2016年5月29日
於:新国立劇場(1階12列中央ブロック)

新国立劇場公演
 ワーグナー「ローエングリン}

指揮:飯守泰次郎
演出:マティアス・フォン・シュテークマン

ハインリヒ国王:アンドレアス・バウアー
ローエングリン:クラウス・フロリアン・フォークト
エルザ:マヌエラ・ウール
テルラムント:ユルゲン・リン
オルトルート:ペトラ・ラング
伝令:萩原潤
4人の貴族:望月哲也、秋谷直之、小森輝彦、妻屋秀和
管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団
合唱:新国立劇場合唱団

2012年の再演である(6/10に聴いている)。従って演出は基本的にはその時と変化はない。あの時も感じたのだが幕切れがどうしても納得できなかった。今回も同じである。ああいう終わり方とはわかっていても目の当たりにしていると音楽に集中できない。
 ローエングリンは自分の素性を明かす、オルトルートはしめしめとばかり登場、しかしゴットフリートが生還し、オルトルートは破れ、舞台右手に消えてゆく(消えてゆくのである、どこへ行ったのか?)、そしてローエングリンはこれは舞台奥に消えてゆく。残されたエルザはすがりつくゴットフリートを振り切ってこれも舞台右手に消えてゆく(いずこへ?)。国王やブラバントの人々も水がひくように舞台から消えてゆく。これはバイエルンの集団自殺やバイロイトの奇怪なゴットフリートよりはましだろうが、やはりいまはやりの夢も希望もない終わり方である。そう云えばスカラ座の公演も最後はカウフマン扮するローエングリンがぶるぶる震えながら終わる奇妙な終わり方をする。どうして素直な終わり方をしてくれないのだろうか?
 すなわちローエングリンは鳩の曳く船で去り、オルトルートはゴットフリートを見て倒れる(死ぬ)、エルザは気を失い倒れる。ブラバントの人々は驚きと喜びをもってゴットフリートを見、そして恭しくひざまずく。この様に終わってくれた方が音楽との整合性がある様に思うのだが?この様な演出は最近見たことがない。シュテ―クマンは演出についてインタビュー(本公演プログラム12ページ)で「本作の結末はいかなる夢も希望も存在しません」と云っているが、これは現代人のものの見方であるように思われて仕方がない。そういう意味ではこれは読み替え演出なのだろうと思ってうけいれるしかないのだろう。ト書きにあるようにブラバントの人々はローエングリンがいなくても、エルザがいなくても、ゴットフリートが帰って来たのだから、彼を中心にブラバントを立て直そうと恭しくゴットフリートの前にひざまずいたのではなかろうか、それゆえ決して未来がないとは私には思えないのだが?

 今回の公演もフォークトのローエングリンである。彼があってこそこの公演はなり立っているのであると改めて強く感じた。おそらく彼ほどこの役がぴったりの歌手はいないだろう。過去CD、DVD、ライブ公演でいろいろなローエングリン歌手を聴いてきた、バイロイトライブ録音のジェス・トーマス、アバドとの演奏会形式の録音のジークフリート・イェルザレム、スカラ座ライブのDVDのヨナス・カウフマン、バイエルンのライブ公演のヨハン・ボータ、しかしその誰よりもフォークトのローエングリンは素晴らしい。なによりもその素直に伸びきった声が魅力である。これに匹敵するのは過去聴いた中ではジェス・トーマスだけだろう。しかしフォークトはそれだけではなく十分な力強さがあり、劇場を圧するパワーすらある。そしてそのフルパワーの声でも決して声の形が崩れない安定感。今回の公演も1幕の神の様なローエングリンと、3幕の生身の人間のローエングリンとを歌い分け実に感動的だった。今年はバイロイトでパルジファルを歌う様だけれど大いに期待したい。
 エルザのウールもフォークトと対の様な声で魅了した。鈴を転がすような澄明な声は昔のグンドラ・ヤノヴィッツを輝かしくしたような声で素敵だった。ただ最強音になると若干乱れが、特に1幕では感じられたが、聞かせどころの2幕のオルトルートとの対決?、その後幕切れまで、更に3幕のローエングリンに身分を明かせと迫る場面などはその様な不安も少なく、劇的な歌唱を聴かせてくれた。今夜の演奏はこのオペラ自体もそうであるが、2幕の後半から3幕の幕切れまでの劇的な場面場面の歌唱が皆素晴らしく圧倒された。
 オルトルートのラングも邪悪さは幾分少ないオルトルートだけれども2幕の初めの2つの場面ではその持ち味を十分発揮して説得力のある歌唱だった。
 バス陣の二人も充実していた。ユルゲン・リンは少々年寄り臭いテルラムントだった。バウアーのハインリッヒは若々しい声が魅力。日本勢では萩原の伝令が存在感を発揮していた。
 合唱陣はこのオペラでは欠かせない、重要なパートであるが、演出のせいか動きが画一的なのは物足りないが、それは歌とは関係なく、素晴らしい合唱を随所に聴かせてくれて、新国立の高い水準を感じさせてくれた。

 飯守/東フィルの演奏には終演後ブーイングらしき声が聴こえたが、私にはどこがそうなのかわからない。実は前日レハールの「メリー・ウィドウ」を聴いた後でまだ頭の中は「女、女、女のマーチ」のにぎやかの音楽が鳴っている状態で1幕の前奏曲を聴き始めた次第。しかしこの弦だけで始まる前奏曲の素晴らしさ、一気にワーグナーの世界に引きずり込まれたのであった。飯守の指揮はいつもながら実に男性的で、例えば3幕の3場の兵士たちが集まる場面、オーケストラが次第に力を得ながら同じ旋律を3回繰り返すが、この盛り上がり方が尋常ではなく実に素晴らしいもの。以前聴いたケントナガノ/バイエルンの元気のない演奏とは音楽が別物と思うくらい迫力があった。また舞台両そでに近い3階席に金管のバンダを配したパノラマ的に広がる音響はライブならではの素晴らしさ。その他随所に聴きどころがあるが、なかでもこの音楽のキーの動機の禁問の動機は終始雄弁に響かせていたのが印象的だった。演奏時間209分強。サヴァリッシュの1962年のバイロイトのCDは195分だが、飯守の指揮には停滞感は感じられなかった。緩急のポイントを外していないからだろう。