ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ: 映画

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是枝監督のカンヌ映画祭出品作品。現代の藪の中と青少年の心の悩みを組み合わせた映画。タイトルからはオカルトものかと思ったが全く当てが外れた1作。
  安藤サクラ演じるシングルマザーの麦野沙織はラガーマンの夫を亡くし、一人で長男湊(5年生)を育てている。この頃、湊の挙動がおかしいことに気付く。自分の脳みそが豚、だとか、傷をつけられたり、靴をなくしたり、髪を切ったり。問い詰めると担当の保利先生からの暴力らしいことが、湊からにおわされる。星川と云う少年とのクラスでのいじめにも関係がありそうだ。麦野沙織は思い余って学校に相談に行くが、けんもほろろ、次第にモンスターペアレント化してゆく。果たして実態はどうだったのか? 安藤サクラのモンスターぶりは怖さでぞくぞくする。うまい。

  この事件を母親,つまり麦野沙織側、と学校側,なかでも保利先生(永山永太)校長先生(田中裕子)そのたの事なかれ先生方(学校は事実はどうあれ保利に謝罪させれば事足れりと考えている)そして子供たち側。この3者が絡まりあいながら物語が展開してゆくが、映画ではそれぞれの立場が描かれるだけ。是か非はどこにも出てこない。
  

  子供に焦点を当てると、子供たちは複雑だ、転校生の星川依里(男です)はクラスでいじめにあっている、酔っぱらいの父親(中村獅童)からも精神的にも肉体的にもひどい虐待を受けている(お前の脳は豚の脳だといわれている)。
  麦野は星川へのいじめに参加しながら、次第に星川への友情を感じてゆく。それは星川はいくらいじめられても、いくら虐待されても全く天性の明るさを失わないからだ。それは彼は生まれ変わることを信じているからだ。麦野はそれを感じ取り、自らも父親の死に対してわだかまりを持ち、生まれ変わったらと云う願望を持つようになる。そこが肝だ。

  この3者の集団は接点がなきままにクライマックスの台風の場面に突入してゆく。
  今を生きる若者(少年)の心の襞はもう大人と一緒であり、それを導くのは非常に難しいということを改めて感じた。
  子供の心と対峙することの難しさを改めて感じる。しかしそれでも100%近い子供は大人になる。
                                          〆


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WINNYとは、主人公、金子勇(東出正大)が作り出したアプリで、著作権法に守られた映画や音楽、その他秘密の資料例えば警察の捜査資料などを簡単にダウンロードできる。2003年である。
  その当時の世界通念はそういうソフトが開発されても、罪になるのはそれを使って違法なダウンロードを行ったものが罪になり、ソフト開発者は技術革新を妨げるということで、罪には問われない。それが世界の判例だった。

  しかし、この映画ではWINNYを発明した金子は著作権違反、ほう助罪で訴えられて裁判になってしまう。弁護士団が結成され、刑事裁判のプロ秋田(吹越満)、パソコンに詳しい團(三浦貴大)が中心になって無罪を勝ち取るべく、法廷戦術を駆使する。
  これはWINNYを使った警察資料の漏洩を隠そうとする警察の陰謀であり、それゆえこの裁判は面妖なことに著作権者による侵害に対する訴訟ではなく、原告は警察なのであった。
  科学の進歩より自らの体面を守るための裁判、それをその当時の警察は選んだ。金子はその間、パソコンには触れられず、彼1人にとっても日本のAI界にとっても多くの損失をもたらしたものと思われている。
  映画は1審で敗れるところで実質終わる、あとはエピローグである。その後は説明でどうなったかはわかる。敗れたことの重み、その後の金子の空白の時間の重みを観客に考えてもらいたいということだろう。東出昌大のメイクと演技、見事オタクになっている。
                                       〆

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最後は昔懐かしい「オリエント急行殺人事件」、私の記憶ではこの作品の映画化は3つである。
一つはテレビでおなじみの「デヴィッド・スーシェ」がポワロ役のもの。2作目は1974年の「アルバート・フィニー」のポワロ役のもの、そして最新は「ケネス・ブラナー」がポワロを演じたもの。そのほかピーターユスチノフがポワロ役のものがあったような記憶があるが定かではない。尚74年の作品は、監督がシドニー・ルメットと云うのもうれしい。

  まあ、このクリスティーの原作の中でも最も有名な作品で、多くの人はその筋を知っていながら最後まで見てしまうという代物である。わたしは「デヴィッド・スーシェ」のものが最も原作の味を出していると思うが、今日の映画は74年版オールキャストで映画化したものである。

  これは配役を見ているだけで楽しい。ショーン・コネリー、バネッサ・レッドグレーブ、ジャクリーヌ・ヴィセット、ローレン・バコール、マイケル・ヨーク、アンソニー・パーキンス、リチャード・ウイドマーク、マーチン・バルサム、そしてなんとイングリッド・バーグマンなどなど。みなとても楽しんで演技しているようだが、わたしにはアルバート・フィニーはミスキャストとしか思えない。ただのチビで嫌味なオヤジとしか思えないのだ。それ以外の俳優は見事としか言いようがない。

  多分日本ではポワロと云えばデヴィッド・スーシェしか思い浮かばない人が多いかもしれない。このスーシェと云う人は劇場用映画では脇役でなかなか多くの映画に出ている。私が覚えているのは「BANK JOB」でジェイソン・ステイサムの仇役になる悪党役。まあポワロとはずいぶん違うが、俳優と云うのは大したものだといつも思う。

  さて、74年版を持ち出したのはただの懐古趣味だ。NHKのBSで放送していたのを何気なく見ていたら最後まで見てしまった。とても面白かった。いまどきこんな映画は作れまい。
                                          〆

ひさしぶりびツタヤの会員になって、新旧作をあさったが昨今の漫画全盛の映画界、どうも面白い映画に遭遇しない。前にも書いたように私は基本はコメディや恋愛ものは見ない(もちろん例外はあるが)ので範囲が狭められている。そのなかで見たのが以下の3本。


1リヴォルバー・リリー
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綾瀬はるか主演のハードボイルド。原作は長浦 京。
  結論からいうと原作とはかけ離れたスタイリッシュな世界。大正末期の時代風景は感じられるが、しかしその中の生きる主人公たちはそれほどのほほんとしていられないはず。そのギャップが描けない。原作の血の匂いのする、ハードなヴァイオレンスはどこへいったのか?男も女も舞い踊るようで、原作の空気は無視。
  特に男声陣のワンパターン演技は監督の指示かもしれないが、気持ち悪くなる。女優陣ではわずかにシシド・カフカのクールなたたずまいが、画面から浮き出たようだ。
  綾瀬は「エミリー・ブラント」を見習うべきだろう。
  アクションの撮影レベルは韓国ドラマに落ちるほど。最も劇画風に駒落としでやったのかもしれないが、それでは原作に失礼だろう。


2.キリング・オブ・ケネスチェンバレン
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人種差別の根っこを鋭くえぐった佳作である。チェンバレン氏は海兵隊上がりの70歳、こどもたちとはなれて高級とは言えないアパートに一人住んでいる。心臓病や精神障害で、医療用通報装置が設置してあり、いざというときにそれが機関に伝わり、パトロールしている警官に訪問するように依頼する仕組みになっている。
  ある日、チェンバレン氏は間違ってその装置を誤作動させてしまう。ねぼけて作動させたことも気が付かない。しかし時間がたち、警官たちが訪問した時に自分のミスに気が付く。あわてて医療機関に取り消しを願うが、警官は反応のないチェンバレン家は怪しいと見立てて、捜査を続行する。
  チェンバレン氏は過去に警察ともめごとがあったらしく、またこの付近の警察の過激さを知っていることから、かたくなにドアをあjけることを拒み続ける。
  警官たちは段々冷静さを失い、云ってはいけない言葉まで吐く。もう住民たちや医療機関のいうことなぞ聴きゃしない。そして悲劇が襲う。

  もしこんがらがった一つの糸の一本でもほどければなんてことのない日常だったのに。その根っこにあるのは白人警官の黒人にたいする差別知識だと片づけてよいかどうか?

  大体パトロール隊に黒人警官が一人もいないなんておかしいということにもきずかない警官たち。SWATにはひとりいたが無抵抗。チェンバレン氏はどうすればよかったのだろう?これは実に厳しい実話である。主役のチェンバレンを羊たちの沈黙シリーズのバーニー役のフランキー・フェイソンが演じている。

3.WORTH/命の値段
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これも実話である。911のあと賠償問題が政府や航空会社に発生する。6000人もの犠牲者に対して一件一件訴訟をするのか、それには膨大な人と資源を必要とする。そこで政府は基金を立法して、ある一定の法則で金額を算定(命の値段=映画のサブタイトル)して被害者の家族にサインをしてもらうということを考えた。しかし問題はだれがこの命の値段を決めるのだ。期限は三年だ。

  マイケル・キートン主演の弁護士事務所を経営する弁護士、ユダヤ人のルークが自薦したのである。その当時は共和党の時代、ルークは民主党。政治的な思惑もあってルークは管理委員長となる。
しかし集会は第一回からおおもめ。それは事務所側の提案が故人の事情を全く無視して、数式のみで金額を算定してゆく方式だったからである。

  期限は3年、その間に和解ができなければ全件訴訟になりかねない。ルークは被害者の夫で、スタンリー・トウッチ演じる芸術家と親しくなり、次第に自分のかたくなな態度を緩めてゆく。
  このことをルークは期限内の3年間無償で行ったという。
  同僚役のエイミー・ライアンはいつも素晴らしい脇約。彼女の演技はいつも感心させられる。たとえば「グリーゾーン」のWSJの記者役など。このドラマに厚みを出している。トウッチも同様。
  感動的なドラマだ。
                                        〆

  

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ケイト・ブランシェット主演のクラシック音楽の世界を描いた力作。

  主人公はリディア・ターという音楽家、ベルリンフィルの首席指揮者になり、作曲も行い、著書も出版、講演活動や後進の育成も積極的。特に女性指揮者の育成に積極的だった。グラミー賞やアカデミー賞などの音楽賞は総なめ、しかも彼女の音楽の原点はペルーのある地域の少数民族の音楽だという。

  その彼女の多様な活躍は、往年のカラヤンやバーンスタインを彷彿とさせる。あえていえば現代(近未来)のバースタインやカラヤンの女性版ともいえるか?映画ではターはバーンスタインに師事したことになっていて、バーンスタイン同様、マーラーを得意にしている。舞台は彼女の絶頂で、得意のマーラーの全曲レコーディングをベルリンフィルでライブで行うという設定である。かなりの部分そのリハーサルに費やされている。

  彼女は同性愛者でそれは周知の事実。しかしそのことや彼女の絶頂で調子に乗ったのか足をすくわれたり?などから、スキャンダルに巻き込まれ、彼女が転落をしてゆく過程が後半描かれる。
  これは、男性指揮者がMEETO運動でパワハラやセクハラなどで落ちた偶像になったのとの相似形である。映画でのターの最後の公演は東南アジアの某国でのどさ回りなコンサートで終わる。

  現実にはシャルル・デュトワにしてもダニエレ・ガッティにしても最近は演奏活動をしており禊は終わったようだ。まあそれは余談。

  この映画を知った時にターは実在の人物で、結局男性社会を打ち破れなかった、女性指揮者の悲劇を描いたものだと思ってみたが、大いに当てが外れた。リディア・ターはこの映画が始まった時にはもうスターだったのである。そういう意味ではこれは近未来の映画と云えようし、結局女性がトップになってもやることは男と同じともいえるだろう。いろいろな切り口でこの映画を見ることができ、クラシック音楽のファンにとっては興味深い作品と云って良いだろう。ケイト・ブランシェットの力演が光る作品だ。

  世界では例えばシモーネ・ヤングが一時ハンブルグオペラの監督をしたりして、また近年ではバイロイトにもリーニフが登場したり、女性が次々に登用され始めているが、日本ではまだまだのようである。
  例えばブザンソンで女性として初めて優勝した松尾葉子がセントラル愛知交響楽団の常任指揮者になった例があったが、在京の私のよく聴くオーケストラでは相変わらずの男性天国である。ただニッセイオペラなどで女性の指揮者が登用されるケースがありそういう道もあるなあとおもった。まあいずれにしろ日本で「リディア・ター」が誕生するには、いましばらくかかりそうである。
                                          〆

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ベストセラーになった、ディーリア・オーエンスの原作の映画化。原作がとても面白かったので映画も鑑賞した次第。

  具体的に文章が映像になったのを見ると美しいが、原作の味とは少し異なっているように思える。アメリカ人が興味を持って原作を読んだのはこの小説が、アメリカの古き良き時代の香りをもっている、そして人は自立して生きている、つまり開拓精神を包含している、そういうことではなかったか?

  この映画を見るとそういう鎧をまとった少女「カイア・デリック」の成長物語とはなっているがそれは、「ホフマン物語」の最後の一節、人は愛と涙で大きくなる(成長する)と云う面であり、カイアをとりまく二人の男性との恋愛模様が中心のメロドラマ風の仕立てになっているような気がする。

  家族に捨てられた少女カイアが如何に孤独と戦いながら生き抜き、生き抜きながら自らの殻を一枚一枚脱皮して成長する。そういうすさまじい生きざま(それが今のアメリカ人に欠落していて、だから今のアメリカ人が読んでこころをうたれたのではなかかったか?)の描写の部分が少々あっさりしているような気がした。つまりカイアの少女時代、交易所のジャンピング夫妻との交流、自然との交流、なぜタイトルが「ザリガニの鳴くところ」となっているのか?などの部分があっさりしすぎてやしないか?

  法廷劇やミステリー性や恋愛模様に目を奪われるとこの作品の本質を見失う。

  主人公のカイア役のデイジー・エドガー・ジョーンズはまずまずだったが、日ごろは小悪党の役が多いデヴィッド・ストラザーンの演じる弁護士が好演。
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1100万人のユダヤ人抹殺計画が議論され決定された、バンゼー会議を、その議事録をもとに映画化したものである。
  ここにはわずかに人道的な問題提起した人物(1名)いたものの、そのほかは官僚主義やヒトラーやゲーリングの言葉をオウムのように繰り返す人物ばかりが登場して、これはまるで今日の日本のどこかのワンマン企業の会議のようで結局人間は大なり小なり同じことを繰り返すのだということをこの映画は証明している。
  約2時間の会議の中で、親衛隊大将のハイドリヒはユダヤ人問題の最終解決としてアウシュヴィッツなどのガス室を使った大量殺戮を出席者に認めさせて、ここにユダヤ人の悲劇が決定された。
  事務局にアイヒマン中佐がいて議事録を作成している。はたしてアイヒマンは自らの将来があのようになるとは夢にも思っていなかったに違いない。

  ユダヤ人に対する、人道的な態度やドイツに貢献したユダヤ人、優秀なユダヤ人への思いなどは官僚たちから、ぽつぽつと登場するが、結局事なかれで、長いものに巻かれてしまう。恐ろしい話だが今日も似たような話がないわけではないだろう。
                                          〆

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