録音の思想、つまりカルショーの思想だと思うのだが、ト書きの音化を達成しようとする、ソニックステージと云う技術が至る所で生きている。
 まるで話は違うがメトロポリタンオペラがルパージュの演出の下での、「リング」の公演はト書きの映像化であると云うのが自論である。オペラ演出がト書きから逸脱するのが当たり前になってきているこのオペラの世界で、ルパージュはまるでト書きにもどれと主張しているように感じた。これは余談。

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 カラヤンがDECCAと最初に録音したのはヴェルディの「アイーダ」である。オーケストラはウイーンフィル、アイーダはテバルディ、ラダメスはベルゴンツィ、アムネリスはシミオナートと強力な布陣。1幕の恋のつばぜり合いから2幕の大行進曲、3幕の冒頭の神秘的な音楽、地下法廷の描き方、そして4幕の2重舞台。地下牢とアムネリスの居室の場面、などいずれもDECCAの録音が生きていて、あたかもオペラを見ているように人物が配されているのがわかる。これが1959年の録音とは全く信じられない。カラヤンは後年フレーニやカレーラスと再録音しているが、歌い手はともかくとして。カラヤンの指揮の若々しさ、その大仰にならない、直截さと云うべきものが何もにも代えられない。今もって、この演奏を超えるものはない。この作品の録音に際してのアモナスロ役についての逸も実に面白い。

 1960年にこのコンビが世に出したのが、ヴェルディの「オテロ」である。
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オテロはマリオ・デル・モナコ、デスデモーナはテバルディ、イアーゴはアルゴ・プロッティの布陣だった。当初はイアーゴはバスティアニーニだったようだ。しかし彼は演じる意欲はあったが、初役でもあり(舞台での経験はないようだ)、勉強不足もあり、プロッティに交代となったという話が残っている。バスティアニーニだったらどういうイヤーゴだったろうか?聴いてみたかったなあとも思うが、今残っているこのレコードの燦然たる輝きは永遠に続くだろう。アイーダ同様、カラヤンは後年EMIで録音するが、歌い手も録音もはるかに及ばない演奏といえよう。時代ははるかにさきなのに、録音ですら1960年盤に負けているということは、プロデュース力の差と云わねばなるまい。たとえいくら良い歌唱であっても、録音がお粗末であれば、それはレコード芸術として、トータルで価値が低くなると思うのである。ここでのカルショー/パリーの録音でのきめ細やかさは、私たちが舞台を見ているそのステージの音を再現している。
 余談だがカルショーはここでもオルガンで苦労する。「オテロ」の冒頭の8分も続く超重低音の持続音である。幸いうまくいって、カラヤンも気に入ったそうだ。後にそのテープを実演で使ったら、ホールのスピーカーが吹っ飛んだそうだが、オルガンの低音おそるべし。

 1962年にはプッチーニのトスカを録音する。レオンタイン・プライスのトスカ、ディ・ステッファノのカヴァラドッシ、タッデイのスカルピアと云うこれも強力な布陣。珍しいアメリカ人のしかも黒人のタイトルロールであるが、聴いた印象では違和感は全くない。見事な歌唱である。カラヤンの後年のリッチャルリよりもはるかにトスカらしい。ここでの録音の素晴らしさは一言でいうと絵画的といえよう。特に3幕の冒頭など音で聴く絵画の趣。鐘のもの悲しい音がなんとも悲しみを誘う。また一幕のスカルピアが登場してからの人物の動き、テデウムから最後までのスカルピアの動きが舞台上のように手に取るようにわかる。全く古さを感じさせないソニックステージの威力。人為的な音作りは今日ははやらないようだが、レコード芸術としてはこうあるべきだろうと私は思うのである。
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 1963年にはビゼー「カルメン」を録音する。プライスのカルメン、フレーニのミカエラ、そしてコレルリのドン・ホセである。コレルリはアンナ・モッフォとも共演している。ここでのドン・ホセは彼のシッパースと組んだカラフ、マンリーコと並んで最高の歌唱を聴かせる。オテロのモナコに敵がないように、これらの役柄に対してコレルリの敵はいない。
 今日のテノールで代表されるのはカウフマンだろうが、彼の演じる役は非常に演劇的にきめ細かくて、芝居を見ているうえではよいだろうし、そういう意味では最近の演劇的な演出にあっているのだろうが、しかし声のみの魅力を取り出した時に、いつも物足りなさを感じる。
 先年、来日した際のリサイタルを開いたが、その時のラダメスの「清きアイーダ」などは実にきめ細かい歌唱だろうが、しかしオペラの中でこんな歌を聴かされて、アイーダを口説けるのだろうかと私などは心配になってしまう。
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 カラヤンはカルメンも後年再録音している。アグネス・バルツァがカルメンを歌ったように記憶しているが、カラヤン自身63年に録音したものと比べて果たして、達成感があったのかどうか?古いものは何でもよいというわけではないが、しかしDECCAのショルティの演奏、カラヤンの演奏を聴くと、彼らがその当時如何に燃焼しつくした素晴らしいパフォーマンスを演じたということを痛感するのである。果たして今日の演奏家たちはこれだけの燃焼をもって音楽を録音しているのだろうか?新しいレコードを聴くたびにそう思うのである。

 なお、昨日の「リング」、そして「オテロ」、「カルメン」はいずれもSACD化されてさらに輝かしいDECCAの音が聴ける。

2021年1月6日

ジョン・カルショーはイギリスの著名なレコードプロデューサーである。主に1950年後半から60年代に活躍した。多くのレコーディングを残し、そのうちいくつかは人類の遺産と云うべきものだと私は思う。ともに活動したショルティにサーの称号が与えられ、カルショーにはないと云うのは全く不可解と云うしかない。おそらくその当時の録音技師やプロデューサーの社会的地位と関係があるのだろう(私見)

 カルショーは1925年にイギリスで生まれ、父親は銀行マン、しかしカルショーは軍隊に入り、海軍航空隊で航法士で活躍したのち終戦を迎え除隊。若いころからクラシック音楽に親しみ、軍務にもSPプレーヤーとディスクを持参をしたという。
 戦後は職もなく文筆で細々と食い扶持を稼いでいたが、縁あってデッカの宣伝部に採用されることになる。そこではSPレコードの解説や演奏家紹介について書いていたが、デッカの発展に伴い、音楽家部のスタッフに不足をきたし、オロフ(これもプロデューサー)のもと音楽フプロデューサーの道を歩む。

 彼の人生や人となり、業績を知るには2つの著作がある。
 一つは「レコードはまっすぐに」である。今回このブログを書こうと思い立ったのは、この本を読みなおしたからである。

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これは彼の伝記と云うべきもので、未完の作品になっている。SP~LP~STEREOと音楽媒体が変遷してゆく過程の物語であり、その中でいかにカルショーが偉大な作品を残したかと云うことが描かれている。ただしこの本はおそらくもう古本でしか手に入らないと思う。

 もう1作は「リングリザウンディング」であり、これは云わずと知れたかれのプロデュースした最高傑作である、初のステレオでのワーグナーの大作「ニーベルンクの指輪」全4作の全曲録音の過程について書かれたものである。

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さて、ここではカルショーとショルティとの共同作品について述べたい。カルショーが音楽プロデューサーの駆け出しのころ、ショルティはバイエルンやフランクフルトでドイツ物を指揮をしていた。ショルティはもともとピアニストでジュネーブ音楽コンクールの優勝により注目を浴びるが、それは戦争中であり、また彼は指揮者を志していたので、そういう意味では、戦後すぐの何年かはくすぶっていたといっても良かろう。しかしカルショーはショルティのワルキューレを聴いて大いに共感したらしい。

 カルショーの記録を見ると二人のコンビは1951年のスッペの序曲集から始まっているようだ。しかしご多分に漏れず、ショルティもベートーヴェンを指揮したい指揮者だった。カルショーにそれを要求するが結局1958年の交響曲第七番と五番のみ録音して打ち止めになった。カルショーの著作にもあるが、アンセルメのベートーヴェンにも泣かされたらしい。

 さて、このコンビの残した傑作はオペラが多い。デッカの「ソニックステージ」いう録音思想はおそらくマリオ・デル・モナコが主役を演じた、「カバレリア・ルスティカーナ」(1961年)と「パリアッチ/道化師」(1960年)そしてカラヤンの指揮した「アイーダ」(1959年)あたりから始まっているのではなかろうか?もともとデッカのffrr録音はSP時代から有名であり、アンセルメなどは幾多の名曲の演奏でその名をはせた。そのカラヤンの「オテロ」はカルショーのプロデュースなのである。したがってソニックステージはカルショーが元祖と云っても良いかもしれない。

 ソニックステージは一言でいえばオペラのと書きの音化である。1960年代欧米でもオペラと云うと誰でも見に行けるものではなかった。特にワーグナーの作品などはバイロイトと云う聖地で聴くのが夢と云う人々が多かった。デッカ=カルショーはその夢をレコードでかなえてあげようとしたのである。欧米でもそうなのだからアジアの東の果ての日本ではなおのことそうであった。かの私も若いころ
オペラと云えばデッカでそのほかはほとんど聴くことはなかった。まあその当時のデッカのようした綺羅星のような歌手たち、そしてなによりウイーンフィルと契約したことなどが、デッカのオペラ録音を有名にしたのではなかろうか?

 さて、ショルティに戻ろう。1957年ショルティはカルショーのプロデュースでワーグナーの「ワルキューレ第3幕」の録音をする。これは当然ニーベルンクの指輪(以下リング)全曲の録音の布石であろう。しかしカルショーの本命はワーグナーの指揮者としては大御所のハンス・クナッパーツブッシュだった。1957年カルショーはクナッパーツブッシュと組んで「ワルキューレ第一幕」を録音する。1957年にリングの抜粋をカルショーは二人の指揮者で録音しているのだ。それは彼の敬愛するソプラノのキルステン・フラグスタートの記録を残したいという思いが第一だろうが、私はリング全曲の小手調べだと思いたい。ここでクナッパーツブッシュのレコーディングへの姿勢やリハーサル嫌いなどがカルショーの考えるリングの録音思想と大きく離れていることが分かった。そして結局45歳のショルティが大役を受けることになる。ショルティは1961年にロイヤルオペラの音楽監督になり、それと並行してリングの録音が進められてゆくことが、時を経るごとにショルティの粗削りな演奏が、しなやかさを経て、スケールの大きさを増してゆくことになる。

 1958年「ラインの黄金」が世界初で録音される。リングの序夜であり、全曲へのスタートを切った。確か日本で発売されたときは3枚組のボックスで6000円。学生の身ではおいそれと手が出ない。涙を呑んで中古で抜粋を買って聴いた。そしてその初めて耳にする驚異的なサウンドにたまげた。
最後のドンナーが岩をハンマーでたたく音ではスピーカーがぶっ飛ぶでのではないかとびっくり仰天。
ウォータンとローゲが地下のニーベルハイムと行き来するときの「かなてこ」のサウンドの上下の移動する様の不思議さ。目の前のスピーカーの中で、音が上下に動く?私のようなせいぜい10万もしない装置ですらそれを味わうことができた。これは本来劇場に行かなければ聴きとれないことなのだ。
そして何よりすごいのは序奏のまるで地の底を這うような低弦の音だ。この部分その後自分の再生装置が良くなればなるほど、その凄味がわかる。
 なお、録音技師は一貫してゴードン・パリーである。彼もワグネリアンで、テスタメントから発売された1955年のリングのステレオ全曲は彼がバイロイトで録音したものだ。テスタメント盤は指揮はヨーゼフ・カイルベルト。発売はショルティ盤より遅かったので史上初の録音とはならなかったが、実際はこの盤が史上初録音だ。カイルベルトはクナッパーツブッシュと交代で指揮していたらしいが、もしクナ盤があったならどうだったろうか?この劣悪な環境で録音されたレコードの鮮度はおそるべき良さであり、決して凡百の録音には負けていない。
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 もとに話を戻すが、ショルティの指揮は粗削りだとかいろいろ書きたてられたが、私はこの曲の間奏の音楽を聴いただけで、ショルティの非凡さを感じる。その当時はあまりしっくりいっていなかったウイーンフィルを完璧に支配して、強烈な迫力で聴き手を圧倒する。この部分をかつてこのように威圧的に演奏してなおかつ深い、感動を与える演奏は皆無だ。
 歌い手ではウォータンのジョージ・ロンドンがもしハンス・ホッターならばと云う思いもあるがこれはないものねだり。そのほかの歌手も皆素晴らしいが、特にアルベリヒのグスタフ・ナイトリンガーの歌唱は驚異的だ。彼は「ジークフリート」、「神々の黄昏」でもその存在感を発揮する。

 1962年「ジークフリート」が発売される。販売側は当初「ラインの黄金」なぞは売れまいと高をくくっていたが、これがなんと世界的なベストセラーになり、リングの続編が録音されることになった。本来であれば「ワルキューレ」が次に来るべきところだが、それは57年に抜粋が発売されており、結局「ワルキューレ」は最後に録音されることになった。
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2曲目にジークフリートを持ってきて正解だったように思う。全曲聴くとこれはショルティにあっているなあと云う印象が強い。1幕の「溶鋼歌」や「鍛造歌」などは録音の素晴らしさもあって、これ以上の演奏は聴けないレベルになっている。しかし2幕のジークフリートの小鳥との対話から幕切れの、ワクワクする音楽はショルティのレベルの上がった抒情性と本来持つ情熱性がミックスされた、まれにみる名演と云わねばならない。歌い手もウイントガッセン(ジークフリート)、ニルソン(ブリュンヒルデ)、ミーメ(シュトルツェ)、アルベリヒ(ナイトリンガー)、そしてここではハンス・ホッターがウォータンを歌っており、さらには小鳥をサザーランドに歌わせるという凝りよう。その後何枚もジークフリートを聴いたがショルティ=カルショー盤にかなうものはない。このレコードは5枚組で1万円を越したと思う。当然買えなくて抜粋盤を聴いていたが、あるラジオ番組でこの曲の感想文の募集があり応募したらなんと当たった。まもなくそのボックスが送られてきたときには、夢のようだった。

1964年「神々の黄昏」が発売された。これは確か6枚組だと思ったが、必死でアルバイトをして手に入れた。ここでは録音はますます洗練されてきて、しなやかに鳴る。ジークフリートやラインの黄金では時折固く鋭い音が聞こえて、それはショルティの特徴を表現するのにはふさわしいとは思いつつも、もうすこししなやかさが欲しいなあと思っていたのが、神々ではすべて改善され、ふくらみのある豊かな音がこの大曲にふさわしく鳴り響く。聴きものは随所にあるが、2幕の冒頭のアルベリヒとハーゲン(ゴットロープ・フリック)の対話の場面の素晴らしさ、2幕のハーゲンと群衆シーン、2幕幕切れの3重唱など、録音の良さも相まって、驚異の名演奏である。これ以上の演奏は今もって聴いた事がない。
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そして1965年最後の「ワルキューレ」録音される。おそらくショルティの円熟が最も感じられる演奏ではあるまいか?すでに述べたようにロイヤルオペラでの経験が多いに生きたように思う。この曲では音響的に驚かさせるような場面が少なく、ひたすら音楽に集中させるような録音になっている。わずかにワルキューレ騎行でのワルキューレたちの飛び交うさまがスペクタクルなシーンを感じさせる。神々以上に、音は深く、豊かに鳴り響く、ウイーンフィルの威力を最も感じさせる録音になっている。
歌い手はウイントガッセンとニルソンそしてフリックの3人はもう何物にも代えがたい歌唱だ。
 それと、このレコードではジェームス・キングの情熱的で悲愴なジークムントの素晴らしさが忘れられない。おそらくこれ以上のジークムントは出てこないだろう。


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カルショーはこの間にショルティと組んでワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を録音している。
1960年。
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ここで、イゾルデはニルソンが歌っているがトリスタンはフリッツ・ウールと云う無名のテノールが歌っている。これはニルソンがリングの録音で、ブリュンヒルデを歌う代わりにイゾルデを1年以内に歌わせろという条件を付けたことによって起きた。カルショーはウイントガッセンをトリスタンと考えていたが、その時点ではウイントガッセンはグラモフォンとの契約が数か月残っており、それが切れるのを待っていたのだ。しかしニルソンは待てないという。そこでカルショーが見つけたのがウールだというわけである。最近この曲を聴きなおしてみたが、案外とよい。最初に聴いたときにウールの声があまりにもウイントガッセンに比べると、か細くて物足りなかったが、今聴いてみると随分と若々しくてとても感心した。録音の素晴らしさもあって、これはいま私の3番バッターである。
 一番はベームのバイロイトライブ、二番はフルトヴェングラーのEMIのモノラル録音。久しぶりにフルトヴェングラー盤を聴いてみたが、二幕のブランゲーネの最初の警告から~クルベナールの登場までの部分の音楽の素晴らしさは筆舌尽くしがたいが、SACD化したCDでもモノラルの音場は変えられず、穴倉で聴いているような気分になり、レコードとしてはものたりない。クナッパーツブッシュもそうだが、今少し、大家たちが録音に関心を持ってくれていたならばなあと思わざるを得ない。カラヤン、ショルティ以前の指揮者で録音に関心を持った指揮者は聞いた事がない。

 今日のようにセッティング録音がほとんどなく(オペラ)、舞台のライブ録音がほとんどの場合、音楽プロデューサーの出番は少ないだろう。オペラのライブでは演出家と指揮者主導だから、録音サイドの発言は少なくならざるを得ないのでないだろうか?録音は要するに悪く言えば垂れ流してきた音をそのまま記録するだけと思わざるを得ない。最近のレコーディングでオペラ以外も含めて、録音に大差が感じられないのはそういうことも影響しているのではあるまいか?それよりなにより録音そのもの(オペラ)が減っているのではないか?それは私たち東洋に住むものでも、METライブビューイングやパリオペラ、ロイヤルオペラのその年に上演したものを大劇場で映像で見ることができるのだし、NHKでも世界の劇場のライブを放送しているし、またライブでも新国立あり,二期会あり、藤原あり、さらにはコロナ前には毎年海外の団体の引っ越し公演がいくつもあるという時代、音だけの録音媒体の存在意義を見つけるのは難しくなっているのではあるまいか?
 したがってカルショーの時代のレコード芸術と今の時代のレコード芸術とは随分と異なっているように思うのである。現代のレコード芸術とは何か、私はまだ見いだせずにいる。勢い古い録音に浸ってしまうのである。
 失礼な言い方だが、私にとって今のレコード(CD)の最大の機能は、ライブ演奏を聴きに行く前の予習のために聞くということが最大のものである。それゆえ名曲の録音のレコードを買うことはほとんどない。買うのは勉強のため今まで聴いた事のない音楽の録音を買うのだ。
 もちろん数少ない演奏はそういうことと切り離して聴く。例えばこのリング盤などがそうだ。けれどももうそういう聴き方は少なくなったと思える。



 さて、ショルティとカルショーのコンビではこのほかオペラでいくつかの録音がある。
1961年、R.シュトラウスのサロメ
1964年、R.シュトラウスのエレクトラ
1967年、ヴェルディのドン・カルロ(これはウイーンフィルでなくロイヤルオペラの演奏)

オペラ以外で素晴らしいのはヴェルディの「レクイエム」

また、カルショーのショルティとカラヤン以外の指揮者との演奏では次の演奏が特筆すべきと思う。

1963年、ブリテンの戦争レクイエム
1964年、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」(アンセルメ指揮)

 つい最近ヴェルディの「ドン・カルロ」をきいたが、これは一番バッターのカラヤンの演奏に勝るとも劣らない演奏だと思うようになった。それは歌い手の秀逸さによるところが大きいが、ショルティのドラマティックな音楽が、カラヤンのいささか大風呂敷を広げたようなイタリアオペラに少々飽きが来ている身にとって新鮮だということだろう。いずれにしろ、上記のオペラ録音はすべて人類の宝である。これからもこれ以上の演奏がレコード(CD)として出てくることはあまり期待できないだろう。



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 コパチンスカヤの新譜である。今回はバロック/ヴィヴァルディで、ジョバンニ・アントニーニ率いるジャルディーノ・アルモニコとの共演である。
 コパチンスカヤのヴァイオリンを聴いたのはクルレンティスと組んで録音した「チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲」だった。これは本当にびっくりドッキリの演奏で、聴き飽きたチャイコフスキーがまるで、生まれ変わって甦ったような演奏だった。しかもこのメンバーがすぐ来日ライブで聴けたのである。曲も同じチャイコフスキーである、
 ライブ演奏も基本的にはCDと同じであるが、裸足で演奏する野生児のような奔放なヴァイオリンにこれまた驚いた。しかし奔放と云っても野放図に演奏しているわけでないということは、たまたま、2回同じチャイコフスキーを聴くことによってよくわかった。クルレンティスとコパチンスカヤは実に緻密にこの曲を演奏しているのである。というのはこの2回の演奏会聴いた印象は両方とも全く同じなのである。同じところでテンポを上げるし、同じところで歌う。しかも演奏時間は秒と違わないのである。要するに古い型のよく言えば自発性に富んだ、そのときのケミストリーに任せて演奏しているわけではないということだ。音楽の再現性と云う意味ではまさに現代の演奏家の系譜である。

 さて、そのコパチンスカヤのヴィヴァルディと云ったら、聴かずになるまい。

 このCDのタイトルは「ヴィヴァルディ、その先に」で、原題「WHAT`S NEXT VIVALDI?」そのままである。プログラムはヴィヴァルディの協奏曲(ヴァイオリンソロあり、4丁のヴァイオリンあり、合奏協奏曲あり)が5曲で、その演奏の合間に現代のイタリアの音楽家の曲が挿入されている。要するにヴィヴァルディの先には今日のイタリアの音楽家があるということか?
 しかし、私にはこれらのイタリアの曲がヴィヴァルディの後継ぎとは到底思えない。わずかに18曲、19曲あたりがヴィヴァルディの香りを持っているような気がする。聴いているとこういうことだ、
ヴィヴァルディの協奏曲が終わると、すぐ現代音楽が始まるということで、木に竹を継いだ感がある。私のような老化が進んだ人間には、ヴィヴァルディだけが聴きたい。

 ヴィヴァルディの協奏曲と云えば私はすぐカルミニョーラを聴く。ヴィヴァルディの持つ切なく哀愁を帯びたメロディにはカルミニョーラのヴァイオリンはぴったりのような気がする。ビオンディも
聴くがカルミニョーラほどヴィヴァルディにフィットしていないような気がする。
 コパチンスカヤはこのレコーディングではソロの協奏曲を3曲演奏している。このなかで最もしっくりくるのがRV191である。カルミニョーラほど甘く切なく演奏はしないが、きりっとした透明感は、鋭さの一歩手前で止まっているところが良い。これ以上やられると刃を突き付けられているようになるそういうヴァイオリンだ。

 ついでRV208のムガール大帝が素晴らしい。ここでのスケール感は音楽の本質であり、驚嘆すべき演奏だ。特にヴィヴァルディがつけたというカデンツァは圧巻である。RV253海の嵐はちょっとお遊びがきつい。ライブではよいだろうが、CDで聴くにはいかがだろう。1楽章のカデンツァでウインドマシーンを使ったような音が挿入され(これがヴァイオリンの音なのか、ウインドマシーンなのかは定かではないが)、船が難破したかのように、何かが破壊された音がする。

 RV550(調和の霊感から)やRV157などはコパチンスカヤはジャルディーノ・アルモニコの中に入って演奏している。ここでは合奏の見事さを十分味わえる。
 
 コパチンスカヤは今後とも目が離せないが、今回のヴィヴァルディは、アイディア倒れのように思った。ヴィヴァルディだけでなく、その他のイタリアのバロックの音楽家の演奏も聴きたかった、
と云うのが本音だ。


クレンペラー
 オットー・クレンペラーに関心を持ったのは、クラシカ・ジャパンでクレンペラーのドクメンタリーを見たからだ。波乱万丈の人生とはこの人の事を云うのだろう。ユダヤ人としての差別、舞台での大事故、火災事故など幾多の苦難を乗り切って88歳までの長命を保った、強靭な生命力。それが如何に作品に反映されるのだろうか?
 この映像を見て、それについて大いなる関心を持った。クレンペラーについてはマーラーの「大地の歌」とベートーヴェンの「交響曲・ピアノ協奏曲・序曲」全曲盤の2種類のCDしかもっていない。大地の歌はよく聴くが、ベートーヴェンは購入して以来全く聴いていないという失礼なことをしている。なぜ、どこで買ったのかも覚えていない。

 私の持っている盤は交響曲は大半が1955年から59の間に録音されている。場所は一部を除いてキングスウエイホールである。EMIやDECCAがセッティング録音に多用したホールである。50年代にしてはありがたいことにステレオ録音になっており、今日聴いても全く色あせていない。広がりばかりでなく、奥行きも感じられる(ライブではない)録音である。クレンペラー自身はステレオはおもちゃだといったような発言をしたそうだが、それでもこのような作品を残してくれたことはとてもありがたい。

 過去の大指揮者はほとんど録音に関心を示さなかった。フルトヴェングラーがその最たるもの。それは彼の再生音楽の生成にかかわることだからだろう。しかしもし彼が今生きていて、、今の2つのスピーカーから形成される音場を聴いたらさぞや悔やむことだろう。俺も録音しておきゃよかったと!フルトヴェングラーの録音はただし放送録音などおびただしいものがある。それは本人が後世を考えて録音したものでは、ほとんどない。音質は劣悪でこのような狭い音場の中からオーケストラの音を聴きとることは私には不可能である。
 レコード芸術の世界はSPとLPモノラルが一群、そしてLPステレオとCDが一群で、この2つの境目にはとても深くて大きい谷がある。再生芸術としての価値は別として、レコード芸術としての完成度から云って、私にとってはフルトヴェングラーは聴く対象からははずれているといわざるを得ない

 クナパーツブッシュも録音嫌いの大指揮者だった。しかし彼はパルジファルのバイロイトライブをステレオで録音しており、その1曲で彼のレコード芸術家としての輝きは残る。しかし彼もカルショーと
ゴードン・パリーの云うことを聞いていれば世界最初の「リング」のステレオ録音の指揮者になれたのである。かれがけったおかげでショルティが恩恵を被ったのである。
 クナパーツブッシュのバイロイトのライブの「リング」はあるが、モノラルで聴くに堪えない。もし、パリーがカイルベルトでなく、クナーパーツブッシュの「リング」をバイロイトでステレオ録音してくれていたらと云う思いが残る。これはカイルベルトはどうこうではなくカイルベルト盤の演奏にはそれなりに大きな意義があると思うが、言いたいのはクナッパーツブッシュの偉大なリングの記録をステレオで聴けたかもしれないという無念さである。
 まあクナには「パルジファル」やそのほかではブルックナー交響曲八番があるので、レコード芸術面ではフルトヴェングラーに比べるとはるかに偉大である。

 ステレオ初期には指揮者によってそういう録音秘話、悲話はあまたあるが、次に続く指揮者にとってはそれが自分たちの武器になるということがよくわかっていたのだ。カラヤンやらショルティやバースタインらの巨匠たちである。
 まあこれらは、クレンペラーとは関係のない余談である。


 さて、クレンペラーに戻ろう。このCDは2000年にEMIから発売になっている。ベートーヴェンの交響曲全曲、ピアノ協奏曲全曲(ソロはバレンボイム)、序曲はコリオラン、プロメテウス、それとレオノーレの序曲が3曲が9枚のCDに納まっている。

 ここでは交響曲のみ印象を述べたい。

 全曲を聴いた第一印象はまず演奏時間が長い、というより演奏が平坦で変化が少なく長く感じると云ったらよいのかもしれない。曲の速度記号、例えばPRESTOやALLEGROがその通りに聴こえないし、遅い表記はたとえばADAJIOはそれよりずっと遅く感じるのである。
 例えば第九の1楽章はALLEGROだが2楽章のVIVACE-PRESTOとの差がほとんど感じられない。要するにテンポの緩急で音楽を表現することを最小にしているような気がする。その代わり、音の強弱についてはほぼ作曲家の指示通りであり、ここで感情表現を加えているだろう。
 もっと言えばこの演奏はクレンペラー版ベートーヴェンであるいえるかもしれない。こういう逸話がある「田園」の3楽章で村人が踊るが、クレンペラーはどたどたと踊る。軽快なダンスにならない。
演奏者が聴くとベートーヴェンの時代に、そんな軽やかな靴を農民が履く訳がないという。まあそういう解釈なのである。

 その結果かどうか、ベートーヴェンの精神的成長の成果がクレンペラーのベートーヴェン全曲ではあまり感じられない。つまり1番から九番までほぼ同じスタンスで演奏しているように感じられたならない。「英雄」でベートーヴェンが編み出した、苦悩~闘争~勝利・凱歌と云う構造はクレンペラーが強調しているとは思えないのだ、「英雄」、「運命」「七番」はそういう意味では私にはあまり面白くなかった。とても気持ちよく聴けたのは1番や4番である。これは実に堂々としていてベートーヴェンではないようだが、音楽の構造が明らかになっていて、構造物としての素晴らしさを強く感じた。2番はベートーヴェンの若き覇気が消え去っているような演奏なので、ノリントンのやんちゃな演奏になじんだ耳には物足りない。
 全体を通して最も素晴らしいのは、「合唱」だろう。1-2楽章には若干不満は残るが、しかしその巨大な歩みには圧倒されることだろう。3楽章は耽溺しないのがよく、素晴らしく透明な音楽だ。そして圧巻は4楽章であり、これは一種の宗教曲を聴いているかの如くの神々しさを強く感じる。ホッターやルートビッヒなどクレンペラーお気に入りの熱唱もあり大いに感動を受けた演奏だった。

 カラヤンがベルリンフィルとステレオでベートーヴェン全を、このクレンペラーの数年後(1961-2ころ)録音したが、ほぼ同じ時代のベートーヴェンがまるで違って聴こえると云うのは驚きである。
 今日ではベートーヴェン演奏は収れんしているようで、それはピリオド楽器による影響や、新しい楽譜の影響などを乗り越えて多くの指揮者が独自のベートーヴェンを演奏し始めたように思われるが、じつはそれほど違うわけではないのである。モダン楽器の楽団がベーレンライター版でノリントンみたいにパンパンやるような演奏をしていると誰が指揮しているのかそう違いが分からないような気がするのである。すべて同工異曲。そのなかで私はシャイー盤、ティーレマン盤、ラトル盤が現代のベートーヴェン演奏の規範になっているような気がするのだがいかがだろうか?
つまり、それほどカラヤンとクレンペラーは異次元に聴こえる。
 

今年のレコード芸術の8月号を見ていたら、エソテリックがカラヤンの指揮したモーツァルトの「ドンジョバンニ」をリマスター、SACD化したという記事が載っていた。まあ宣伝もあるのだろうけれど大絶賛。おもわず心が揺れる。
すでに通常盤を持っており、それよりなにより、「ドンジョバンニ」は今はクルレンティスの才気煥発、飽きることのない千変万化の演奏を聴き始めたら、もう他はいらないという気分であったから、本当にこれは迷った。

 カラヤンのモーツァルトはとても懐かしい。1974年の夏のザルツブルグで一挙に4つのモーツァルトのオペラの公演があったのだった。「後宮からの逃走」、「フィガロの結婚」、「コジファントゥッテ」そして「魔笛」である。このうち「フィガロ」と「魔笛」はカラヤンが指揮をしたのだった。幸いにもこの4公演をすべて聴いた。まだ30歳前の、オペラを聴き始めたばかりの私にとって、
猫に小判のような時間だったし、いまではほとんど何も覚えていない。しかしときおりそのときのプログラムを見て、如何にすごい公演で、いかにすごい歌手たちだったのか、今見ると驚きのキャスティングだったのだ。もう今のライブ公演でこのような公演は見ることはできないだろう。

 後年ムーティが、ウイーン国立オペラを率いて来日、神奈川県民ホールで「フィガロの結婚」を振った。1974年のザルツブルグと同じくポネルの演出だった。
舞台は懐かしかったが、歌い手は若手ばかりで何か、寂しかったのを覚えている。もうあの素晴らしいポネルの演出をウイーンでは見ることはできなくて、日本でも最後と云われただけに、もう少しゴージャスな歌い手で聴きたかったのだった。

閑話休題


ドンジョバンニ

 さて、結局SACD盤は購入することにした。もうすでに数度聴いていて、やはりこれはこの曲の定番演奏と云われ続けただけに、随所に聴きどころがある。
例えは悪いが、クルレンティスは頭のいい奴がくるくると次から次へと出し物を出してくる、聴いている方は面白くて夢中になるという塩梅だが、カラヤンの場合は
まるで大船に乗ったようで、実にゆったりまったりと音楽が進む。ただそれが決して嫌ではないのだ。1幕を聴いていてドン・オッタービオの歌が長いなあと思っていたら
居眠りをしてしまった、でも目を覚ましたら、まだオッタービオ君は歌っていたのだった。この音楽に覆い包まれた時間は、クルレンティスのはしっこい演奏では
味わえないだろう。しかし結局は両者の演奏は2幕の最後の大団円ではモーツァルトってーのは本当にいいなと思わせるのだ。
 ドンジョバンニはこのほか、ジュリーニ盤やショルティ盤、ベーム盤を時折引っ張り出してくるが、いまのところカラヤンとクルレンティスで間に合っているといった所だろう。

 エソテリックによるSACD化は成功している。詳しくはレコード芸術を見ていただきたいが、一言でいえば通常盤は額縁にはまった絵を見ているがごとき再生音。決して嫌な音ではなく、これはこれでカラヤンのモーツァルトをたっぷり味わえるだろう。しかしSACD盤はその額縁がない。広い空間は舞台を感じさせるし、声もオーケストラものびやかで、音に天井がない。

 なお、カラヤンの演奏はベルリンフィルである。やはりウイーンフィルで聴きたいと思うが、それはもうないものねだり。歌い手は女性陣のドンナ・アンナとドンナ・エルヴィーラの造形が物足りなく少々不満。
 クルレンティスの場合は歌手はドンナ・エルヴィーラのパパナタシュくらいしか知らない、国際的には無名に近い歌手たちばかりだが、彼のそのほかのフィガロやコジのように、発声法が通常と違っていて、実にピュアなため、歌唱が新鮮であり、切れのいオーケストラとともに、歌い手には不満がない。


ショルティ



 今月はもう一枚SACDを聴いている。正確に言えば2枚だ。ショルティの指揮でリヒャルト・シュトラウスの有名な交響詩をSACD化している。これはタワーレコードの企画である。演奏は定評のあるものだからうんぬんかんぬんいうことはないが、このセットの面白いのが曲によってオーケストラが違うというところだろう。通常のCDで聴いているとあまり意識しないが、SACD化されると、この違いがはっきりと分かってくる。例えば、「ツァラトゥストラはこう語った」はシカゴ交響楽団、
「英雄の生涯」はウイーンフィル、そして「アルプス交響曲」はバイエルン放送交響楽団。この3つの楽団でははっきりいって、バイエルンが一番聴き映えがしない。
例えばアルプスの「頂上にてからVISION」のクライマックスの部分の力感が乏しく聴こえる。シカゴのツァラトゥストラの1曲目、やウイーンの「英雄の登場」の場面を聴き比べればよくわかる。録音年代は数年と違わないのだから条件は一緒。まあホールは違うのでその変数と曲の違いは考慮に入れる必要があるが。

 余談だが、アルプスはティーレマン/ウイーンとカラヤン/ベルリンを聴くともう他はいらないという気になってしまう。ちょっとショルティの入るすきはないだろう。

展覧会の絵



 今月もう1枚CDを聴いた。これはSACDではなく、通常のCDである。フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮のレ・シェクル(オーケストラ)の演奏の「展覧会の絵」である。
 ロトの演奏は幻想交響曲にしても春の祭典にしてもすべてピリオド楽器、つまり同時代の楽器で演奏しているのが特徴である。このラヴェル編曲の「展覧会の絵}も同様である。
 これは説明が難しいが今まで聴いてきた、多くのメジャーオーケストラの名演奏とはまるで別のように聴こえる。誤解をおそれず、一言でいうとしなびたような展覧会の絵である。そこにはゴージャスな音の響きは全くなく、目を見張る音響効果はまるでないが、しかし例えば冒頭のプロムナードのトランペットや、ブイドロの地底から這い上がるような音楽、、リモージュの市場における音の運動、バーバーヤガにおける躍動感は、くすんだような輝きの中で、しなびた音楽のように聴こえるが、しかしそれはこのムソルグスキーがそもそも持つ、ロシアの大地からにじみ出るような音楽の根源を掘り当てたような気がしてならない。
 実に面白くて23日に入荷してから毎日聴いているが飽きない。

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