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久しぶりに企業小説を読んだ。本書のテーマは大企業がいかに没落し、復活するかである。多くの同様の書物にもあるように、大企業病が本書でも叩かれている。結局それが没落の原因なのだ。しかし日本の経済は過去これら大企業によって支えられてきたはずだ。自動車、鉄鋼、電力、電機、など大企業でなければなしえない事業だった。それがなぜ叩かれるのか?年功序列、学閥、業績至上主義、ビジョンの欠如、事なかれ主義などが本作品では挙げられている。
 しかし大企業と云う組織はもともと、上記の産業には適した組織構造だったのではあるまいか?今ITを中心としたアジリティが求められている事業への適合できないというだけでこれだけ叩かれると云うのも妙な話だ。多くの大企業はなんやかんやいっても存続して成長しているのである。それでは果たして、本書のモデルになった企業と、いまもって大企業として存続している企業との差は奈辺にあるのだろうか?

 経営者の違い?さあそれもあるが、それは本書を読んでのお楽しみだ。
 しかし私は本書に出てくる、経営者や管理職、官僚たちに何となく同情したいのだ。彼らは所詮サラリーマンである。会社や役所から給料をもらい、家族を養い、狭いながらも小さな家を買い、子供を大学に入れ、やがては自分は退職して、年金でハッピーリタイアメントを夢見ているのである。そのためには少しでも出世し、できるだけせっかく入った、こんな立派な会社に残っていたいと云うのは、人情ではあるまいか?この作品に出てくる人々は、結局大なり小なりそういう人々なのである。だからアメリカの原子力設備の会社を、べらぼうな金額で買ったり、粉飾をしたり、組織内で足の引っ張り合いをしたりするのは、馬鹿だなあと思いつつ、はてさて、もし自分がその立場になったら、はたして冷静にNOと云えるのか?

 まあ、自分のサラリーマン時代を思い出すという意味で、もうこういう企業小説は読むまいと思うが、この作者のは面白い作品が多いので、つい読んでしまって、やっぱりやめときゃよかったと思うのである。

 さて、本作品のモデルは大手の電機メーカーであることは読んでいてすぐわかるだろう。作品ではニシハマと云う名前になっている。創業家は肥後家というが、不祥事からみで追い出されて、いまでは黒崎と云う会長がワンマン経営をしている。創業家の肥後一族は内心不愉快に思っている。
 本作品の主人公はそんな肥後一族の令嬢と結婚して、婿養子になった、梶原賢太という人物である。彼の父親はニシハマに勤めていたが、海外勤務中事故で亡くなってしまう。母親もそれに巻き込まれ、賢太は孤児となるが、肥後一族が手を差し伸べ、ハーヴァード大学を優秀な成績で卒業、引く手あまたなところを、ニシハマに就職する。肥後賢太は創業家の復活の思いとは別に、ニシハマのトップを狙っていたのである。物語は彼がアメリカニシハマの副社長として、原子力製造会社の経営対策に絡むところから始まる。

 前半は説明的な記述や議論の展開などがあって,少々もたつくが、後半からは一気に話が動き、もう読む手が止まらない。昨夜は一時までかかって読了。やはり面白いのだ。〆