ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ: 映画

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  久しぶりの読書投稿だ。あまりに面白いので書き始めた次第。

  アメリカの作品でアメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)、最優秀長編賞受賞作品である。
帯にはベストミステリーとか犯罪叙事詩とかの文字が踊っているが、そのどれもが的確でないような気がする。戦争叙事詩と云う表現も付け加えたい。と云う具合でいろいろな要素を包含した大作である。

  物語の発端はホノルル。1941年、真珠湾攻撃わずか前のでき事。2人の男女が惨殺される。ホノルル警察のジョー・マグレディ刑事が担当することを命じられる。彼は陸軍を大尉で退役し、ホノルル警察に転職し5年の地味な刑事である。相棒はマッチョなフレディ・ボール。二人は捜査を開始する。まあ読み始めはバディ物の警察小説かと思いきや、被害者の男性がハワイの司令官、キンメル大将の親族であることから事件は複雑な様相を呈してくる。  
  命を受けて、マグレディは犯人を追って香港へ、そこで太平洋戦争が勃発。マグレディはそこから数奇な運命に翻弄される。原題はFIVE DECEMBERS、つまり1941年から5回の12月を迎えるというわけだ。まあこの後は詳しくは書けないが、戦時下のマグレディの数奇な運命と彼をとりまくアメリカ人や中国人、そして日本人たちの人間模様が、単なるミステリーでは終わらせない面白さだ。

  さらに本書の魅力は丁寧なリサーチに基づくリアリティだろう。日本へのB29の空襲や日本軍の香港攻撃、そして舞台になる数々の都市の描写などの考証が厚みを増している。最後までマグレディの行く末がわからないゆえに、本書は読み始めたら止まらない。
  映画化してほしい作品だが難しかろう。
                                          〆

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深町秋生の原作を原田真人が映画化したもの。深町の「地獄の犬たち」が原作になっている。やくざの抗争に、警察の潜入捜査がからむ話だが、小説では超無類のヴァイオレンスだが、映画は少々ソフトになっているのはやむをえないところ。
  地獄の犬たちは著者の「煉獄の獅子たち」の続編になっている。煉獄~で勝利を得た東鞘会は亡くなった会長の秘書を新会長(十朱)にして勢力を拡大する。旧型のやくざではなく経済やくざを目指し、海外での布石を打つ。原作にはあったかどうか自信はないが、ウガンダの象牙の密輸にも絡む。また政府官憲にも手を打って、現代型やくざとして君臨する。

  これに対して対抗勢力との抗争が勃発する。
  主人公は兼岡(岡田准一)、バンコクで東鞘会の下部組織に食い込み、その組織員の室岡(坂口健太郎)とバディになり、裏のダーティーな仕事(殺しなど)で頭角を現し、またたくまに若頭補佐まで上り詰める。しかし兼岡には秘めた過去があった。
  東鞘会、対抗やくざ、警察の潜入捜査の三つ巴でクライマックスを迎える。

  原田監督はやくざを美化しているわけではないが、人と人との紐帯を重んじる組織風土と、警察などの非情な官僚組織と対比して描いている。それは熊沢組の組長がカラオケでヴェルディの「ナブッコ」から第3部の「おもいよ、金色の翼にのって飛んで行け」を歌うことにも表れている。
  熊沢の葬儀でも仲間たちがそれを歌うのだ。ナブッコはバビロンの王、ユダヤ人を故郷から追い出した張本人、熊沢の歌はその追い出されたユダヤ人の故郷を思う歌なのだ。つまり同胞愛を歌い上げているのだ。それとやくざの中の人間の紐帯の大切さをかけているのであろう。
  だから潜入捜査の責任者の阿内を思い切り嫌な奴に描いている。要するに官憲側にはそういう愛はまるでなく、非情に徹しているように描いている。

  岡田准一の兼岡はもう少し武闘派的なマッチョ風の立ち居振る舞いが、肉体から生れ出てきてほしい。坂口の室岡はサイコパスを見事に演じている。坂口は「模倣犯」でもこういう役を見事に演じているが、鎌倉殿の泰時よりずっと嵌まっている。将来アンソニー・ホプキンスのような役者に大成してほしい。
  その他では熊沢が古風なやくざを演じて共感を呼ぶ。大竹しのぶが息子がやくざに殺されたマッサージ師を演じていたが、この人はもう何をやっても様になるので驚いてしまう。
  会長役の十朱(MIYAVI)は役と役者のイメージが少々離れてやしまいか?

  その他カルト的宗教団体の二世なども登場し現在の日本を俯瞰できそうな映画全体の構造が原作をうまく翻案しているといえよう。
                                    〆

2023年1月24日

  先週の週刊文春で林真理子さんの連載「夜更けの縄跳び」というエッセイを読んでいたら、私と同じような人が世の中にいるものだなあと感心してしまった。勝手ながら文春のエッセイを引用する。
「ところで私(林氏)は最近、ネットフリクスを自分に禁じた。限りなく私の時間を奪い取っていくからである。ネットフリックスは、面白いプログラムを最後まで見続けると、あっというまに次回が始まる。吸い込まれるようにシリーズを見てしまう」
  林さんはハリー&メーガンで嵌まってしまったらしいが、私は北欧ミステリーに嵌まってしまったのだ。とにかく韓国ドラマとは言わないが、これらのミステリーはどれも長い。それがこちらで断ち切らない限り次から次に、シーズン,エピソードが進むのだ。

  今まで見たのでおもしろいのは以下の通り
1.刑事ソフィア・カルピ/DEAD WIND これは一番長くてシーズン3あってそれぞれエピソードが8つもある。最後まで見ると24本。それが各回完結のようでそうでもないのだから困る。1本は大体45分である。これはフィンランド映画

2.ロレンス・コグ失踪事件、これは確か6シリーズくらいで一気見だ。ノルウエー映画
3.ヴァルハラ殺人事件、これも何シリーズかあって面白かったが、これはアイスランド映画、見ていても寒くなるような情景がいかにもアイスランドを思わせる映像で興味深い。

4.今見ているのは「ボーダータウン」というフィンランド映画。カルピはヘルシンキが舞台だったが、この映画はラッペーン・ランタというロシアとの国境に近い田舎町の警察を舞台にしている。もうザンクト・ペテルブルグは目と鼻、ロシアマフィアの通り道のボーダータウン。主人公カリは中央警察にいたが、希望して妻の故郷の町の警察署に転任。そこで次から次へと事件を解決する。これは相当長いが2回で一話完結だからまだいい。


  さてかくのごとく北欧ミステリーに嵌まってしまったのはいかなる訳だろうか?
きっかけは古本屋である。我が家は新宿から6駅の都内であるが、古本屋が一軒しかない(ちなみに本屋も一軒しかない、非文化的な街に住んでいる)。だから読みたまった本はその古本屋に持ってゆくしかないのだ。ある日その古本屋のオーナー(まだ若いがよく本を知っている、1冊1冊買取価格の理由を説明してくれる)が彼の母親の読んだミステリーが面白いですよと云ってくれた。そこでそのコーナーに連れて行ってもらったのだが、そこが海外ミステリーコーナーだった。そこでとった1冊が事の発端になる作品へニング・マンケル著の「殺人者の顔」という文庫。

  これはヴァランダー刑事シリーズになっていて、結局嵌まってしまって、そのシリーズを最後まで読み通すことになった。これはスエーデンのイースタというストックホルムから南に降りた海岸線の町である。小さな町で殺人事件が起きると担当はヴァランダーを入れても4~5人に、鑑識がひとり。毎シリーズ殺人事件が起きてヴァランダーが解決するというお話。

  それにしても映画(TV映画がほとんど)にしても文庫本にしてもどうしてこう嵌まってしまうのだろう。結局今までに見たのはすべて警察官が主人公の作品だ。
  一言でいうと彼ら一人一人がじつに魅力的だということだ。

  ヴァランダーはとにかく事件にになると他の事が目に入らない。肝心な時に携帯を忘れたり,鑑取りにいってもメモ帳を忘れたり、とにかくずぼらだ。それはそれとして、これらの映画や文庫の主人公の警察官は一様に、捜査になると家族もなにも忘れて夢中になるところが共通、そして彼らのひらめきが事件を解決するのだが(それも共通)、そこのプロセスも面白い。

  ヴァランダーシリーズもそうだが、警察組織についても言及することも忘れない。そしてもっとも大きな特徴は、今まで触れたどの作品も何らかの家族との軋轢やトラブル、家族関係の悩みが必ずあるということである。エピソードによっては半分くらい家族関係の記述と云うものもある。

  女刑事カルピの場合は夫が海外に勤務していた時に交通事故で亡くなり、カルピは幼い少年と、高校生の少女の親としての役割がある。しかしいったん仕事になると家族を省みないので、家族間の軋轢が大きい。特に長女は亡き夫の連れ子だけにトラブル続きで、犯罪に手を染めてしまうという設定まである。

  ヴァランダーはそれほど厳しい家族環境ではないが、妻と離婚して傷心の日々、娘はあまりなつかず、家を出る、父は息子が警察官になったことに不満などと云う設定が、通奏低音のように、シリーズの中で描かれてゆく。

  今見ている「ボーダータウン」シリーズでは主人公のカリ刑事は中央警察のやり手だったのだが、この僻地に転任してきた。理由はよくわからない。妻はこの町、ラッペーン・ランタ育ちで市長は昔の恋人、娘は半分反抗期で変な男に引っ掛かるなど気の休まることはない。
  それに元ロシアのFBS(旧KGB)のレナがフィンランド側で娘の誘拐事件にかかわったことで帰国できず、ラッペーンランタ警察に勤務するなどいかにもボーダータウンらしい設定もある。
  ネットフリックスというのはスゴイシステムで、私が見ていて「いいね」なんてサインをしようものなら、次から次へとおすすめの映画がでてくる、それがまた皆北欧のミステリーなのである。どれも面白そうなので、ボーダータウンが終わってもまだ見続けることになるだろう。

  しかしそうさせたのは劇場用新作映画の貧弱さだろう。今年はツタヤのレンタルもやめてしまった。いまみたい映画と云えば「アバター」の新作くらいで、ほかには手が出ない、日本映画はアニメかその映画化のような作品ばかり、で情けない限りだ。


  蛇足ながら、北欧のミステリーで燦然と輝くのは次の2つの作品だ。いずれも映画化されているし、原作の小説も無類の面白さ。

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  一つはミレニアムシリーズ、なかでも「ドラゴン・タトゥーの女」が映画も小説(スティーグ・ラーソン著)も無類の面白さ。特に主人公のリスベット・サランデルの造形の素晴らしさは燦然と輝いている。映画は2009年、ノオミ・ラパスを主人公に上映されたが、一躍ラパスを世界的な女優にしたといって良いだろう。シリーズになって完結しているが、第1作が小説も映画も面白い
  ルーニー・マーラでリメイクされたが、ノオミ・ラパスの会心の演技の足元にも及ばないだろう。スエーデンの作品である。


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  もう1作は「特捜部Q/キジ殺し」である。これはデンマーク映画(2014年)になっているが、原作はエズラ・オールセンの小説が原作である。これも小説/映画ともに面白い。主人公のマークは北欧警察作品のモデルのような男で、事件になると夢中になり見境がつかない,署内では煙たがれ、閑職に追いやられる。そこは地下室で過去の未解決事件ばかり担当するという職場。相棒はイラン人のアサドと秘書のローサの3人の所帯。ここで過去に事件をあぶりだすというところに面白さがある。シリーズになっているが「キジ殺し」と「カルテNO64」が面白い。

  しばらくは北欧ミステリーから足抜け出来そうもない。



  



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(聖なる証)/NETFLIX


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(最後の決闘裁判)

  最近は面白い映画もなく(ほとんど毎日1本は見ているが)、ブログも書く気にならない。しかしこの2作はいずれも14世紀と19世紀の歴史を背景にしてはいるが、今日的な訴求性を強く持っているところに興味を持った。いわゆる「ME TOO」で片づけるのは乱暴だが、そういう今日の社会の動きをいくらか背景に持っていることは間違いないのではあるまいか?見終わった後の感想はそういう印象だ。

  「聖なる証」/原題は「WONDER」は舞台は1862年のアイルランド、大飢饉の後遺症がまだ残る土地である。そこへクリミア戦争に従軍した看護師、ライト夫人(フローレンス・ピュー)が招聘される。
  ある寒村のオドネル家の娘アナ(キーラ・ロード・キャシディ)が4か月間も食事をとらず、元気に生きているというのだ。村人の宗教家や医師や村長らは相談して、看護師と修道女を招き、アナの観察を依頼したというわけだ。奇蹟なのかそれともフェイクなのかの判定意見を求めたわけである。

  オドネル家は宗教心の熱い一家で、アナもそれの影響を受けてと思われたが、食を絶つという動機と、4か月間も食事をしなくても元気だということに疑問を持ったライト夫人は、穏便に済ませたいという村の長老たちや、家族に反して、究明に奔走する。そして驚くべき真相にたどり着く。

  それの秘密はオドネル家の家族に会った。


  もう1本の「最後の決闘裁判」/LAST DUEL はリドリー・スコットのメッセージのはっきりした作品だ。時は1386年。100年戦争のさなかのフランスが舞台である。カルージュ(マット・デイモン)は地方長官の血筋、代々世襲で任命されている。友人のル・グリは血筋は良くないが、宗教家から、国王の寵愛厚い領主ピエール(ベン・アフレック)に取り入って、役人としてピエールの領地の財務状況を改善させ、ピエールの信頼が厚い、才子である。ひるがえってカルージュは武骨な武人である。
  裁判の発端はカルージュがスコットランド遠征中に、ル・グリがカルージュの妻(ジョディ・カマー)を強姦したことにある。映画の構成は、芥川龍之介の「藪の中」の様に3人三様の思いをそれぞれ独立させて描くようになっている。これにより3人の思いは分かるようになっている。
  結論的にいうと、カルージュの妻は強姦されたということを認め、訴えるのである。地方裁判所では却下されるが、王の元の宗教裁判になる。

  ここでタイトルの決闘裁判になる。これは「神明裁判」といって判決は神にゆだねるというものである、決闘の勝者が裁判の勝者なのである。敗者は実戦なので「死」を迎える。しかしこの場合訴えるのは女性だから、決闘はできないので夫のカルージュが後見人として代理でル・グリとの決闘に臨むことになる。

  この話はワーグナーのオペラ「ローエングリン」を彷彿とさせる。エルザ姫の偽証を暴こうとする魔女オルトルートはその夫テルラムントを立てるが、エルザにはいない。しかしエルザは神に祈り、神の国から遣わされた、ローエングリンを代理に選び、決闘に勝利するというものである。

  話は戻るがこの決闘裁判ではもし訴えた側が敗れた場合は、当然代理人の夫は死ぬが、妻も厳しい処刑を受けるというもので、訴える方もまさに命がけだった。

  さて、「聖なる証」と「最後の決闘裁判」で私が共通に感じたこととは何か?いずれも宗教にかかわることがまず挙げられるが、この2つの作品の根底には、性被害にあった弱者(女性)の救済を描いているということにあると思う。そういう意味でこの2本の映画は今日的であると同時にメッセージの強い作品といえよう。
  いずれも大変面白く見た。

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骨太の謀略物といえよう。ヨーロッパ小国が過去の亡霊と現在の政略の中で生きていることをリアルに描いている。フィンランド映画だ。原題は「OMERTA6/12」現題の意味は見ているとわかるが、OMERTA(黙秘と訳されていた)というのはテロチームの名前、6/12は12月6日のことでフィンランド独立記念日(1917年)のことをさす。イルカ・レメスと云う人の書いた小説「6/12」をベースにしている。

  この映画にはコソボ(20年以上前)紛争やフィンランドがロシアに地政学的に近いことからフィンランドの政治の立ち位置がいかなるものかなどが背景にある。

  12月6日の独立記念日、宮殿では国夫妻主催の大晩餐会が開かれている、そこへテロリストたちが襲う。テロリストたちの要求は首謀者のバーサ・ヤンコヴィッチの父親(戦争犯罪人としてフィンランドで刑に服している)ヤンコヴィッチ大佐の解放と国外逃亡だった。しかしこのチームの真の狙いは他にあり、それは某大国の陰謀によるものだった。

  今日ロシアによるウクライナ侵略が行われているが、このことが地政学的に欧州各国を大きく揺さぶっていることは間違いあるまい。特にロシアに接している国々は他人ごとではない。かねてよりロシアに隣接しているフィンランドはNATO加盟に揺れ動いているが、現在は加盟していない。本作ではフィンランド大統領はNATO加盟派として描かれている。またEU軍事委員会委員長のフランス人モレル将軍は超タカ派として描かれていて、宮殿内で拘束される。こういったことからこのテロの黒幕がどこかわかるだろう。

  現場でテロ対策を行うのは、フィンランド警察でありEU合同警察隊である。主人公はEU警察隊(もともとはサイバーテロ対策)のフィンランド人のタナーとスエーデン人のシルヴィアである。
カーチェイスあり、コンバット・シューティングありでそういった切り口でも見どころ満載の作品。この分野の好きな人は見逃せない秀作だ。
  この映画は一瞬たりともボンドシリーズのようなお遊びはない。常に緊迫感をはらんだ2時間。登場人物の一挙手一投足を見失ってはいけない。そして言葉ひとつ一つの意味は時には非常に意味深い。私は2回も見てしまった。



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