ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

カテゴリ:映画 > 歴史


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「天離り果つる国 」あまはつりはつるくにと読む。空のかなたに遠く離れた辺境の地と云う意味だそうだ。今日では観光地として有名だが戦国時代はそういう位置づけだった、飛騨の国、白川郷がこの作品の舞台である。この地は山深く、そして冬は雪に閉ざされてしまい、外敵から守られる。しかし幸か不幸か、この地には黄金とそして火薬の原料として欠かせない塩硝を産するのだった。それに目を付けた織田信長、そして豊臣秀吉がこの辺境の地をほっておくことはなかったのである。そういう舞台設定である。
 この地には帰雲山というのがかつてあり、その麓には帰雲城があり、内ヶ嶋氏理と云う武将が支配をしていた。この物語はこの平和で穏やかな里を外敵に襲われない、独立した地域として守ろうとした人々の物語である。戦国時代のユートピアが果たして可能だったか、上下2冊の中にたっぷり書き込まれている。
 この作品を読みながら思い出したのは小学生のころ見た東映の新諸国物語「笛吹童子」である。あの映画には帰雲城のような秘境の城があったし、氏理の娘(紗雪)のような美少女も出てきたし、竹中半兵衛の弟子の七龍太(七郎太)のような美少年も登場した。またこの小説に登場する下野頼蛇などというおどろどろしい名前の人物らしい悪役も登場した。
 この小説のしかけはなるほど戦国の英雄の信長や秀吉や家康らが登場するが、話の底流に流れるのは私が胸躍らせて食い入るように見た東映の時代劇の世界ではないかと思われるのである。あのころの中村錦之助、東千代之介、千原しのぶ、高千穂ひずるらの東映の俳優たちは私のアイドルだった。そういう人々に思いをはせながらこの長巻を楽しく読んだ。


 


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今、新書でカエサルを取り上げる意味はどこにありや?著者自身もこの本の存在意義について巻頭に述べている。つまり数多のカエサルについての著述はあるが、本書では新書と云う器の中でコンパクトに人間カエサルに焦点を当て、あわせてその時代の背景も整理して描くことを主眼としているという。

 本書を読むとそれは成功しているといえるだろう。特にカエサル(シーザー)の伝記について初めて読む方にはかっこうの入門書といえよう。なにせこの男の生涯はどう描いたって面白いに決まっているので、この新書もあっという間に読める。しかしカエサルについてのある程度書物を読んでいる方は整理にはなるが、少し物足りないと思うかもしれない。なにせ新書版だから記述はどうしても細部には入れないからだ。そういう人は読まないほうが良い。

 本書の構成は基本的にはカエサルの誕生した紀元前100年から暗殺されるまでを描いている。ただカエサルの青年期までの文献はほとんどないので若いカエサルについての記述はスカスカにならざるを得ない。やはり面白いのはガリア総督としてのガリア征服戦争、およびポンペイウス、クラッススとの政治政治闘争だろう。ここはカエサル自身の著作もあるので面白く描かれている。ただ紙数に制限があるので、個々の戦闘の描写などはどうしてもあっさりせざるをえないので、物足りなさは残るだろう。そういうかたは塩野さん作品をお読みになったらよいだろう。
〆 


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2017年に単行本で発刊されたものの、文庫化である。副題は「小説・鳥井信治郎」である。云わずと知れたサントリーの創業者の一代記である。
 この手の本を本を読んで感じるのは、偉業を達成する人と云うのは、常人と何が違うのかと云うことである。偉大な人物の物語を読むときにいつも感じることである。
 結局は本人の持つDNAがベースであることは間違いないことだと思う。しかしその人物の味付けをしている人物、もの、事象は千差万別である。そこが人間の面白いところだと思う。
 もし、鳥井信治郎のクローンを作っても、違った環境(あじつけ)で育ったとしたら彼のあげた業績は果たして達成できたかどうかは断言できまい。

 鳥井信治郎のそういう意味での味付けは、家族や、上司や、友人や、同僚や、部下とそこから派生する鳥井自身の持つ鋭い物事や人間に対する価値観だろう。
 その味付けの具体的なものとしては「陰徳」、「神への信心」、「やってみなはれ」、「くじけぬ信念」、「柔軟な思考と受容力」、「常人の思いもつかない行動力」、「先見性」、そういったことどもであるが、本書を読んでいるといたるところでそれらに気付かされる。しかしその一つでも凡人は達成できないだろうということも併せて気づかされる。それだからこういう本は読むのが嫌になるのだ。
要するに自分が凡人であることを教えてくれる本だから。それでも読むのは、自分ではできないが、やり遂げた人々の達成感を共体験するのは喜びでもあるからだろう。
〆 


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 江戸末期から明治維新までの江戸が東京へ変化する中で、一人のその立て役者だった辰野金吾の一代記。東京は開府したころは、まだ大名屋敷は多く残り、勿論江戸城やそのお濠も満々と水をたたえていたのだった。
 しかし東京の街区の変貌は日本の西洋化と軌を一にして大変貌を遂げた。その建築の分野でのリーダーが辰野だった。東京の都市計画にかかわっていたかは定かではない。むしろそういう都市計画なるのがあったのかは疑問、そういう時代だった。

 辰野は唐津藩の下級武士の出身で当然薩長のメイン派閥ではないので、生きるすべを模索せねばならぬが、後の高橋是清が若かりし頃この唐津で英語を教えていた縁もあり、その紹介で工部大学校に入学し建築を志し、イギリスへの留学も果たし、帰国後工部省に入省する。そのころ日本はやっと横浜ー新橋間の鉄道がとおったばかり、辰野の恩師コンドルの設計の鹿鳴館が建設中だった。

 やがて、この辰野が日銀、東京駅という今日まで残る日本の建築を手がけるようになる。また建築事務所の設立なども行い今日の建築業界の礎を築いた。亡くなるまで彼の手掛けた建物は全国で200にのぼったという。

 まあ本作はこの辰野の奮闘記だが、彼の人となりも面白いが、彼をとりまく人物たちが、家族も含め多彩であり、ひどく魅力的に描かれていて、人物としてはあまり友達にしたくないような(失礼)辰野の人物に厚みを加えているところも大いに見どころだろう。

 いずれにしろ、明治維新を迎え、西洋に追いつけ追い越せの日本、その中で、若い人々の、熱き情熱が伝わってくるような作品だった。



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 慶応四年の春、もうその年の9月には明治維新を迎えるその時に、前田百万石、加賀、越中、能登の3国が独立割拠する企てが、薩長側に察知される。北陸の制定のためにはこの3国の恭順は必須である。本書はその顛末を描いたものである。
 正直の読後感はあまりおもしろくない。なぜか?一つはこの動乱の時代になぜかここで切り取られた時間と云うのは実にこの小説では実に静的であり、ドラマを感じない。
歴史と云うもの、事実と云うものはそういうものであると云われればおしまいだが、これはノンフィクションではなく小説である。例えば主人公(実は誰が主人公かさっぱりわからない)の斎藤弥九郎なる人物が奇兵隊参謀補佐として山県狂介について、前田家に乗り込むなどというのは、事実かどうかは確認できなかった。
したがってこの作品は純然たる歴史小説だろうに、この明治維新を前にした血沸き肉躍るさまが感じられない。
 もう一つは理屈っぽいというか、能書きが多い。サムライはどうあるべきかとか、サムライにの是非論とか、長々と論じられる。論文ではないのだからもう少し端折れないものだろうか?

 ここ加賀三国の独立はもう一方では、薩摩大久保一蔵による偽勅問題とかかわっている。はたして討幕の勅命が出たのか、薩長に陰謀なのかと云うことである。
この、割拠論を演出したのが加賀藩のリーダー長連恭である。彼は偽勅の真相をつかみそれをもって藩を独立割拠にまとめようとするが、突然亡くなってしまう。病死なのか、暗殺なのか?
 その調査を西郷と桂小五郎から依頼されたのが剣豪で政略家の斎藤弥九郎というのが、この話の中心である。

 本書はノンフィクションとして書かれたほうが面白かったのかもしれない。なぜならとても面白い指標がいくつか出てくるからである。例えば西洋列国は日本を植民地にするのは至難の業だという説明に、武士の数が使われている。日本の幕末の武士の数はおよそ75万人、これに対抗するには西洋列最新兵器を持ったとしても10:1の兵力、つまり、75000人の兵力を送り込まねばならない。これはあのアヘン戦争より多いという。事実上というか兵站上不可能な兵力を投じて、対して資源のない日本を攻める価値があるのかということである。つまり日本は列強に侵略されないためには侍をなくしてはならないという論と西洋の民主主義を導入すれば、サムライと云うのは無用になるという論。これはサイドストーリーとしては面白いが小説として長々と講釈として組み込まれるとどうも退屈になってしまう。だからノンフィクションとして徹底分析すればよかったのだと私は感じた次第。

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