2016年5月26日

「たまたまザイール、またコンゴ」田中真知著、偕成社
これは実に面白い紀行文だ。しかし単に紀行にとどまらず比較文化や経済史などの観点から見ても面白いのだ。
 著者は1991年と2012年にコンゴ川(かつてはザイール川)を上流のキサンガニという町から、キンシャサまで乗合船や給油船そして極めつけは現地の人々が乗る丸木舟も使って下ってゆく旅を二度行っているが、それをそれぞれ1部と2部にわけて紀行文にしている。もちろん同行者がいて最初は田中夫人、2度目はシンゴさんという学者の卵と現地の案内人、オギーとサレである。読んでゆくとやはり初めての1回目の旅が圧倒的である。その悲惨さが文章を通じて痛いほど伝わってくる。ものすごい臭いや蚊が群れをなすさまやもう今の日本人がおよそ経験しえない事柄が次々とこの夫婦を襲う。しかしそうはいってもこの二人の旅路は何かユーモラスである(失礼)のはこの様な過酷な環境の中でも好奇心を失わないで楽しもうという精神が心の底で根付いているからではないだろうか?私には読んでいるだけでもう体験したような気分になりもう無理と思わざるを得ない世界だ。

 2部は同行者に現地の人々がいることもあって少し余裕を感じるが、しかしこの21年の時間がこのコンゴ川の住民、村にはほとんど生活の変化に結び付いていないという表現がいたるところに出てくるのが何とも不思議なことだ。コンゴには森林資源、コンゴ川の水資源、金属(金、銅、レアメタルなど)、過去には天然ゴム、など豊富な資源が眠っているのに21年もたってなぜ国に変化が起きなかったのか?読んでいると次第にそれがわかって来るような気がするのである。結局ベルギーの植民地時代と今日とでは政治的に違うのは搾取する主体がベルギー人かコンゴの政治家の違いで資源が全てスル―してしまい、国民社会には何も残らないそういった経済構造が根幹の様な気がする。文中にあるコンゴ人の民族性は先天的なものか後天的なものかもかなり疑問に思った次第。文章の無類の面白さ、それと豊富なカラーやモノクロの写真が更にこの本を充実させている。


「家康、江戸を建てる」門井慶喜著 祥伝社
小説家というのは色々な切り口の歴史を私たちに見せてくれる。本作は家康が主人公のようだけれども実際は全然違う。設定は家康が1590年に家康から関八州へ国替えを命じられたそのころである。家康が何もない町から江戸の町を作るという、それにかかわる人々の物語である。
 構成は5つの話からなっておりそれぞれに主人公はいるがそれがいわゆる武士ではなく職人または武士でも戦闘員ではなくいわゆる技術官僚であるところが面白いところである。
 1.流れを変える:伊奈忠次とその後継者、利根川の流れを変え灌漑をおこなう
 2.金貨を延べる:後藤庄三郎、貨幣の鋳造
 3.飲み水をひく:百姓の六次郎、菓子作り担当の武士大久保藤五郎
          技術官僚の春日与右ェ門
          現在の井の頭公園の池から水の少ない江戸へ水をひく
 4.石垣を積む:見えすきの五平、石工である。江戸城の石垣の石を切り出す
 5.天守を起こす:秀忠将軍(天守の漆喰塗の秘密)
 以上であるが特に前半の3つは秀逸で面白かった。


「日本人はどこからきたのか?」海部陽介著 文芸春秋
日本人のルーツを探る、知的好奇心がかきたてられる作品だ。日本人の祖先と云えば縄文人だろうと思っていたが、そも縄文人はどこから来たのかとなるとはたと思考が止まってしまう。というのが私の基礎知識である。
 従来は日本人の祖先はアフリカを旅立った現世人(新人)が海を伝って日本にたどり着いたと云われていた。本書はそれを覆すものだ。遺跡を世界規模で精査、特にアジアという視点で見るとアフリカを出た現世人は45000年前ころから足跡が遺跡で捕捉されていて、彼らが2つのルートでユーラシア大陸の東端までたどり着いたことが分かるという。1つはヒマラヤをはさんで南ルートインド、インドシナ、インドネシアなどを経由して琉球諸島にたどりつく、もう一つはヒマラヤの北バイカル湖から中国、朝鮮半島を経由して日本にたどり着くケース、そして北ルートはもうひとつ北海道を経由してくるルートと3つのルートで現世人たちが日本に入ってきたと云うのである。当然北ルートと南ルートはどこかで混ざり合っている可能性があり、いろいろ混血をしながら縄文人になってゆくという。遺跡から見つかる証拠はまだ十分でないケースもあるがそこは大胆な推論で倫理を組み立てている。じつに魅力的な1冊である。

「帰ってきたヒットラー」ティムール・ヴェルメシュ著 河出文庫
1945年に自殺したはずのヒトラーが2011年のベルリンにタイムスリップしてくる奇想天外な話である。これは日本によくあるアニメの世界ではなく、至極社会学的にも政治学的にも「もし~したら」の描き方がリアリティをもっていて読んでいてちょっとナチ/ヒットラー登場の既視感すら覚える、すこぶる恐ろしい本である。
 話は全て「アドルフ・ヒトラー」が1945年のままでモノローグの様に語るので現代の人々とのギャップが当然出てくるわけでそこが面白いところだ。ただ現代のドイツ社会の政治、社会情勢に精通していない私にはその面白みをすべてわかるというのは無理の様だ。映画化されたということだから、映画で見たらまた違うのかもしれない。しかし現代のドイツの政治や社会に対する風刺小説というでの面白みは理解できそうだ。
 このヒットラーの登場に対して作品の中で、ホロコーストの生き残りの女性がこのタイムスリップヒトラーがマスコミでもてはやされているのを見て、「タイムスリップヒトラーの話は決して風刺ではない、昔ヒトラーが話したことをそのまま繰り返しているだけだ。そして人々はそれを聞いて笑っている。昔と同じだ」という。それに対してヒトラーは「自分は民主主義で総統になったのだ。だから自分の意思決定はドイツの人々、どこにでもいる市井の人々の意思決定なのだ」という。この本の怖ろしさはこういった民主主義の恐ろしさを示しているということではなかろうか?日本の現在の政治状況にも当てはまるのではないだろうか?

「判決破棄」 マイクル・コナリー著 講談社文庫
リンカーン弁護士、ミッキー・ハラーシリーズの第3作である。
 本作ではなんとハラーに検事の仕事が回って来る。24年前の少女殺人事件の犯人ジュサップの再審請求が認められ裁判が行われる。検事局は中立を保つために法廷検事責任者
にハラーを指名するというのである。助手に元妻のマクファーソン、そしてハリー・ボッシュ刑事を捜査の助手に任命して裁判に向かう。弁護士の策略やジュサップの異様な行動(なんと保釈を受ける)などがからまってクライマックスを迎えるのだが、本作はハラーが主人公なのは当然にしても、刑事のボッシュや元妻のマクファーソンの出番も多くちょっと焦点がぼけるのが難点である。ハラーの少し嫌味な会話もちょっと鼻につく。