ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ:CD > バロック

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チェンバロと云う楽器は家で聴くときは細心の注意をしなくてはならない。すなわちレベルコントロールである。どの程度の音量で聴くかということだ。
  チェンバロをライブで聴いたのははるか昔のの事で確か小林道夫氏の演奏したバッハのゴルトベルク変奏曲だった。東京文化会館小ホールだった。あそこはコンクリートで固められたトーチカみたいなホールでとにかく音が大きくなるように思えるホール。チェンバロってこんなに大きな音が出るんだと、びっくりした記憶がある。
  しかしその調子で我が家で、その音をイメージして音量を設定するとチェンバロに頭を突っ込んで聴くことになってしまい、音楽を楽しむことなどできなくなる。チェンバロと云う楽器は思うにあのようなホールで聴くのではなくてヨーロッパの宮殿とか小さな教会でひっそり聴くのがベストではないかと思っているが、まだそういう設定でこの楽器を聴いた事がないのは残念だ。

  しかしそういう場所で録音したCDというのはある。最近(といっても2018年録音)嵌まっているのは、ミラノのサンマルコ教会で録音されたアマヤ・フェルナンデス・ポズエロという女流音楽家のCDがその一枚である。このCDを適正な音量で聴くとき我が部屋は教会になる。
  これはスカルラッティの音楽と同時代の作曲家を並列して聴くという趣向の作品集である。この録音で聴くチェンバロの音は自分があたかも教会の片隅に座っているような気分にさせられてたまらなく好きだ。とくにスカルラッティの短調の曲はスペインの情緒と哀愁を漂わせた演奏でまるであの時代にワープしたような気分だ。例えばソナタKー213やKー1、Kー98などである。同時代の作曲家はほとんど知らない人ばかり。ソレールとかアルベロとかだが、なかでも注目したのはフェリックス・マキシモ・ロペスというひとの舞曲風の変奏曲が素晴らしかった。それはスペインの匂いがむんむんするような音楽だった。
  もう10年以上前に初めてスペインに行った。ツアーに入ったらくちん旅行だったが、バルセロナでのフラメンコには大いに感動させられた。踊りはさておき、ギターと渋い男性の歌が素晴らしかった。このCDを聴いていると随所にその時の記憶がよみがえる。
  話は違うがフラメンコギタリストのマニタス・デ・プラタと云う人がかつて一世風靡したが、あのCDはどこへ行ったか?あれも暑くなる演奏だった。

  さて、元に戻ろう、スカルラッティは古くはホロヴィッツのCDでピアノで演奏された作品集がお気に入りだった。その後いろいろとピアノの演奏を聴いてきた。カーヴェ、スビドン、ポゴレリチなどどれも楽しいが、短調の曲の哀愁味を感じさせるのは矢張りチェンバロでなくてはならない。そういう意味では今はポズエロの演奏が最も気に入っている。スカルラッティがお好きな方にはお勧めの一枚である。

  もっとも私にとってはスカルラッティのバイブルと云うべき演奏はスコット・ロスによる全曲演奏盤である。約600曲が納められている。まだすべて聴きつくせたとは言えないが、時折チェック用に引っ張り出したり、ぼーっとしながら聴きたいときには引っ張り出して聴いている。

  バッハをチェンバロで聴くかピアノで聴くか悩むときがある。例えば平均律全曲を何で聴くか?
私はレオンハルトのチェンバロを時々引っ張り出して聴くが、最後まで聴けない。いま気にいっているのはアンジェラ・ヒューイットのファツオリ(ピアノ)による全曲演奏である。グールドよりもこちらの方がずっとバッハが身近に聴こえる。
                                         〆

レコード芸術は唯一私が継続して購読している音楽雑誌である。これがだんだんしぼみつつある。しぼみつつあるというのは、新譜が減っているせいか、年々薄くなるのだ。特にオペラ部門のさびしさといったら、寂しいを通り越して悲しい。その他の部門も再発だとか、どうもあまり魅力が感じられない。オーケストラなども今が旬の音楽家たちの新譜が少ない。要するにCDを媒体として、軽視しつつあるのではないかと思える節がある。まあそれはまた改めて書いてみたい。

  そういうことで、このごろはレコード芸術を見ても、聴いてみたいという演奏が、私には少なくなったのだ。ところが3月号をみると聴きたいなあとおもうCDが2枚あった。早速聴いてみたが、期待通り楽しい演奏で今はほぼ毎日聴いている。

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1枚目はアマヤ・ヘルナンデス・ポズエロというスペイン出身の鍵盤奏者による、ドメニコ・スカルラッティの選集である。この盤の特徴はスカルラッティの模倣者や追従者の演奏を交えて録音していることだ。特にスペインの作曲家が多いが、そのような作曲家たちと対比すると、スカルラッティのハイブリッド型の音楽がクロースアップされてきて、興味深い。スカルラッティはイタリア人だがマドリッドの宮廷で王女に音楽を教えている間に、600曲ものソナタを書いた。その多くはイタリア音楽的な風味を持ちながら、スペインの香りも加味されているという独特の音楽。特に短調の曲はこのミックスのせいか、なんとも胸が締め付けられるような、懐かしさというか、そういうぞくぞく感があって、切なくなって胸がいっぱいになる。私は虜になってしまった。

  初めて彼の曲に触れたのは、ホロビッツの名曲を集めたCDの中に数曲は云っていた。なんと素晴らしい音楽だろうと思った。ソニーはその後ホロビッツの録音したスカルラッティ17曲を1枚のCD にして発売している。ホロビッツはピアノで演奏している。そのほかピアニストのCDでは、スピドンやカヴェー、ポゴレリッチなどを楽しんでいいたが、結局選集では物足りず、スコット・ロスが全曲を演奏した(32枚)のCDを買ってしまって、今はそれが私の標準である。これはチェンバロでの演奏である。ピアノかチェンバロかどちらかは、一概に言えないが、スカルラッティの持つ、そこはかとない哀愁漂う音楽は、チェンバロのほうがふさわしいのではと私は思っている。

  今回のポズエロの演奏もスカルラッティに、イタリアとスペインのミックスした独特の響きが感じられて、追従者たちに比べると、スカルラッティの作品が素晴らしい。たとえばK213,K1,K208などが気に入った。響きは教会のようなところで録音されているせいか、豊かでありながら、輝かしく、美しい。スコット・ロスの録音はスタジオが多いので、響きと云う面では物足りない。録音年代も20年ほど差があるのでやはり新録音にはかなわない。
  これから、スカルラッティを聴きたいという方にお勧め。それと手に入ればホロビッツは聴いてもらいたい。




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もう一枚はヘンデルのオペラアリア集である。サンドリーヌ・ピオーというフランスのソプラノが、ヘンデルのオペラのヒロインたちを歌っている。管弦楽はレ・パラダンという古楽団体がバックである。演奏や録音風景を見ると、小編成のようで、澄明感が感じられる。フランスのポワシー劇場で録音されている。演奏を聴いていると、目の前にピオーがすっくと立って、後ろに管弦楽と云う素晴らしい音場が聴ける。オーディオマニアでも気に入るだろう。最近はこういうセッティング録音が減っているので貴重な演奏だと思う。
  ヘンデルのオペラは「ジュリオ・チェーザレ」などライブできいたり、アリアだけをいろいろな歌手で聴いてきたが、今回も初めて聴いた曲や何度も聴いたもあり、毎日楽しんでいる。やはり3~6曲目のクレオパトラのアリアが印象的。そして誰もが知っている、リナルドのアリア「泣かせてください」も秀逸。圧巻は9曲目「アルチーナ」から「私としたことが~」、繊細さからド迫力まで彼女の芸の粋が味わえる。
 彼女の声は初めて聴くが、ピュアーでビブラートの薄い透明感のある声。コロラトゥーラも鈴を鳴らすような派手さはなく、さらさらと聴こえ、非常に気持ちの良い歌声である。これもヘンデルのオペラの入門に最適。なお、いずれもタワーレコードで数日で入荷する。



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 コパチンスカヤの新譜である。今回はバロック/ヴィヴァルディで、ジョバンニ・アントニーニ率いるジャルディーノ・アルモニコとの共演である。
 コパチンスカヤのヴァイオリンを聴いたのはクルレンティスと組んで録音した「チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲」だった。これは本当にびっくりドッキリの演奏で、聴き飽きたチャイコフスキーがまるで、生まれ変わって甦ったような演奏だった。しかもこのメンバーがすぐ来日ライブで聴けたのである。曲も同じチャイコフスキーである、
 ライブ演奏も基本的にはCDと同じであるが、裸足で演奏する野生児のような奔放なヴァイオリンにこれまた驚いた。しかし奔放と云っても野放図に演奏しているわけでないということは、たまたま、2回同じチャイコフスキーを聴くことによってよくわかった。クルレンティスとコパチンスカヤは実に緻密にこの曲を演奏しているのである。というのはこの2回の演奏会聴いた印象は両方とも全く同じなのである。同じところでテンポを上げるし、同じところで歌う。しかも演奏時間は秒と違わないのである。要するに古い型のよく言えば自発性に富んだ、そのときのケミストリーに任せて演奏しているわけではないということだ。音楽の再現性と云う意味ではまさに現代の演奏家の系譜である。

 さて、そのコパチンスカヤのヴィヴァルディと云ったら、聴かずになるまい。

 このCDのタイトルは「ヴィヴァルディ、その先に」で、原題「WHAT`S NEXT VIVALDI?」そのままである。プログラムはヴィヴァルディの協奏曲(ヴァイオリンソロあり、4丁のヴァイオリンあり、合奏協奏曲あり)が5曲で、その演奏の合間に現代のイタリアの音楽家の曲が挿入されている。要するにヴィヴァルディの先には今日のイタリアの音楽家があるということか?
 しかし、私にはこれらのイタリアの曲がヴィヴァルディの後継ぎとは到底思えない。わずかに18曲、19曲あたりがヴィヴァルディの香りを持っているような気がする。聴いているとこういうことだ、
ヴィヴァルディの協奏曲が終わると、すぐ現代音楽が始まるということで、木に竹を継いだ感がある。私のような老化が進んだ人間には、ヴィヴァルディだけが聴きたい。

 ヴィヴァルディの協奏曲と云えば私はすぐカルミニョーラを聴く。ヴィヴァルディの持つ切なく哀愁を帯びたメロディにはカルミニョーラのヴァイオリンはぴったりのような気がする。ビオンディも
聴くがカルミニョーラほどヴィヴァルディにフィットしていないような気がする。
 コパチンスカヤはこのレコーディングではソロの協奏曲を3曲演奏している。このなかで最もしっくりくるのがRV191である。カルミニョーラほど甘く切なく演奏はしないが、きりっとした透明感は、鋭さの一歩手前で止まっているところが良い。これ以上やられると刃を突き付けられているようになるそういうヴァイオリンだ。

 ついでRV208のムガール大帝が素晴らしい。ここでのスケール感は音楽の本質であり、驚嘆すべき演奏だ。特にヴィヴァルディがつけたというカデンツァは圧巻である。RV253海の嵐はちょっとお遊びがきつい。ライブではよいだろうが、CDで聴くにはいかがだろう。1楽章のカデンツァでウインドマシーンを使ったような音が挿入され(これがヴァイオリンの音なのか、ウインドマシーンなのかは定かではないが)、船が難破したかのように、何かが破壊された音がする。

 RV550(調和の霊感から)やRV157などはコパチンスカヤはジャルディーノ・アルモニコの中に入って演奏している。ここでは合奏の見事さを十分味わえる。
 
 コパチンスカヤは今後とも目が離せないが、今回のヴィヴァルディは、アイディア倒れのように思った。ヴィヴァルディだけでなく、その他のイタリアのバロックの音楽家の演奏も聴きたかった、
と云うのが本音だ。

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