2011年6月5日
於:新国立劇場(16列中央ブロック)

モーツァルト、歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」

指揮:ミゲル・A・ゴメス=マルティネス#
演出:ダミアーノ・ミキエレット
フィオルディリージ:マリア・ルイジ・ボルシ#
ドラベッラ:ダニエラ・ビーニ
デスピーナ:タリア・オール#
フェルランド:グレゴリー・ウォーレン#
グリエルモ:アドリアン・エレート
ドン・アルフォンソ:ローマン・トレーケル
合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団
(注:#印は代演)

 何とも殺伐とした終わり方だ。フィオルディリージとグリエルモ、ドラベッラとフェルランドは大喧嘩して別れるし、グリエルモとフェランドの友情も壊れ喧嘩別れというこのオペラブッファを台無しにする結末だ。過去婚約者同志の別れを予感させるような終わり方をしている演出は経験あるが、このような露骨な喧嘩別れは初めてだ。磯山 雅氏の作品ノート(プログラム15ページ):”婚礼の場に続く、出来事の種明かし、修羅場を経ての和解、理性をたたえる合唱”などという発想は全くないのだ。これはもうブッファではなく男女の修羅場そのものの演出だ。とにかくモーツァルトのこの作品をこういうように演出するという感性が信じられない。これはもうダ・ポンテ/モーツァルトの合作による芸術とはまるで違う世界の作品と言わざるを得ない。
 この演出の設定は今世紀だそうだ。しかもキャンプ場の設定(アメリカ?)。2組のペアはキャンプのお客。ドン・アルフォンソはキャンプ場の経営者兼管理人、デスピーナはキャンプ場の売店の売り子だ。セットは1幕がキャンプ場の管理棟、女性のキャンピングカー。裏側が小山になっていてその裾にテーブル。2幕も同じだが小山の裾に池があり歌手はこの中で歌ったり演技したりする。フェルランドとグリエルモはバイク野郎に変装する。とにかく読み替えに頭を絞って必死という印象。しかしこの演出家の読みが如何に皮相かは是非この演出家の演出ノート(プログラム5-6ページ)を読んでいただきたい。そして17ページから20ページまでの磯山氏の実に鋭い分析と比べて欲しい。

 さて、もう演出についてはやめておこう。私は決して懐古趣味ではないが1974年のザルツブルグのベーム/ウイーンの演奏が懐かしい。これはCDでも聴ける。このほうがずっとこの作品の本質に迫っているのではないだろうか?
 音楽はどうか、管弦楽はなぜか元気がない。自信はないが古楽奏法ではないだろうか。ヴァイオリンがいやにすっきりしているのだ。幕間でピットをのぞくとティンパニがバロックティンパニのようだった。まああまりいい加減なことは言うまい。こういう新し物好きの演出なのだから音楽ももう少し羽目を外したらどうかと思うがかなりまともで面白くない。チェンバロも存在感が薄い。
 歌手陣は主役級の3人が代演。だからというわけではないが、歌唱としてはそうひどいとは思わないが、心に響いて聴こえてこない。特にフィオルディリージには個人的には不満が大きい。例えば14曲や25曲はもう少し心に訴えるような歌唱を望みたい。ところどころで絶叫調になるのも興ざめ。ドラベッラは少し脳天気風な役回りを歌唱でも表わしておりまずまず。デスピーナは全くブッファ風ではないのが不満。ベームの時はレリ・グリストだったがその面白さはない。例えば婚約者2人が偽装自殺した時に医者に化けるが、グリストのその歌い方のおかしいこと、また2幕では公証人に化けるが、これも実に愉快な歌唱だ。ザルツブルグはト書き通りの演出だが聴き比べていただきたい、ベームのほうがずっとモーツァルトに近いということがわかるだろう。
 男性陣ではドン・アルフォンソがデスピーナと同じことが言える。2人の婚約者はまずまず。特にグリエルモは柔らかい声が印象的だ。歌が心にしみこまない理由はただ一つ、歌手に過酷な演技を要求しているからであると私は思う。小山から転げ落ちたり、池の中に入って歌ったり、着たり脱いだり、テントを組み立てながら歌ったり、とにかく忙しい。こんな状況では歌手に大きな期待はできないだろう。演出の役割は歌手に歌いやすい環境を作ることではないかと思うが今日の演出は歌手は二の次としか思えない。新国立の今年のトリスタンとイゾルデの公演はまさに歌手が主で演出が従の公演だった。その公演が懐かしい。
 しかし指揮者を含めて4人も主演級の演奏家がキャンセルしたのは全く残念だ。まあ不可抗力だが詐欺的公演と言わざるを得ない。
                                    〆