2019年6月24日
於:オーチャードホール(1階13列左ブロック)

ボローニャ

ロッシーニ「セビリアの理髪師」、ボローニャ歌劇場来日公演2019
指揮:フェデリコ・サンティ
演出:フェデリコ・グラツィーニ

アルマヴィーヴァ伯爵:アントニーノ・シラグーザ
フィガロ:ロベルト・デ・カンディア
ロジーナ:セレーナ・マルフィ
ドン・バルトロ:マルコ・フィリッポ・ロマーノ
ドン・バジリオ:アンドレア・コンフェッティ
ベルタ:ラウラ・ケリーチ
フィオレッロ:トンマーゾ・カーラミーア
アンブロージョ:マッシミリアーノ・マストロエニ
士官:サンドロ・プッチ
ボローニャ歌劇場管弦楽団、合唱団

のっけから余談である。海外からのオーケストラやオペラの団体の公演のプログラムはできの悪いものが多い。ひどいものだと音楽はそっちのけで観光案内のようなものもあった。それなのに数千円もする。NBSのように会員になっていて全公演を聴いているとプログラムをくれるので良いが、今回のボローニャのように2公演聴いてもプログラムなどはなにもくれなくて配役表ぽっきり。
 参考までに国内はどうなっているかと云うと、ニッセイオペラは前売りを買うと大体プログラムはついている。藤原や二期会は原則有料だが、会員で、先行予約するとプログラムはついている。国内のオペラ公演のプログラムの内容はかなり優れていて、勉強になる記事が多い。

 まあ、そんなことはどうでも良いが、結局リゴレットの公演日にはボローニャのプログラムは買わず(2000円)しまい。そして今日、セビリアを聴いたわけだが、1幕聴いた後、指揮者とロジーナの経歴が知りたくてとうとう幕間で買ってしまった。しかしこれは非常によくできた内容で正直驚いた。オペラの解説はたった2ページだが簡にして要を得ているし、最も面白いのは指揮者や出演者のインタビュー記事である。それもおざなりではなく、実に音楽を聴くうえで参考になるのだ。これならもっと早く買っていればリゴレットをもっと注意深く聴けたろう。後の祭りである。それでも帰宅後、丁寧に読み直す。歌手たちが実に興味深いコメントをしているので面白く、珍しく2度読みをしてしまった。
 例えばフィガロ役のカンディアはオペラの役で容姿か歌唱力かどちらを選ぶのかと問いかけている。どうも歌唱力は二の次だというケースもあるということを云いたいらしい。
 これはどちらともいえない。役柄にあった容姿と歌唱力を、聴衆は求めるのは当たり前だが、両立する人は少ないのだろうか?たとえばカンディアは新国立で演じたファルスタッフはフィットしていたが、ちょっとまるまるしたフィガロではどうか?私は若きレオ・ヌッチが頭に浮かんでしまう。ただカンディアもロジーナは鯨みたいなおばさんでは困るといっているのだから、どうも本気なのか冗談なのかはよくわからない。でも最近はライブの映像化が多いので過去の音だけのレコードから比べると容姿がより求められるのは間違いあるまい。何が言いたいかと云うとこのプログラムを呼んでいるとそういうことまで考えさせられてしまうほど面白いのだ。会場には、たくさん余っていたので興味ある方はご一読を勧める。

 さて、本題に入ろう。おっと、その前に、プログラムを読んでいてもう一つ気が付いたのは、今回のボローニャの2公演の出演者、指揮者、演出家がほとんどイタリア人であるということだ。わずかにリゴレットのマントヴァ役アルベロ(スペイン人だがイタリアで活躍している)とマッダレーナのボルドィレバ(ロシア)の2人が外国人。特にロシア・スラブ系が一人しかいないというのは、最近のオペラ興行では珍しい。日本の新国立などはイタリアオペラなのにイタリア人が一人もいないという公演も散見されるくらいだ。特にセビリアはすべてイタリア人なので、純血種のイタリアオペラを大いに楽しませてもらった。

 今日の公演はシラクーザがアルマヴィーヴァを歌うことで性格が決まってしまったといっても過言ではない。2011年の藤原歌劇団の公演で初めてシラクーザのアルマヴィーヴァを聴いたのだが。まあその歌唱にたまげてしまった。普段録音ではあまり聴けない(アバド盤、パターネ盤ではいずれもカット)2幕の大アリア「抵抗するな~」(通常第17番)はまさに声の曲芸と云っては失礼だが、声がここまでの表現ができるのだという驚きだった。しかもこの部分をアンコールで歌ってしまうのだった。今日も同じだ。前もって知っていただけに気持ちとしてはまた始まったというわけだが、聴いていて結局シラクーザのマジックに捕らえられてしまった。もちろん月日の変化や私の記憶の薄れな度もあって、今回のほうが少し伸びを欠いているかなと云う印象だが、些細なことだろう。ただアンコールで手拍子を強要するのはいかがなものだろう。歌に神経を集中させたいものだ。1幕のリンドーロがギターでセレナーデを歌う場面もいつもと一緒でシラクーザの弾き語りで、途中からフラメンコ調になるのも一緒。わかっていてもつい笑ってしまう。もうこの役を340回もやっているのに毎回新鮮さを失なわないと云うのは驚異的なことだろう。ということで予想通りシラクーザ中心のアルマヴィーヴァ伯爵主演の公演だった。

 ロジーナのセレーナ・マルフィは初めて聴くが実に素晴らしいロジーナである。バルトリの高音をもう少し輝かしくしたと云ったらほめすぎだろうか?単なる箱入り娘ではなくその当時でいえば少々跳ね返りの令嬢と云った役を気持ちよく歌っていた。カンディアの云うようなクジラのおばさんではなく、容姿も美しい。
 カンディアのフィガロは少々重々しいかなあと云うイメージで聴き始めたが、途中から杞憂に終わった「町の何でも屋~」あたりから軽快感も出て体は少々重めだが動きも敏捷(渡辺直美のようだ)で歌も芝居も楽しかった。
 ドン・バルトロは歌は達者で楽しめたが唯一の敵役としてはもう少しあくがあっても良いかなとも思ったが、過ぎたるは及ばざるがごとしと云った公演もあるのでこのくらいでよいのだろう。その他バジリオ、フィオレッロ、ベルタなど脇もみなイタリア人で固め、すきのない歌唱で久しぶりに聴いたセビリア、とても楽しかった。

 指揮者のサンティは若い指揮者だ。そういえばリゴレットの指揮者も若かった。バッティストーニ以外にも若いイタリア人指揮者が台頭しているのだろう。
 今日のセビリアの序曲、えらく感心をしてしまった。まずそのテンポ。実にゆったりと味合わせてくれる。もちろんロッシーニクレッシェンドになればそれなりに加速はされるが、それも節度が保たれている。ようするに緩急をめたらやったらつけてはいないということだ。もう一つその響きだ。当然リゴレットの編成より大幅に小さくなっているので、響きは薄くなっているはずだ。事実、編成の少なさを感じ取れるさわやかな音の魅力を感じる。これはもしかしたら私の今日の劣悪な席のなせる業かもしれないが、音の微粒子が粒だっていて、非常に細かくさらさらして聴こえるのだ。これは実に気持ちの良いロッシーニサウンドだった。演奏時間は154分(第17番とその繰り返し、拍手などを含む)

 演出は先のリゴレットのような読み替えはないのでわかりやすい。ト書きと比べても大きな違和感は全くない。装置はどちらと云うとメルヘンチック、特に色使いがそうだ。例えば1幕の最初の場面。正面にはバルトロの家、2階建てである、色は薄いブルーとクリーム色の混ざったもの。家の手前中庭があって生垣に覆われている、正面には腰までの小さな白い門。
 1幕の後半から最終幕まではすべてバルトロの居室、これは緑を基調にした板を組み合わせて作った部屋。はりぼてながら居室とわかる。小道具はソファ、書見台、チェンバロ、バルトロの肖像、など簡潔で無駄のない装置だった。衣装は現代読み替えではなくおそらくロッシーニ時代のように思えた。
 平日のマチネーで後方席には空席も目立ったのは致し方がないことだ。通常より長い演奏時間なので夜の公演は無理だろう。