ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ: オーケストラ(日本)

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東フィルの定期、サントリーホールで聴いた(3月15日)
プログラムとキャストは以下の通り。

指揮:アンドレア・バッティストーニ
ソプラノ:ヴィットリアーナ・アミーチス
カウンターテナー:弥勒忠史
バリトン:ミケーレ・パッティ
合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:世田谷ジュニア合唱団

  レスピーギ:リュートのための古風な舞曲とアリア、第二組曲

  オルフ:世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」

  現代作曲家の2作品、いずれも12音階などの難解なものでなく、耳に優しい、形式としてはバロックやそれ以前の形式を感じる音楽からなるプログラムである。

  レスピーギは初めて聴く曲だ。レスピーギと云うと「ローマ三部作」くらいしか聴かないが、こういう名曲もあるのだと教えられた。聴いているとルネサンス時代の貴族の豪邸で音楽を聴いている気分。ところどころ鋭く響く場面が、20世紀の作品だと知らしめる。バッティストーニは力は全く入らない自然体の音楽進行。実に気持ちの良い音楽だった。

  これに反してオルフのカルミナ・ブラーナは聴き映え、演奏映えがするのか、過去多くのオーケストラで聴いている。
  最近では2019年9月15日のバッティストーニと熊川哲也とのコラボで、この曲は本来バレエとの組み合わせの曲だったらしいが、それを復元、まあとはならず、熊川流のアレンジでちょっとがっかりだが、バレエ版の片りんに接したことは良い体験だった。その時のバッティストーニはどうだったか? 正直バレエの筋を追うのに忙しく、ちょっと気を削がれて音楽まであまりゆかなかった。

  そのほか2010年飯森/東響、2013年3月29日小泉/都響、2021年1月23日ウルパンスキー/東響がこの10年の記録。曲についてや演奏については重複するのでその時のブログを参照願いたいが、いずれも熱演でこの名曲を楽しむのに過不足のない演奏だった。

  ただこの音楽の詩は中世に書かれたもの、貧しい学生や修道士などの書いたもの、それが修道院に埋もれ何百年後に発見された。したがってこの詩の背景を見過ごすことはできないだろう。多分書かれたのは中世であり人々は精神的にはキリスト教に、日常の生活では封建社会の最下層で厳しいを生活しいられていたのに違いあるまい。そのなかでの愛の歌、酒の歌、そして人の運命の流転の歌などが書かれた。
  これは公表できるものではなく、だから埋もれた。この時代、精神的にも、生活面でも、人々は「たが」にはめられていた、しかしこのボイエルン修道院で発見された詩集には、その「たが」がはずされた民衆の姿が描かれている。そうだからおそらく埋もれたのだ。「ばらの名前」のアリストテレスのように。

  オルフはそれに曲をつけたわけだが、今日(こんにち)の演奏ではこの「たが」について意識させる演奏は皆無に近い。「たが」がはずされたその姿がおおらかに描かれる、そういう演奏がほとんどだ。だから指揮者は時に、歌い手や合唱団につまらん小芝居をさせたりするのだろう。

  私の過去のブログを読むとわずかに小泉/都響の演奏がその「たが」感じさせると書いていたが、もうどういう演奏かは何も覚えていない。

  過去のレコーディングで見ると1967年のヨッフム/ベルリンドイツオペラの演奏がこの「たが」を強く感じさせる演奏だ。多くの専門家もこの録音をこの曲のベスト盤と云っているのはそういうところにあるのだろう。
  例えば第1曲目の「おお 運命よ~」に続く「満ち足り欠けたり~」部分の合唱とオーケストラの地を這うような響きにはそういう「たが」を感じることができる。バッティストーニの演奏はそういうドイツ音楽の持つどろんとしたような、悪く言えばいやらしさはなく、健康的な音楽の進行がある。
  バッティストーニ流演奏は、あまたあるが、さて、ヨッフム流と云うと私の聴いた限りでは、ティーレマン/ベルリンドイツオペラの演奏くらいだろう。

  まあ余談ばかりだが、しかしこのバッティストーニの演奏は、このスタイルの中でも燦然と輝く名演奏といえよう。彼の演奏の一つの特徴は歌にある。なかでも合唱の取り扱いだ。今夜の演奏の合唱は70名もいない人数だが、それゆえと云っても良いかもしれないが、透明感が怖ろしく高い、静かな場面ではまるで教会の中で聴いているような気分にさせられる(私は二階席)。
  「15曲のキューピッドは飛び回る」での児童合唱の透明度もすばらしい。
  第1曲や2曲のいわゆるセリアの部分の盛り上がる部分も決してがなり立てることがなく、むしろ鋭くきりもみ状に音楽は突進してくる。またたとえば女性コーラスに独特のイントネーションを与えたり、バッティストーニ流に手を加えているようだ。

  合唱を含めて特に印象に残ったのは、ソプラノが加わった第3部である。ソプラノは「17曲、少女が立っていた」は声がまだとおらずさえなかったが、「21曲、秤にかけてみよう」や「23曲、愛しいあなた」はまるでオペラのアリアのようで、素晴らしい声を聴かせてくれた。そして合唱も加わった22曲から25曲までの充実感、大いに燃え上がった。

  バリトンは私の好みでは少し非力のように感じた。もう少し低音が欲しい。少々芝居っ気が多いのはこれも好みに合わない。弥勒の白鳥「12曲、昔は湖にいたものさ」は以前聴いたときよりずっと見事だ。演技はしているがあまり気にならず、歌は素直に歌われていて、印象は抜群だった。なお彼は修道僧のような服を着て、頭もそういうカットになっている。
  オーケストラの熱演もあり、終演後はブラボーの連発で大いに盛り上がったコンサートだった。
                                         以上

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2月16日のサントリーホールでの公演を聴いた。

当日のプログラムは以下の通り
指揮:エリアフ・インバル

(カディッシュ出演)
  語り:ジェイ・レディモア
  ソプラノ:冨平安希子
  合唱:新国立劇場合唱団
  児童合唱団:東京少年少女合唱隊

ショスタコーヴィチ:交響曲第九番

バーンスタイン:交響曲第三番「カディッシュ」

  今日の公演はなぜか気が進まない。へそ曲がりおやじ的に云うとそうなる。ウクライナを攻めているロシアの音楽を聴いて、さらにガザの攻撃に手を緩めないイスラエルの神をたたえる「カディッシュ」を聴くということをだ。
  ロシアでいうとソヒエフは良くてクルレンティスはだめだという理由は分かったとしてもその選別は誰がしているのか?ロシアはロシアだろう。ショスタコーヴィチは平和主義者であろうが、この九番の後は大人しくなり体制に迎合する。そういうこともあるのだ。これは理屈でなくて生理的な問題だ。このへそ曲がりおやじの!!
  音楽家にとってはつらい時代だ。誰だってそんなにきれいに生きられない。

  さて、自分のことだ。じゃあ聴くのをやめればと云うことになるかもしれないが、それほど簡単ならわけはない。
  ショスタコーヴィチの戦争3部作のうち、七番(レニングラード)はよく聴くし、このあとの十番も良く聴く、しかし九番と云うのはあまり聴く機会がないのである。だから聴いてみたい。
  勝利記念で、第九と云えばベートーヴェンのような音楽を聴きたいと誰しも思うが、そこはそれショスタコーヴィチだから生半可な音楽ではない。この軽妙な音楽は果たしていかような頭脳から生まれるのだろう。今日聴いて回答は得られなかったが、インバルの手練手管はこの音楽に息吹を与え、生き生きとして、ああこれはきっとショスタコーヴィチ流勝利の喜びなんだろうと感じた。特に後半の3楽章は実に生き生きとして気持ちよかった。

  「カディッシュ」は我が家に一枚だけCDがある。バースタイン指揮のものである。これはしかし難物で語り手を聴いているうちにいつも眠くなってしまって、終わりまで聴いた事がない。と云うのは嘘で眼が醒めたらもうフィナーレだったという塩梅だ。ライブでも聴いた事があるが記憶にない。ということでこれも一度じっくりライブを聴いてみたいと思っていたから、簡単にはやめられないのだ。

  神との対話をする語り手は本当に必要なのかどうか?今日聴いていて感じた。音楽だけで進めてくれた方がよかったように思うのだが?やはりケネディ暗殺やピサールの語りを生んだ9.11など一種の機会音楽的な要素もあるのだろうか?それを持たせすぎたのがこの作品の魅力でもあり欠点でもあるような気がしてならない。演奏も聴き方も難しい曲だと改めて感じた次第。
  そういうことではなく、音楽だけの方が、イスラエルの民の平和を希求するカディッシュではなく、世界平和を希求する「純音楽」としてのバーンスタインのカディッシュを、表現できたような気がしてならない。だから語りは無視して音楽だけに集中していると、バースタインの音楽の語り口の良さが感じられて、音楽的にも「普遍性」が感じらまた合唱やソロにも力があり予想以上に楽しめた

  「カディッシュ」の演奏では合唱が素晴らしい出来栄え。正面オルガン席前、左手に少年少女合唱隊、中央に女声部、右手に男声部が位置して、特に後半のカディッシュ部分は見事だった。
                                        〆

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ミニマル・ミュージックの大家、米国出身のジョン・アダムズ作品の自作自演コンサートである。都響定期公演、サントリーホールで1月18日に聴いた。

  ミニマル・ミュージックと書いたが、私にはグーグルで引かないと意味が分からないほどの知識。同じ音型を繰り返して演奏するスタイルらしい。同じ音の繰り返しならさぞかし退屈ではあるまいかと思いきや、予想以上に楽しいコンサートになった。
  例えばプログラムの3曲目のハルモニーレーレの3楽章の終結部などは巨大な音楽であるが、しかしよく聴くと各パートが(弦やら管やら)それぞれ違う音型、メロディもリズムも異なる、それが同時に繰り返し鳴っているように聴こえる。しかしそうでありながら全体では全く混濁せず、一つの巨大な音楽として、とてつもない迫力で迫ってくる。思わず身震いするような感覚。これは精神的にも生理的にも大いに揺さぶられる音楽であり、ジョン・アダムズの中でも最も人気のある曲であることがよくわかる。

  さて一応今日のプログラムを見て見よう。

ジョン・アダムズ:アイ・スティル・ダンス(2019)/日本初演
ジョン・アダムズ:アブソリュート・ジェスト(2011)
          エスメ弦楽四重奏団

ジョン・アダムズ:ハルモニーレーレ(1984-85)

  最初のアイ・スティル・ダンスは本邦初演、今日の曲の中ではもっとも最近の曲だ。短い(8分)曲で、これはミニマル・ミュージックと云うのはどういうものかを如実に表している曲だろう。最初から最後まで同じ音型を各パートが鳴らし続ける。それが昔映像で見たトルコのダンス(白衣を着てひらひらと踊る)を思わせるようで、とにかくずっと鳴り続けて突如止まる。しかし音楽は止まってもなんだか体はまだ動いている感じ、だからSTILLなのだろう。

  本日最も面白い曲は2曲目のアブソリュート・ジェストである。ジェストとは直訳では冗談と云う意味だがラテン語ではJESTA/行為・偉業・実行)と云う意味だそうで、アダムズ自身そういう意味にとらえて欲しいと書いている。
  この曲は25分程度の1楽章形式の音楽。全体が一つの巨大なスケルツオのようであり、共演する弦楽四重奏団(エスメ弦楽四重奏団/アジア系のメンバーを中心にした団体)とオーケストラの協奏曲のようでもある。しかもベートーヴェンの音楽のスケルツオ集のパロディでもある。
  この曲の前半の中心はベートーヴェンの交響曲、一番聴きわけられやすいのは交響曲第四番のスケルツオ部分、後半の中心はベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番のスケルツオ部分である。それぞれが基本音型となっていろいろな楽器で繰り返されるが、主導するのは指揮者の前に立って演奏する(チェロは椅子に座っている)弦楽四重奏団である。わずかに電気的に増幅されて、ステージ左右に位置するスピーカーで音が補強されている。
  そのほか第九や大フーガなどが時折顔を出して、ベートーヴェンのパロディとして聴くべきなのかと思えるが、しかしこれをミニマルミュージックの手法で再創造しているとみると全く違う世界が見えてくる。こういう音楽世界もあるのだなあと大いに感心し、楽しんだ。
  現代音楽と云うとシェーンベルクの12音階音楽をイメージして、とにかく難解と云うことが頭にあって、何ともとっつきにくい世界であるが、現在も作曲・指揮活動を続けている、今夜のジョン・アダムズの作品を聴いていると、同じ時代の音楽とは全く思えないわかりやすい音楽になっている。こういう世界なら現代音楽も大歓迎だ。
  なお、エスメ弦楽四重奏団によるアンコールがあった(ベートヴェン弦楽四重奏曲第13番2楽章)

  3曲目のハルモニーレーレは前述のとおり。これは40分ほどの大曲で三楽章形式になっている。
  サントリーホールのステージにはマイクが林立していて、多分ライブ録音しているのだと思う。是非聴いてみたい。
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  演奏するのも大変な難曲ばかりだが、都響には苦にならなかったのだろう。2曲目のアブソリュート・ジェストなどはエスメ四重奏団ののりのりのベートーヴェンに乗せられたのか、鮮やかな演奏で楽しめた。エスメ四重奏団のベートーヴェンは日ごろ聴くブタペスト四重奏団の演奏とはまるで違う世界のベートーヴェンのようで、アンコールなどはロックを聴いているような浮き浮きするような音楽で面白かった。
  現代音楽で楽しんだのは珍しいことだが、こういう夜もある。今年初めてのコンサートだった。
                                          〆

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今年最後のコンサート。サントリーホールへ聴きに行った(12/19)。
都響のホームページを見たらチケット完売となっていたが、プログラムを見るとキラールとかペデレツキとかまあ日ごろあまり聴かないポーランドの作曲家の作品がメインになっているのに面妖なことだと思って、プログラムをよく見ると、理由は分かった。

  2曲目のラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のソリストがショパンコンクール第2位の反田恭平だったからであろう。彼の多才ぶりは驚くべきもので指揮もすれば、自前のオーケストラを編成してしまうという、従来の音楽家では思いもつかないようなことをやってのける。いまの日本楽壇で最も目を離せない音楽家の一人であることは間違いあるまい。

  さて、今日のプログラムは以下の通り。指揮はポーランドの大家アントニ・ヴィトである。1971年のカラヤンコンクールの入賞者と云いうからかなりの高齢(79歳)だろうが、かくしゃくとしたもので、ラフマニノフでも反田とバチバチやっていた。

  キラール:前奏曲とクリスマスキャロル
  ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番

  ペンデレツキ:交響曲第2番「クリスマスシンフォニー」

  キラールはポーランドの作曲家で映画音楽の作曲家としても名を成した。1曲目の「前奏曲~」はとても興味深い曲である。まず編成は弦楽部+オーボエが4本である。しかもオーボエは弦楽部の後方4か所に等間隔で位置する。つまり左右に2本、中央に2本である。
  最初はオーボエ4本が左から右に追いかけるように同じ旋律を吹く、そしてそれに和して弦楽が加わる。一段落するとうなるように弦楽部が動き出し、一つのクライマックスを築く。最後はまたオーボエ群が最初の主題を吹き、休止があって、弦楽がコーダとなる。10分くらいの短い曲だったが、初めての曲にしては集中して聴けた。興味深い曲だと思う。
  クリスマスキャロルと云う標題がついてはいるが、その意味は分からない、この音楽はそういう標題や精神性は関係なく、音の繊細な変化を楽しむ、音楽の原点に立ち返ったような音楽として私は受け止めた。

  3曲目のペンデレツキはポーランドの大家である。この交響曲第2番は「クリスマスシンフォニー」と云う標題がついているが、これはこの曲を書き始めたのがクリスマスイブだったとか、「きよしこの夜」の旋律の一部が挿入されているとかの理由でつけられているようだ。最近では本人はこの標題を取っ払っているようだ。

  この曲を聴いていると(初めて聴いた)、ポーランドの虐げられた歴史、国民の抵抗、戦い、勝利、敗北などが音楽であらわされているに違いあるまいと思われるほど荒々しい音楽があふれている。それほど長い曲ではないが、正直追っかけているうちに、ペンデレツキのスタミナについて行けなくなった。これはポーランド人、ペンデレツキでなければ書けない唯一無二の音楽だろう。ヴィトの指揮も全く揺るぎがなく、都響を十分ドライブしきった。この曲のスペシャリストとしての矜持を感じる指揮ぶりだった。

  ラフマニノフは見事な演奏だった。ライブ演奏の面白さを堪能した。ヴィトと反田とは年齢的に親子ほど違うが双方がその年齢差を越えてどう協奏するか?興味深いことではあるまいか・

  1楽章はヴィトがもうタクトをもってすぐ始めそうになっているが、反田がスタートしない、立ち合いがうまくゆかないのかな?そういう印象から聞き始めたせいか1楽章はどうも全体にちぐはぐ。カデンツァから再現、コーダあたりにやっと、ベクトルがあってきた感じ。この後半の音楽は聴きごたえがあった。1楽章の反田のピアノは華々しいが、老人の私の耳には、少々小うるさく聴こえた。

  2楽章はヴィトが始動、反田がそれに合わせてすこぶる静謐な音楽が再現した。冒頭の木管群の上品な響きは、このポピュラーな名曲に、高貴な光を与え、反田のピアノがそれをさらに磨き上げる。そういった印象で、実に感動的である。今夜最も心を動かされた場面である。
  3楽章は両者の呼吸がぴったりと合って、フィナーレにふさわしい豪快な演奏。ヴィトもピアノに負けじとオーケストラを煽るから、手に汗握らんばかりのスリリングなラフマニノフ。
  反田のピアノの良さは、自由気ままに演奏をしないことだろう。強弱緩急の変化が、いずれも小幅ですんでいるので、この名曲の品を落とさないのだ。大家によっては音を崩したり、急に早くしたり、止まったりと云った演奏も散見するが、私はそういう演奏は嫌いなので、今夜の反田の演奏は気にいった。演奏時間は36分。
  アンコールはシューマンの「献呈」(リスト編曲)、名技性を誇示しない、素晴らしいシューマンだった。
                                         〆

 

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久しぶりのオーケストラコンサートだ。このところオペラが続いていたので新鮮。
16日にサントリーホールで東京交響楽団の定期公演を聴いた。常任指揮者だったユベール・スダーン指揮である。

  曲目は
シューマン:交響曲第一番「春」/マーラ編

ブラームス:ピアノ四重奏曲第一番/シェーンベルク編

  いずれの曲もロマン派の巨匠の手になるものを、それぞれマーラーとシェーンベルクが編曲した曲と云う点で共通している。

  ブラームスは指揮者が振るのが好きになるタイプの曲なのか、案外聞く機会が多い。その割には印象が希薄。我が家にはヤルヴィの指揮したCDが一枚あったのだが、結局どこかへもぐりこんだためか見つからず、事前に聴いておこうと思ったのだが、できなかった。しかし演奏が始まるとよく覚えていて、ああ久しぶりだなあ、うーん、案外いい曲だなあ、なんて思いながら聴いていた。

  シェーベルクはこの曲をクレンペラーの委嘱で作曲したらしい、作曲年は1937年だそうで、独墺は戦争の足音が迫ってきているはず。シェーンベルクもナチスの迫害を逃れて、1941年にアメリカに亡命している。このブラームスの曲の編曲に際してそうした歴史の影がないとは言えないだろう。

  今回聴いてみて、深く心に残ったのは2~4楽章である。2楽章の冒頭のオーボエの音色からして、孤独感や不安、寂しさを感じさせる。この楽章は時に明るく振舞いの部分もあるが、指揮者のスダーンはそこも作り笑いのような、硬さを感じさせ、この楽章は終始寂しさがいっぱいで胸もいっぱいである。

  3楽章も最初の主題は同じだが、ここは少し暖かく、郷愁を感じさせるムードがあふれる。シェーベルクの故郷を思う心がブラームスに投影されたのか?聴き手の胸に迫る演奏である。しかしそういうムードは軍楽隊の行進のような音楽が挿入されると音楽は一気に現実に戻され、この編曲が行われた1937年と云う時代を思い起こされる。この対比は恐ろしいばかりだ。

  4楽章は民族の舞踏音楽で華やかに盛り上がる。幾分郷愁も感じさせる部分もあるが、オーケストラの機能をたっぷり楽しませる音楽となっている。ここは指揮者もオーケストラも大いに盛り上がり聴き手を興奮の渦に巻き込む。
  恥ずかしながらブラームスの原曲は聴いていない。今までこの曲に今夜ほど心を動かされたことはなかったので、聴く気もしなかったのだから!一度トライしてみようか?

  1曲目のシューマンは実は前もってラトル/ベルリンの指揮でCDを聴いた。この演奏はシューマンとは思えぬ流麗さでなかなかいいなあと思って会場に赴いたわけだけれど、スダーンの演奏は流麗と云うより、音楽が岩の塊のように響く。特に3楽章のスケルツオのごつごつ感は、ラトルの演奏と同じ曲とは思えないくらいだ。しかしスダーンの演奏はこの3楽章に代表されるようなパターンが続くためためか、聴いて行くと少々退屈を感じさせる演奏だった。ブラームスほど成功していないと思った。マーラー編と云うのが曲者なのだろうか?年末のせいか、プログラムのせいか客席はかなり空席が目立った。シューマンの演奏時間は30分。
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  昨夜丸の内に食事に行った帰り仲通を歩いたらまあ人出が多くびっくり。イルミネーションもムードはクリスマス。仲通にメリーゴーランドまで設置してあったのにはびっくり×2


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                                         〆




















  
  

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