2021年4月17日(於:サントリーホール)
第689回東京交響楽団定期演奏会、原田慶太楼 正指揮者就任記念
ヴァイオリン:服部百音
ティケリ:ブルー・シェイズ
バーンスタイン:セレナード(プラトンの「饗宴」による)
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番
正指揮者就任と銘打った、原田の正指揮者としてのデビュー公演。プログラムも凝ったもので、自分の年齢や経歴、作曲家間の関連など考慮したもののようである。
前半は自らが現在活動の主戦場にしているアメリカの作曲家による作品。後半はサンクトペテルブルグで指揮を学んだことからロシアの作曲家を選んだ。バースタインの作品の初演と同じ年に初演をされたショスタコーヴィチの作品を選定している。
前半の最初はティエリと云う人の作品で、もともとが1996年に吹奏楽用に作曲されたものを、管弦楽用に改訂したもの。今夜の公演はこの管弦楽版である。全体にジャズやアメリカ音楽が前面に出た曲で、アメリカ人には受けるかもしれないが、私には耳の許容範囲を超えた音量。
次のバーンスタインのセレナードは服部のヴァイオリンとの共演。1953年の初演作品である。これはずっと耳に優しいインターナショナルなサウンドである。特に緩徐楽章(4楽章)の美しさは突出している。ウエストサイドストーリーやキャンディードでも美しいメロディを書いて、多くの人に受け入れられているバーンスタインだが、ここでもその片鱗を聴きとれる。5楽章はそういった、ミュージカルの影響を受けたにぎやかな音楽で、「饗宴」の乱痴気騒ぎがあらわされる。しかしここも楽しい音楽で耳にやさしい。
両曲とも原田のノリノリの指揮ぶりが見ものであるが、あんなに腕をぶん回す必要があるかどうか?
服部は終始緊張した面持ちで音楽に集中していた。終わった後の笑顔が印象的だった。アンコールはエルンストの魔王。しかしこれだけのボリュームのプログラムにアンコールは必要か?
さて、今夜のメイン料理はショスタコーヴィチである。大盛り上がりの前半に続いての大曲であるが、聴き応えのある演奏だった。
この曲はスターリンの亡くなった年に作曲され、初演されたもので、2楽章はスターリンの肖像だとか、ショスタコーヴィチの名前が音型として現れたり、マーラーの大地の歌の1楽章の引用があったりといろいろと忙しいが、そういうことを知らなくても、この音楽はもう古典(初演から70年)として、純音楽的に楽しめる曲となっている。その先鞭をつけたのはカラヤンの演奏したものだろう。1966年、1981年と両盤を愛聴盤として長年聴いてきたので、どうしても今夜の演奏はそれと比べたくなるが、それと比べても大して演奏だと感心させられた。
ここでは、冒頭書いたような「含み」はあまり強調していないように感じた。全体には前半三楽章は陰鬱な、重々しい音楽として描かれ、最後の四楽章はそれから解放された、高揚感に満ちあふれた演奏に聴こえた。
1楽章のノスタルジックなクラリネットの吹く、第1主題は、不気味なフルートの第2主題によって、打ち消され、音楽が大きく盛り上がっても、第2主題が主人公を主張する、対比が印象的だ。
第2楽章は暴力的な音楽に終止する。原田の音楽の進行ぶりは、そのスピード感が圧倒的だが、カラヤンを聴いている耳には、スピード感が優先で、少し音が拡散しているように感じた。ここはスピード感と音楽の収斂を感じたい。
第3楽章は陰鬱なホルンの吹く主題が印象的である。マーラー的に云うとこれは死の音楽になるだろうがあまりそういうようには結び付かない。
第4楽章は緩やかな序奏が、明るさを含んでいて、前半の3楽章の持つ何となく、陰鬱なムードが次第に晴れ渡ってくるのが聞き取れる。そして最後は豪快に盛り上がる。ただここでも音楽は大きく広がるが、拡散の方向。もっと収斂してほしいが、これはオーケストラの課題だろうか?
とは云え、現在の日本でこれだけの水準のショスタコーヴィチはそう聴けるものではないということも事実。久しぶりにこの名曲を堪能させてもらった。演奏時間は54分弱。カラヤンの1966年と81年はほぼ同じ演奏時間であるがわずかに81年が遅くなっている。それでも数十秒程度。原田はそれより2分ほど遅い。1楽章と3楽章が幾分遅いせいだろう。
しかし、今夜はくたびれた。このところコロナもあって各楽団のプログラムは短めな公演が多いが、今夜は休憩をいれて、たっぷり2時間半だった。会場もかなりな入りで、果たして蔓延防止条例下のイベントの基準はクリアしているのだろうか、と心配になった。休憩時間のロビーも日ごろは閑散としているのに、今夜は談笑しているグループも散見され、サントリーホールだけはコロナとは無縁の空間だよと云っているように感じられた。
飲食店には厳しい規制がかかっている割には、こういうイベントや映画館、スポーツなどはどんどん解放的になっているようになってはいまいか?
しかし、一方ではN響のように、きちんと一つ置きの座席指定になっているところもあり、果たしてどういう基準で各団体は運営しているのか大いに疑問が残った夜だった。
〆
第689回東京交響楽団定期演奏会、原田慶太楼 正指揮者就任記念
ヴァイオリン:服部百音
ティケリ:ブルー・シェイズ
バーンスタイン:セレナード(プラトンの「饗宴」による)
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番
正指揮者就任と銘打った、原田の正指揮者としてのデビュー公演。プログラムも凝ったもので、自分の年齢や経歴、作曲家間の関連など考慮したもののようである。
前半は自らが現在活動の主戦場にしているアメリカの作曲家による作品。後半はサンクトペテルブルグで指揮を学んだことからロシアの作曲家を選んだ。バースタインの作品の初演と同じ年に初演をされたショスタコーヴィチの作品を選定している。
前半の最初はティエリと云う人の作品で、もともとが1996年に吹奏楽用に作曲されたものを、管弦楽用に改訂したもの。今夜の公演はこの管弦楽版である。全体にジャズやアメリカ音楽が前面に出た曲で、アメリカ人には受けるかもしれないが、私には耳の許容範囲を超えた音量。
次のバーンスタインのセレナードは服部のヴァイオリンとの共演。1953年の初演作品である。これはずっと耳に優しいインターナショナルなサウンドである。特に緩徐楽章(4楽章)の美しさは突出している。ウエストサイドストーリーやキャンディードでも美しいメロディを書いて、多くの人に受け入れられているバーンスタインだが、ここでもその片鱗を聴きとれる。5楽章はそういった、ミュージカルの影響を受けたにぎやかな音楽で、「饗宴」の乱痴気騒ぎがあらわされる。しかしここも楽しい音楽で耳にやさしい。
両曲とも原田のノリノリの指揮ぶりが見ものであるが、あんなに腕をぶん回す必要があるかどうか?
服部は終始緊張した面持ちで音楽に集中していた。終わった後の笑顔が印象的だった。アンコールはエルンストの魔王。しかしこれだけのボリュームのプログラムにアンコールは必要か?
さて、今夜のメイン料理はショスタコーヴィチである。大盛り上がりの前半に続いての大曲であるが、聴き応えのある演奏だった。
この曲はスターリンの亡くなった年に作曲され、初演されたもので、2楽章はスターリンの肖像だとか、ショスタコーヴィチの名前が音型として現れたり、マーラーの大地の歌の1楽章の引用があったりといろいろと忙しいが、そういうことを知らなくても、この音楽はもう古典(初演から70年)として、純音楽的に楽しめる曲となっている。その先鞭をつけたのはカラヤンの演奏したものだろう。1966年、1981年と両盤を愛聴盤として長年聴いてきたので、どうしても今夜の演奏はそれと比べたくなるが、それと比べても大して演奏だと感心させられた。
ここでは、冒頭書いたような「含み」はあまり強調していないように感じた。全体には前半三楽章は陰鬱な、重々しい音楽として描かれ、最後の四楽章はそれから解放された、高揚感に満ちあふれた演奏に聴こえた。
1楽章のノスタルジックなクラリネットの吹く、第1主題は、不気味なフルートの第2主題によって、打ち消され、音楽が大きく盛り上がっても、第2主題が主人公を主張する、対比が印象的だ。
第2楽章は暴力的な音楽に終止する。原田の音楽の進行ぶりは、そのスピード感が圧倒的だが、カラヤンを聴いている耳には、スピード感が優先で、少し音が拡散しているように感じた。ここはスピード感と音楽の収斂を感じたい。
第3楽章は陰鬱なホルンの吹く主題が印象的である。マーラー的に云うとこれは死の音楽になるだろうがあまりそういうようには結び付かない。
第4楽章は緩やかな序奏が、明るさを含んでいて、前半の3楽章の持つ何となく、陰鬱なムードが次第に晴れ渡ってくるのが聞き取れる。そして最後は豪快に盛り上がる。ただここでも音楽は大きく広がるが、拡散の方向。もっと収斂してほしいが、これはオーケストラの課題だろうか?
とは云え、現在の日本でこれだけの水準のショスタコーヴィチはそう聴けるものではないということも事実。久しぶりにこの名曲を堪能させてもらった。演奏時間は54分弱。カラヤンの1966年と81年はほぼ同じ演奏時間であるがわずかに81年が遅くなっている。それでも数十秒程度。原田はそれより2分ほど遅い。1楽章と3楽章が幾分遅いせいだろう。
しかし、今夜はくたびれた。このところコロナもあって各楽団のプログラムは短めな公演が多いが、今夜は休憩をいれて、たっぷり2時間半だった。会場もかなりな入りで、果たして蔓延防止条例下のイベントの基準はクリアしているのだろうか、と心配になった。休憩時間のロビーも日ごろは閑散としているのに、今夜は談笑しているグループも散見され、サントリーホールだけはコロナとは無縁の空間だよと云っているように感じられた。
飲食店には厳しい規制がかかっている割には、こういうイベントや映画館、スポーツなどはどんどん解放的になっているようになってはいまいか?
しかし、一方ではN響のように、きちんと一つ置きの座席指定になっているところもあり、果たしてどういう基準で各団体は運営しているのか大いに疑問が残った夜だった。
〆
コメント