ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ: オペラ

2020年1月15日

新型コロナウイルス蔓延に伴い、ついに非常事態宣言が出た。しかし昨年のそれに比べると生煮えの感があり、個人個人に「げた」を預けられたような不快な印象。防疫と云うのは、防衛や防災(治山治水を含めて)などとともに国民の生活・安全の維持のための国の重要な役割と思うが、どうも日本政府はその役割を放棄したのに違いあるまい。そう思わざるを得ない。

 さて、そのような中、来シーズン(2021‐2022年)のオペラ公演の各団体のラインアップが発表された。このような時期にまとめ上げたスタッフのみなさんに感謝したいし、是非公演にこぎつけて欲しいもの。切に希望する。

 さて、まず二期会だが以下の5演目。なかなかこの非常時によくぞと思う好プログラムである。

2021年9月 魔笛
    11月 こうもり
2022年2月 影のない女
     4月 エドガール(プッチーニ)
     7月 パルジファル
である。ポイントをいくつか挙げると、まず「魔笛}は宮本亜門演出の再演である。指揮はチューリヒ・トーンハレの音楽監督のリオネル・ブーランギエが注目。彼のラヴェル、管弦楽曲全曲演奏盤は素晴らしい出来栄え。宮本氏の演出は二期会とは相性が悪いのではあるまいか?先年の「蝶々夫人」はがっかりだったし、この魔笛も奇妙な舞台装置でしっくりこないが、蝶々さんよりましと云った塩梅だ。

「こうもり」は定番であり、もう無理して演奏する必要もないのではあるまいか?オペレッタであれば「ホフマン物語」を取り上げて欲しい。

最大の注目は「影のない女」。シュトラウスの中ではあまり取り上げられていない。しかし日本には市川猿之助演出、サヴァリッシュ指揮の見事な公演実績がある(バイエルンの引っ越し公演)。猿之助の演出の再演ではなく、今回はあのペーター・コンヴィチュニーの演出。またブーイングが飛ぶことだろう。

 もう一つの注目は「パルジファル」だろう。二期会のパルジファルは2012年のクラウス・グート、飯守泰次郎のコンビの名演がある。再演を心待ちにしていたところ、なんとまたまた宮本亜門の演出だそうだ。なぜグートの演出を再演しないのか、おそらく上演権などの問題があるのだろうが、ああいう舞台は定着させてこそ常設のオペラ団体だと思うのだが!1回公演して「はいさよなら」というのでは、もう何をやっても、さよならなんだから許されるようになってしまうのではないか?演出はお笑いの一発芸ではなく、何年も継続させてこそ、熟成が楽しめるのではあるまいか?
 ついでに書くが二期会は素晴らしい「トリスタンとイゾルデ」の公演実績を持っているが、あれをぜひ再演してもらいたいものだ。

 プッチーニのエドガールはバッティストーニの指揮でセミステージ公演である。

このプログラムを見てなんとなく物足りないのは、ヴェルディが1曲もないことだ。別に椿姫を入れろとは言わないが、今年ファルスタッフをやるからもういいやと云うことだろうか?少し骨のある、オテロやドン・カルロを聴いてみたいと思うが?


 さて、藤原歌劇団も5公演の発表を行っている。こちらはいかにもオペラを聴くという気にさせるポピュラーなものを並べた。もちろんヴェルディもありますよ。

2021年4月 ジャンに・スキッキ+池辺普一郎の新曲を組み合わせたもの。ただ公演場所がテアトロ・ジーリオ・ショーワで遠いのでチケットは申し込んでいない。

     6月は定番の蝶々夫人演出は粟国安彦の伝統的なもの。なお指揮は鈴木恵理那という女性指揮者による。日生劇場での公演だ。

     9月はこれも定番ベッリーニの「清教徒」、新国立劇場での公演

2022年1月は待望のヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」、笛田のマンリーコに期待。たまにはまともなマンリーコが聴きたいね。

     2月は伊藤康英の「ミスターシンデレラ」、日本オペラシリーズだそうだ。私はイタリアオペラ3曲を申し込んでいる。

こうして比較するとドイツ物中心の二期会、イタリア物中心の藤原とカラーが明確であり、選びやすい。何とか公演にこぎつけてもらいたいものである。


 さて、今月の非常事態宣言に伴って、どうしたらよいか迷っている公演がいくつかある。
来週の読響、東フィルの定期、藤原のボエーム、そして新国立のトスカである。オペラはマチネーなのでなんとか行けそうだが、オーケストラコンサートはいずれも19時開演で20時までには終演になりそうもない。演奏団体から何とも言ってこないところをみると予定通りなのだろう。また座席もすでに発券済のため、いまさら定員の半分にしろと云っても対処のしようがないので、そのまま強行するのだろう。こういう時に何を基準に決めたらよいのか?大いに迷うところである。げたをこちらに預けると云うのはこういうことなのである。外出自粛とはいってもイベントはやっているし、映画館やパチンコも営業しているし、デパートも空いているのでは、ゆく行かないのは個人の判断になるが、それが国の防疫対策なのだろうか?
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新国立劇場・トスカの舞台(1幕)

 昨日相撲の升席があったのだが諦めて、キャンセルした。幸いにもキャンセルができた。しかし例えば先日NBSからニューイヤーバレエのメンバーから1名コロナの陽性者がでただけで公演が中止になったという連絡があった。しかし大相撲では関取だけで16人も陽性者がいる。序二段ではコロナ不安で引退する力士まで出ているのに、相撲協会は開催を強行した。これで何ともなければよいが、無観客試合とういう選択肢はなかったのだろうか?それぞれの団体や個人が、明確な基準もなく勝手な判断で行動を決める。これが何度も云うが国の防疫対策の結果なのだろうか?
 ますます絶望的になるが、家で聴くCDが絶好調でまあそんなにめくじらたてんなよ、俺がいるじゃん、と云っているようだ。今日はこれからカラヤンのカルメンを聴こう。



 

 

2020年1月7日

とうとうコロナ第三波がとどまるところを知らなくなった。そしてついに非常事態宣言が発令される。ただし、1都3県が対象である。最大の自粛対象は飲食業界だが、その他では私が特に関心を持っているのはイベント関連である。
 白鵬がコロナにかかった、相撲協会ははたしてこのまま初日を迎えられるのか、定員を1/2に制限したホールは今発券しているチケットの数との整合性はどうか?夜八時以降の外出制限に対して、七時開始のオーケストラコンサートはどうするのだろうか?要するに決めるのはあなたのような非常事態宣言と云うのは名前だけのジェスチャーのような気がしてならないのだが?こんな対策では横ばいが良いところだという研究もあり、政治が危機管理に絡んでいない、無責任さが嘆かわしい。ますます絶望的音楽三昧に没入せねばなるまい。

 さて、昨日はカルショーとショルティについて書いたが、今日はカルショーとカラヤンである。カラヤンはEMIとグラモフォンとの契約の中間期にDECCAと契約を結び、ウイーンフィルと組んだ多くの演奏をカルショーのプロデュースのもと録音している。一部エリック・スミス(指揮者のハンス・シュミット・イッセルシュテットのご子息)ともかかわっている。
 全くの余談だがエリック・スミスと内田光子は後年ウイーン楽友協会ホールでシューベルトのピアノ曲集をCD八枚組で録音している。このピアノの音の素晴らしさは、カルショーの薫陶を得たスミスの力によるものだろう。内田の録音に際するスミスへの信頼も相当なものだったらしい。

 カラヤンの短いDCCAの時代のウイーンフィルとの録音はオーケストラ曲については九枚物で「KARAYAN LEGENDARY  DECCA  RECORDING」というタイトルを付けて発売されている。ここでの演奏については詳細は延べないが、ブラームスにしても(一番、三番)、ベートーヴェン(七番)、ドヴォルザーク(八番)そしてリヒャルト・シュトラウスの作品にしても後年なんどもベルリンフィルと録音されているが、私はそのどの演奏もこの時代のカラヤンを大きく凌駕しているとは思えない。むしろこの時代の実に生き生きとした演奏、大げさに構えない直截な演奏は何もにも代えがたいカラヤンのまさに遺産といえよう。
 カルショーの本「レコードはまっすぐに」から一つだけ逸話をを紹介すると、カラヤンは最初にカルショーと組む曲を「ツァラツーストラはかく語りき」にしたいといったとか!今日ではこの曲はポピュラーになっているが、その当時は指揮者が積極的に録音したい曲ではなかったそうだ。結局録音する事になったが、問題は録音会場のウイーンゾフィエンザールにはオルガンがないことだった。まあこれにカルショーはかなり苦労するが結局カラヤンも大満足だったらしい。後年この曲がスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」の冒頭のシーンで採用された、一躍有名になり、ベストセラーになったらしい。まあこういう話が「レコードはまっすぐに」にごまんとあるので、読み始めたらもう止まらなくなる。

 さて、カラヤンはDECCA/カルショーと組んで、素晴らしいオペラレコーディングを残した。これらはカラヤンの演奏でも代表作だし、これらの作品の決定盤ともいえよう。なお、録音技師はほとんどがゴードン・パリーであり、ワーグナーなどのオペラなどで培ったDECCAのオペラの録音の思想、つまりカルショーの思想だと思うのだが、ト書きの音化を達成しようとする、ソニックステージと云う技術が至る所で生きている。
 まるで話は違うがメトロポリタンオペラがルパージュの演出の下での、「リング」の公演はト書きの映像化であると云うのが自論である。オペラ演出がト書きから逸脱するのが当たり前になってきているこのオペラの世界で、ルパージュはまるでト書きにもどれと主張しているように感じた。これは余談。

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 カラヤンがDECCAと最初に録音したのはヴェルディの「アイーダ」である。オーケストラはウイーンフィル、アイーダはテバルディ、ラダメスはベルゴンツィ、アムネリスはシミオナートと強力な布陣。1幕の恋のつばぜり合いから2幕の大行進曲、3幕の冒頭の神秘的な音楽、地下法廷の描き方、そして4幕の2重舞台。地下牢とアムネリスの居室の場面、などいずれもDECCAの録音が生きていて、あたかもオペラを見ているように人物が配されているのがわかる。これが1959年の録音とは全く信じられない。カラヤンは後年フレーニやカレーラスと再録音しているが、歌い手はともかくとして。カラヤンの指揮の若々しさ、その大仰にならない、直截さと云うべきものが何もにも代えられない。今もって、この演奏を超えるものはない。この作品の録音に際してのアモナスロ役についての逸も実に面白い。

 1960年にこのコンビが世に出したのが、ヴェルディの「オテロ」である。
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オテロはマリオ・デル・モナコ、デスデモーナはテバルディ、イアーゴはアルゴ・プロッティの布陣だった。当初はイアーゴはバスティアニーニだったようだ。しかし彼は演じる意欲はあったが、初役でもあり(舞台での経験はないようだ)、勉強不足もあり、プロッティに交代となったという話が残っている。バスティアニーニだったらどういうイヤーゴだったろうか?聴いてみたかったなあとも思うが、今残っているこのレコードの燦然たる輝きは永遠に続くだろう。アイーダ同様、カラヤンは後年EMIで録音するが、歌い手も録音もはるかに及ばない演奏といえよう。時代ははるかにさきなのに、録音ですら1960年盤に負けているということは、プロデュース力の差と云わねばなるまい。たとえいくら良い歌唱であっても、録音がお粗末であれば、それはレコード芸術として、トータルで価値が低くなると思うのである。ここでのカルショー/パリーの録音でのきめ細やかさは、私たちが舞台を見ているそのステージの音を再現している。
 余談だがカルショーはここでもオルガンで苦労する。「オテロ」の冒頭の8分も続く超重低音の持続音である。幸いうまくいって、カラヤンも気に入ったそうだ。後にそのテープを実演で使ったら、ホールのスピーカーが吹っ飛んだそうだが、オルガンの低音おそるべし。

 1962年にはプッチーニのトスカを録音する。レオンタイン・プライスのトスカ、ディ・ステッファノのカヴァラドッシ、タッデイのスカルピアと云うこれも強力な布陣。珍しいアメリカ人のしかも黒人のタイトルロールであるが、聴いた印象では違和感は全くない。見事な歌唱である。カラヤンの後年のリッチャルリよりもはるかにトスカらしい。ここでの録音の素晴らしさは一言でいうと絵画的といえよう。特に3幕の冒頭など音で聴く絵画の趣。鐘のもの悲しい音がなんとも悲しみを誘う。また一幕のスカルピアが登場してからの人物の動き、テデウムから最後までのスカルピアの動きが舞台上のように手に取るようにわかる。全く古さを感じさせないソニックステージの威力。人為的な音作りは今日ははやらないようだが、レコード芸術としてはこうあるべきだろうと私は思うのである。
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 1963年にはビゼー「カルメン」を録音する。プライスのカルメン、フレーニのミカエラ、そしてコレルリのドン・ホセである。コレルリはアンナ・モッフォとも共演している。ここでのドン・ホセは彼のシッパースと組んだカラフ、マンリーコと並んで最高の歌唱を聴かせる。オテロのモナコに敵がないように、これらの役柄に対してコレルリの敵はいない。
 今日のテノールで代表されるのはカウフマンだろうが、彼の演じる役は非常に演劇的にきめ細かくて、芝居を見ているうえではよいだろうし、そういう意味では最近の演劇的な演出にあっているのだろうが、しかし声のみの魅力を取り出した時に、いつも物足りなさを感じる。
 先年、来日した際のリサイタルを開いたが、その時のラダメスの「清きアイーダ」などは実にきめ細かい歌唱だろうが、しかしオペラの中でこんな歌を聴かされて、アイーダを口説けるのだろうかと私などは心配になってしまう。
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 カラヤンはカルメンも後年再録音している。アグネス・バルツァがカルメンを歌ったように記憶しているが、カラヤン自身63年に録音したものと比べて果たして、達成感があったのかどうか?古いものは何でもよいというわけではないが、しかしDECCAのショルティの演奏、カラヤンの演奏を聴くと、彼らがその当時如何に燃焼しつくした素晴らしいパフォーマンスを演じたということを痛感するのである。果たして今日の演奏家たちはこれだけの燃焼をもって音楽を録音しているのだろうか?新しいレコードを聴くたびにそう思うのである。

 なお、昨日の「リング」、そして「オテロ」、「カルメン」はいずれもSACD化されてさらに輝かしいDECCAの音が聴ける。

2021年1月6日

ジョン・カルショーはイギリスの著名なレコードプロデューサーである。主に1950年後半から60年代に活躍した。多くのレコーディングを残し、そのうちいくつかは人類の遺産と云うべきものだと私は思う。ともに活動したショルティにサーの称号が与えられ、カルショーにはないと云うのは全く不可解と云うしかない。おそらくその当時の録音技師やプロデューサーの社会的地位と関係があるのだろう(私見)

 カルショーは1925年にイギリスで生まれ、父親は銀行マン、しかしカルショーは軍隊に入り、海軍航空隊で航法士で活躍したのち終戦を迎え除隊。若いころからクラシック音楽に親しみ、軍務にもSPプレーヤーとディスクを持参をしたという。
 戦後は職もなく文筆で細々と食い扶持を稼いでいたが、縁あってデッカの宣伝部に採用されることになる。そこではSPレコードの解説や演奏家紹介について書いていたが、デッカの発展に伴い、音楽家部のスタッフに不足をきたし、オロフ(これもプロデューサー)のもと音楽フプロデューサーの道を歩む。

 彼の人生や人となり、業績を知るには2つの著作がある。
 一つは「レコードはまっすぐに」である。今回このブログを書こうと思い立ったのは、この本を読みなおしたからである。

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これは彼の伝記と云うべきもので、未完の作品になっている。SP~LP~STEREOと音楽媒体が変遷してゆく過程の物語であり、その中でいかにカルショーが偉大な作品を残したかと云うことが描かれている。ただしこの本はおそらくもう古本でしか手に入らないと思う。

 もう1作は「リングリザウンディング」であり、これは云わずと知れたかれのプロデュースした最高傑作である、初のステレオでのワーグナーの大作「ニーベルンクの指輪」全4作の全曲録音の過程について書かれたものである。

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さて、ここではカルショーとショルティとの共同作品について述べたい。カルショーが音楽プロデューサーの駆け出しのころ、ショルティはバイエルンやフランクフルトでドイツ物を指揮をしていた。ショルティはもともとピアニストでジュネーブ音楽コンクールの優勝により注目を浴びるが、それは戦争中であり、また彼は指揮者を志していたので、そういう意味では、戦後すぐの何年かはくすぶっていたといっても良かろう。しかしカルショーはショルティのワルキューレを聴いて大いに共感したらしい。

 カルショーの記録を見ると二人のコンビは1951年のスッペの序曲集から始まっているようだ。しかしご多分に漏れず、ショルティもベートーヴェンを指揮したい指揮者だった。カルショーにそれを要求するが結局1958年の交響曲第七番と五番のみ録音して打ち止めになった。カルショーの著作にもあるが、アンセルメのベートーヴェンにも泣かされたらしい。

 さて、このコンビの残した傑作はオペラが多い。デッカの「ソニックステージ」いう録音思想はおそらくマリオ・デル・モナコが主役を演じた、「カバレリア・ルスティカーナ」(1961年)と「パリアッチ/道化師」(1960年)そしてカラヤンの指揮した「アイーダ」(1959年)あたりから始まっているのではなかろうか?もともとデッカのffrr録音はSP時代から有名であり、アンセルメなどは幾多の名曲の演奏でその名をはせた。そのカラヤンの「オテロ」はカルショーのプロデュースなのである。したがってソニックステージはカルショーが元祖と云っても良いかもしれない。

 ソニックステージは一言でいえばオペラのと書きの音化である。1960年代欧米でもオペラと云うと誰でも見に行けるものではなかった。特にワーグナーの作品などはバイロイトと云う聖地で聴くのが夢と云う人々が多かった。デッカ=カルショーはその夢をレコードでかなえてあげようとしたのである。欧米でもそうなのだからアジアの東の果ての日本ではなおのことそうであった。かの私も若いころ
オペラと云えばデッカでそのほかはほとんど聴くことはなかった。まあその当時のデッカのようした綺羅星のような歌手たち、そしてなによりウイーンフィルと契約したことなどが、デッカのオペラ録音を有名にしたのではなかろうか?

 さて、ショルティに戻ろう。1957年ショルティはカルショーのプロデュースでワーグナーの「ワルキューレ第3幕」の録音をする。これは当然ニーベルンクの指輪(以下リング)全曲の録音の布石であろう。しかしカルショーの本命はワーグナーの指揮者としては大御所のハンス・クナッパーツブッシュだった。1957年カルショーはクナッパーツブッシュと組んで「ワルキューレ第一幕」を録音する。1957年にリングの抜粋をカルショーは二人の指揮者で録音しているのだ。それは彼の敬愛するソプラノのキルステン・フラグスタートの記録を残したいという思いが第一だろうが、私はリング全曲の小手調べだと思いたい。ここでクナッパーツブッシュのレコーディングへの姿勢やリハーサル嫌いなどがカルショーの考えるリングの録音思想と大きく離れていることが分かった。そして結局45歳のショルティが大役を受けることになる。ショルティは1961年にロイヤルオペラの音楽監督になり、それと並行してリングの録音が進められてゆくことが、時を経るごとにショルティの粗削りな演奏が、しなやかさを経て、スケールの大きさを増してゆくことになる。

 1958年「ラインの黄金」が世界初で録音される。リングの序夜であり、全曲へのスタートを切った。確か日本で発売されたときは3枚組のボックスで6000円。学生の身ではおいそれと手が出ない。涙を呑んで中古で抜粋を買って聴いた。そしてその初めて耳にする驚異的なサウンドにたまげた。
最後のドンナーが岩をハンマーでたたく音ではスピーカーがぶっ飛ぶでのではないかとびっくり仰天。
ウォータンとローゲが地下のニーベルハイムと行き来するときの「かなてこ」のサウンドの上下の移動する様の不思議さ。目の前のスピーカーの中で、音が上下に動く?私のようなせいぜい10万もしない装置ですらそれを味わうことができた。これは本来劇場に行かなければ聴きとれないことなのだ。
そして何よりすごいのは序奏のまるで地の底を這うような低弦の音だ。この部分その後自分の再生装置が良くなればなるほど、その凄味がわかる。
 なお、録音技師は一貫してゴードン・パリーである。彼もワグネリアンで、テスタメントから発売された1955年のリングのステレオ全曲は彼がバイロイトで録音したものだ。テスタメント盤は指揮はヨーゼフ・カイルベルト。発売はショルティ盤より遅かったので史上初の録音とはならなかったが、実際はこの盤が史上初録音だ。カイルベルトはクナッパーツブッシュと交代で指揮していたらしいが、もしクナ盤があったならどうだったろうか?この劣悪な環境で録音されたレコードの鮮度はおそるべき良さであり、決して凡百の録音には負けていない。
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 もとに話を戻すが、ショルティの指揮は粗削りだとかいろいろ書きたてられたが、私はこの曲の間奏の音楽を聴いただけで、ショルティの非凡さを感じる。その当時はあまりしっくりいっていなかったウイーンフィルを完璧に支配して、強烈な迫力で聴き手を圧倒する。この部分をかつてこのように威圧的に演奏してなおかつ深い、感動を与える演奏は皆無だ。
 歌い手ではウォータンのジョージ・ロンドンがもしハンス・ホッターならばと云う思いもあるがこれはないものねだり。そのほかの歌手も皆素晴らしいが、特にアルベリヒのグスタフ・ナイトリンガーの歌唱は驚異的だ。彼は「ジークフリート」、「神々の黄昏」でもその存在感を発揮する。

 1962年「ジークフリート」が発売される。販売側は当初「ラインの黄金」なぞは売れまいと高をくくっていたが、これがなんと世界的なベストセラーになり、リングの続編が録音されることになった。本来であれば「ワルキューレ」が次に来るべきところだが、それは57年に抜粋が発売されており、結局「ワルキューレ」は最後に録音されることになった。
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2曲目にジークフリートを持ってきて正解だったように思う。全曲聴くとこれはショルティにあっているなあと云う印象が強い。1幕の「溶鋼歌」や「鍛造歌」などは録音の素晴らしさもあって、これ以上の演奏は聴けないレベルになっている。しかし2幕のジークフリートの小鳥との対話から幕切れの、ワクワクする音楽はショルティのレベルの上がった抒情性と本来持つ情熱性がミックスされた、まれにみる名演と云わねばならない。歌い手もウイントガッセン(ジークフリート)、ニルソン(ブリュンヒルデ)、ミーメ(シュトルツェ)、アルベリヒ(ナイトリンガー)、そしてここではハンス・ホッターがウォータンを歌っており、さらには小鳥をサザーランドに歌わせるという凝りよう。その後何枚もジークフリートを聴いたがショルティ=カルショー盤にかなうものはない。このレコードは5枚組で1万円を越したと思う。当然買えなくて抜粋盤を聴いていたが、あるラジオ番組でこの曲の感想文の募集があり応募したらなんと当たった。まもなくそのボックスが送られてきたときには、夢のようだった。

1964年「神々の黄昏」が発売された。これは確か6枚組だと思ったが、必死でアルバイトをして手に入れた。ここでは録音はますます洗練されてきて、しなやかに鳴る。ジークフリートやラインの黄金では時折固く鋭い音が聞こえて、それはショルティの特徴を表現するのにはふさわしいとは思いつつも、もうすこししなやかさが欲しいなあと思っていたのが、神々ではすべて改善され、ふくらみのある豊かな音がこの大曲にふさわしく鳴り響く。聴きものは随所にあるが、2幕の冒頭のアルベリヒとハーゲン(ゴットロープ・フリック)の対話の場面の素晴らしさ、2幕のハーゲンと群衆シーン、2幕幕切れの3重唱など、録音の良さも相まって、驚異の名演奏である。これ以上の演奏は今もって聴いた事がない。
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そして1965年最後の「ワルキューレ」録音される。おそらくショルティの円熟が最も感じられる演奏ではあるまいか?すでに述べたようにロイヤルオペラでの経験が多いに生きたように思う。この曲では音響的に驚かさせるような場面が少なく、ひたすら音楽に集中させるような録音になっている。わずかにワルキューレ騎行でのワルキューレたちの飛び交うさまがスペクタクルなシーンを感じさせる。神々以上に、音は深く、豊かに鳴り響く、ウイーンフィルの威力を最も感じさせる録音になっている。
歌い手はウイントガッセンとニルソンそしてフリックの3人はもう何物にも代えがたい歌唱だ。
 それと、このレコードではジェームス・キングの情熱的で悲愴なジークムントの素晴らしさが忘れられない。おそらくこれ以上のジークムントは出てこないだろう。


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カルショーはこの間にショルティと組んでワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を録音している。
1960年。
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ここで、イゾルデはニルソンが歌っているがトリスタンはフリッツ・ウールと云う無名のテノールが歌っている。これはニルソンがリングの録音で、ブリュンヒルデを歌う代わりにイゾルデを1年以内に歌わせろという条件を付けたことによって起きた。カルショーはウイントガッセンをトリスタンと考えていたが、その時点ではウイントガッセンはグラモフォンとの契約が数か月残っており、それが切れるのを待っていたのだ。しかしニルソンは待てないという。そこでカルショーが見つけたのがウールだというわけである。最近この曲を聴きなおしてみたが、案外とよい。最初に聴いたときにウールの声があまりにもウイントガッセンに比べると、か細くて物足りなかったが、今聴いてみると随分と若々しくてとても感心した。録音の素晴らしさもあって、これはいま私の3番バッターである。
 一番はベームのバイロイトライブ、二番はフルトヴェングラーのEMIのモノラル録音。久しぶりにフルトヴェングラー盤を聴いてみたが、二幕のブランゲーネの最初の警告から~クルベナールの登場までの部分の音楽の素晴らしさは筆舌尽くしがたいが、SACD化したCDでもモノラルの音場は変えられず、穴倉で聴いているような気分になり、レコードとしてはものたりない。クナッパーツブッシュもそうだが、今少し、大家たちが録音に関心を持ってくれていたならばなあと思わざるを得ない。カラヤン、ショルティ以前の指揮者で録音に関心を持った指揮者は聞いた事がない。

 今日のようにセッティング録音がほとんどなく(オペラ)、舞台のライブ録音がほとんどの場合、音楽プロデューサーの出番は少ないだろう。オペラのライブでは演出家と指揮者主導だから、録音サイドの発言は少なくならざるを得ないのでないだろうか?録音は要するに悪く言えば垂れ流してきた音をそのまま記録するだけと思わざるを得ない。最近のレコーディングでオペラ以外も含めて、録音に大差が感じられないのはそういうことも影響しているのではあるまいか?それよりなにより録音そのもの(オペラ)が減っているのではないか?それは私たち東洋に住むものでも、METライブビューイングやパリオペラ、ロイヤルオペラのその年に上演したものを大劇場で映像で見ることができるのだし、NHKでも世界の劇場のライブを放送しているし、またライブでも新国立あり,二期会あり、藤原あり、さらにはコロナ前には毎年海外の団体の引っ越し公演がいくつもあるという時代、音だけの録音媒体の存在意義を見つけるのは難しくなっているのではあるまいか?
 したがってカルショーの時代のレコード芸術と今の時代のレコード芸術とは随分と異なっているように思うのである。現代のレコード芸術とは何か、私はまだ見いだせずにいる。勢い古い録音に浸ってしまうのである。
 失礼な言い方だが、私にとって今のレコード(CD)の最大の機能は、ライブ演奏を聴きに行く前の予習のために聞くということが最大のものである。それゆえ名曲の録音のレコードを買うことはほとんどない。買うのは勉強のため今まで聴いた事のない音楽の録音を買うのだ。
 もちろん数少ない演奏はそういうことと切り離して聴く。例えばこのリング盤などがそうだ。けれどももうそういう聴き方は少なくなったと思える。



 さて、ショルティとカルショーのコンビではこのほかオペラでいくつかの録音がある。
1961年、R.シュトラウスのサロメ
1964年、R.シュトラウスのエレクトラ
1967年、ヴェルディのドン・カルロ(これはウイーンフィルでなくロイヤルオペラの演奏)

オペラ以外で素晴らしいのはヴェルディの「レクイエム」

また、カルショーのショルティとカラヤン以外の指揮者との演奏では次の演奏が特筆すべきと思う。

1963年、ブリテンの戦争レクイエム
1964年、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」(アンセルメ指揮)

 つい最近ヴェルディの「ドン・カルロ」をきいたが、これは一番バッターのカラヤンの演奏に勝るとも劣らない演奏だと思うようになった。それは歌い手の秀逸さによるところが大きいが、ショルティのドラマティックな音楽が、カラヤンのいささか大風呂敷を広げたようなイタリアオペラに少々飽きが来ている身にとって新鮮だということだろう。いずれにしろ、上記のオペラ録音はすべて人類の宝である。これからもこれ以上の演奏がレコード(CD)として出てくることはあまり期待できないだろう。


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2020年12月1日
於:新国立劇場(1階6列中央ブロック)

ヨハン・シュトラウス「こうもり」
指揮:クリストファー・フランクリン
演出:ハインツ・ツェドニク

アイゼンシュタイン:ダニエル・シュムッツハルト
ロザリンデ:アストリッド・ケスラー
フランク:ピョートル・ミチンスキー
オルロフスキー:アイグル・アクメチーナ
アルフレード:村上公太
ファルケ:ルートヴィヒ・ミッテルハマー
アデーレ:マリア・ナザロア
ブリント:大久保光哉
フロッシュ:ペーター・ゲスナー
イーダ:平井香織
管弦楽他:東京フィルハーモニー管弦楽団、新国立劇場合唱団、東京シティバレエ団

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メリー・ウィドーに続いてオペレッタ、こうもりを聴く。このプロダクションは2006年から続いており大体数年に一度、当劇場でかけられる、おなじみの出し物である。相変わらずの楽しい公演で、このコロナ禍の中、海外から多くの歌い手、そして指揮者まで呼べる公演ができたことは実に喜ばしいことだ。スタッフ、関係者のご努力はいかばかりだったか、感謝申し上げたい。

 先日の日生劇場の「メリーウイドー」は座席は一つ置きに座り、従来通りのコロナ座席配置だった。
今日の新国立も実はチケットを最初に発売になった時はそういう配置のはずだった。しかし今日会場に来てみると私の隣に人が座っている。いかなるわけかと歌劇場の方に伺うと、政府の緩和策に基づき、チケットの追加販売を行ったとのことだった。そういう連絡は来ていなかったように思うのだが、ちょっと杜撰な対応だと思った。

 まあ、それはおいておいて、本日の公演、安定感もあり、アハハと笑う場面のあり、楽しかったのは事実であるが、ただ少し演出としては疲労しているのではないかと思われた。たとえば笑いを取るギャグはもともとの台本にないのだから自由に行えるのに2006年以降全く変化がないのはどういうことだろうか?例えば1幕でアイゼンシュタインが出前を取る場面、相変わらずすし、てんぷらで笑いを取るのはいかにも陳腐。時代感を出したアドリブ的な台本が工夫できないものか?
 2幕のフランス語の掛け合いもしかり。
 また3幕でも、フロッシュは相変わらず焼酎ネタである。これもなんとかならないものか?この部分は日本語でもよいから、日本のコメディアンでもよんで自由にやらせたら面白いと思うのだが?確かどこかで一度やって面白くもなんともなかったのでもうやめたのかもしれない。

 要するに2006年から続けていると、何度も聴いている聴衆には歌も演技も同じなのだから、次は何をするのが皆わかってしまう。しかしそこでああ素晴らしい、ああさすがだ、すごい、おもしろい、と思わせるのが芸なのだろうと思うが、今日のメンバーではその殻は破れなかったように感じた。歌い手は欧州の劇場の専属歌手を招集したものだから、それぞれを見れば悪くはないのだけれど、今一つきりっとしたした感じがなく、時折、眠気を催してしまう。
 これは推察するに呼吸が今少しあっていないような印象なのだ。歌の入る微妙なタイミングのずれや、アンサンブルのまとまりのちょっとした違和感が微妙に感じられるのである。コロナで密接した演技ができないことや、練習不足が影響しているのではあるまいか?まあこれはぜいたくなことなのかもしれない。

 歌い手ではロザリンデのケスラーとアデーレのナザロワが印象に残った。1幕のアイゼンシュタインを加えた3重唱の楽しい歌と演技はとても魅力的。アデーレは2幕のアイゼンシュタインをやり込める場面や3幕のフランクに女優の才能を証明する場面ものびやかな声が好ましい。今日一番の拍手をもらっていた。ロザリンデのチャルダーシュも素敵だった。
 オルロフスキーはしっかりした声でその容姿も含め楽しませてくれた。

 男性陣は今一つパンチが効かない。正直言って印象に残る歌がない。3幕のアイゼンシュタインが怒る場面も軽快な音楽に乗って歌われるが、何となく音楽の美しさに流されている。総じて男性陣はシュトラウスの音楽の上澄みを聴いているような印象だった。アルフレートの村上は儲け役だが、3幕などもっとアドリブでオペラのアリアを歌ってもよかったのではなかったか?
 アドリブと云うと少し違うが、もう少し歌手の自発的な働きかけが音楽に会っても良いように感じた!

 指揮のフランクリンは若く見えるが何歳だろうか?彼の指揮もおそるおそるといっては怒られそうだが、音にパンチがない。たとえば雷鳴と電光も切れ味がない。全体にさっとなぞるような指揮で全体を支配する雰囲気は感じられなかった。演奏時間は2時間29分(2幕3幕の場面転換を含む)〆

2020年11月26日
於:日生劇場(1階 I列中央ブロック)

二期会オペラ・レハール「メリー・ウィドー」
指揮:沖澤のどか
演出:眞鍋卓嗣

ツェータ男爵:池田直樹
ヴァランシエンヌ:森田麻央
ダニロ:宮本益光
ハンナ:腰越満美
カミーユ:金田京介
オルガ:加賀ひとみ
ニューグシュ:山岸門人
合唱:二期会合唱団
管弦楽:東京交響楽団


merrywidow2020omote

このご時世にメリー・ウィドーなどとめくじらをたてる方もおられようが、こういうのを聴きながらアハハと笑うのも一興。楽しい公演だった。

 厳重なコロナ対策の元、本公演は開催された。関係者のご努力に感謝したい。入場時に入場登録し、チケットも自分でちぎるなど、受け入れ態勢から丁寧に実施。あちこちに消毒液も設置。座席は一人置き、退場は時差退場と考えられる対策はすべて実施と云う印象。

 今回の二期会公演もこのところ続いている演劇畑の出身の演出。二期会は「蝶々さん」も「フィデリオ」も妙な読み替えでがっくり来た。本公演も内心びくびくだったが、さすがにオペレッタだけに、なかなかいじりにくいのか至極まともな公演だった。装置もごてごてせず、シンプル。最もウイーンのフォルクスオパーの来日公演などもほとんどはりぼてであったが、そんなことは関係ないとばかり楽しい公演だったので、このオペレッタはそういうものには(装置・演出)には関係なく、次から次へと登場する歌い手のナンバーに耳を傾け、ある時はアハハと笑い、ある時は舞台に和して手拍子をする、そういうものなのだろう。本公演もそういう精神を踏襲しているといえよう。

 今回の演出では日本語訳詞による公演だった。これは演出家の発案なのか、二期会の発案なのかはわからない。しかし訳がまともなので、とくにナンバー曲は違和感はそれほどなかった。ただつなぎの朗誦的な部分の訳はいささか違和感を感じたが、総じてうまくいっているといって良いだろう。せりふの部分はかなり自由に翻案しており、コロナも話題に織り込んでいた。
 しかし今日原語上演がもう一般になっているなかで、どうして日本語訳による公演なのか、その必然性がよくわからない。しかもナンバー曲にはわざわざ字幕までつけているのだ。私はナンバー曲は原語で、せりふの部分は日本語と云うスタイルがこういう音楽には向いていると思うのだが!

 舞台装置はポンテヴェドロ国のパリ大使館として作られている。正面左手には大使館のクロークがあり、その横奥には入り口。正面にはロビー風の空間があり、円形のソファーが置いてある。正面には2階に上がる、透かしの階段があり、上がるとすぐはバルコニーになっている。舞台右手は庭で樹木が植わっている。2幕の重要な装置である東屋(パヴィリオン)はここではクロークが代用されている。
 2幕では大使館はポンテヴェドロの民族的装飾がされているとなっているが、植物が少し変わるだけであまり1幕とは変わらない。2幕と3幕は休憩がなく、「ヴィリアの歌」の間奏曲の間は幕が半分ほど下ろされている。
 3幕のマキシムの場面は、空間は赤い布で覆われキャバレー風の雰囲気にしている。いずれにしろ装置そして衣装などは同時代とはいわないまでも、このオペレッタの設定と軌を一にしているといえる。

 歌い手はそれぞれ楽しませてくれた。

ヒロインのハンナの腰越はベテラン(失礼)らしい落ち着いた声が、若くして未亡人になった女性らしく、心地よい。ヴィリアの歌などなかなか聴かせたが、惜しいのは最高音に苦しさが感じられたこと。それ以外は演技もうまく楽しませてもらった。
 ダニロの宮本も安定した歌唱。二人で歌う聴かせどころの3幕の「唇は黙しても」はゆったりと歌い、聴き手にいろいろな思いを感じさせる名唱だった。過ぎ去りし青春が走馬灯のごとくよぎる。

 ツェータ男爵はいかにも世故にたけた老大使を演じていた。歌唱はすこしふがふがだけど、この役どころにはぴったりだ。
 ヴァランシェンヌとカミーユのカップルは森田、金山ともに初々しさが魅力だ。2幕の第11曲の2重唱は聴きごたえがあった。ただ金山は3幕のマクシムでのグリゼットの歌は声ができらず少々不満。
 
 2幕の「女女のマーチ」、3幕のフィナーレなどアンサンブルも満足行くもの。ただ3幕のマキシムでのフレンチカンカンはいささか上品で迫力不足。
 歌唱も含めて全体の印象は、随分と上品なオペレッタだなあということ。これがしかし日本の二期会スタイルだということだろう。こういうスタイルもありだ。一例をあげるとニェーグシュのセリフ。もう少し笑いを取る場面があるかとおもったが、アドリブ?も含めて案外とまともだった。ここで下品なギャグを飛ばすことも可能なのだが、それは抑制されている。

 指揮の沖澤はブザンソン指揮者コンクール優勝者。ブザンソンは日本の指揮者の登竜門のようなコンクールに思えるが、小澤をはじめ多くの指揮者を輩出している。そのなかでも最若手の沖澤の演奏は切れ味の良いもの。「女女のマーチ」で切れ味の良いパンチを聴かせたと思ったら、3幕のダニロとハンナの2重唱のしっとりした演奏で聴き手を酔わせる。今後大いに活躍をするだろうと予感をさせる指揮ぶりだった。演奏時間およそ2時間の公演だった。


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