2020年2月1日
於:東京文化会館(1階8列中央ブロック)

ヴェルディ:リゴレット
        藤原歌劇団公演・新制作
リゴレット

指揮:柴田真郁
演出:松本重孝

リゴレット:須藤慎吾
マントヴァ公爵:笛田博昭
ジルダ:佐藤美枝子
スパラフチーレ:伊藤貴之
マッダレーナ:鳥木弥生
ジョヴァンナ:河野めぐみ
モンテローネ伯爵:泉 良平
マルッロ:月野 進
ボルサ:井出 司
チェプラーノ:相沢 創
チェプラノ夫人:相沢 菫
小姓:丸尾 友香
合唱:藤原歌劇団合唱部
管弦楽:日本フィルハーモニー管弦楽団
rigoretto2

演出、指揮、管弦楽、歌手他スタッフも含めて純国産の公演である。このようなスタイルの公演としてはおそらく現在もっともすぐれて日本人にフィットした公演と云えるだろうし、全体の完成度も高い。二期会も同系だが、演出が欧州化してきており、私のような日本のオペラのオールドファンとフィットしているとはいえない。そういう意味でも藤原の今日の公演の存在意義は大きいと思う。

 藤原のいくつかの公演を毎年楽しませていただいているが、いつも感心するのはその歌唱の(合唱を含めた)緻密さと云ってよいか、それとも厳しく鍛錬されているといってよいか、日本語が浮かばないが、とにかくきちんと当該公演を徹底的、つまり手抜きをせず、に達成させてやるという強い意志を全員から感じることである。
 今日も1幕の公爵の屋敷でのご乱行も合唱、ソロが入り混じるややこしいところだが、各人のそれぞれのポジションをよく理解した動線が良く見えるのだ。こういう動線を綿密に決めると動作に堅苦しさが出るがそういうことはなくすべての人物の自発的な行動のように、卑猥な屋敷の有様を描く。しかも欧州ではやりのセックスと暴力は、極力抑えた節度ある演出も好ましかった。ようするにこの舞台は全編そういう意思統一ができているということなのだろう。

 柴田の指揮から触れるが、前奏から力のこもったもの。1幕の複雑な音楽のさばきも立派、2場への動から静への移行もスムースである。(ここで場面転換があるが音楽が止まっている間、リゴレットは衣装を衣装箱にしまう作業をする)。グアルティエレマルデを歌う佐藤につけた音楽も歌に寄り添っており、この場面を盛り上げた。ただ2幕最後の「呪いだ」と歌う部分、歌もオーケストラも少々力をセーブしていたがなぜだろう?
 2幕の「悪魔め鬼め」の急速なテンポはシャイーを思わせるが、リゴレットの心情を現わしており秀逸。そして圧巻はジルダが自己犠牲になって刺される3幕だろう。ここでのスパラフチレとマッダレーナ、そして、そこへ飛び込むジルダの歌唱と音楽の、手に汗を握る迫真力。そして最後のリゴレットの叫びの場面も秀逸だった。そして2度目の「呪いだ」はあたかもマーラーの六番の2度目のハンマーのように強烈だった。とにかく今日はこのリゴレットと云うヴェルディの中期の大傑作の持つ熱量を十分放射した柴田の指揮だった。

 リゴレットの須藤はせんだっての新国立でのジェルモンは演出もあってかしっくりこなかったので、今日はどのようなリゴレットを聴かせてくれるか期待した。正直1幕の歌唱は冴えないようにおもった。優しいリゴレットで存在感もない。モンテローネに呪いをかけられて初めて、あれ、居たんだという印象。2場の「同じ穴のムジナ」も心のひだが見えない。
 本領を発揮するのは2幕の「悪魔め鬼め」からだろう。ここでの彼の狂乱は娘を持つ親として大いに共感する。モンテローネの呪いは強力で、ジルダが凌辱されただけでなく、最後は死を迎えてしまう。ダブルなのである。モンテローネはまさに自分の娘のかたき討ちをしたのだ。演出を今いう時ではないが、今日の演出はこのモンテローネの呪いが二重にかけられていることが全曲を聴いているとよくわかるようになっている。それを歌い手も良く理解していて、悲劇性を増すのだ。
 2幕の幕切れの復讐の2重唱も相方の佐藤は非力ながら須藤と相対していて聴きものだった。昨年のボローニャのガザーレとランカトーレのあの強力な歌唱には及ばないにしても、最良の2重唱といえよう。

 ジルダの佐藤は声も細い上、声量もいまひとつ乏しいがそれを技巧で補っている印象だ。歌唱はきちんと型通りに歌われており、まとまっている。そういう意味では同様にきちんと歌う須藤との相性は良いだろう、しかし少し脱線しながら歌うマントヴァの笛田との丁々発止の面では、若々しさ、向こう見ずさと云うか、そういう若者の持つ何者かが欠けていて、例えば1幕2場の別れの場面の心の高揚と云う面では、少々不満。ただ終幕の歌唱は彼女なりに力があり聴きごたえがあった。
 笛田は久しぶりで、相変わらずのみごとな歌唱である。ただ全体のアンサンブルを大切にするこの公演の基本軸からほんの少々逸脱しているように感じる。たとえば私には終幕の4重唱は少々いこごちが悪い。笛田が抜けすぎているからである。笛田のいない最後の3重唱のアンサンブルの秀逸さと比べるとよくわかるだろう。とはいえ、日本のテノールの第一人者として、「女心の歌」は少し崩した歌い方がマントヴァらしく、多くのブラヴォーをもらっていた。
 スパラフチレは1幕2場では少々さえないが、3幕での悪党ぶりと武士道ぶりの両立は歌に出ていた。マッダレーナは4重唱と比べるとジルダを殺す場面の迫真の歌唱と演技だけで点を稼いだ印象。

 その他ではマルッロの月野が2幕でリゴレットにほろりとさせられるシーン、演出だろうが、こういう場面は他公演でも少なく印象に残るきめ細かいシーンだ。小姓の丸尾もきちんと歌われており歌い手のすべてが意味を持っているのが好印象。
 ただモンテローネはもう少し威厳があっても良いのではあるまいかと思った。

演出の松本は欧州のセックスと暴力の視覚化という演出の流れからうまく逃げている。1幕1場の公爵 邸でのご乱行も、その乱痴気ぶりを単純に視覚化するのではなく、私たち聴き手の想像の領域を残しているところがよい。
 冒頭、前奏が流れ、しばらくすると、幕が開きリゴレットが立っている。ここではシャツとズボンだけ。左肩?だったか、大きなこぶがみえる。ここまで露骨にせむしということをあらわす演出はあったかどうか?ガザーレは背中が少し丸くて見える程度だったと思ったが?その彼が舞台右手の衣装箱から道化の服を出して着始める。まるで「パリアッチ」であるが、リゴレットの心情は感じられる。
 1幕の舞台は右手に上る階段、奥が公爵の部屋、そこへチェプラノ夫人を連れ込むことを思わせる光景もある。舞台正面は貴族や武官、娼婦やら、貴婦人らが入り混じってのご乱行だ。
 2場は中央にリゴレット家の屋敷の塀である。その前でのスパラフチレとの2重唱。そしてジルダとの対面。リゴレットが去ってから植え込みに隠れていたマントヴァがジルダを口説く。
 アリアを歌いながら、ジルダ舞台左手の階段を上り。自室へ向かう。チェプラノたちは舞台中央の壁の前でジルダ強奪の策を練るところでリゴレットが登場。覆面をかけられはしごもちで、最後は騙された気付く。

 3幕は左手はミンチョ川の川岸、右手はスパラフチレのあばら家。1階は酒場のようなしつらえ、2階は野天のベッドである。
 4重唱は家の入口にリゴレットとジルダ、部屋の中にはマントヴァとマッダレーナが歌う。ジルダが戻ってきて死を決意する場面は、扉が開けられると同時にスパラフチレがジルダを抱き寄せ、おそらくマッダレーナがジルダを刺す。
 1幕、3幕について、長々と書いたが、要はト書きから大きく逸脱した部分はほとんどないといって良い。好演奏、好舞台の124分弱であった。この公演はわずか2公演、ダブルキャストというのは解せない。もっと多くの日本のオペラファンに見ていただきたい公演だ。