2009/3/28(土)
菊池洋子モーツァルトピアノソナタ全曲演奏会第4回
全曲演奏会も今回が最後、本日のプログラムは以下の通り:
前半
 ロンド二長調 kv485
 ピアノソナタ 5番
 ピアノソナタ 11番(トルコ行進曲つき)
  以上ピアノフォルテ

後半
 ピアノソナタ 6番(デュルニッツ)
 ピアノソナタ 18番
 ピアノソナタ 17番
  以上モダンピアノ

アンコール
 kv33 ピアノのための小品(ピアノフォルテ)
 ピアノソナタ  11番 3楽章(トルコ行進曲)
 ピアノソナタ   6番 2楽章

 いよいよ最後になった今日のというよりも菊池のこのプロジェクトを象徴しているのはアンコールである。トルコ行進曲は本割ではフォルテピアノで弾きアンコールではモダンピアノで弾いた。また初日にフォルテピアノで弾いた6番の2楽章を今日のアンコールではモダンピアノで弾いたのである。フォルテピアノの音は実に繊細・可憐でありデリケートの極みである。ただ紀尾井ホールは容れ物としては大きすぎるように思う。音がホールに響くというか吸い込まれてゆくような感じなのである。トルコ行進曲のような派手な曲でもこじんまりと聞こえる。これがモーツァルトの音に近いのだろうか。

 金子陽子がフランスのラ・フェルム・ド・ヴィルファヴァールという写真でみると小さなホールでフォルテピアノ(菊池と同じワルターモデル)を弾いてベートーベンの月光やテンペストを録音したCDがアニマから出ている。これは実に楽器にふさわしく繊細であるがたとえば月光の三楽章のような激しいところでもそこそこ迫力があり楽しめた。日本のどこにフォルテピアノに耐えうるホールがあるかはわからないがフィットしたときの音は素晴らしいということがこの録音でよくわかる。しかし一方ではこの紀尾井で聴いた音が本来のピアノフォルテだよという方もおられるかもしれない。けれどもフォルテピアノはもともと王侯貴族のサロンや居間で弾かれたようなので紀尾井のようなホールでは大きすぎるのではないかという思いはどうしてもぬぐい去れない。

 一方、モダンピアノはどうかこれはすごい迫力で紀尾井の空間を震わせた。トルコ行進曲をこのように比べると全然スケールが違う。別の曲のようである。仕方がない、実物を並べたら半分くらいしかないのだから。

 しかしベートーベンやモーツァルトの時代にはこのような化け物みたいな楽器はなかったはずだから今日私たちが聴いた音は彼らには想像もつかないのではないだろうか?ではどちらの楽器で弾いたのが本当のモーツァルトなのだろう。菊池は一日で両方の楽器を弾き問題提起しているのではないか。別の見方では答えを聴かせてくれたのかもしれない。その象徴が今日のアンコールではないか?

 さてモダンとフォルテでは弾き方が違う、たとえばペダルはモダンは足で踏むがフォルテでは膝で押し上げる。ペダルが鍵盤の下についているからである。一日で両方弾くことは相当な負担を演奏者にかけたはずで菊池はそれを見事に克服し感動をいろいろな面で与えてくれた。感謝したい。

 今日の演奏で良かったと思ったのは6番、一楽章がモダンピアノで鳴り響いたとき森を抜け広々とした野原にでてきたような開放感があった。これはフォルテピアノの直後だったからかもしれない。三楽章の変奏曲も忘れられない。それと後半のモダンピアノで弾かれた二つのソナタの緩徐楽章。菊池のデリケートな音はいつも心に響く。彼女はバリバリ弾くところもよいが静かな楽章にその真骨頂があるような気がする。
                                 〆