2021年3月12日
今月の4日、三か月ぶりにサントリーホールで音楽を聴いた。電車に乗るときも、会場に入るときも、びくびくだったが、会場に入ると、なんてことはない、聴衆が制限されているだけで、後は至極普通の音楽会だった。65歳以上とおぼしき方も大勢いて、その仲間である、私もほっとしたのである。まあ油断は禁物、昨日の状況では、東京はまた増加の傾向だというから、不安がいっぱいである。2月3月はもともと音楽会が少ない月だが、これから4月に入ると回数が増えてくるので、どう選択したらよいか、悩むところだ。14日から相撲が始まるし、オリンピックの趨勢も関心事である。

 ということで今月はおそらく数回しか音楽を聴きに行かないと思うので、勢いCDでの鑑賞になるが、久しぶりにベートーヴェンを聴きたくなり、結局交響曲全曲を聴くことになった。通常はベートーヴェンを聴くときは、カラヤンなり、シャイーなり全集を聴くが、それではつまらないので、今回は、全曲全部違う指揮者で聴くことにした。さて、この時期どの曲をだれで聴くかと考えながら音楽を聴くのも楽しい。

 その前に、ベートーヴェンを久しぶりに聴こうと思ったきっかけを書こう。発端はシューベルトである。無性にシューベルトが聴きたくなったときに、最初に取り上げたのが八重奏曲。シューベルトを明日聴こうと思って寝床に入ったが、頭の中には中間の2楽章が鳴り響いて、そのまま寝入ってしまった。さて、翌日聴いたのは、迷いに迷って、ウイーン弦楽四重奏団を中心にした演奏だった。クレーメルか、ファウスト盤もお気に入りだが、今日はウイーンと決めていた。これは楽友協会のブラームスザールと云うところで録音したもので(1997)すこぶる響きが良い。久しぶりに楽しんだわけだが、シューベルトはこの編成のもとをベートーヴェンの七重奏曲からヒントを得ているので、ついでにそれもきいてしまえと、ベルリンフィル八重奏団の演奏を聴きだしたら、次から次へとベートーヴェンを聴きたくなった。

 そこでまた寄り道となった。ピアノ協奏曲が聴きたくなったのだ。そこで取り上げたのが新しいSACD録音、児玉麻里のピアノ、ケントナガノの指揮、ベルリン・ドイツ交響楽団の演奏。これは最新録音だけに実にフレッシュでまるでライブを聴いているよう。その流れで今度はヴァイオリン協奏曲をきこうということに相成った。イザベル・ファウスト、アバド、オーケストラ・モーツアルトの演奏だ。大体これは3日間の間の音楽の変遷である。どの曲を、だれで聴くかと云うのは、その時の気分で変わるものだということをここでは言いたい。例えばベートーヴェンのピアノ協奏曲は通常は内田光子で聴くのだが、なぜ児玉麻里にしたのか?ヴァイオリン協奏曲は通常はシェリングかハイフェッツ、バティアシヴィリで聴くのだが、なぜファウストか?その選択の理由は複雑で説明できない。わずか数秒の決断だが、頭の中はものすごく何かが動いているのだ。

 またまた余談だが、ベートーヴェンへ派生すると並行して、シューベルトのソナタを聴き始めているが、これは17番で止まって全曲まではたどり着けていない。結局17番を内田、田部、バレンボイム
の演奏で聴いて、この流れは止まった。なぜ止まったのか?それはおそらく21番を今は聴きたくないからだろう。17番のはつらつとした音楽で、とりあえず止めておきたかったという心理が働いたに違いあるまい。

 さて、やっとベートーヴェンの交響曲にたどりついた。
 ラインアップは次の通り

  第一番 ギュンター・ヴァント ベルリン・ドイツ・交響楽団
  第二番 ロジャー・ノリントン ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ
  第三番 ジョージ・セル クリーブランド交響楽団
  第四番 ダヴィッド・ジンマン チューリヒ・トーンハレ
  第五番 リッカルド・シャイー ライプチッヒ・ゲヴァントハウス
  第六番 エリオット・ガーディナー オルケストル・レヴォルーショナル・エ・ロマンティック
  第七番 カルロス・クライバー ウイーンフィルハーモニー
  第八番 サイモン・ラトル ウイーンフィルハーモニー
  第九番 ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリンフィルハーモニー

 これを4日間で聴きとおしたのだが、聴き終えてみるとこの選択に面白いことがあるのに気が付いた。イギリス人が3人もいるのである。打率3割と云うのはなかなかのもんだと思う。ただクライバーを入れれば独墺系が3人なので、バランスとしてはそうおかしくはないが、イギリス人は偉大な音楽家を産めなかったにもかかわらず、こういう再生芸術では、天才を生み出しているのが、興味深いことだ。この3人の演奏したベートーヴェンはドイツ人がいままで演奏してきたベートーヴェンとはまるでちがう。



 ノリントンの演奏した二番を聴けば一目瞭然だ。このパンパン音が跳ねまわる音楽は今まで聴いてきた音楽とは違う。一言でいえば「やんちゃ」なのである。金管の強奏やティンパニの強打など、驚きの連続なのだ。若きベートーヴェンの哄笑が聞こえるようだ。


 ノリントンと同じピリオド楽器の演奏のガーディナーはノリントンほどやんちゃではないが、ここで聴く「田園」はワルターやクレンペラーの世界とは違う。クレンペラーは3楽章の演奏をあの時代は農民は木靴を履いていたので、軽快に踊れないのだといったらしいが、ガーディナーはそういうことには執着しない、ひたすら、純粋に音楽に迫る。


 ラトルはウイーンフィルだからモダン楽器である。彼の天才はモダンとピリオドのハイブリッドのスタイルを確立したところにあるだろう。今日の日本のオーケストラのベートーヴェンを聴くと、私に言わせれば、ほとんどラトルの亜流である。今回は八番を選んだがこれは全曲聴くべきである。


 シャイーのベートーヴェンも過去の伝統的なスタイルとは随分と違う。それを世界で最も古いライプチッヒ・ゲヴァントハウスでやってしまうところに彼の天才を感じる。今回は五番を聴いたが、これは全曲聴くべきベートーヴェンである。ひたすら前進する、この音楽を聴くとベートーヴェンの新しい世界がそこにあるのだと感じる。彼のブラームスの交響曲全曲も同じ流れで、傑作盤である。

 しかしもう一人新しい世界を切り開いた指揮者がいる。それはアメリカ人のダヴィッド・ジンマンである。今日でこそベーレンライター版の楽譜での演奏は当たり前のようになったが、その先鞭をつけたのが、ジョナサン・デル・マールの校訂版で全曲録音したジンマンである。残念ながら今は廃盤になって聴けないが、これはベートーヴェンに関心のある方は必聴の盤である。この四番はなかでも名演だと思う、途中に木管に装飾音を吹かせたり楽しい。


 クライバーが全曲を録音しなかったのは実に残念なことだと思う。しかし彼の残した四番、五番、七番はベートーヴェンの演奏史に永遠に残るだろう。これらの演奏を聴いて体が熱くならない人はいないだろう。まさに手に汗握るとはこのことだ。これはオンリーワンの演奏で、だれもまねできない。


 ヴァントはブルックナー指揮者として名を成したが、ベートーヴェンやブラームスでも名盤を残している。この格調高い一番の演奏聴くとベートーヴェンの将来を見渡せる。格調高いといったが、ここには遊び心は全くない、ひたすら真摯にベートーヴェンを演奏しているという意味である。


 カラヤンは生涯ベートーヴェンの交響曲全曲をステレオで3回録音している。ここで聴いたのは70年中期の彼の全盛期の演奏である。最初にベートーヴェンの全曲を買ったのがカラヤンの60年代の録音だから、もう50年以上彼の演奏を聴いているが、今もって最後に帰るのは彼の演奏である。毀誉褒貶がある彼の演奏だが、レコード芸術としてのレコードやCDの録音を彼ほど重視した指揮者はいないし、オーケストラホールでライブを聴く聴衆だけでなく、全世界の音楽ファンを意識して演奏をした初めての指揮者であるという意味で、再生音楽史に燦然と輝く。


 最後にセルだ。彼のベートーヴェンの全曲はどれも素晴らしいが、とりわけ素晴らしいのはこの「英雄」である。炎のように燃え上がる後半の2楽章は圧倒的な感銘を受ける。

 さて、このほかまだまだ多くの名演奏がある。フルトヴェングラーがないという不満の声が聞こえるが、彼のあのモノラルの録音は、フルトヴェングラーの真髄の半分も表していないと思うので、レコード芸術としては不完全と云える。それゆえあえて外した。彼の九番、七番、五番は名演であることは言うまでもないことだが!
 最近になってクレンペラーを通して聴いたが、かれも独自の世界を作った指揮者だが、私にはいくつかの演奏はどうしてもついて行けない。ワルターもレコード芸術としては、彼の真髄を100%示し切れていない。

 新しい指揮者も次から次へ出てきている。雑誌のレコード芸術などを見ると聴いてみたくなるが、興味半分不安半分である。それだけベートーヴェン交響曲は底が深いということだろう。
 なお、オーディオ的に云うとカラヤンとセル、クライバーがSACD盤である。ライブもいくつかあるがいずれも録音としては云うことのないもの。ラトル盤、シャイー盤はとくに素晴らしい。

 さて、次はマーラー全曲演奏会を開いてみよう。〆