ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ:映画 > 戦争

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1100万人のユダヤ人抹殺計画が議論され決定された、バンゼー会議を、その議事録をもとに映画化したものである。
  ここにはわずかに人道的な問題提起した人物(1名)いたものの、そのほかは官僚主義やヒトラーやゲーリングの言葉をオウムのように繰り返す人物ばかりが登場して、これはまるで今日の日本のどこかのワンマン企業の会議のようで結局人間は大なり小なり同じことを繰り返すのだということをこの映画は証明している。
  約2時間の会議の中で、親衛隊大将のハイドリヒはユダヤ人問題の最終解決としてアウシュヴィッツなどのガス室を使った大量殺戮を出席者に認めさせて、ここにユダヤ人の悲劇が決定された。
  事務局にアイヒマン中佐がいて議事録を作成している。はたしてアイヒマンは自らの将来があのようになるとは夢にも思っていなかったに違いない。

  ユダヤ人に対する、人道的な態度やドイツに貢献したユダヤ人、優秀なユダヤ人への思いなどは官僚たちから、ぽつぽつと登場するが、結局事なかれで、長いものに巻かれてしまう。恐ろしい話だが今日も似たような話がないわけではないだろう。
                                          〆

ハリウッドだけでなく、面白い映画が作られているという証明。最初の2つがそうだ。


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実話に基づく映画だ。ISISにおそれられたモスル防衛のためのSWATに、.職業軍人ではなく主に警察官上がりから構成されていた隊があった。その隊は軍に背き特別の任務を自らに課していた。果たしてその任務とは何か}
  バクダットに次ぐ大都市モスルが廃墟になるさまは、いまのウクライナのマウリポリの光景を彷彿とさせる、すさまじさ。そのなかでの戦いのリアリティ。最新兵器の戦いが現代の戦争だが、結局は肉弾戦でないと片付かないということを示している。見ていて救いはかすかしか感じられない怖さ。
イラク映画だろうか?




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これはまた「モスル」とは打って変わってファンタジーだが、ディズニー映画の甘さ一杯の作りにはなっていないのが、「本当のピノッキオ」という邦題があらわしている。オリジナルではピノッキオは吊るされれて死ぬらしいが、本作ではディズニーの版も一部導入しているようで、ハッピーエンドになっている。しかし社会風刺、差別社会などとげがささるように登場して、大人の鑑賞にも十分耐えられるようになっている。むしろ大人が見るべきではあるまいか?特に心のねじ曲がったピノッキオが如何に救いを得たのかストーリーは一つのポイントである。単に妖精がピンチを救っただけではないのだ。
イタリア映画である。特撮が素晴らしい。人形と人間の間に全く違和感がない。



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ジェネール・モネィと云う女優が、エデンという南北戦争時代の奴隷女と現代の流行社会学者のヴェロニカの2役を演じている。19世紀と21世紀がどう交差するのか?しかしこれはSFではないのだから、奇想天外なストーリーである。

  エデンは南軍の抑えたプランテーションで働く奴隷、逃亡の履歴もあり、他の奴隷からも一目置かれているリーダー的存在。
  一方ヴェロニカは大学でPHDをとった新進気鋭の社会学者で黒人差別はおろか、多様化の進む未来を志向する学者として売れっ子になっていていわゆるオピニオンリーダー。白人至上主義者には煙たい存在だろう。しかし彼女はある会合の後に大変な事件に遭遇してしまう。
  この二人の存在が明確になるの最後の大どんでん返しで初めてわかる。恐るべきストーリーだ。

  これはスリラーとは銘打っているが、そんな単純な区分けはできまい。ここでは結局南北戦争のころと今(21世紀)とは黒人にとっては何も変わっていないということを言っているのだろう。原題の「ANTEBELLUM」と「戦争の前に」と云う意味で、一般には南北戦争前にと云うような使い方をする。
  つまり南北戦争前と後で何も変わっていない。そういうことだろう。
  3作ともいずれも個性的で、こひねりも聴いていて、面白い作品だった。



アメリカではベトナム戦争はまだ多くの人にとって、終わっていない。

タイトルの「LAST FULL MEASURE」は映画では最後の献身と訳されていたが、FULL MEASUREとは直訳すると、「目いっぱい」と云う意味だ。戦場で最後の最後まで残って、空軍の救助班としての役目を果たして戦死した、英雄の物語。ではなく、そういう英雄に対して、名誉勲章を申請したが、知らぬ間にその推薦書は亡くなり、うやむやになってしまった。その英雄を正しく評価して名誉を復活するというお話だ。

 物語は2008年、その戦場でその英雄、ピッツエンバーガー、に救われた、タリー曹長(ウイリアム・ハート)は、国防省に直訴する。それを受けたのが、若手の野心家官僚である、ハフマン(セバスチャン・スタン)。最初はおざなりに調べていたが、その戦場にいた生き残りで、ピッツエンバーガーに救われた兵士たち、ピッツエンバーガーの両親(クリストファー・プラマー)らと会い、ピッツエンバーガーに対する叙勲の無視が如何に理不尽かを理解し、やがて職を賭して、取り組んでゆく。

 この多くの犠牲を出した作戦はアビリーン作戦(1966年)といい、調べてゆく過程で、作戦の真実が露呈されてゆく。

 ピッツエンバーガーに救われた兵士たちの40年後の役を、エド・ハリスやサミュエル・L・ジャクソン、ピーター・フォンダ、など大俳優が演じている。これは彼らのベトナム戦争の犠牲者へのレクイエムのような映画である。ピーター・フォンダ追悼の作品でもある。


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ナチのユダヤ人抹殺 計画の設計者といわれたアドルフ・アイヒマン(ベン・キングスレイ)のモサドによる拉致計画の全貌を描いた映画だ。

 1960年~のアイヒマン裁判はいくつかの映画でも紹介されていたが、アルゼンチンに名前を変えて潜んでいたアイヒマンをモサドの一団が拉致するプロセスを克明に描いた映画はおそらく初めてではないか?モサド側の主人公はピーター・マルキン(オスカー・アイザック)、妹と甥姪をナチスに惨殺された記憶がいまだに鮮明だ。その他のこの拉致劇に参加のモサドのメンバーもみなそういう過去を持つ。そして当初は誘拐などまだるこしいことをしないで、一気に殺してしまえという空気が強かった。ピーターは中でも直情径行の性格で今回の作戦に疑問を持っていた。彼は勇敢だったが1954年にオーストリーでナチの残党と間違えて、無実の民間人を惨殺した経歴もあり、トップも今一つ信を置いていなかった。
 しかし、誘拐して、ブエノスアイレスに飛行機を待つ間、アイヒマンとの交流でピーターの気持ちは少しづつ変化してゆく。アイヒマン自身は決して殺人鬼ではなく、1官僚として命令に従っただけだという立場を崩さなかったからである。そして彼も一人の人間として妻を愛し、息子を溺愛した男だったのである。

 戦争のせいでそうなったというにはあまりにもナチスのユダヤ人抹殺計画は残虐であり、責任者の罪は償わされるべきであるが、このアイヒマン裁判がその計画のプロセスを初めて明らかにしたことは歴史として重要だったといえよう。そういう意味でこの拉致に携わった人々の殺害を抑制した自制心と云うか、忍耐は驚嘆すべきことだ。

 それにしても1960年のブエノスアイレスでナチスの残党がネオナチ集会を開いているということは恐るべき話だ。「オデッサファイル」でもネオナチが描かれているが、いまもってくすぶっているのだろうか?

 なお。この映画の登場人物はほぼ実在した人物であり、かなり史実に近いと思われる作品である。

 ベン・キングスレイのアイヒマンは好演と云えようが、50歳代のアイヒマンにしては少々年を取りすぎてはいないだろうか?オスカー・アイザックははまりやく。

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ミッドウエイ海戦をほぼ史実(時系列)に基づいて作られたという。日米海戦関連映画では、日米合作の「トラ・トラ・トラ」がある。あの映画は日米をほぼそれぞれが制作しており、戦争映画としては比較的偏りが少ないといえるだろう。

 本作はアメリカ映画(中国の資本が入っているようだが)で果たしてどういうスタンスで作られているのか、興味深く見た。冒頭に山本長官とアメリカ人の将校との会話などを聞いていると、これは至極客観的に作られている印象だ。

 勝敗は時の運と云えようが、初戦の真珠湾の勝利を得た日本が物量(航空母艦や航空機、操縦士の技量など)では有利と云えた、次のミッドウエイで日本はなぜ負けたか?これはその後の日本の敗北への道を暗示しているようで意味深い。

 山本長官が云うように日本海軍の動向は暗号解読でほぼ読まれていたことが敗北の一因であることは間違いあるまい。真珠湾の際もアメリカはすでに知っていたということはすでに通念になっているほど、日本の情報戦はお粗末だったといえよう。逆にアメリカ軍は情報の重要性の認識と情報将校への信頼が日本より勝っていたといえるだろう。

 もう一つ日本の敗因は命令系統の確立だろう。アメリカ側はニミッツ=ハルゼイ(途中で交代)=スプルーアンスは同じ情報を持ち、同じ目的(日本の空母を沈める)を持っており、その目的意識は将校クラスまで浸透していたということ。それに反して浅野忠信(何の役かはわからない)が云うように南雲中将が果たして、真珠湾攻撃やミッドウエイ海戦の戦争目的を、山本長官と共有していたかという問題が浮き彫りにされている。軍隊は組織であり、組織には目的があり、それが共有されていないと、組織的な行動にならない。本作を見ていて、それが日米の大きな違いではないかと思った。その後の日本での例えば本作でも浮き彫りになっていた陸軍と海軍の組織間の齟齬は、終戦まで引きずった問題だった。

 役者陣もみな奮闘しているが、ニミッツ役のウディ・ハレルソンは貫禄があり、もう彼は大物俳優の域に達したと思わせる。チョイ役のアーロン・エッカート(ドーリットル中佐)とデニス・クエイド(ハルゼイ)は懐かしいが、クエイドの大根役者ぶりが悲しい。戦争映画の作りとしては全体の中の個の描き方がキイになるが本作では、全体と個のバランスが至極良いのが気に入った。若い将校たちの好演も目立つ。
 日本勢は豊川悦司の山本長官は貫禄もあり好演。三船敏郎や役所広司が演じた役だが、彼ももうそういう演技をしても違和感がないということだ。国村隼とその他のエキストラ的日本人は滑舌が悪く何をしゃべっているのか、相当ボリュームを上げないと聞き取れない。

 映像については公開時から話題になったらしいが、これは矢張り映画館で見るべきものだろう。その映像と音響は相当な迫力である。CG映像だが、不自然さはほとんどなく、空中戦、海戦を描いた映画としては出色の物と云えよう。ミッドウエイ海戦の決定版と云っても差し支えないと思う。〆

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