ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ: CD

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待望のブロムシュテットのベートーヴェン全曲、ドイツシャルプラッテン・エテルナ盤がリマスターされた。しかもシングルレイヤーのSACDとして発売されたのだ。

  ブロムシュテットは日本ではN響と組んで多くの名演を聴かせており、絶大なファンも多くいる、おそらく日本でも有数の人気指揮者だろう。そのベートーヴェンも最近では(2014)ライプチッヒと組んで録音していて名演奏の誉れを獲得している。実は私はそのCDを聴いていない。
  彼のベートーヴェンはライブでバンベルグ響と「運命」(2016年)をそしてN響と4番(2018年)を聴いている。このベートーヴェンはすこぶる立派な演奏で、圧倒されたが、しかしこれは少し昔のブロムシュテットとは違うのではないかと云う疑念がわいてきて、新しいCDは聴かずじまいになっていた。
  ブロムシュテットを初めて聴いたのは何度も書いているが、キングレコードがドイツシャルプラッテンの録音を大量に発売した時である。その時は東独の演奏家の膨大な録音がプレスされた。レーグナー、スイートナー、マズーア、そしてブロムシュテット。結局今ではその大量のCDのうち手元にあるのは数枚のブロムシュテットの録音である。
  それはシューベルトの交響曲第5番と未完成である。この演奏を聴いたときなんと素晴らしいシューベルトか、この清冽さ、厳しさ、豊かさ、深い悲しみと喜び、シューベルトの持っている音楽のすべてがここにはあった。私はこの2曲でブロムシュテットファンになったといって良い。当然シューベルトの全曲盤(1980年、2020年にリマスターされてSACD化)も手に入れて今ではベーム盤とともに私の唯一無二のシューベルトになっている。オーケストラは10年間コンビを組んだシュターツカペレ・ドレスデン、録音はルカ教会である。
  実は私はその当時にベートーヴェンも聴いているはずなのだけど全く記憶がないのだ。つまらなくて放出したのか、はてどうしたのだろう?まあそれはおいておこう。

  私が2016年と2018年に久しぶりにブロムシュテットのベートーヴェンを聴いたときにびっくりしたのは、シューベルトで持っていたブロムシュテット像とはずいぶんかけ離れていて、音楽は厳しいが少しあわただしく、息苦しくできていて、シューベルトで感じられた安息感のようなものは感じられなかったのである。ははあ、これがブロムシュテットの本来の?姿なのか?曲が違うので同列にいう危険はあるが、率直な私の印象であった。
  これはドレスデンの時の演奏を聴かねばならぬと思い立ったがなかなか手に入らない、そんな時、キングインターナショナルでの発売予告を見た次第。そして2月6日に我が家に到着。まあ長い話だがそういういきさつでこの録音を聴き始めた。

  このCDを手に取った時にまず驚いたのはこのセットはわずか2枚組なのである。最初の1枚には1番から6番まで、そして2枚目には最後までとおまけにドヴォルザークの交響曲第6番までついている。
  SACDの容量の大きさは以前から聴いていたが、ここまで凄いのは珍しい。むしろその容量を無駄づかいしているディスクがいかに多いか!たとえばデッカの最新のリングなどはもう少しその利点を生かして、例えば神々の黄昏の1幕などは1枚にしてほしかった。要はオペラは各幕通して聴きたいのだ。SACDならそれができるのにやらない。行った例としてはクナッパーツブッシュのバイロイトライブのSACD化(最新のもの)では長大なパルジファルの1幕が1枚にすっぽり収まっている。
  このブロムシュテットのベートーヴェンを見てやればできるんではないかとと云う思いと、姑息な音楽会社の発想にあきれてしまった。まあシングルレイヤーと云うこともあるかと思うが、まあよくぞやってくれたと感謝したい。ちょっと本題がそれて失礼。


  さて、聴き始めて思ったのは予想通りだった。いまのブロムシュテットとはまるで違う演奏だ。もちろん今はベーレンライター版を使って指揮しているので速度などが異なるのは分かるが、これをただの変化とみるか、指揮者の成長とみるかは素人の私にはわからない。はっきり言えるのはライブで聴いた2曲は聴き手を緊張させ、興奮させ、もっと言えば圧倒さえさせられる演奏だったが、今回聴いて9曲の演奏はもっとやさしいベートーヴェンということである。
  この演奏は1975~79年にかけてドレスデン、ルカ教会で録音されたものである。オーケストラはシュターツカペレ・ドレスデンである。録音は少し低音が過多のようでこれが少々気になった。それがその音圧レベルにばらつきがあるのは、指揮者の指示なのか、録音上のものなのかは定かではない。

  さて、最も見事な演奏と思ったのは「英雄」である。これは剛毅な演奏である。骨組みががっちりしておりいささかも揺るがない。全曲通しての印象は習字でいえば楷書風で、きちんとした演奏と云うのはどの曲にも感じられる。しかしこの「英雄」はそれを踏まえて大きく飛び立とうとしている、新しい交響曲の技を身につけたベートーヴェンの気概と高揚感が大きな感動を生む。

  次いで「八番」が素晴らしい。これも楷書のようできちんきちんと音を刻むが、その音の一音一音が軽快なようでいて、大地を踏みしめる重さを感じるあゆみで、この曲の新境地を切り開いた印象を受けた。
  「四番」も素晴らしい。これはゆったりしたテンポの中で音楽が進むのは他と共通しているが、八番と同様、一音一角を揺るがすことなく音楽が進むので、ギリシャ乙女と云う印象は薄いが、アポロン的な清冽さを感じる。それはシューベルトの五番で感じた世界に通じるが、しかし、これはベートーヴェンである。この清冽さの根底には、どっしりした根っこのようなものが絶えずうなっていて、やさしさと凄味が同居している音楽であることも知らせている。

  「七番」はちょっと奇妙な演奏だった。1~2楽章はまるでフルトヴェングラーを思わす壮大さだが3~4楽章はまたブロムシュテット流、楷書に戻ってしまう。しかしこの楷書に戻って、実は私はほっとしたのを忘れない。むしろ後半の方が、ずっと音楽が締まっていて聴きごたえがあった。
  初期の一番や二番は少々期待外れ。ここにはきちんとした音楽の運びは感じられるが、若きベートーヴェンのやったるぞと云う気迫とか、例えば二番の4楽章で聴けるような高笑いのような、高揚感は聴けない。

  「運命」も七番と同じで楽章ごとの演奏スタイルが変わっているような気がして落ち着かない。特に4楽章になってなんで急に走り出すのかわからない。これを聴いているとブロムシュテットはあまりベートーヴェンが好きではないのかと勘繰りたくなる。

  「田園」は期待外れ。録音のせいか弦や木管があまり美しく聴こえない。5楽章の高揚感も乏しくここは淡々と音楽が進む印象。「合唱」は正直言ってよくわからなかった。前半の2楽章は現代の演奏とは違って、懐かしかった。これは堂々たる名演と思うが、3楽章はこじんまりして、音楽が蕾のまま終わってしまった感じ。4楽章は録音のせいもあるかもしれない。独唱の4人が離れすぎているのと、合唱が引っ込み過ぎているのとでバランスが悪い。ブロムシュテットもここでは興が乗ったかテンポを動かしているが、私にはいこごちが悪かった。
  まだ1回しか聴いていないのでもう一度聴いたらまた違うかもしれない。

  ベートーヴェンは私の音楽史にとって重要で、CDの数も群を抜いている。交響曲全集だけで何セットあるのかは定かではない。しかしこれだけは絶対最後まで取っておこうという全集は4つである。

1.カラヤン/ベルリンフィル(1961-2)
  カラヤンはステレオでは3種類録音している。そのなかでこれは最初のもの。最充実期の70       年代の録音といつも迷う。どちらも私のベートーヴェン史の原点である。

2.ノリントン/ロンドンクラシカルプレイヤーズ(1980年代)
  古楽団体によるベートーヴェンの初体験。ここで聴く「二番」は初めて聴いたときにはのけぞってしまうほどショックだった。

3.ジンマン/チューリヒトーンハレ(1990年代)
  ベーレンライター版のモダンオーケストラによる初の全曲演奏。まあこのあと同工異曲のものがぞろぞろ出てくるが、先鞭をつけたジンマンの偉大さを忘れてはいけない。たしか1枚1000円のCDだった。その完成版が2000年にウイーンフィルと録音したラトル盤

4.シャイー/ライプチッヒ
  これが私のベートーヴェンのゴールである。今もってこれを超える演奏はない。

  ブロムシュテットを聴いて、しばらく聞いていなかったベートーヴェンをまた聴きなおそうという気になった。2か月くらいかかるかな(笑い)
  今日はこれから「ドン・パスクワーレ」を聴きに行きまーす。

                                     〆

  

  

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チェンバロと云う楽器は家で聴くときは細心の注意をしなくてはならない。すなわちレベルコントロールである。どの程度の音量で聴くかということだ。
  チェンバロをライブで聴いたのははるか昔のの事で確か小林道夫氏の演奏したバッハのゴルトベルク変奏曲だった。東京文化会館小ホールだった。あそこはコンクリートで固められたトーチカみたいなホールでとにかく音が大きくなるように思えるホール。チェンバロってこんなに大きな音が出るんだと、びっくりした記憶がある。
  しかしその調子で我が家で、その音をイメージして音量を設定するとチェンバロに頭を突っ込んで聴くことになってしまい、音楽を楽しむことなどできなくなる。チェンバロと云う楽器は思うにあのようなホールで聴くのではなくてヨーロッパの宮殿とか小さな教会でひっそり聴くのがベストではないかと思っているが、まだそういう設定でこの楽器を聴いた事がないのは残念だ。

  しかしそういう場所で録音したCDというのはある。最近(といっても2018年録音)嵌まっているのは、ミラノのサンマルコ教会で録音されたアマヤ・フェルナンデス・ポズエロという女流音楽家のCDがその一枚である。このCDを適正な音量で聴くとき我が部屋は教会になる。
  これはスカルラッティの音楽と同時代の作曲家を並列して聴くという趣向の作品集である。この録音で聴くチェンバロの音は自分があたかも教会の片隅に座っているような気分にさせられてたまらなく好きだ。とくにスカルラッティの短調の曲はスペインの情緒と哀愁を漂わせた演奏でまるであの時代にワープしたような気分だ。例えばソナタKー213やKー1、Kー98などである。同時代の作曲家はほとんど知らない人ばかり。ソレールとかアルベロとかだが、なかでも注目したのはフェリックス・マキシモ・ロペスというひとの舞曲風の変奏曲が素晴らしかった。それはスペインの匂いがむんむんするような音楽だった。
  もう10年以上前に初めてスペインに行った。ツアーに入ったらくちん旅行だったが、バルセロナでのフラメンコには大いに感動させられた。踊りはさておき、ギターと渋い男性の歌が素晴らしかった。このCDを聴いていると随所にその時の記憶がよみがえる。
  話は違うがフラメンコギタリストのマニタス・デ・プラタと云う人がかつて一世風靡したが、あのCDはどこへ行ったか?あれも暑くなる演奏だった。

  さて、元に戻ろう、スカルラッティは古くはホロヴィッツのCDでピアノで演奏された作品集がお気に入りだった。その後いろいろとピアノの演奏を聴いてきた。カーヴェ、スビドン、ポゴレリチなどどれも楽しいが、短調の曲の哀愁味を感じさせるのは矢張りチェンバロでなくてはならない。そういう意味では今はポズエロの演奏が最も気に入っている。スカルラッティがお好きな方にはお勧めの一枚である。

  もっとも私にとってはスカルラッティのバイブルと云うべき演奏はスコット・ロスによる全曲演奏盤である。約600曲が納められている。まだすべて聴きつくせたとは言えないが、時折チェック用に引っ張り出したり、ぼーっとしながら聴きたいときには引っ張り出して聴いている。

  バッハをチェンバロで聴くかピアノで聴くか悩むときがある。例えば平均律全曲を何で聴くか?
私はレオンハルトのチェンバロを時々引っ張り出して聴くが、最後まで聴けない。いま気にいっているのはアンジェラ・ヒューイットのファツオリ(ピアノ)による全曲演奏である。グールドよりもこちらの方がずっとバッハが身近に聴こえる。
                                         〆

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ワーグナーの「ニーベルンクの指輪」、全4作、ゲオルグ・ショルティ指揮、ジョン・カルショープロデュースの最終作品「神々の黄昏」の2022年、リマスター盤がいよいよ発売された(6/30)。我が家には発売日に到着。時間がなくて通しては聴けなかったが、3幕に分けて3日ほどかけて聴いた。

  前3作の「ラインの黄金」、「ワルキューレ」、「ジークフリート」と比べて大きく印象が変わることはなかったが、しかし4つのレコーディングの中で聴き終わった後の感銘は最も深い。それは作品のドラマとしての力によるものだろうが、ジョン・カルショーによる「音だけによる演出指示の具現化」が最も成功していることによるものでもあるし、むしろその効果の大きさを私は評価したい。
  このCD4枚を聴くと、少なくとも「神々の黄昏」については私の貧弱なリスニングルームはまさにオペラハウス化する。歌手は目の前に屹立し、私に語り掛けてくれる、舞台は見えなくても、音で舞台を思い浮かべることができる。つまりたとえて言えば、このくそ暑い日に電車に乗って、オペラハウスにいって、嫌なオヤジの横で聴く必要がないのだ。それほど今回のリマスター盤は素晴らしい。

  この前のSACD化はエソテリックによるものだが(2009年)、あのディスクは今回の版と比べると、おそらくLP(デッカ盤の)を高級なアナログプレーヤーで再生したものとの類似性を感じるが、今回のリマスター盤はカルショー/ゴードン・パリーの二人の頭に描いた音が刻み込まれているといって良い。多分2人が存命であればこのリマスター盤こそ我々の音だというだろう。
  エソテリック盤はデッカの特徴である華やかな迫力のある音を十分再現してくれた。以前にも書いたが、私が初めてこのショルティの録音群をLPで聴いたときの、オルトフォンSPUGT(カートリッジ)+パイオニアのPAX20F(スピーカー)の組み合わせで聴いた音を、エソテリック盤はさらに精華させて聴かせてくれた。しかしリマスター盤はそれとはまた次元の違うサウンドを生み出しているのだ。

  今回のリマスターで印象的なところは書いたらきりがない。でも少し書く。まず歌い手がそれぞれがとても自然になった。ディースカウの声はかつては(LP時代から)少々膨らみ過ぎて違和感があったが、今回の盤では実に自然である。クリスタ・ルートヴィヒもそうだ。ワルトラウテは地味な役だが、この盤で聴くと、ワルトラウテの悲嘆が痛切に伝わる。
  ジークフリートがグンターに入れ替わる場面は、実際の舞台ではありえないことをカルショーはやっている。過去のLPやCDではいかにも合成したように感じて違和感があったが、今回の盤でこれまた実に自然である。これがもともとのカルショーの狙いだったのだ。
  2幕の冒頭のハーゲンとアルベリヒの対話。この時のゴットロープ・フリックの凄味のある声は、感嘆すべきだし、そのあとの兵士たちを招集する場面も豪快で彼こそ唯一無二のハーゲンだと思う、そのことがリマスター盤では一層明示される。

  ジークフリートとブリュンヒルデの二人はどの場面でも感動的だが、なかでも1幕のラインへの旅立ちのシーン、2幕のジークフリートの裏切りの場面が素晴らしい。
  特にジークフリートは1幕の媚薬を飲む場面、そして3幕の媚薬から解放される場面が素晴らしく、この精妙な歌唱はおそらく舞台では聴きえないものだろう。

  そして今回最も効果を感じたのはオーケストラである。ウイーンフィルの音が今までの中で最も美しく力強く我が家では鳴り響いた。これはエソテリック盤と比べると、今回のリマスター盤はずっと生(ライブ)に近いのだ。
  さらに忘れてはいけないのは、リマスター効果によってだと思うが、序幕のノルンの場面や3幕の冒頭のラインの乙女の場面で代表されるように定位が素晴らしくいいのだ。その他定位の良さは随所にあり、これは聴いていただくしかない。

  さて、雑駁な試聴記なのは聴き手が興奮しているためとご容赦いただきたい。過去の3作についてはエソテリック盤と今回のリマスター盤と迷うところがあって、結局私は両者を気分に応じて使い分けようと結論付けた、しかし「神々の黄昏」についていえば、今回のリマスター盤が圧倒的優位にあるといわざるを得ない。
  しかしこれも何度も言っているが、エソテリック盤の甘さと云うか、もともとのデッカ色の強い録音はまだまだ魅力があるのだ。それは私の若き苦難の時(オーディオで)に感動したあの音がエソテリック盤では感じられるからである。結局だからこそ「神々の黄昏」もエソテリック盤は記念として大事にしたい。

  私はLPは今は持っていないので記憶だけで申し上げるが、LPを金科玉条のごとくに愛聴している方も機会があればぜひこのリマスター盤(SACD)を聴いていただきたい。ワーグナーがお好きな方であればあるほどのけぞるだろう。

  最後に一つだけ不満を言おう。全4録音の中で「ジークフリート」だけが各幕細切れであることが悔やまれる。たとえば「神々の黄昏」は1幕は2枚、2幕1枚、そして3幕も1枚となっておりディスクのメリットが出ているが、ジークフリートは1幕も2幕も3幕もみな途中で盤を交換しなくてはならない。これではディスクの意味がない。値段は同じでも3枚にカットすべきだったと悔やまれる。

  たとえば同じデッカからクナパーツブッシュの指揮した「パルジファル」はあの長大な1幕が1枚のSACD盤に収めてある。だからこの1幕は盤を取り換えなくて全曲が聴けるだ。その成果がジークフリートにはいかされていないのは残念だ。
  
  今年の夏は我が家がバイロイトになる。
                                        〆

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デッカによる音楽史上初の「リング」のステレオ録音が1959年の「ラインの黄金」から始まったわけだが、その第二弾は以前にも書いたように「ジークフリート」になった。1962年である。
  その2022年リマスター盤が今年の3月31日に発売となった。この2022年リマスター盤としては「ラインの黄金」、「ワルキューレ」に続く第3弾となる。

  今回の視聴も基本的にはさきにSACD化されたエソテリック盤との比較をしながらとなったが、印象としては前2作と大きく変わることはない。
  まず新リマスター盤はじつに音が清澄であることが云える。それに対してエソテリック盤は原音が一緒だから大きく変化することはないのだけれど、なにか音に付帯物がついているように感じるのである。しかしそれは決して嫌な音ではないのだ。むしろとても懐かしく、最初にこの演奏をLPで聴いたときの印象にとても近いと云えるのだ。そしてこれは昔からバイロイトの音はきっとこうなんだろうなあと思い描いていた音に似ているのである。
  それに対して、この2022年リマスター盤は私が2008年に初めてバイロイトでリングを聴いたときの印象に近いのである。穴倉のようなところから出てくる音だからきっとくぐもった重々しい音が出てくるのに違いないと思っていたら、あにはからんや、ティーレマンの棒からは、実に澄明なサウンドが紡ぎだされてきたのである。これはラインの黄金から神々の黄昏まで一貫してそう聴こえたのだから、やはりそういうサウンドなのだろう。ティーレマンが如何に音を大きくしても、不思議と聴こえてくる音楽の透明感は変わらないのである。

  CDで同じ体験はクナッパーツブッシュが指揮をしたバイロイトライブの「パルジファル」のタワーレコード企画のリマスター盤である。ここでは会場ノイズがキャンセルされたこともあり、かつてCDで聴いてきた音に比べてその透明感、澄明感は際立って聞こえたのである。
  
  リングに戻るがそういう意味ではデッカのスタッフ、なかんずくカルショーとパリーのコンビがバイロイトの音を再現したいという夢は、今回のリマスター盤で実現したといっても良いだろう。LP盤もリマスターしたものが輸入されているらしいから、アナログ派の方も、ぜひこのリマスターしたLPを聴くべきだと思う。云い忘れたがCD層のサウンドも同じ傾向の音なので、SACDが聴けないプレーヤーをお持ちの方もこの録音は聴く価値があるのだ。

  1幕の前奏曲の低音部分の深々とした音はけっして鈍重ではなく、透明感を保っている。それはラインの黄金の幕開けと同じである。
  この「ジークフリート」でたまげたのは最初のミーメのモノローグである。左スピーカーの中央から少し下目に位置して歌われているように聴こえるのだが、それはまるで私の部屋の左隅でうずくまって歌っているようで、思わずスピーカーの方向をみて身震いするくらい、リアルである。
  ジークフリートの「溶鋼歌」と「鍛造歌」は録音の演出としてはデッカの腕の見せ所で、LP時代から聴かせどころだった。エソテリック盤でも見事なサウンドだったが、ここではさらにいっそうシャープさが聴きとれる。特に鍛造歌の金属と金属がこすれる音(叩かれているのだが)がさらにいっそう鋭く、明快である。
  歌い手はウイントガッセン、ホッター、ナイトリンガーは一皮めくれたように若々しく聴こえる。とくにウイントガッセンは限界説をささやかれ、カルショーは代役を探したくらいだったが、このリマスター盤ではそんな危惧は吹き飛ばされたような歌唱である。
  ビルギットニルソンとウイントガッセンの第3幕の幕切れの2重唱もこれも一皮めくれたような澄明な歌唱が聴けて素晴らしい。
  しばらくワーグナーのリングはこのショルティのエソテリック盤と2022年リマスター盤で決まりだ。

  もちろんウイーンフィルのサウンドも上記のとおりである。

  こうやってこのようなリマスターされたCDを聴いていると、昨今のワーグナーの舞台や録音、映像などはまるで物足りないのだ。現在のワーグナーの歌い手はもう1960年代の歌手たちとは比べようもなく貧相になってしまっており、もう高い金を出して劇場に足を運ぶより自室でくつろいでCDを聴いたほうが何倍も感動するのが今では常になってしまった。

  イタリアオペラも同様で、先日聴いたムーティ指揮の「仮面舞踏会」も半世紀前のムーティの録音や、同じころのコリン・デイビスの指揮の録音のほうが、残念ながら何倍もすぐれている。デイビス盤のホセ・カレーラスとモンセラ・カバリエとの歌唱はいまではもう夢だろう。しかしそれを現実として受け入れねばならない。さて、どううけとめようか?
                                     〆

相変わらず北欧につかまっている。音楽も本も映画も!残念ながら北欧はスエーデンに一度仕事で行った(マルモ市)だけで全く土地勘がない。本を読んでいても映画を見ていても地図を片手で読む始末だ。しかしどうして嵌まってしまったのか?
  例えばアイスランドの映画を見ていると全編雪に覆われているような景色が画面を占めていていかにも寒そうだが、内容は別として、これはアラビアのロレンスがなぜ砂漠に魅力を感じるのかと云う問いに対して「IT IS CLEAN」と答えているのと関連がある。私が北欧に嵌まっているのはイメージとして「CLEAN」まさにロレンスの答えと近似している。しかし北欧ミステリー見たり読んだりしていると決してCLEANではなく血みどろの内容もあるのだが、まことに摩訶不思議なインパクトだ。

  しかしクラシック音楽のシベリウスになるとまさにCLEANと云う言葉にふさわしい。これもシベリウス自身がCLEANだったかどうかは別だが!

  話は飛ぶがかなり前に「カラヤン60’s」というCD80枚セットで彼の60年代にグラモフォンに録音したボックスを手に入れた。2月は比較的音楽会が少ないので、暇に任せてもう一度通して聴いてみようと思い立った。ただ聴いたのはベルリン・イエスキリスト教会で録音した交響曲や協奏曲が中心で、サンモリッツで録音したバッハやらヘンデルはパスした。どうもカラヤンとヘンデルなどバロックはイメージが合わないためだ。

  さて、今回聴いて最も感銘を受けたのはシベリウスである。このボックスには交響曲四番、五番、六番、七番そしてヴァイオリン協奏曲とフィンランディアなどの管弦楽曲が収録されている。この中で最も素晴らしいのは五番である。一楽章が始まったとたん部屋の空気はひんやりと冷気に包まれるようだ。この空気感は私のイメージの「北欧」なのだ。前半のクライマックスのきりっとした進め方は、氷を切り裂いてスケートで進むようだ。4楽章の盛り上がりは流石に熱気をはらんでいるが、それでもヴァンスカなどのご当地指揮者と比べると熱量は低く感じる。しべリウスと云うとかつてはバルビローリやコリン・デーヴィスなどの名指揮者の全曲盤が人気を博したが、今ではベルグルンドやらヴァンスカやら北欧の指揮者の演奏が人気があるようだ。
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  ただ私には彼らの指揮するシベリウスを聴いていると「おらが国さ」の音楽と云うこともあってか、熱量が高すぎるような気がして、カラヤンで感じる北欧への私のイメージがあまり感じられない。

  話は違うがカラヤンがドビュッシーの「海」を指揮したCDもこのボックスに収録されていて、それも素晴らしい演奏になっている。しかしそれはミュンシュなどのフランス人の演奏とは少し違うところがシベリウスで感じた同じことが感じられる。カラヤンの海は疾風吹き荒れる、北の海、波も高く、海の色も黒く感じる。同じ海でもえらく違うのである。異色のドビュッシーではあるが、これはカラヤンの個性が充満している演奏であると思う。
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  北欧~シベリウスから脱線してしまった。カラヤン60’sのなかで今回良かったと思ったのは、やはりベートーヴェンの交響曲特に七番、ブラームスの三番などドイツ物があげられる。
  また、3回も録音したチャイコフスキーの後期の3つの交響曲の内やはり「悲愴」は特に素晴らしい。80年代のウイーンフィルとの録音よりも、覇気のある若き(と云っても50歳代)カラヤンを彷彿とさせる演奏で、私は今回大いに共感して演奏だった。
  今回がっかりしたのはベートーヴェンの「ミサソレムニス」、あまりにも重々しくて、ちょっと鬱陶しい。そのほかでムソルグスキー(ラヴェル編)「展覧会の絵」これもいささか鈍重でがっかりした一枚。過去良いなあと思っていても、こうして聞きなおすとまた違った印象になるのは、年齢のせいだろうか?

  ついでに北欧ミステリーについてひとこと。最近の作品では「チェスナットマン」(セーアン・スヴァイストロフ著)が面白かった。近年読んだ小説でもトップクラス。これはデンマークを舞台にした連続殺人事件を男女の刑事が追うというもの。社会性・政治ドラマの要素もあって構想は雄大だ。
  これはNETFLIXで6話にまとめられ(全体で300分)映画化されている。「裏切りのサーカス」や「キジ殺し」にもでている性格俳優も加わって役者もなかなかのもの。本を読んでから映画を見るべし。映画はかなり本に忠実である。
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  そのほかではシリーズになっているようだがアイスランド映画のトラップ/流血の地も面白い。アンドリとヒンリカと云う男女の刑事(ヒンリカは警察署長)が殺人事件に挑むというもの。
  まあNETFLIXは次から次へと繰り出してくるので、誘惑には勝てない。〆

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