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ブルース・ウィリス主演の同名の映画とは違う。映画は肉体がアンブレイカブルだが、本作のアンブレイカブルは不屈の精神をいう。

 読んでいて、ある作品を思い出した。それは桐野夏生著の「日没」である。本作と「日没」の共通なところというか、背景に流れるモチーフは国による、芸術や思想や文化への介入である。「日没」は近未来だが、本作は治安維持法でがんじがらめにされた、1920-40年代が舞台である。これらはいずれも現在の社会への警鐘と思って良いだろう。

 この作品は連作小説である。それぞれ主人公は違うが、いずれも官憲に屈しない、アンブレイカブルな精神の持ち主たちである。しかし、各編に共通の人物が登場する。それは特高を仕切る、内務省のクロサキなる人物である。ウイキでしらべたが、黒崎なる内務省の役人はいたが、本作のクロサキのモデルにしては経歴があまりに違うので、クロサキは特高の代表と云うことで、架空の人物だと思う。ちょうど映画「ゼロダーク・サーティ」でジェシカ・チャスティンが演じたマヤのような存在かもしれない。まあこれは私の思い込み。
  
 各章はタイトルがあって、各章にはアンブレイカブルな実在の人物が登場する。
  雲雀→小林多喜二
  叛徒→鶴彬(川柳師)
  虐殺→和田喜太郎(中央公論の編集者)
  矜持→三木清(哲学者)
 いずれもクロサキが投じた仕掛けとそれに応ずるアンブレイカブルな男たちを描く。反体制運動を取り締まる治安維持法により標的だった共産党は壊滅して、法の役割は終焉したと思われたが、反体制思想や人物の逮捕のノルマに追われるようになるまで、特高の役割が変化してゆく様が怖ろしい。クロサキなる人物の内面をもう少し見て見たい気がするが、それが本作の目的ではないだろう。法は執行者によって変容を遂げるさまが主人公なのだから。一気読みの小説だ。