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音楽会に行く回数が減る分、読書や映画(DVD)を見る回数が増え、「ブログの看板・ぶんぶんの音楽日記」に偽りありと云うのが、実態となってしまった。

 今回も書籍の感想である。実はこの本は間違えて買ってしまった。自分としては太平天国を義和団と勘違いしてしまったのだ、お恥ずかしい限りである。しかしこの本を読み始めて、これは実に興味深い研究の成果だと思った。著者は上智大学の教授で中国への留学の経験もあり、今回のこの作品は200ページ強の分量の割には膨大な参考文献があり、しかもそれは日本だけでなく、中国の生資料まで活用しているのである。

 この作品を読み進むうちに考えたのは、日本は同時代に何が起こっていたのかと云うことだった。
1853年「太平天国」が南京を占領したとある。漢民族のさらに後から、中原方面や広東方面から移動してきた中国の後発民族である「客家(はっか)」出身の洪秀全がキリスト教と中国の古代の復古とを結びつけた、集団を広西で立ち上げて、北進して南京に到達したのである。これ以降、南京を中心に「太平天国」は一国家の様相を呈する。

 さて、一方日本はどうか?1853年、ペリーが来航して、尊王攘夷の真っただ中、それからわずか15年で現政権の江戸幕府が倒れ、1868年、明治維新を迎え、その後西洋に伍した大国までに発展する。

 「太平天国」は滅清をうたってはいるが、しかし洪秀全自身は南京にとどまり、結局歴代の権力者と同じことをする。政治的には分権制を敷くが、実態は宗教団体のようなもので、シャーマニズムまで政権に登場する。果たして洪秀全の頭の中にあった「古の中国の復古」というのはいかなるものかというのは、結局よくわからないまま(私には)1864年に洪秀全は亡くなり、それから間もなく「太平天国」も瓦解する。日本の明治維新のわずか4年前である。
 しかも清国はちょうどその時第二次アヘン戦争(アロー号事件)も抱えており、列強は眠れる獅子をむさぼり始めていたのである。この太平天国が きっかけとなって、清国の再生と云うわけにはいかなかったのである。むしろ太平天国の乱を平定するためにイギリス(ゴードン将軍)軍ら西洋の支援を受ける有様だった。

 果たして、この日中の差はどこからきているのだろうか?
 私なりの理解では、中国の「覇権」と云うのは一切寛容を許さないということからきていると思う。清は太平天国を異物とみなして排除しようとする。清のなかでも皇帝に異を唱える者は排除する、太平天国でも5人の王の分権制とはいえ、洪秀全と楊秀清(シャーマン)の二頭政治であり、結局この二人の他は排除され、最後は楊自身も排除される。不寛容で亡くなった人々は2000万人と云う。人類史上最悪の内戦と云われるゆえんである。太平天国の評価は両面あるが、結局権力に対する考え方と云う意味では清も太平天国も変わらない。そして不寛容は文化大革命や今日の香港の弾圧の姿勢に通じている。

 こうしてみると、戊辰戦争はあったにせよ、政権交代ではほとんど無血と云っても良い明治維新は稀有なる事象と云うべきだろう。
 おそらく、著者の意図とはずいぶん違うであろう感想を述べたが、とても新しい視点を提供いただいたという点で、優れた作品だったと思う。
 なお、多くの地図は非常に参考になった。ただ地図の掲載場所に今一つ工夫があれば、行ったり来たりしなくてすんだかもしれない。〆