2014年6月25日
於:浜離宮朝日ホール(1階18列右ブロック)

ヴァレリー・アファナシエフ、来日公演
シューベルト:3つのピアノ小品(D946)
シューベルト:ピアノソナタ第21番(D960)

2011年11月7日の内田光子来日公演以来のシューベルトである。その時のブログにも書いたことだがシューベルトのピアノ曲を知ったのは内田の全8枚のセットのCDによってである。それ以来シューベルトのピアノ曲はいろいろなCDを聴いてきたけれども、やはり最後は内田に帰ってくる。それほどこの演奏は私の脳髄に刷り込まれている。
 今夜のアファナシエフのシューベルトはその演奏とはあまりにかけ離れているので戸惑いを感じたと同時に、こういうシューベルトの世界があるのだということを再認識したという意味で私のシューベルト鑑賞史で特筆すべきものであった。
 まず3つの小品である。1曲目はA-B-A-C-Aという構成の曲。別にA-B-Aという版もあるそうだが、アファナシエフも内田も前者の演奏である。Aの部分アファナシエフはまるでライオンが獲物に襲いかかるように鍵盤をたたく。ここでまず面喰う。時々音楽が止まるような仕草をして髪に手を当てる。これは癖なのだろう。数えてはいないがかなりそういう場面がある。さてBアンダンテ,Cアンダンティーノになると音楽はものすごくしなやかに優しくなる。先日のモーツァルトの協奏曲のように手は蝶のようにひらひら舞いながら鍵盤に落ちてくる。この2つの部分はものすごく遅く、しかもあまりスムースに流れない。でもその音楽の流れるままに身を乗せるとなんとも居心地がよい。この1曲目はなんと12分50秒かかっている。内田は9分30秒である。1曲目からもうくたくた。
 2曲目は更に素晴らしい。この曲は2つのエピソードからなっている。最初のは歌謡風の素敵な音楽。アファナシエフの凄いのは2つ目のエピソードだ。ここはまるで別の曲を聴いているように遅い。このエピソード、冒頭のつま先立ちの様な音楽の後の後半の部分は、昔聴いたことがあるけれど思い出せない、何かとても懐かしいそういう音楽。その部分は音楽は止まってしまうくらい遅いが、寂しいというより、懐かしくて胸が締め付けられるようだ。この楽想が4回演奏されるが、全部違うように聴こえるのが不思議だ。特に3回目はぞくぞくするくらい美しい。
 3曲目は煌めくピアノが印象的。一気呵成に音楽が進む。ショパンの24の前奏曲のようだ。3曲全曲で35分弱の演奏だった。

 21番のソナタもものすごく遅い。演奏時間はおよそ50分である。1楽章の提示部から異様な遅さだ。これはただ遅いのではなく音楽がプツプツ切れて、流れないからかもしれない。内田の2011年の演奏の時に私は「1本の糸が切れ目なく続く」とブログに書いたが、アファナシエフは1本の糸のようには聴こえない。まるで一つ一つの楽想がモザイクのようで、それを継ぎ足して一つの流れにしているように思われた。私の好みはやはり流れた方が良いのだが、アファナシエフのこの演奏も捨てがたい。なぜならもしかしたら作曲した時のシューベルトの心情もこのようだったかもしれないと思わせるような説得力のあるものだからだ。
 2楽章は素晴らしく清澄で美しい。しかしここで印象的だったのは中間の「一筋の日が一瞬煌めく」そういう音楽が、アファナシエフでは「燦々とした陽光のよう」に感じられたことだ。これはその前後の音楽があまりにも深く、ダークな世界に沈み込んでいたからではなかったろうか?
 3楽章のスケルツォは文字通りだが、音楽が全体に軽くないのが自分の耳には新鮮だった。中間のトリオの部分も全然優雅さが見られない。
 4楽章は軽快で快速、1~2楽章の音楽と別物のように感じられる楽章だが、ここでのアファナシエフには軽快、快速というものには縁がない。むしろ部分的には重々しさというか物々しさが感じられた演奏だった。
 前後半のプログラムを弾く人も大変だろうが、聴くほうもくたくたであった。アンコールがあったかは知らない。このようなプログラムの後、どのような曲も聴きたくないからすぐ退席してしまったからである。〆