2021年4月6日(於:サントリーホール)

読売日本交響楽団第607回定期公演
指揮:カーチュン・ウォン
ヴァイオリン:諏訪内晶子

細川俊夫:「瞑想」ー3月11日の津波の犠牲者に捧げる
デュティユー:ヴァイオリン協奏曲(夢の樹)

マーラー:交響詩「葬礼」
マーラー:交響曲第十番からアダージョ
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読響の新シーズンが始まったが、定期を振るはずのカンブルランが来日できず、上記のプログラムに大幅に変更になった。ドビュッシーの「遊戯」とヴァレーズの「アルカナ」がカットされ、マーラー2曲に変更になった。遊戯もアルカナも聴いた事はあるが正直とてもつまらない曲で、変更は大歓迎だ(失礼)
 指揮は2016年のマーラー指揮者コンクールの優勝者のカーチュン・ウオンである。マーラー指揮者コンクールは2004年からバンベルグ交響楽団が始めたそうである。それはそれとして、今夜の指揮者はマーラーが得意と云うこともあって、プログラム変更したようだ。

 今夜の中でとりわけ印象に残ったのはマーラーの十番である。この十番は未完の交響曲で1楽章のアダージョだけがきちんと残っている。しばしばこの楽章だけが単独で演奏される。クックにょる全曲版はインバルがライブ録音を残しているが、正直後半3楽章は聴いた事のない代物。
 マーラーの大地の歌を含めた10曲の交響曲のうち緩徐楽章が最も美しいのは六番と五番であり、この2つの楽章は甲乙つけがたい。しかし今夜このウオン氏の演奏を聴いて、もう一曲ライバルが加わった印象である。
 この十番のアダージョはバーンスタインでも、インバルでも、ハイティンクの演奏でも私にはとても美しい音楽とは思えなかった。マーラーの傷だらけの心の内を聴かされているようで、聴き手は精神分析のカウンセラーのような気分になってしまう。後半の再現部の後のクライマックスの悲痛な叫びは聴いていて本当につらい、そして終結部の高弦部の感情失禁のような音楽には、追い打ちをかけて辛い。

 しかし、今日のウオンの演奏は、そういう神経症の部分はほとんど感じられない。脳天気なとはいわないが、マーラーの持つ感傷性を排除して、音楽の本来持つ、美しさを強調して、聴き手はその波に溺れないように、耳をすませばよろしいのだ。終結部の感情失禁を思わせる音楽も、昇華されたような美しさを感じた。なにか上澄みを聴かされたような気にさせられる方もおられようが、私はこの曲を再発見した思いがして、実にうれしかった。これからこういう若い方が、このようなマーラーを聴かせてくれるのかと思うと、楽しみである。九番などどう演奏するだろうか?期待半分、怖さ半分だ。

 その前の「葬礼」はほとんど交響曲第二番「復活」の1楽章と同じである。編成が幾分少ないせいか、弦の部分が幾分軽いが、その分、重苦しさがない、云ってはいけないだろうが、軽快にさえ聴こえる。冒頭の低減のゴリゴリ感も音は出ているが、軽く出ている感じ、絞り出してないのが良い。そう全体に音を絞り出していないので、金管でも、木管でも、ぽんぽんと会場に音が舞う印象だ。こういう演奏も初めてだけに、マーラーの二番の既成観念とは乖離があるような気がするが、これはこれでヤングマーラーなのだろう。私はこのサウンドは実に心地よく聴いた。なおこの2作品は続けて演奏された。演奏時間は48分である。(葬礼は23分)

 前半の2つもプログラムは初めて聴いた事もあって。、まったく音楽が耳に入らない。結果沈没してしまった。細川氏も会場に来ていたのに申し訳ない。