ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ: オペラ

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ドラクロワの書いた「ファウスト」である。古今数多の文学があるが、ゲーテのファウストほど多くの音楽家に取り上げられた作品はないだろう。大作だけでもベルリオーズの「ファウストの劫罰」、リストの「ファウスト交響曲」、シューマンのオラトリオ「ゲーテのファウストからの情景」、グノーの「ファウスト」、そして今回取り上げる「メフィストーフェレ」。またとりわけ異色な大作としてはマーラーの「交響曲第八番」でその第2部はゲーテの原作の第二部5幕の最終場をそのまま取り上げてある、大傑作がある。

 しかしオペラと云うことに限るとグノー、ベルリオーズ(ファウストの劫罰をオペラとして)、そしてボーイトの3人の作品だろう。気が付くだろうがいずれもドイツ人ではないのだ。ワーグナーもリヒャルト・シュトラウスなどドイツの著名なオペラ作曲家はファウストをオペラとしては残していない。ドイツ人にとって「ファウスト」というのはことほどさように通俗的な(失礼)オペラに再創造することにためらったのに違いあるまい。オペレッタ作者が取り上げなかったのもそういう理由だろう。まあ、それは本題ではない。
 この中のオペラの2作。グノーは云うまでもなくオペラハウスのレパートリーにも乗り、もっとも著名な作品である。先年来日したロイヤルオペラも素晴らしい公演を見せてくれた。しかしそれに引き換えボーイトの「メフィストーフェレ」の冷遇ぶりはどうだろう。日本では2018年にバッティストーニが演奏会形式で演奏してくれて溜飲をさげたのは記憶に新しいが。二期会も藤原も、新国立も全く手を出さない。
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かくいう私もこの曲を知ったのはそう古い話ではない。1996年か記憶は定かでないが、レコード芸術で大絶賛されており、聴く気になったのだ。それはリカルド・ムーティ指揮のスカラ座のライブ公演だった。1995年の3月の公演だった。これが聴いた途端あのプロローグの壮大さに度肝を抜かれ、そのあとも一気に聴きとおしてしまったのである。最後のエピローグも素晴らしい。それ以来この曲の虜になっていて、イタリアオペラの中でも1~2を争うほど好きな曲である。あの当時そのスカラの公演を見に行けたらと云う妄想を抱いたものだ。まあ余談だがまさか「メフィストーフェレ」をスカラ座で聴く前にバイロイトで「リング」を聴くことになるとはその当時は夢にも思わなかったのだった。

 さて、ボーイトと云う人はオペラを少しかじっている人にはああ、あの「オテロ」と「ファルスタッフ」のリブレットを書いた人というのが先に頭に浮かぶことだろう。若いころのボーイトはワーグナー派でヴェルディに対しては批判的だった人だったがリコルディの仲介もあって、二人は次第に接近し理解しあえるようになったという逸話もある、
 ボーイトの「メフィストーフェレ」は1868年26歳の時の初演は大失敗だったが、1881年の再演では大幅に改定したことが成功したのか、大成功となった。このオペラはプロローグ(悪魔と神の契約)、第一部1幕(ファウストとメフィストーフェレとの契約)、第2幕(マルゲリータとの愛~悪魔の饗宴)、第3幕(マルゲリータの死) 第二部4幕(ギリシャ古典の悪魔の饗宴)、エピローグ(ファウストの死)の構成となっている。ゲーテの原作を食いかじったといわれても仕方がないが、しかしあの大作をイタリアオペラとしてかくのごとくまとめ上げた力量は相当なものだろう。

 ただかつてイタリアの伝統の大御所のヴェルディを批判したボイートも1881年の改訂版では随分と耳に優しい音楽聴かせてくれて、おそらくその当時の人々は面食らったに違いない。しかしプロローグやエピローグの壮大さやメフィストーフェレにつけた音楽の斬新さはボーイトの真骨頂と云うべきである。

 さて本題である。以下は私の一押し推薦盤の比較である。
1.トゥリオ・セラフィン盤(1958年、ローマサンタチェチーリア)
  メフィストーフェレ:チェーザレ・シェピ
  ファウスト:マリオ・デル・モナコ
  マルゲリータ:レナータ・テバルディ
  マルタ/パンタリス:ルチア・ダニエリ
  ワグネル/ネレオ:ピエロ・デ・パルマ
  エレナ:フロリアーナ・カヴァリ
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  英デッカオペラ録音の初期の作品である。デッカではローマとウイーンで次から次へとオペラ録音を手掛け、今日でも第1級の演奏として輝いている。「カヴァレリア・ルスティカーナ」、「道化師」
「マダムバタフライ」、「ボエーム」、「トスカ」、「カルメン」、「アイーダ」、「オテロ」そしてこれらの録音の集大成があのレコード芸術の金字塔のショルティ指揮のワーグナーの「ニーベルンクの指輪」につながるのである。これらの作品のプロデューサーは、ジョン・カルショーが中心になるが、ローマではクリストファー・レイバーンやエリック・スミスがおこなっている。この「メフィストーフェレ」はレイバーンが行っている。参考までに「ボエーム」はこの翌年同じ指揮者で録音されれているが、エリックスミスが担当している。まあこの辺りの話はジョン・カルショーの「レコードはまっすぐに」という作品で読むことができる。
 なぜ、録音スタッフの事を述べたかと云うとこのこの1958年の録音が如何に素晴らしいかと云うことが云いたいのである。デッカのオペラの録音の音場は一言でいえば人工的である。しかしそれはひごろオペラハウスに頻繁に通えない人々にはありがたいのだ。つまりあたかもオペラハウスで聴いているかの如く、目の前に舞台が広がるのである。さすがにこのころは少々左右を広げすぎだが、それでもオペラを聴いたなあと云う思いにさせられるのである。昨今のライブ録音はマイクで声を追っているが結局は歌は演奏会形式のように聴こえ、オペラライブなのにライブらしく聴こえないのである。

 まあ、それは本題ではないが、このCDで聴くセラフィンの指揮は決して壮大ではないが、劇的な部分の聴き手を引き込む力は並々ならぬものがある。たとえば3幕の「マルゲリータの死」の場面、「あの夜、海の底に~」、「エンリケあなたが怖い~救われた~」の一連の流れを聴いて心を動かされない人はいないだろう。
 モナコのファウスト、シェピのメフィストーフェレともに素晴らしい歌唱だ。今回3組のCDを聴いて、最も感銘を受けたのはこの盤である。今は入手できるか不明だが、是非お聞きいただきたい。

2.オリヴィエロ・デ・ファブリティス盤(1983年、ナショナルフィルハーモニック管弦楽団)
  メフィストーフェレ:ニコライ・ギャウロフ
  ファウスト:ルチアノ・パヴァロッティ
  メルゲリータ:ミレルラ・フレーニ
  マルタ:ヌッチ・コンド
  ワーグナー:ピエロ・デ・パルマ
  エレーナ:モンサラ・カバリエ
  パンタリス:デラ・ジョーンズ
  ネレオ:ロビン・レガーテ
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 この演奏はファブリティスの統率に疑問があることに目をつぶれば、歌い手は今回の3枚のCDのなかでは最強力といえよう。ファブリティスは決して能動的にこのオペラをどうこうしようというようには聴こえない。私はこう振っているので、まあ皆さんもそれぞれやってくださいと云うように聴こえる。だからちょっと聞いただけでは歌手たちはそれぞれ自由に歌っており、それが歌と云う面ではよい方向に行っている。
 パヴァロッティの素晴らしさはこういう作品にはふさわしい。1幕2場のメフィストとの契約の場面、3幕のマルゲリータの死の場面、そしてエピローグでのメフィストとの対決。どの場面も忘れられない。そしてこれは一方ギャウロフにも言えることだろう。プロローグの神との契約の場面や、ファウストとの絡む場面、例えば悪魔の饗宴の場面での凄まじい歌唱は、唯一無二としか言いようがない。
 フレーニはテバルディと同様唯一の出番と云うべき、第3幕の歌唱がテバルディと勝るとも劣らない。先に言うがムーティ盤のミシェル・クライダーと三者三様、いずれを取るか迷ってしまう。

 この盤のもう一つの目玉はモンセラ・カバリエがエレーナを歌っていることだろう。その堂々たる歌いっぷりは他を圧する。イタリアオペラの歌また歌をきくのであれば一押しである。
 なお、録音は演奏会形式のようでオペラを聴くという雰囲気ではないが、この歌唱はきれいに録れていて、新しい録音の良さが出ている。

3・リッカルド・ムーティ盤(1995年スカラ座ライブ)
  メフィストーフェレ:サムエル・レイミー
  ファウスト:ヴィンチェンツォ・スコラ
  マルガリータ/エレーナ:ミシェル・クライダー
  マルタ/パンタリス:エレオノーラ・ヤンコヴィッツ
  ワグネル/ネレオ:エルネスト・カヴァッツィ
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 初めてこの曲を教えてもらったCDだけに思い入れは深い。特にムーティの壮大な音楽つくりは、ボイートを突き抜けているといって過言ではあるまい。特にプロローグとエピローグ、それとメフィストの登場する場面すべての描写はこれ以上のものは考えられまい。
 スコラのファウストは悲愴感があふれており、一つのファウスト像が聞き取れる。レイミーはギャウロフに比べれば紳士的な悪魔だが、これもなるほどと思わせる。ミシェル・クライダーは初めて聴いた歌手だったが、新鮮な感動を聴き取れる。フリットりが歌ったらどうかと云う思いもよぎるが。まあセラフィン盤とムーティ盤があれば事足れりだが、ファブリティス盤の強力な歌手陣も忘れられず、結局3枚を推薦盤とする。
 なお、ムーティ盤の録音はライブ録音だが、とても雰囲気が出ており秀逸である。ライブ録音もこういうホールの雰囲気やニュアンスが録音できるとよいと思う。このムーティ盤はその点工夫されているように感じた。
     なお遊びだがベストキャストをあげると
        メフィストーフェレ:ニコライギャウロフ
        ファウスト:ルチアノ・パヴァロッティ
        マルゲリータ:レナータテバルディ(モンセラ・カバリエ)
        指揮:リッカルド:ムーティ

まあ、とにかく死ぬ前に「メフィストーフェレ」のスカラ座の舞台を見たい。


 一昨日第2回目のコロナのワクチンをうった。1回目は腕が痛いだけだったが、2回目は副反応のオンパレード、昨日が特につらかった。今日はブログが書けるほどまでに快復。順調で行けば今月までに抗体ができるので、もうびくびくしないで音楽会に行ったり、ジムに行ったり、ゴルフに行ったりできそうである。したがって今までシリーズで「絶望的音楽三昧」を書いてきたが今回で最終回とします。






13日の日曜日、NHKのプレミアムシアターでコルンゴルトのバイエルン国立劇場の公演が放映された。録画して翌日見たが、その印象記である。(2019年12月1日、6日)

 「死の都」は懐かしいオペラだ。というのは2014年(3月21日に鑑賞)に新国立劇場での公演を見たからである。おそらく新国立でも初めて、もちろん私も初めてだった。
 コルンゴルトはこの作品を23歳のときに初演したそうで、ウイーンで60回も演奏されたそうだが、コルンゴルトがユダヤ人であることから演奏禁止になり、そのまま忘れられたオペラとなった。コルンゴルトはその後アメリカにわたり、ハリウッドで大成功をする。それゆえ、彼は母国オーストリア(正確にはモラヴィア)よりも、アメリカでの方が有名なのである。しかし戦後「死の都」は復活して、オペラハウスのレパートリーに加わる。

 さて、2014年当時、初めてのオペラだから勉強しなくてはいけないが、そのとき目に飛び込んだのは2010年のフィンランド国立歌劇場の公演のDVDである。
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 新国立の公演はこのフィンランドの公演の引っ越し公演のようなものである。歌い手以外はほとんど同一である。早速何日もこのDVD を見続けて、なんとかものにした想い出があるのだ。だから私の頭には、フィンランドの公演がしっかりと刷り込まれている。しかもフィンランドの2010年の公演のパウルはフォークトがそして、マリエッタはカミラ・ニールンドが歌っているという強力バージョンだ。

 だからこのバイエルンの公演を最初聴いたとき、とても違和感があり、なんだこりゃ別の音楽だなあと思ったものだった。しかし気を取り直して、2010年のフィンランドの公演と今回のバイエルンの公演と再度聞き直したのである。そこで少しわかってきたことがある。つまり、音楽つくりの差が、印象の差になっているということである。なおバイエルンの公演ではパウルはカウフマン、そしてマリエッタはマルリス・ペーターゼンが歌っている。指揮はキリル・ペトレンコである。
 フィンランド版を聴くとまず感じるのは、この甘く美しい音楽をストレートに聴かせているということである。(指揮はミッコ・フランク)。このオペラはリヒャルト・シュトラウスとプッチーニを掛け合わせたような音楽だという評価も散見するが、あえて言えばミッコ・フランクはこの音楽のプッチーニ的な部分を強調しているように感じた。しかしそれは2010年の時には全く思ったことではなく、今回のバイエルンの公演を聴いたからこそ感じられたものだ。

例えばこのオペラで最も印象的な歌は1幕のマリエッタの歌「この身にとどまるしあわせよ~」だがフィンランドではニールンドはまるでイタリアオペラのアリアのように、すっくと立ってその部分が切り取られたように歌う。しかしバイエルンのペーターゼンはカラオケマイクを持ち、まるで小唄でも口ずさむように歌う。下の画像がそのシーンだ。
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そうそれは「わがままで、うぬぼれが強く、傲慢だが、常に愛想がよく、情熱的で官能的な気性」そう、それはト書きにあるマリエッタの性格そのもの、それをペーターゼンの歌唱は感じさせる。まるでシュトラウスの楽劇の中のサロメやツエルビネッタが歌うように!そうバイエルン版はシュトラウス色が強いように感じるのだ。

 そして、全体にも例えば歌い手の動きなど、フィンランド版は「静」をバイエルン版は「動」を感じさせる音楽運びなのである。このマリエッタの歌を、パウルが「沈んだ憂いも忍び寄る~」とつなぐがそれもフォークトの方は比較的淡々と歌うに対して、カウフマンはより悲劇性が強い。さらに3幕にもこの旋律が出てくる。「この身にとどまる幸せよ~」とパウルが繰り返すが、ここでも静と動が明かである。達観したようなフォークトとまだ心にもやもやと霧がかかるカウフマン。

 パウルの比較を論じたがマリエッタの比較も面白い。先に述べたようにペーターゼンの造形はト書き通りのマリエッタであるが、ニールンドはそこまで達していない。むしろほのかに匂い立つ気品のようなものを感じる。それはフィンランド版の演出ではマリーを俳優(黙役)が演じており、特に1幕の最後の部分(6場)、マリーの声がバックステージから聞こえる場面での、マリー役の気品のある演技は、いくらパウルがマリエッタの肉体に溺れたとはいえ、無視できないからだと思う。つまりマリーとマリエッタとは一対なのであるからこの舞台のマリーの造形を無視できないということであろう。それがニールンドの歌唱になっているような気がしてならない。とにかくこの黙役は素晴らしく、ほろりとさせられてしまう。
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(↑)左がパウル、右がマリーの黙役(フィンランド)

 バイエルン版のマリーとマリエッタは同一人物が演じており(ペーターゼン)、これも1対であるがゆえに、マリーとマリエッタの性格の相似性のようなものを感じさせる。ただしここではマリエッタの性格が優勢になっているのだろう。
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カウフマンとペーターゼン(ここでは髪がなくマリー)バイエルン版

演出や指揮者の音楽つくりが舞台に大きく影響しているのをこのように目の当たりにすると、この2つのバージョンは今後も私の「死の都」像を支配してゆくことだろう。

 さてすこしバイエルン版の各論に入ると歌い手は演出や指揮者に応えている。特にマリエッタの造形はト書きの実現化と云う意味では完璧である。声もそれに呼応している。
 カウフマンのパウルはいつもの弱音でのファルセット的な歌い方があまり出ていなくて、心に深い悲しみを負いながら、肉欲に溺れるパウルを好演している。フォークトとはまるで違うパウルだがこれはこれで説得力がある。ただ時折ファルセットが出るのは気色が悪い。例えば3幕の「この身にとどまる幸せよ~」のなかでLeben trenntと歌う部分はその癖が出ている。しかしこれは例外的だ。全体としてはとても立派だった。
 
 忘れてはいけないのはペトレンコの指揮である。結局彼がこの公演の全体の構造を支配したといっても過言ではない。たとえばパウルが夢想の世界に入り込む第2幕。その冒頭の前奏の部分の激しい音楽は、リヒャルト・シュトラウスの楽劇だといわれても、疑えないほどの激烈なものである。そしていかなる甘美な音楽にも決して酔わずに、ドラマに組み込んでゆく、音楽つくりはこの「死の国」というオペラに新風を吹き込んだといって良いだろう。

 演出のサイモンストーンはこの舞台を20世紀に移している。その時代を感じるのはゴダールやアントニオーニの映画の例えば「気違いピエロ」や「欲望」などのポスターがバックに配されていることか

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からもわかる。これ(↑)はポスターと同じ演技だ。なお、マリエッタの歌の場面でもこのポスターが出てくる。(二幕のマリエッタの居室で。)
 舞台装置は舞台上に直方体の建物があり、それが3分割されて、1幕はパウルの家、2幕はマリエッタの家を描いている。フィンランドに比べるとかなり具象的でわかりやすい。(↓))
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バイエルン版舞台(2幕のマリエッタの家)

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フィンランド版舞台(3幕)

 なお、この映像は7月にDVDとして発売される。フィンランド版と合わせてみることをお勧めする。私にはフォークトとニールンドの歌唱が忘れられないからだ。

2021年6月12日(於:日生劇場)
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昨年の11月の「メリー・ウイドウ」以来の日生劇場である。

 今年は6月にパレルモ・マッシモ劇場が来て「ボエーム」を演じるはずだったが、これが来年に延期になり、本日の「ラ・ボーエーム」はとても楽しみな公演だった。

 当日確認のため、ホームページをチェックしたら、あちゃー、日本語公演だった。原語公演と云うのが一般的になってから、まだ1世紀もたっていないので、はるか東の国の1オペラファンが日本語公演についてうんぬんかんのんいっても詮無いことかもしれないが、やはり今日の公演がほとんど原語公演になっている中での日本語公演というのは私には奇異に感じる。
 日本語公演の目的は、オペラになじみにない方々をオペラに惹きつけるための一つの方策らしいが、果たして現実にそうなっているのか?(今回のこの公演は全国6公演の予定)
 例を挙げると、本公演でも日本語で歌いながら、日本語字幕付きである。これはどういうことなのだろうか?要するに日本語で歌っても、すべて聞きとれるわけではないということであろう。私の印象では半分くらいは聞きとれない。レチタティーボやせりふ的な部分はほとんど聞きとれるが、アリアなどはまず何言っているのかさっぱりわからないから字幕を見ることになる。これなら原語で演じても変わらないのではないかと思うのだが、それでも日本語公演にこだわるのは、何か強い信念があるのだろうと推察する。
 細かいところだが日本語に訳す難しさも改めて感じる。イタリア語で書かれた、それもプッチーニが推敲を重ねた台本を、日本語に訳して違和感なく歌わせるのは相当な困難を伴っただろうと拝察する。字幕を見ていてもその苦労がしのばれるが、しかし、たとえばムゼッタが2幕で足のつま先が痛いと訴える場面「AL PIE」と泣きまねをするが、日本語訳が「アンヨ」と云うのにはびっくり。歌手も歌っていて笑ってしまうのではないだろうか?しかし今日は真面目に歌っていたが!

 さて、それはさておき、今日の公演の歌い手はそれぞれ水準の高い歌唱を聴かせてくれて、そういう意味では「ラ・ボエーム」を楽しませてもらったのは間違いない。
ミミ:安藤赴美子、 ロドルフォ:宮里直樹、 ムゼッタ:横前奈緒、マルチェッロ:今井俊輔
ショナール:北川辰彦、 コッリーネ:デニス・ビシュニャ、 ベノア:清水宏樹、 
アルチンドロ:小林由起、パルピニョール:工藤翔陽、いずれも藤原歌劇団や二期会の精鋭である。
(なお、ダブルキャストで東京では2公演のみ)

 最も素晴らしい歌唱と感じたのは、安藤のミミである。彼女は新国立などでも蝶々さんを歌ったりしている、実力者であるが、私には大ホールで歌うと、少し声量が物足りないところがあって、いつも少し不満が残るのだが、今日は器が小さいホールと云うこともあって、そのきめ細やかな感情表現が、歌唱の隅々まで行き届いており聴き応えがあった。特に悲しみをたたえた3幕、4幕の歌唱は心に残る。ただ2幕の最後、階段で歌う2重唱は最後が声が伸び切らず不満を残した。こういうところで、しっかりと声を作れれば、超一流だろう。

 これに対して宮里のロドルフォは屈託のないもの。そののびやかな張りのある声は魅力だ。しかし私のような年寄りには、ここまで大声で歌うことはなかろうと思えてしまう。それゆえ安藤との2幕の2重唱はバランスが悪くかみ合わない。
 さらに、あえて言えば3,4幕のミミの悲しみの歌唱に対して、このロドルフォにとってはこれで一つの恋が終わったという、さっぱり感が感じられ、少々物足りない。

 マルチェッロの今井は「トスカ」のスカルピアが今でも忘れられない。あれほどぬめっとした、いやらしいスカルピアはお目にかかったことがない。マルチェッロはそういう複雑な表現は要求されていない役柄だと思うが、例えば2幕でムゼッタの誘惑に屈する場面、その燃え上がる恋情は決してあけっぴろげにならないところは、いかにも今井らしいが、そこが物足りないところでもある。ここは爆発してほしいところだ。

 その他男声陣ではショナールの北川がその軽妙な歌唱で、ショナールの性格を表現していて印象に残った。コッリーネのビシュニャはウクライナ人で、達者な日本語ばかりが耳に残った。ウクライナ人にとってはイタリア語も、日本語も外国語には違いないが!

 ムゼッタは出だしは少々固かったが、ほぐれてくると、次第にその透明でのびやかな声が聴き手を魅了する。ただこのムゼッタの歌唱は立派だが、はたしてどういう人物像なのか?そこが見えない。コケットなムゼッタ、蓮っ葉なムゼッタ、妖艶なムゼッタ、彼女の表現したいのはどれか?真水のような優等生の歌唱だが、突き抜けて欲しい。

 指揮はもう日生や藤原の座付き指揮者のような園田隆一郎。今日は弦楽部が少ない編成だったのか、木管やらハープやら個々の楽器がやけに目立って聞こえたのが印象的だった。4幕の幕切れでロドルフォが泣き伏して、幕が降りるまでの間がやけに長くて、少々間延びしたのが残念。泣くタイミングを逸してしまった。管弦楽は新日本フィルだった。

 演出は伊香修吾である。1幕の舞台はロドルフォたちの屋根裏部屋、左手には広いガラス窓。正面右奥にはドアがある。中央にはソファベッドのようなものが置いてある。テーブルなどもあり、ト書きに近い舞台装置。違うのはそこにはもうミミが横になっていることだ。そして音楽はにぎやかに始まるのではなく、静かに1幕の幕切れの2重唱の旋律が奏され幕が開く、やがて、本来の音楽が始まる。こういう音楽のいじりはどうも気に入らないが、演出家の趣味なのだろう。更に奇妙なことにミミはずっとこの部屋にいて、ロドルフォやマルチェッロに交じって演技をしている。ロドルフォが仲間を見送ると、もうミミが部屋で待っているという寸法だ。
 4幕も一緒で冒頭からミミはソファに横になっていて、ロドルフォとマルチェッロのやり取りを聴いている。やがてムゼッタも加わるが、ロドルフォたちには見えない。ミミも一緒に踊ったり、乱痴気騒ぎを眺めたりしている。まあそういうところが変わったところ。私のような老人には普通にやればよいのにと、逆に演出家に同情してしまうが!

 つまらないのは2幕3幕である。あのゼッフィレッリのような素晴らしい舞台は期待できない。要するに省エネ舞台装置で、2幕3幕も基本は屋根裏部屋と同じ構造になっている。たとえば2幕はもう群衆シーンなどはなく、屋根裏部屋がカフェモミュスの情景、テーブルがいくつかあるや照明で1幕との違いを出している。群衆の声は左の大きな窓(バックステージ)から聞こえてくる。そしてなんとムゼッタとアルチンドロはその窓から入ってくる。3幕も同様屋根裏部屋である。少々加工はしていて、マルチェッロが働いている居酒屋風にしているが、またまたなんとだが最後は天井から雪が降ってくる。
 しつこいようだが、張りぼてでもよいから、群衆シーンは見たいところだった。

 プッチーニのボエームにしても蝶々さんにしても、最後はいつも泣いてしまうのだが、例えばボエームの3幕の別れの場面、4幕のミミの死の場面。プッチーニの嫌いな人は、たまらなく嫌な場面だろうが、好きな人にはこたえられない場面だ。残念ながら今日は涙腺が緩まなかったのは残念。


 日生劇場はおそらく、在京の劇場ではもっともコロナ対策がきちんとしてるところだろう。動線の工夫や消毒、会場整理などすべてにわたって手抜きをしない。例えばロビーやホール内での会話を慎んでというボードを作って、会場内だけでなく、ロビーの中も巡回する丁寧さ。もっともそのボードの前で堂々としゃべくっているご婦人も散見されので、ちょっとあきれてしまうが?劇場側の緊張感に対して、来場者は少々緩んでいるような印象
 帰路、丸の内の仲通を歩いたが、歩道上のテラスやカフェで多くの人が談笑しており、通常の週末と変わらない光景だったのには、緊急事態宣言下というのはどういうことかと疑問に思った。

 なお、ボエームのおすすめCDは以下の通り
 セラフィン盤(1958年)テバルディ/ベルゴンツィ(おそらく廃盤)
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 カラヤン盤 (1973年)フレーニ/パヴァロッティ
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 シャイー盤 (1998年)ゲオルギュー/アラーニャ
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今朝(5/27)コロナワクチンをうってきた。大規模接種ではなく、近所の病院だ。皮下注射は痛いので嫌いだが、今日はちくりともせず、あっという間に終わってしまった。いまのところ左腕全体が少しだるい程度。次回の予約もでき、なんとか6月中には免疫ができることを祈っている。そうすればある程度びくびくしないで音楽会やジムにも行けることになるだろう。

 実は、間抜けなことに(話は全然違いますが)、パレルモ・マッシモ劇場の公演がすでに再延期になったことを昨日知った次第。なんとも残念だったが、曲目を一部変えて来年(22年)にそのまま持ち越しだそうである。「ボエーム」と「シモン・ボッカネグラ」の二本立てだそうで、シモンはキャストは未定である。ボエームはゲオルギューが来る。今秋のNBSの招聘もどうなるか?やきもきしているところだし、新国立の2021-22もチケットの案内は来て申し込んだが、まだ梨のつぶて、今日(5/26)、会場で事務局の方に聞いたら、コロナの状況をもう少し見てから、発券しますとのことだった。オペラを含めてクラシック音楽界の世界の皆さんは私たち聴き手以上に、やきもきしていることだろう。


 さて、ルチア以来の新国立だ。緊急事態宣言下で不安は一杯、都知事の「外出自粛」のコメントが、なんとも効いているのだ。今日も電車の中を見渡すと、まず老人はほとんど見かけなかった(西武線)。ただ会場へ着くと私と同年配の人たちばかりがわらわらと入場。ほっと一安心だ。
 オペラは私にとって唯一の愉しみと云うことで、このドン・カルロは外せなかった。逆に渋谷を通らないとたどり着かない、目黒パーシモンホールでの「セルセ」(二期会)は涙を呑んであきらめた。(22日)

 そのような中聴いたドン・カルロ、このオペラの中核をなす6人の歌手の内3人が入れ替えと相成った。まずフィリポ2世がミケレ・アルベルトゥージから妻屋秀和へ、ドン・カルロがルチアーノ・ガンチからジュゼッペ・ジパリへ、そしてエリザベッタはマリーナ・コスタ=ジャクソンから小林厚子へ変更になったのだ。まあ藤原歌劇団のようなスタイルになったということだ。
 しかし、6人そろわなければ公演が難しいという中、よくぞここまでまとめたものだと、スタッフの皆さんに敬意とお礼を申し上げたい。世界の一流の舞台、そして私の持っている5セットのCDから比べれば、それらを凌駕しているとは決して言えない、パフォーマンスだったが、しかしこのヴェルディの名曲「ドン・カルロ」の音楽の素晴らしさは十分に感じ取れたのではあるまいか?少なくとも私はそうだった。
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 キャストは以下の通り。

指揮:パオロ・カリニャーニ
演出:マルコ・アルトゥーロ・マレッリ

フィリポ2世:妻屋秀和
ドン・カルロ:ジュゼッペ・ジパリ
ロドリーゴ:高田智宏
エリザベッタ:小林厚子
エボーリ姫:アンナ・マリア・キウリ
大審問官:マルコ・スポッティ
修道士:大塚博章
テバルド:松浦 麗
レルマ伯爵:城 宏憲
天よりの声:光岡暁恵

管弦楽、合唱団:東フィル、新国立劇場合唱団

 本演奏における指揮者の役割は大きい。つぎはぎだらけの歌い手をどうまとめ上げるという意味でである。
 このマレッリの舞台は、6メートル四方、厚さ1メートルほどの石壁(実際は発泡スチロールか)を何枚か組み合わせて場面場面の構成を組みたててゆく。したがって、と書きにあるような、宮廷やら、庭園やら、宮廷内の部屋やら、教会やらは聴き手・観衆はじぶんでイコライズしなくてはならない。しかしそういう冷たい石造りのような舞台の効果は、このドラマの肝は心理劇にありとみなしているかのようである。それは一部当たっている。つまりこのドラマの主人公のうち、すくなくとも4人は悩みを抱えているのだ。なお、この演出は今回で3回目である。前回は2014年11月30日。

 まず、国王フィリポは妻と息子のカルロとの不倫を疑って、嫉妬で夜も眠れない。大審問官にいって殺してしまおうと思うくらいである。カルロはフィリポの後継者ながら、エリザベッタががわだかまりになって,父親と敵対している。エリザベッタは貞淑な妻だが、こころの中ではカルロを忘れることができない。エボーリはカルロを愛しているが、実はカルロが王妃に恋していることを知り、嫉妬に狂う。この4人がからむ重唱は、彼らの心の葛藤がそのまま歌になり、その心理を、声でどう表現するか、つまりこのオペラの一つの側面は、そういう心理劇なのであり、この舞台の寒々とした閉鎖的な世界はだれもがそこから抜け出せない、そういう状況を表している。

 しかし、このオペラは一方では宗教対国王、フランドルに絡んだ内戦など政治劇的側面も大いにあるし、グランドオペラとして、盛大に盛り上がるシーンもある。だから心理劇に偏ると、このオペラの面白さの一面しか見ていないことになるのだ。
 そこで、このいくつかの側面の間隙を埋めたのが、カリニャーノだと思う。3幕の国王対大審問官との対決、2幕の2場の大グランドフィナーレ。3幕3場の群衆シーン、1幕の幕切れのポーサと国王の2重唱などの場面の豪快な音楽は、このオペラの素晴らしい一つの側面を描いている。

 一方1幕のエリザベッタのアレンベルク夫人への歌や、カルロとロドリーゴの友情の歌や、エボーリのベールの歌、2幕の1場の3重唱、3幕2場の4重唱、3幕2場のエボーリ姫の「むごい運命よ~」、4幕のエリザベッタとカルロとの2重唱につけたカリニャーノの音楽はこの作品の深部を抉っていて、聴きごたえが十分だった。東フィルの迫力のある演奏も印象に残った。

 歌い手について一言。本割のままの大審問官とロドリーゴは安定した歌いっぷりだ。審問長は不気味な雰囲気が出ていた。ロドリーゴは屈託のない役柄に思える。彼は心理的に裏表がない、要するにカルロを立て、自分は捨て石になっても良いから、フランドルを救いたいと思っているからだ。したがってストレート一本やりで大いに結構。その線で歌い切り、潔く、さわやかなロドリーゴと云う印象を与えた。今日の邦人ではベストだろう。

 カルロのジパリは衣装も薄汚れたようなジャケットを着ており、まるでホームレス、王子の片りんも感じられない。演出家のカルロへの思いや意図は、この衣装や立ち居振る舞いを見ただけではあまり伝わらない。鋭いのびやかな声は見事なものだ。しかしそれは果たして、役柄と整合しているのかと云う疑問が残った。

 妻屋のフィリポは弱弱しい場面での女々しさの表現がうまい。だから3幕冒頭の妻の不貞への疑念が晴れず、嫉妬が渦巻く、心の中を女々しく歌う。ここには傲慢な暴君の姿は微塵もない。また、1幕のポーサとのやりとりや、2幕のフィナーレ、3幕の大審問長との対決などでも、王としての威厳とか傲慢さが全く感じられず、人の好さばかりが目立って歌いにくそうだった。

 エリザベッタの小林は「ワルキューレ」のジークリンデがとてもよくここに抜擢されたらしい。声としてはジークリンデの方が成功していたような印象。たとえば4幕の「世のむなしさを知る人は~」はきれいに通る部分と、なんとなく口ごもるようになり、抜けが悪くなる部分とが、混在して、少々物足りなかった。1幕のアレンベルク夫人への同情も空虚で、共脳が伝わらない。印象だが、未消化な部分が散見されたような歌唱だった。

 最後は、キウリのエボーリ姫だ。彼女は新国立でカルメンを歌ったそうだが、あの時の方が声はもっとのびやかなような気がしたが、気のせいか、それともエボーリへの役つくりのためだろうか?彼女のエボーリを聴いていて、CDでこの間聴いた、シャーリー・バーレット(1970年ウイーンライブ)を思い出した。少々ドスの効いた姉御風のエボーリ、もっと言えば3幕の「むごい運命よ~」はまるでマクベス夫人の狂乱の場のごとく感じられた。これはすごい歌唱だが、はたして、ヴェルディの意図したエボーリとの整合性はあるのか、独自性は認めるが、好き嫌いは別れるだろう。

 しかし、このつぎはぎだらけのキャストで作り上げたドン・カルロは感動的であったことは間違いない。キャストの皆さん、まだまだコロナは続きそうですが、65歳以上の爺さんばあさんはワクチンを7月までには打ち終わりますので、応援に聴きに行きますから、いましばらく頑張ってくださいね。今日の公演誠にありがとうございました。

 なお、今日の公演は1884年、スカラ座での再演4幕版、いわゆるリコルディ版でカラヤンのCDで聴けるもの。演奏時間は175分。

 

 



2021年5月23日

オペラを聴き始めて半世紀と8年がたった。そのなかでヴェルディはもっとも重要な作曲家である。学生時代はワーグナー一辺倒だったが、社会人になって、ある機会からイタリアオペラにのめりこむことになった。いま最も自宅で聴くオペラはヴェルディかプッチーニ。ワーグナーはもうほとんど聴かなくなってしまった。体力の衰えとともにワーグナーはもう全曲がもたないのかもしれない。

 さて、今週も緊急事態宣言下で、この「絶望的音楽三昧」から抜け出られないが、新国立劇場で「ドン・カルロ」が聴けるので楽しみにしている。ヴェルディの「ドン・カルロ」はヴェルディの中でも好きな曲だ。ちなみにヴェルディと云うと「オテロ」、「マクベス」、「トロヴァトーレ」、「アイーダ」、そして「ドン・カルロ」が大好きなベストファイブである。ただ不思議なことに「ドン・カルロ」だけは、さて、聴こうと思ってCDを引っ張り出そうとすると、とても迷うのだ。
 しかし、そのほかの4曲は全く迷わない。「オテロ」はカラヤンの旧盤、「マクベス」はシノーポリ盤と迷うが、結局アバド盤、「トロヴァトーレ」はシッパース盤、そして「アイーダ」はカラヤンの旧盤である。
 ところが、「ドン・カルロ」となると我が家にある5セットのどれを聴くか、とても迷うのである。結局第一選考で残るのが、カラヤン盤、ショルティ盤、で後はその時の気分で聴く。
今週、「ドン・カルロ」を聴きに行くにあたって、5セットを聴き比べようと云うのが、今回の「絶望的音楽三昧」の趣向である。なぜCD選びに迷うのか、おわかりいただけよう。

 さて、5セット全部聴くとなると、15時間くらいかかるので、いくら暇とはいえ、ちょっと苦痛なので、自分の思う「肝」の場面に絞って聴いてみた。
 それは5幕版でいうと、第3幕の第一場、そして第4幕の第一場である。このオペラは政治劇と愛憎劇の混淆するドラマティックな筋立てて、その象徴がこの2つの場面だと思うのからある。

 その5セットについてのデータと私の印象は次の通りだ。
 なお、配役は以下の順番に記述する。演奏の版については、楽譜と照らし合わせたわけではないので自信がないが、ほぼあっていると思う。
  ①フィリポ2世
  ②ドン・カルロ
  ③ロドリーゴ
  ④大審問官
  ⑤エリザベッタ
  ⑥エボーリ姫

1.ガブリエレ・サンティーニ盤(1961年)/スカラ座(おそらく廃盤)
  (1886年、モデナ版、イタリア語,全5幕)/演奏時間190分
  ①ボリス・クリストフ
  ②フラヴィアーノ・ラボー
  ③エットーレ・バスティアニーニ
  ④イヴォ・ヴィンコ
  ⑤アントニエッタ・ステルラ
  ⑥フィオレンツァ・コッソット
 このCDでとりわけ、印象が強いのはドン・カルロ役のラボーである。彼が1972年(多分)イタリア歌劇団とともに、来日して「トゥーランドット」のカラフを歌ったのだが、それで、私は一気にイタリアオペラにのめりこむようになる。この時は他に、「ノルマ」なども演じられたが、すべて、エアチェックして毎日聴きまくっていた。後年その話をオペラ好きの友人に話したら、なんと、この「ドン・カルロ」を見つけてきてくれたのである。早速聴いてみたがラボーの声に懐かしさが先に立って、平常心ではきけないCDである。
 そのほかの聴きものは、バスティアニーニのロドリーゴが素晴らしい。ドン・カルロが卑小に見えるほど、高貴で英雄的だ。
 ステルラは今日ではほとんど聴かれないソプラノだが、セラフィンの指揮の「トロヴァトーレ」などでも歌っており、テバルディやカラスに負けずとも劣らない。このCDでもいかにも王妃然とした、気品と輝きが聴ける。コッソットのエボーリも良いが可憐すぎるような気がする。もう少し妖艶さが欲しい。クリストフのフィリポはギャウロフで洗脳されている耳には少々辛い。
 サンティーニの指揮は手堅いが、グランドオペラとしてのスタイルとはちょっと違うような気がした。録音は古いが聴くのに妨げにはならない。なお、この演奏は5幕の幕切れは1867年パリ初演版で演奏しており、静かに終わる

2.ゲオルグ・ショルティ盤(1965年)ロイヤル・オペラ(これもおそらく廃盤)
  (モデナ版、イタリア語、全5幕)/演奏時間198分
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  ①ニコライ・ギャウロフ
  ②カルロ・ベルゴンツィ
  ③ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ
  ④マルッティ・タルヴェラ
  ⑤レナータ・テバルディ
  ⑥グレース・バンブリー
英デッカのオペラ録音の黄金時代のころの作品。ショルティはワーグナーで多くの録音をデッカに残したがヴェルディの演奏も傑出している。RCAで録音した「リゴレット」は好きな演奏だ。この他のヴェルディでは「死者のためのミサ曲」が圧倒的なすばらしさ。
 この「ドン・カルロ」はプロデューサーのジョン・カルショー、エンジニアのゴードン・パリーとの組み合わせの録音で、今回聴いた5セット中では屈指の録音だ。オペラハウスの音場が聞きとれるところが、たとえ作られた音場であっても、素晴らしいと思う。
 ショルティの豪快な指揮は、カラヤンの豪壮華麗な指揮とともに、この5枚の中では傑出している。グランドオペラのスケールを味わえる名盤である。
 歌い手もデッカの擁する綺羅星のような名歌手たちの競演で聴きごたえがある。5セットの中ではもっとも歌手のバランスが良い。特に、ギャウロフ、ベルゴンツィ、テバルディは秀逸である。わずかにドイツ人のディースカウが少々出しゃばりすぎの感があって、煩わしい場面があるのが私には不満である。3幕のエボーリ、ドン・カルロ、ロドリーゴの3重唱もそこがちょっと不満だ。4幕のタルヴェラの声は大審問長にしては少し明るいが、ギャウロフとの対比でいうとそれほど気にはならない。これは私の一押しの「ドン・カルロ」である。


3.ホルスト・スタイン盤(1970年10月ライブレコーディング)ウイーン国立歌劇場(これもおそらく廃盤)
  (おそらく1884年、リコルディ版、4幕、イタリア語)/演奏時間169分
  ①ニコライ・ギャウロフ
  ②フランコ・コレルリ
  ③エバハルト・ヴェヒター
  ④マルッティ・タルヴェラ
  ⑤グンドラ・ヤノヴィッツ
  ⑥シャーリー・バーレット
 この盤はなんと言っても。コレルリが聴きものである。まあそのために買ったようなものだ。全盛期とは言えないまでも、彼の輝かしい声は他を圧する素晴らしいものだ。少々弱弱しいドン・カルロにしては立派すぎるかもしれないが、四の五の言わせない、存在感がある。
 ヤノヴィッツのエリザベッタはミスキャストかと思ったが、聴いてみると全くそうではなく、この5セットのなかでも1,2を争う素晴らしさ。3幕(4幕版)の1場のフィリポに軽蔑された後に歌う、歌唱は悲痛極まりなく、胸を打つ。バーレットのエボーリ姫は、姉御みたいな歌い方で、ちょっと驚くが、「DONO FATAL,~」の迫力の前には言葉もない。
 スタインの指揮はこれだけの歌手の前ではあまり手を出せないなあ、といった印象。
 録音は、この当時のライブとしては良い音だが、オペラの舞台が見えるような録音ではなく、歌手にフォーカスしている。

4。ヘルベルト・フォン・カラヤン盤(1978年)、ベルリンフィル(廃盤)
  (これもリコルディ版、イタリア語、4幕版)/演奏時間181分
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  ①ニコライ・ギャウロフ
  ②ホセ・カレーラス
  ③ピエロ・カップチルリ
  ④ルジェーロ・ライモンディ
  ⑤ミレルラ・フレーニ
  ⑥アグネス・バルツァ
ショルティと並んで、一押しである。なんといってもカラヤンの指揮が素晴らしい。先にも書いたが豪壮な「ドン・カルロ」と云えば、まずこの盤が思い浮かぶほどである。しかし最近聴くとちょっとしんどいところがある。例えば2幕の2場のグランドフィナーレなどは豪華で聴きごたえがあるが、ちょっと大げさでないかと思われるところもないではない。カラヤンと云えばウイーンフィルと録音した「オテロ」や「アイーダ」(いずれも旧盤)が彼のオペラ録音では随一のものだと思うが。このEMIの「ドン・カルロ」は過去のそういった、デッカで録音したイタリアオペラとは少しスタイルが変わったように思われる。しかし、そうはいっても、今日これほどの録音はそうざらにはなく、いまもって、カラヤンの代表作としての燦然とした輝きは失ってはいない。ウイーンフィルと録音したらまた印象が変わったかもしれないが、それはないものねだり。

 歌い手はどれも素晴らしいが、なかでもカレーラスのドン・カルロはいかにも白面の貴公子然として、ベルゴンツィと甲乙つけがたい。そして何と言っても傑出しているのは、カップチルリのロドリーゴである。これはバスティアニーニと甲乙つけがたい。ギャウロフ=フィリポというほどぴったりの役どころで、もう彼のフィリポ以外は考えられない。

 フレーニのエリザベッタは過去のステルラやテバルディに比べると、王妃のイメージは少々乏しいのが物足りないところ。バルツァの歌唱は圧倒的といえよう。

5。クラウディオ・アバド盤(1983年)スカラ座(輸入盤で入手可能)
  (1886年、モデナ版をフランス語に戻したもの。5幕版)/演奏時間232分
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  ①ルッジェロ・ライモンディ
  ②プラチド・ドミンゴ
  ③レオ・ヌッチ
  ④ニコライ・ギャウロフ
  ⑤カーチャ・リッチャルリ
  ⑥ルチア・ヴァレンティーニ・テラーニ
アバドのヴェルディは「マクベス」と「シモンボッカネグラ」の2本が私にとって唯一無二の演奏であるが、はてそれ以外のヴェルディと云うと「死者のためのミサ曲」以外あまり印象に残らない。この「ドン・カルロ」も私にはショルティやカラヤンの演奏と比べると大人しく、なんとなく影は薄いような気がするのはもう好みの問題かもしれない。フランス語というのもなんとなくしっくりこないのだ。

 歌手ではエボーリ姫のテラーニの歌唱が素晴らしい。彼女は初めてスカラ座が来日した時にヴェルディの「死者のためのミサ曲」を歌ったが、その感動的な声が忘れられない。この「ドン・カルロ」を聴くとその時の歌唱を思い出す。早逝したのが残念な歌手だ。
 リッチャルリはフレーニの時の印象と同じ。二人とも素晴らしい声だとは思うが、エリザベッタの私のイメージとは違うような気がする。
 ドミンゴのドン・カルロは少々立派すぎ、ヌッチのロドリーゴは少々貧相。ギャウロフとライモンディはカラヤン盤と役が入れ替わっているが、おそらくアバドの意図だろうが、狙いがわからない。

 さて、以上で5セットのレビューを終えるが、1983年以降ではどういうレコーディングがあるのかわからない。しかしどう転んでもこの5セットを凌駕する録音が出てくるようには思えない。
 オペラの新録音は少ないので、発売されるとつい手を出してしまうが、大体一回聞いてお蔵入りだ。例えば、「アイーダ」のパッパーノ盤。カウフマンのラダメスの「清きアイーダ」を聴いただけで、もう先を聴く気がしなくなってしまった。カウフマンが日本でリサイタルをやった時に、同じく「清きアイーダ」を歌ったが、まあ技巧を凝らした歌唱と云えば、聞こえが良いが、本当にアイーダを愛しているとは思えない。だからいまは新録音は全く聴かない。懐古趣味の老害と云われても仕方がありませんが。

 さて、余談になってしまったが、最後に「ドン・カルロ」のベストキャストを選んでみた。

フィリポ2世:ニコライ・ギャウロフ
ドン・カルロ:ホセ・カレーラス、カルロ・ベルゴンツィ(コレルリは好きだけれど少々立派すぎる、ラボーは別格)
ロドリーゴ:ピエロ・カップチルリ、エットーレ・バスティアニーニ
大審問官:ルッジェロ・ライモンディ
エリザベッタ:アントニエッタ・ステルラ、グンドラ・ヤノヴィッツ
(ステルラとテバルディは同系なので、ステルラを選んだ、ヤノヴィッツはフレーニやリッチャルリの延長線にあるような気がするのでその代表として選んだ)
エボーリ姫:ルチア・バレンティーニ・テラーニ、アグネス・バルツァ

なお、録音はもっともオペラハウスで聴いているイメージに近いのは古い録音だけれどショルティ盤である。


5/31、追記
我が家にもう1セット「ドン・カルロ」があった。リッカルド・ムーティ指揮のものだ。ムーティが壮年期に録音したヴェルディのオペラ11曲と死者のためのミサ曲が、28枚のCDに収められているCDボックスを失念していたのだった。
190295945886

データは以下のとおりである。
6.リッカルド・ムーティ盤(1992年、ライブレコーディング)ミラノスカラ座
(リコルディ版、4幕版、イタリア語)

①サミュエル・ラメイ
②ルチアノ・パヴァロッティ
③パオロ・コーニ
④アレクサンダー・アニシモフ
⑤ダニエラ・デッシー
⑥ルチアナ・デンティノ

今回久しぶりにこの演奏を聴いて、大いに感動してしまった。それはムーティの統率の元、歌い手たちは、この悲劇の中の人物を、あたかも実像のごとく歌っていることを改めて気づかされたからである。歌い手たちは単に譜面通りに歌っているのではなく、切れば血の出る人間として歌っているのである。
このオペラの主人公たち、フィリポにしろ、エリザベッタにしろ、エボーリにしろ、そしてドン・カルロは、大きな苦悩を背負っている。それが歌声を通して感じ取れる。それはおそらくムーティのリードなくしてはあり得ない。緩急強弱は相当激しいが、ライブを感じさせる激しさで、当日この演奏を聴いた人たちがうらやましい。そういう演奏だ。(このスカラ座の公演はゼッフィレリの演出と云うから、2重にうらやましいことだ。)

 特に2幕の1場の3重唱、3幕1場のフィリポのアリア、そして大審問官とフィリポの対決、続くフィリポ、エリザベッタ、ロドリーゴ、そしてエボーリ姫との4重唱、締めはエボーリ姫のアリアどれ一つとっても、火を噴くような演奏である。

 歌い手はまず、ラメイのフィリポ、明るく若々しい声は、ギャウロフの重い、重厚な声とは違うが、繊細な感情表現が素晴らしい、特に2幕の1場のアリアがそうだ。そして大審問官との対決も政治劇を感じさせる激しさ。ムーティに応えている。
 次いでデッシーのエリザベッタ、そのしっとりと濡れたような、若々しい声は魅力的で、独特の雰囲気のエリザベッタである。等身大のエリザベッタを感じさせる。3幕の4重唱の悲しみは胸を打つ。
 デンティノのエボーリはそれに対して、少し重々しい。大人の声を感じさせる。今まで聴いてきた歌い手の中では、テラーニに近い。3幕1場アリアの激烈さは、ムーティの作る音楽に乗って、圧倒的な感銘を与える。

 この3人に比べると、少々物足りないのは大審問官。作り声のような発声は、私には聞き苦しい。
ロドリーゴは3人に比べると印象が薄い。

 問題はパヴァロッティだろう。そののびやかな声は、57歳の当時も依然変わらないが、その屈託のない、歌いっぷりはムーティの作るドラマとの整合性と云う意味では、少々浮いた歌唱と感じられた。別格大本山というべきだろうか?



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