2009年9月23日
新国立劇場公演(16列中央ブロック)
ヴェルディ「オテロ」

演出
マリオ・マルトーネ

指揮
リッカルド・フリッツァ
管弦楽
東京フィルハーモニー交響楽団

オテロ:ステファン・グールド
デスデモーナ:タマール・イヴェーリ
イアーゴ:ルチオ・ガッロ
カシオ:ブラゴイ・ナコスキ
エミーリア:森山京子
ロデリーゴ:内山信吾


新国立劇場公演2009-2010年のシーズンが始まった。今年もいろいろと新演出、再演含めて面白い公演が目白押しで楽しみだ。かず今日の「オテロ」、それから「ヴォツェック」「影のない女」この3演目が注目の新演出。それと再演では「ジークフリート」「神々の黄昏」が楽しみである。

さて、今日の「オテロ」だが実に面白い演出だった。舞台は一幕から四幕まで同じ装置である。中央にあずまやみたいな建物がある。これがバルコニーになったり、デスデモーナの部屋になったりする。この建物を運河のような水が取り囲む。本当に水があるのだ。その運河のようなものに橋のような板をかけ歌手はその上で歌ったり演技をする。舞台左右はイタリアのヴェネチアを思わせるような屋敷が連なり、後景には防波堤が連なる。設定は19世紀だそうだがあまり違和感がない。この演出家は映画の出身だそうだ。それだからかどうかはわからないがかなり細かい演出をしている。たとえば二幕でイアーゴの「クレド」の場面、最後に「死はすなわち無だ」と歌うが中央の建物の壁に泥で十字架を自分で塗りたくり、歌った後にバケツの水でそれを流してしまう。また同じく二幕でデスデモーナと村人のシーンで突然舞台が暗くなったと思ったらデスデモーナが座りながらスカートをまくり素足を出し、恋人らしき男からプレゼントをもらったり抱擁を受けたりする。おかしいじゃないかと思うが実はこれはオテロの妄想を表わしているのだ。もうこの時点でイアーゴの毒牙にかかったオテロの妄想を!
 キーパーツのハンカチをデスデモーナがなくすところも単にエミリアが拾うのではなくオテロがデスデモーナから取り上げたハンカチを運河に投げ込む、それをイアーゴが竿で引っ掛け上げるという手の込んだことをしている。とにかく説明しているときりがないくらいいろいろやっている。でもそれがキースウォーナーのトウキョウリングのように何だかわけがわからないというのではなく必然のように感じるから面白い。四幕の「アヴェマリア」も最初はベッドの中で歌う。おかしいなあと思っていたらそのうちデスデモーナはベッドから抜け出し祈りながら歌う。感動の場面、デスデモーナは死の予感を感じ取ったのをこう演出したのだと思う。ちょっと可哀想だったのは「オテロの死」の場面、オテロは運河の中に飛び込み(といってもくるぶし程度の水かさ)水の中で死ぬ。ここも実に感動的であったがステファン・グールドがびしょぬれになるのではと心配してしまった。とにかく面白い演出だった。新演出は往々にして珍奇なことをやり,注目を集めようとするばかりに,やる必要のないことをやったりする。しかし大事なことはそのドラマにとって必然性があるのかどうかということだと私は思う。そういう意味で今日の演出は無駄なことがなくかなりの部分で合理的かつ必然性を感じた。

音楽である、第一幕冒頭の嵐の場面、すさまじいオーケストラ、雷の効果音、稲光の照明効果が相まって強いインパクトだった。この音はオーディオ装置ではなかなかでないだろう。オテロの登場はこれまた面白く客席から舞台に上がって歌うのだ。ステファン・グールド``は実は昨年バイロイトでジークフリートを歌っているのを聴いている。世界的に数の少ないヘルデンテノールの一人で立派な歌であった。新国立ではフィデリオのフロレスタンを歌っておりこれもなかなか良かった。
 「オテロ」の演奏の難しさは優れたオテロ歌いがいないことではないか?
(以下かなり主観的な感想)自分もそうだが日本人のある年配以上の方はオテロといえばデルモナコなのでどうしてもモナコと比較してしまう。だから評価が厳しくなるのだろう。自分は残念ながらモナコのライブは聴いていない。しかしカラヤン/ウイーンフィルの演奏で61年に録音したものがありこれが自分のオテロのデファクトになっている。もうひとつ1959年のイタリア歌劇団公演でモナコティト・ゴッビが共演した化け物みたいな演奏がCDとDVDで出ておりいずれもモナコのオテロを味わうことができる。自分の愛聴盤はカラヤンのもの。このころのカラヤンは後年のベルリンフィルと共演したイタリアオペラのような大げさな音楽にはしていなくて好きである。余談だがカラヤン``の「ドンカルロ」にしても「蝶々さん」にしてもとても素晴らしいのだが何度も聴くと疲れてしまう。それほど大げさに構えなくても良いのではないかと思うのである。
 もうひとつ1981年のミラノスカラ座公演でクライバーが指揮してドミンゴがオテロを歌ったがこれも素晴らしいものだった。幸いこれはライブを聴いている。ドミンゴは嫌いであるがこの時は入神の演技であった。人間の弱さをあれほど赤裸々に表したオテロは聴いたことがない。すなわちモナコドミンゴの二人のオテロ歌いにかなうものがいるかというところにオテロの演奏の難しさがあるように思う(とても主観的だが)。だから自分にとって他の歌手がオテロを歌うと何か居心地が悪いのである。
 そこで新国立はグールドを持ってきた。狙いはモナコでもドミンゴでもないオテロではないか。グールドはアメリカ人だがドイツのオペラの英雄的テノールでありそういう意味ではあたったと思う。モナコの様な声の輝きはなくドミンゴの様な激情も示さない。そのかわり少し重い声でどっしりしたオテロを演じた。三幕のデスデモーナの不倫をなじるところと「オテロの死」の場面で初めて感情をあらわにしたように感じた。
 デスデモーナ役はノルマ・ファンティーニの代役であったが透明な声でオテロと対比的で哀れな感じを出していたように思う。ファンティーニだと重すぎたかもしれない。ガッロは新国立では御馴染みだ。どうしてもフィガロのように見えてしまってイアーゴのような悪人に見えない(私には)が声はオテロと対比で明るい声なので良いコンビだと思った。「クレド」も立派な歌唱だった。そのほかではカッシォとロデリーゴは冴えなかった。
 二幕ではオテロとイアーゴの幕切れの二重唱が印象的。三幕ではオテロがヴェネチアの使者を迎えて幕切れまでの合唱を交えた演奏は素晴らしかった。
 そして今日もっともよかったのは第四幕である。デスデモーナの「柳の歌」、そして「エミリアさようなら」とデスデモーナがエミリアに抱きつく場面、「アヴェマリア」まで涙なくして見れない。最後の「オテロの死」、オテロの悔恨が凝縮した音楽だった。
 指揮のフリッツァは緩急をつけ好演。東フィルも大熱演ではないか。特に一幕の冒頭の音楽は凄まじかった。金管、ティンパニも強烈だった。
 もうひとつ合唱がよかったことを付け加えたい。一幕の大半を占める合唱部分と三幕の後半は立派でした。
                               以上