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2018年5月27日
於:新国立劇場(1階14列中央ブロック)

ベートーヴェン「フィデリオ」、新国立劇場公演

指揮:飯森泰次郎
演出:カタリーナ・ワーグナー

レオノーレ:リカルダ・メルベート
フロレスタン:ステファン・グールド
ドン・ピツァロ:ミヒャエル・クプファー=ラデツキー
ロッコ:妻屋秀和
マルツェリーネ:石橋栄実
ヤッキーノ:鈴木 准
ドン・フェルナンド:黒田 博
囚人1:片寄純也
囚人2:大村 徹

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京交響楽団

幕が下りた後、一瞬会場からほっというため息が聞こえたような気がした。実際声が聞こえたわけではなく、そういう一瞬の空虚を感じたのである。勿論その後拍手はあったがそれはおずおずとしたもので、決して万雷の拍手とは言えなかった。カタリーナ・ワーグナーの演出への戸惑いがそれに表れていたように思った。私の周りは誰も拍手をしていなかった。歌い手や指揮に不満があったわけではないのだ、事実、歌い手たちが登場した後、まさに万雷の拍手とブラボーの嵐。しかし演出には、新国立には珍しく、ブーイングが数多く飛んでいた。

 演出のカタリーナ・ワーグナーはウォルフガング・ワーグナーの娘だから、リヒャルト・ワーグナーのひ孫になる。彼女の演出を初めて見たのは2007年のバイロイト音楽祭の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」である。映像で見たのだが、あの奇妙奇天烈の演出は全くついてゆけなかった。そしてその後見たのは2015年のバイロイトである。「トリスタンとイゾルデ」で今日、フロレスタンを歌ったステファン・グールドがトリスタンを歌い、ティーレマンが指揮をしていた。これも映像で見たのだが、この演出はと書きから大きく逸脱してはいるが、私にはついていける範囲だった。


 そして、今年の新国立での「フィデリオ」の演出をすると聞いたとき、果たしてどういう演出をするのか、興味津々というか、不安と期待でいっぱいだった。
 一幕はそれほど奇異な感じはしない。むしろまともといって良いのではないか?ここで目を引き付けたのは巨大な装置である。舞台には三層に分かれた建造物がある。1層が地上階である。2層目はフロレスタンの収容されている秘密の牢である。そして最下層はその他の政治犯など囚人たちが収容されている牢獄である。
 1層目は3分割されていて、舞台左手がフィデリオ(レオノーレ)の部屋。女性の服から男性の服に着かえるシーンがある。奥にはフロレスタンの肖像画。中央のブロックは比較的広い空間でと書きでいう刑務所の庭に当たる。舞台右手のブロックはロッコの作業場。ヤッキーノを使って金を数えたり、囚人の着ていた服をあさっている。ロッコの部屋の上がピツァロの部屋ではっきりとしないが女性の肖像画がある。ここでの場面の分割は登場人物たちの「思い」の食い違いを表している。そのわかりやすい例が第3曲の4重唱である。レオノーレは左手のブロック、中央はヤッキーノとマルツェリーネ、右手にはロッコが分かれてそれぞれ歌っている。皆思いが違うのである。
 囚人の合唱までは、舞台は2層までしか見えない。囚人の合唱になると装置がせりあがり、3層目の囚人たちの牢屋が見えてくる。実に雄大な装置である。
 2層目にはフロレスタンが収容されているが、1幕からもうステファン・グールドは舞台に出ている。2層目の構造は左手にテーブルがあって、そこはフロレスタンが収容されている部屋である。中央は1階に通じる階段で、鉄格子で遮断されている。右手は空間になっている。フロレスタンは蝋石で部屋のいたるところにレオノーレの姿を描きまくっている。

 さて、2幕目になると、次第にカタリーナの本領が発揮される。問題は第14番の4重唱からである。ロッコとレオノーレが穴を掘っている(舞台では奇妙なことにフロレスタンが床板をはがし、土を取り除いている。ロッコとレオノーレは鉄格子を外している)時にピツァロがナイフをもって現れ、フロレスタンを刺そうとする、レオノーレは男装をかなぐり捨てフィデリオからレオノーレになり、ピツァロを妨害してナイフを取り上げる。しかしピツァロが反撃に出て、ナイフを奪い返し、フロレスタンを刺してしまう。ドン・フェルナンドが到着しているはずなのになかなか助けに来ない。フロレスタンとレオノーレは第15番の2重唱を歌う。その間ピツァロは姿を消す。そして傷を負ったフロレスタンを助けながら、レオノーレは中央の階段から1階に逃れようとする。しかしピツァロと2人の部下はそれを階段で阻止する。ピツァロはレオノーレの首になにやら(ストッキングのように見えるがよくわからない)巻き付ける
やがてピツァロはナイフでレオノーレを刺してしまう。フロレスタンとレオノーレが倒れている間にピツァロは階段を大きなブロックで塞いで二人が逃れられないようにしてしまう。まるでアイーダの最終幕の地下牢のごとく、フロレスタンとレオノーレは閉じ込めれてしまった。これらは15番の2重唱の後、序曲「レオノーレ第三番」が演奏される間にパントマイムのように演じられる。

 さて、まるで、と書きと違う事件が起きてしまうのだが、これからがさらに驚くべき事態になる。第16番フィナーレ、「良きこの日をたたえよう~」と解放された囚人たちが歌う。驚くべきことにそこにはフロレスタンに扮装したピツァロとレオノーレの服装をした女が現れ、なんとロッコまで騙され、レオノーレの徳をたたえる。フェルナンドはピツァロの手鎖を解くようにレオノーレに扮した女に云う。「神よこの感動の時~」が歌われる間に、牢獄の奥が解放され、囚人たちは外に出る、ピツァロもそれに紛れて逃げるが、不思議なことにまた戻ってきて解放された囚人たちを牢屋に戻し閉じ込めてしまう。フロレスタンとレオノーレは第2層の牢獄に閉じ込められたまま歌い、最後にピツァロはフェルナンドの前に正体を現して幕となる。


 「フィデリオ」でこういう結末が想像できるだろうか?ドラマトゥルクのダニエル・ウエーバーがプログラムの中で種明かしらしいことを書いているが、正直よくわからない。ここでは、フロレスタンがトリスタン的人間だと位置付けられている。死へのあこがれが、フロレスタンが刺されて死ぬという話の伏線なのだろうが、それではレオノーレが刺されて死ぬのはイゾルデだからなのだろうか?
 もうひとつ、このオペラの第16番の少々脳天気な盛り上がりは、このオペラを聴いていつも違和感があったのは事実だが、それがこの結末を導いているのだろうか?
 さらにもう一つ、フロレスタンは政治犯、つまりピツァロを訴えた正義の男だが、ピツァロは実は政治犯ということ以前に、レオノーレに横恋慕していたから、邪魔なフロレスタンを幽閉してしまったのではないか?そのことの全体への影響はありや、なきや?
 とにかく第14曲以降の大逆転のドラマは面白いことは面白いが、演出家の遊びのようにも感じられ、大逆転のための安易な読み替えのように思った。

 新国立の「フィデリオ」はこの演出の前にもうひとつあったはずだが、それはたった2回でお蔵入りのようだ。まあ、そのマレッリの演出も忘れ難い演出はとは云わないが、それにしても2回だけというのは、ちょっとひどくはないだろうか?
 そしてこのカタリーナの演出をこれから何度も見せられるのだろうか?それとも2回で終わってしまうのだろうか?この演出、悪く言えば、お笑いの一発芸みたいで一度目は良いが、果たして2度3度と見せられたらどうなのだろう?


 演出で息切れしてしまったが、音楽について一言。
飯守の指揮だ、第一幕では、彼に似合わず、切れの良いテンポで音楽が進む。まるでこの幕のブッファ的な要素や民衆劇風の要素を意図的排除しようとしているようだ。後半の大逆転ドラマを考えるとこれは音楽つくりとしては一貫しているように思った。二幕は逆にテンポを落として、十分重々しいいつもの飯守のようだ。レオノーレ第三番もゆったりとしたテンポ、いささかの性急感もなく、雄大だ。全体に二幕は神から見捨てられた2人の悲劇の音楽なのかとも思えた。

 メルべートとグールドはもう新国立の座付きの歌い手のようだ。その安定感のある歌いっぷりは、安心して聴ける良さがある。今日の演出の中で16番の部分をどう歌うのかは、なかなか難しいだろうが、私には違和感がなく聴けた。メルベートは9番のアリア「希望を来ておくれ~」が予想通り感動的。反対にグールドは11番のアリア「人生の盛りの間に~」では少し一本調子に聴こえ、さらに最後は少々息切れの様子。この役はヘルデン・テノールが歌うケースが多いが、もう少し繊細感のある歌い手のほうが良いのではないかとも感じた。

 ピツァロは見せ場の一幕の7番「そうだ、絶好のチャンス~」が聴きごたえがあった。邦人ではヤッキーノの鈴木が好唱。軽やかな歌唱の中にも悲しさが!マルツェリーネは美しいが最高音で上ずるように感じるところがあり今一つ。妻屋は無理してブッファぶるように歌っているようで、演出方針とは違うように感じた。ここはもう少しシリアスにやったほうが妻屋の良さが出たように思った。合唱は相変わらず素晴らしい。「囚人の合唱」もよかったが、16番のフィナーレが最高の出来。聴きごたえがあった。
なお、演奏時間は約127分。せりふの部分は必要最小限に切り詰めていた。