ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2021年12月

灼熱
「灼熱」
先の大戦の前後のブラジルでの移民間の抗争を描いた600ページを超える大作。史実に基づいているということだが、不勉強ながらブラジル日系人間ででこのような歴史があったということは全く知らなかった。それゆえ読みながら、1ページ1ページ驚愕の連続だった。

  1945年8月15日、日本は玉音放送をもって内外に敗北を認めたわけだけれど、それを認めない人々が大勢いた。それはブラジル移民であった。大使館は早々に引きあげ、公式の情報が何ら入ってこない中、たよりは、日本語のラジオ放送。それも電波状況が悪く、とぎれとぎれ。しかも玉音放送の文章はただでさえ難解。多くの日本人はあれを勝利宣言と受け取ったという。著者はそれを小説仕立てで丁寧に描いている。その当時のブラジル移民においてピニオンリーダーは元軍人将校だった。この小説では瀬良悟朗である。このような人物が各地で組織化して、日本は負けていないと主張。負けたことを認識した人々を圧迫、抗争が起き、テロまがいなことまで発生したのだ。1950年の初めまでは日本が勝った派が多数派だったというのだから驚くべきことだ。

  小説は沖縄移民の比嘉勇(12歳で、1934年に移民)と南雲トキオ(ブラジル生まれの日本人)を主人公にして、彼らを横糸にしている。彼らの12歳のころから30歳近くまでを描くが、その間の彼らの友情の機微は、移民の在り方とも密接に関係していて、本作の一つのキーポイント。著者は緻密に描いていて読みごたえがあった。そういう青春群像編とブラジルにおける戦争のもたらした歴史的悲劇編がミックスして、魅力ある作品になった。このところ面白くない本ばかりだったが、これは久しぶりにブログを書く気になった作品である。

東響

今年の締めはベートーヴェンの交響曲第九番にしようと決めていた。N響のルイージか東響のノットか迷ったが、ルイージのシンフォニーは今一つピンとこないところがあって、東響/ノットにした。正解だった。と云うのはルイージはオミクロンで来れなくなったのである。ノットは今月の定期からずっと滞在していたようで、ラッキーだった。

本日のプログラムはこの九番のみ、同じ東響でも秋山の公演だと、マイスタージンガー前奏曲がついている。

  ノットのベートーヴェンは何曲か聴いていると思うが、過去のブログでは「第三番」しか残っていない。今夜の演奏は基本的には過去聴いたこのベートーヴェンとスタイルとしては変わっていない。隈取のはっきりした、比較的速いテンポで一気に駆け抜ける英雄だった。

  1楽章から並々ならぬ気迫をノットから感じる。本日の席はRB席で、ちょうどノットを真横から見る感じで、表情まで手に取るようにわかる座席だった。最初の原始霧はもやもやしていない、すっきりしているが、これからおこる、予想もつかない事態を予感させる。主題はそれを受けて強烈な一撃である。ベートーヴェンの苦悩と闘争心を表している。音楽はそういう有様をノットの気迫で聴かせる。コーダもまだ戦いはこれからだと予感させる終わり方。
  2楽章はすさまじい闘争の音楽だ。通常のスケルツオの入れ物には入らない。巨大なハンマーを持った巨人が、突き進むそういった印象だ。ティンパニーと管弦楽が刻むアクセントの威力は強烈だ。トリオも全く落ち着かなくて、駆け抜けてしまう。ただ英雄でもそうだが主題と主題との間のつなぎの音楽は、彼は常にテンポを少し落とし、表情を和らげる。ここでもそうで、トリオに移行する直前の表情は、この巨大なハンマーが見えなくなる。

  アダージョはこれは決して安息の音楽、天国の音楽とは言えない、せいぜいちょっと一息といった塩梅で聴き手を休ませてはくれない。ここまでの約40分間の緊張感は相当なものだ。これこそライブの威力と云うべきか?なかなかCDを聴いていてこういうレベルまでには到達しない。

  4楽章のレチタティーボはまさにそのように入り、そして「おお、友よ~」と甲斐栄次郎が歌いだして、音楽はやっと目的地の到達した気分になる。
  今夜の独唱は以下の通り
  ソプラノ:盛田麻央
  メゾソプラノ:金子美香
  テノール:小原啓楼
  バス:甲斐栄次郎
  歌い手は指揮者から見て、左手からソプラノ、バス、テノール、メゾ・ソプラノと並ぶ。

  合唱は新国立劇場合唱団。オルガン席の前、サントリーホールのP席に一人おきに位置する。総勢70名弱。合唱はちょっと少ないかなあと思ったが、そのようなことはなく、オーケストラに負けていなかった。

  この第4楽章はノットはかなりテンポを変化させ、目まぐるしく音楽は変わるので聴き手は決して油断できない。凄まじいのはテノールが「FROH~」と歌いだしてからだ。ここでの音楽は小原とノットの真剣勝負、テンポはどんどん上がるが、小原はくらいついて行く。凄まじい場面。終結部の畳みかけも圧倒的。プレシティッシモに入る前に、一息入れるのも、この版の特徴だろう。演奏時間は62分。一息に駆け抜けたような、これも現代に生きる一つの典型のような演奏といえよう。

  カラヤンの第九で産湯を使った私には、今夜のような演奏を最初に聴いたときには、青天の霹靂であった。古楽ではノリントン/ロンドンクラシカルプレイヤーズ、モダンオーケストラではジンマン/チューリヒ・トーンハレの演奏がそれである。いずれも演奏時間は今日のノットと同じくらい早い。ジンマンは今では当たり前のベーレンライター版(ジョナサン・デルマーレ校訂)を使用している。
  速度記号の指示を忠実にと云うのがこの2つの演奏の特徴である。かつて聴いてきたカラヤンやフルトヴェングラーとは別物と云うくらい違う。
  今夜は1楽章と2楽章はほぼ14分、3楽章は13分、4楽章は21分である。合計62分。
カラヤンの演奏は67分(これでもその当時は速い演奏と云われていた)、フルトヴェングラーのバイロイトでの演奏では77分。いかにノットの演奏と違うのかがわかる。しかし今日のベートーヴェンの第九の標準はどうも大体ノットと同じであるような気がする。
 我が家のCDでは、一番短いのがガーディナーでなんと59分である。我が家のCDでいうとティーレマンが例外でフルトヴェングラーに近い。あとは大体62~3分の演奏時間である。
  このスタイルで一番面食らったのが、1楽章とスケルツオがほぼ同じ時間と云う事。とにかくスケルツオが遅いのだ。それとアダージョが速いのだ。いまではもうあたりまえで何とも思わなくなったが、最初はどうもしっくりこなかったのを覚えている。ノリントンによるスケルツオ部分を初めて聴いたとき、なんじゃいこれは、何か間違っていないかと、何回も聴きなおしたくらいだ。

  今夜のソリストについて一言、バスの甲斐の存在感を感じた。おそらく4人の中では最もパワーがある。小原はノットとのバトルで頑張ったが、オペラではもっとのびやかな声だと思ったが、案外と平凡な声で意外だった。女声陣は少々弱く、オーケストラの中に呑み込まれそうな印象だったが、ノットの気迫が乗り移ったのか、後半は見事に立ち直った、特に盛田は最初は蚊の泣くような声だったが、最後の4重唱では、持ち直し、見違えるような透明でかつ浸透力のある声で、ノットに応えた。

  指揮者がバトンを下ろすか下ろさないかの瞬間で、拍手。最近ではこういうのは珍しい。大体指揮棒を下ろして、指揮者に一呼吸を与えてから拍手と云うパターンなのだが、感激したのだろうか。ただこの演奏はレコーディングしていたので、プロデューサーはがっかりしたのではなかろうか?

  終演後ノットが登場、合唱団と「蛍の光」を演奏。オルガン席にブルーの照明を当て雰囲気を出していた。後半はどんどんホールの照明を落とし、最後は合唱団はペンライトを持ち、そして照明はノットのみに当て、場内はほぼ真っ暗と云う状態で、激動の2021年にお別れをした。
  楽団員が退席した後、ノットが戻るのはお決まりだが、今夜はノットも名残惜しそうに手を振っていた。
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 〆                        

2020年12月、チューリヒ歌劇場ライブ公演がNHKBSプレミアムで放映された(12/12)。この日は「ホフマン物語」と「シモン・ボッカネグラ」とのダブルヘッダーだった。録画しての視聴である。
ホフマン物語についてはすでに述べたとおりである。あの絢爛豪華な「ホフマン物語」にくらべると「シモン・ボッカネグラ」は陰鬱な印象だ。これはヴェルディとオッフェンバックの違いもあるが、演出の方向の違いが大きいと思う。

  「シモン・ボッカネグラ」初めてをライブで見たのはスカラ座の初来日の時だ。その公演と同じメンバーで録音もされており、今でも忘れられない。
   指揮:クラウディオ・アバド
   シモン・ボッカネグラ:ピエロ・カプッチルリ
   フィエスコ/アンドレア:ニコライ・ギャウロフ
   アメーリア:ミレルラ・フレーニ
   ガブリエレ:ヴァリアーノ・ルケッティ
なんともすごいキャストだ。この初来日の時には他にオテロ、ボエーム、セヴィリアの理髪師、ヴェルディのレクイエム、が演奏され、指揮はアバドとクライバーが振り分けた。もう後にも先にもこんな豪華なメンバーでの引っ越し公演はない。

  「シモン・ボッカネグラ」はヴェルディの中でも決して人気のある曲ではなかったが、この公演とCDによって注目されるようになったといって良い。なにせ、このト書きは実に難解で最初は何回聴いても理解できなかった(失礼)。プロローグがあって、その後第一幕になるが、その間に25年たっているという設定であるが、それによって、シモンの政敵フィエスコがアンドレアになり、行方不明のシモンの娘がなんとアンドレアの娘となり、アメーリアと云うのだ。この時代差をどう舞台でわからせるかというのが演出上の難問だろうが、今回のチューリヒの演出では、ほとんどこの25年の差違を外面的には表していない。ほとんど変わらないままフィエスコもシモンもパオロも登場する。まあNHKBSプレミアムもさすがで、字幕でその説明をしてくれているので、初めて視聴する人でも良くわかるようにはなっている。
  ただ、今回のこの公演は無観客で最初からTV]やDVDで見ることを前提で作られているので、劇場で面食らうということはないだろうが?シモン、チューリヒ
すでに、上記のようにDVDで発売されている。なお、この公演はオーケストラはピットに入っていない。リハーサル室での演奏を、舞台とミックスさせて映像にしている。しかし聴いた限りでは全く違和感はない。たいした技術だと思う。

  さて、前置きが長くなったが、キャストは以下のとおりである。
  指揮:ファビオ・ルイージ
  演出:アンドレアス・ホモキ
  シモン・ボッカネグラ:クリスティアン・ゲルハーヘル
  アメーリア:ジェニファー・ラウリー
  フィエスコ/アンドレア:クリストフ・フィシュサー
  ガビリエーレ:オタール・ジョージキヤ
  パオロ:ニコラス・ブラウンリー
  ピエトロ:レント・マイケル・スミス
  管弦楽:フィルハーモニア・チューリヒ

  まず演出から、読み替え演出である。舞台は14世紀ではなく、現代である。だから服装でドージェ(総督)かどうかはわからない。舞台上はドアが無数にある建物で、舞台が回ることによって部屋がくるくる変わるようになっている。フィエスコの家だったり、1幕のグリマルディ家の屋敷だったり、2幕の会議場だったりする。したがってこのオペラでいつも感じるような海の香りはほとんどしない、というよりあまり気にしていない。気にしているのは、ドラマの登場人物の心理描写である。歌も演技も基本的にはそれに捧げているので、外面的な、歴史劇、政治劇的な面白さは味わえない。
  ただわずかに、海を感じさせるのは、アメーリアの幼少時代の思い出で乳母のジョヴァンナと一緒に過ごした浜辺が、小さなボートとともに出てくることである。
シモン、チューリヒ3
(三幕の映像である、中央がシモン、右がガブリエーレと婚礼を上げたアメーリア、左がフィエスコことアンドレア)

  まあこの映像で全体の雰囲気は分かると思う。

  三幕ついでにこの場面は幕切れである。中央がシモンで毒が回り瀕死の状態。右の子供がアメーリアの子供のころ、左の女性はシモンの妻マリア、手前がフィエスコである。死出の旅路を描いている。
シモン、チューリヒシモンの死


シモン、チューリヒ9
これも三幕。パオロ(左)が処刑場に引き立てられるときにシモンに毒を飲ませたと、フィエスコに告白する場面。
  三幕の映像ばかりだが、ほかの映像はあまり動きがなくつまらない。要するにこのドラマはなにかしら心に鬱屈したものを持っている人人ばかりなのである。
  シモンは総督になったが、生き別れの娘を探し求めている。そして早逝した妻を忘れられない。
フィエスコは政敵のシモンを倒そうと、アンドレアと名を変え身を潜めている。娘を奪った男と云う意味でもシモンは二重に憎いのである。アメーリアは自分の出生を隠している。ガブリーエレを愛しているが、ガブリーエレはシモンの政敵の一人である。しかもアメーリアにはシモンの側近のパオロが狙いを付けている。もうこれは現代劇と云っても良いだろう。ホモキはそういう人間模様を手を変え品を変えわからせようとしている。そういう演出である。

  音楽は、ルイージの指揮が素晴らしい。特に印象に残ったのはプロローグや3幕のシモンとフィエスコとの2重唱や、2幕のパオロが呪いをかけられたシーン。いずれも劇的効果がすさまじく、肌に粟を覚える凄味を感じさせる。ヴェルディの音楽の筋金入りぶりをルイージに改めて教えてもらった演奏だった。
  演奏時間は140分。なおアバドのCD(1977年)の演奏時間は136分である。

  シモンのゲルハーヘルは初役らしい。演出者の意図を汲んで、このシモンはまず総督と云う権力者の姿はあまり表(声)に出さない。その柔らかい歌いっぷりは、心に抱えている苦悩をさらけ出している。そういう意味では素晴らしい歌唱である。
  フィエスコはそれに反して、復讐の鬼という役柄を声に出している。三幕でシモンと和解するまで、シモンを憎む、そういう心理が伝わる。
  アメーリアはそういうなかでは、いかにもヴェルディのオペラのヒロインらしく、歌う。1幕冒頭の「夕闇に星と海は微笑み~」ののびやかな歌唱は、アメーリアの人物を明確に表現していて、感動的だ。
  パオロはもう少し声が悪役らしく響いて欲しい。ガブリエーレはこの心理劇の中で、少しその立ち位置があいまいな歌唱と演じ方を感じた。

  久しぶりに「シモン・ボッカネグラ」の舞台に接したが、やはりコスチュームプレイで見て見たいオペラだ。〆

今年2021年の9月19,21日、ハンブルグ国立歌劇場でのライブ収録した公演である。ドイツはおそらく第5波と6波ちょうど間くらいだろうか、会場は前4席ほどを空席にし、後方は一つ置きの座席になっていて、満席にはしていない。聴衆は見た範囲では、全員マスクを着用していた。

  この公演、いつか見てやろうと録りだめしたものだが(12日録画)、14日にちょっと見て見ようと見始めたのだが、面白くて止まらない。あれから通算で通しで2回、3幕と4幕は3回も見てしまった。

  何がそんなに面白かったのだろうか?まず歌い手、とナガノ氏の作り出す劇的な音楽、そしてシルクドソレイユの演出をしているパスカ氏の作り出す舞台である。そしてこれは版の多いこの曲の「ケイ&ケック」版による公演であったことも見逃せない。
  ケント・ナガノは1996年にはリヨンオペラでこの曲をケイ&ケック版(正確にいうとケック版)ですでに録音しており、今回は相手は現在の主兵のハンブルグ歌劇場だが、この版を自家薬籠中にしており、それの映像化と云う意味で貴重である。
  「ホフマン物語」は未完で終わった故に当初はギローが編纂したギロー版が主流だったが、その後新たに楽譜が次々と発見されていて、今日では多くの版が存在する。今日一般的なのはシューダンス版(3幕と4幕が入れ替わったもの)、エーザー版およびこの2つの版がミックスしたものであるが、これにケイ&ケック版が加わって、聴き手にとっては実にややこしいことになっている。一方版はあっても音楽はかなり自由に指揮者にゆだねられており、特に現在主流である、エーザー版とシューダンス版のミックスしたものがそうである。なおこのミックス版ではパリオペラ座のライブ公演がロバート・カーセンの演出、ニール・シコフのホフマンの名演があるのでこれは必見である。(2002年/バスティーユ)

  さて、のっけからわき道にそれたが、まずキャストを見て見よう。

指揮:ケント・ナガノ
演出:ダニエレ・フィンジィ・パスカ

ホフマン:バンジャマン・ベルネーム

オランピア、アントニア、ジュリエッタ、ステッラ:オルガ・ペレチャッコ
ミューズ、ニコラウス:アンジェラ・ブラウアー

リンドルフ、コペリウス、ミラクル、ダッペルドット:ルカ・ピザローニ
アンドレ、コシュニーユ、フランツ、ピティキナッチョ:アンドリュー・ディッキンソン

アントニアの母親:クリスティーナ・シュターネク
ハンブルグ国立歌劇場管弦楽団、合唱団

  この配役をみると、一人が複数役を演じているのが一つの特徴である。しかもここではペレチャッコがホフマンの4人の恋人を歌い分けているのが大きな特徴になっている。新国立劇場の公演でもそうだが、大体ホフマンの恋人役は分業されていることが多いので、このペレチャッコの歌唱は注目の一つだ。
  男声陣は大体一人数役と云うのが他の劇場でも標準になっている。上記のオペラ座の公演ではブリン・ターフェルがリンドルフらを歌い、あの懐かしいミシェル・セネシャルがコシュニーユを歌っている。

  さて、音楽だが、まずナガノの作り出す音楽は、もうオペレッタというような日本語でいう喜歌劇で一世風靡した作者の作品と云う枠を超えている。なるほど歌詞を聴いているとダジャレの連発でフランス語の分かる人にはゲラゲラ笑えるだろうが、そういう部分を取り除けば、これは人間ドラマ、つまりホフマンが人間として成長してゆく過程を描いている劇的物語なのである。特にナガノの演奏はアントニア、ジュリエッタ、そしてエピローグの場面で、驚くべき迫力で聴き手を捕らえる。彼の1996年の録音のCD(ケイ版)はこの公演に比べるとさらに起伏の激しい演奏になっている。このCDも必聴盤である。
 なお、版によって演奏時間は大幅に異なるので参考でしかならないが、ハンブルグの公演時間は174分である。

  さて、歌い手を見て見よう。ホフマンはほぼ出ずっぱりの大役だが、ベルネームはいささかのゆるぎなく、ホフマンの愛の遍歴を歌い上げた。1幕(プロローグ)の「クラインザックの歌」から、エピローグの「娼婦フリネをたぶらかすために」まで見事に歌い切った。
  ペレチャッコは4役の大役。エーザー版などでは黙役のステッラだが、エピローグでは小さなアリアもあり、「心の灰からあなたの~」の感動的歌唱にも加わる。4役の中では特に劇的なアントニアとジュリエッタが素晴らしい。そのなかでもアントニアが冥界から呼び出された亡き母、ミラクル博士と歌う第3幕は本公演の白眉といえよう。なおジュリエッタの場面ではこの版によりアリアが追加(キューピッドが云った~)されているなど、歌手への負担は増えているがペレチャッコの熱演が光る。


  ピザローニは役どころはまさにメフィストフェレである、ホフマンの鏡像(魂)を抜き取ったり、アントニアの母親を手先に使ったり、その本性は明らかである。いろいろな衣装を着るが特徴的なのは、異様に「長い爪と指」のメークである。まさにメフィストの爪ではあるまいか?
 彼の歌唱はターフェルほど威圧的ではないが、しかしミラクル博士の歌唱などおどろおどろしさが十分で、見事に4役を歌い分けていた。なお、4幕の有名なアリア「輝けダイアモンド~」は似たような歌になっているが、有名な曲とは異なる歌になっている。版によるのだろう。
  ディッキンソンも4役だが、フランツは少々演技が物足りない。若々しいのは良いが、それだけではこの場の歌唱は物足りない。ピティキナッチョが隠れたジュリエッタの恋人を演じ、これは良かった。

  さて、もっとも素晴らしかったのはブラウアーのミューズ/ニクラウスである。彼女の歌はどれも素晴らしいが、2幕の「見ろ、震える弦の下で~」は音楽への情熱を歌い上げた名唱である。4幕のジュリエッタとの2重唱(舟歌)やエピローグの「心の灰からあなたの~」などいずれも一級品の歌唱だった。

  次に演出を見て見よう。劇場から何枚かの公開写真が出ているのでそれに沿って進める。
この演出家はシルクドソレイユの演出も手掛けていて、アクロバティックな要素もこの公演に導入して、幻想的な舞台を作っている。ケイ&ケック版の特徴だろうが、今まで弱いといわれたジュリエッタの場が強化され、演出も今まで見たことがないもの。シュレミルが恋敵と思っていたのが、実はピティキナッチョが恋敵であり、最後、ホフマンはピティキナッチョを刺し殺してしまう場面は驚いた。
さて、以下舞台映像である。
1.1幕のルーテル酒場、中央がホフマン、左手上がホフマンの分身、クラインザックを演じている。彼はアクロバット演技で吊り下げられていて、左右に動く。この分身は4幕のホフマンの鏡像が盗み出される時には、舞台から左上方に消えてゆき、ホフマンの鏡像が盗まれたことを描いている。

ホフマンクラインザック


ルーテル酒場
(1幕ルーテル酒場の全景)

2.2幕のオランピア。箱のようなものはオランピアの動力と制御装置があり、箱の右手のゼンマイで動く仕掛けになっている。オランピアが長大なアリアを歌うシーン、途中でエンジンが切れると、ゼンマイを回して元に戻るという塩梅。ただこの場面はずっとこの箱の上で演技するため印象としては、ちょっと遠いように感じて、また動くスペースも少ないので、動きが乏しくてあまり面白くない。パリオペラ座のランカトーレのオランピアと比べるとよくわかる。前方にいる人々はお客人だが皆白衣を着ていて、ちょっと意味不明。
ホフマンオランピア

3.3幕、アントニア、アントニアは蝶々の標本に囲まれた円筒形の小部屋に隔離されている。アントニアはあたかも蝶々の標本のように、蝶々の姿をしている。ミラクル博士の手はメフィストフェレの手である。

ホフマン幕3幕 
下は同じく3幕。右手は母親の亡霊。母親は蛾のようである。羽を常にバタバタしている。右手にはどういうわけかホフマンとニクラウスがこの光景、つまりミラクルと母親がアントニアに歌うよう強要している場面を傍観している。
 左手上は母親の分身である。ついでながら写真にはないが、ミューズの分身が各幕いろいろな場面で右手から左手の空中を遊泳している。最も印象的なのはエピローグの場面、ニクラウスのミューズへの早変わり(これはまるで手品みたいで驚かされる)のあと、「心の灰から~」を歌いだすと、分身がミューズと同じ衣装(真紅)を着て、空中を舞う。素晴らしい幕切れだ。毎日見て(聴いて)いるが全く飽きない。

ホフマン3幕

4.4幕、ヴェネチアのジュリエッタの屋敷、天井は鏡、舞台中央部には獅子などの彫刻が置いてあり、その舞台は絶えず回っている。奇妙なことにこの屋敷の客人はみな「パパゲーノ」か笑い飯の「鳥人」みたいな衣装を着せられているのは、仮装パーティーということだろうか?設定はそういうことで18世紀の宮廷のようだ。中央はジュリエッタ、左手には鳥人たち。奥が鏡で舞台が移っている。この幕のキーワードの鏡像を暗示しているのだろう。
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ホフマンジュリエッタ
上の写真は、同じく4幕、左手にはニクラウスが心配そうに座っている。右手にはシュレミル、赤い衣装のダッペルトット、その横に座っているがピティキナッチョ。中央はホフマンとジュリエッタ。取り囲むのは鳥人。幻想的な舞台ではある。
 なお、全体の衣装であるが特に1幕では奇妙な洋服、例えば半分ウエイトレスで半分普通の服など一人を二人に見せるような服を着せているのはちょっと理解不能だった。

  まだまだ書き尽くせないが、この公演の一端は覗けたと思う。しばらくホフマンはこの映像を見続けるかもしれない。それくらい私にとってはこの公演は「ホフマン物語」の決定版と云える。このような公演こそ引っ越してきてほしい。無暗な読み替えが欧州のオペラ界を蹂躙している中、この舞台は一つの光明だろう。〆

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「ミカエルの鼓動」
週刊文春で連載していた時から注目していた作品である。単行本になるのを楽しみにしていた。
これはミステリー医療ドラマの形をとっているが、中身は決してそうではない。むしろ患者に向き合う医師たちの医療に対する信念、そしてそういう信念を育てた、彼らの半生、そういういったものに向き合ったニューマンドラマともいうべき小説である。
  主人公はAI医療ロボットのエクスパート西條である。彼は大学病院の将来を医療ロボットに賭けていて、院長の支持を受け時期院長を目指したいた。しかし院長は同じ心臓外科のエクスパートの真木をドイツの大学から招聘する。二人のライバルは12歳の少年患者の治療方針で激突する。
  ミステリー仕立ての部分も面白く、またそれぞれの人物象の厚みが読んでいても感じられ、リアリティの感じられる小説だった。




  もう1作は伊東潤の最新作「琉球警察」

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戦後間もないアメリカ占領下の沖縄を舞台にした警察小説と思いきや、そう単純でないところがこの小説の面白さ。
  沖縄占領していた米軍が恐れたという人権政治家瀬長亀次郎を縦糸にし、彼にまつわる人物たちを周りに配したこれも歴史小説と云えようか?瀬永は沖縄の独立を目指して市長にもなった。米軍は彼を共産主義者とみなし日干しにしたが、実際の瀬永は後に共産党に入党するも、戦後間もない昭和27年ごろは、今日でいう人民活動家であり、共産党とは関係がなかった。市民には絶大の人気を誇った人物である。

  さて、この瀬永をとりまく主人公は奄美出身の東貞吉である。沖縄人からすればよそ者の貞吉は苦労してできたばかりの琉球警察学校を卒業、警察官になるが、彼の任務は公安として政治犯瀬長を監視することだった。その他彼の同僚や上司たち、沖縄やくざとの邂逅などのエピソードを織り交ぜ、貞吉が公安でありながら、瀬長の主張に共鳴してゆく様を描いて行く。
  瀬長が主人公か貞吉が主人公かが少しボケるが、この戦後の混乱期の沖縄の状況を描いた力作である。

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「孤老の血レベル2」
突然映画になるが、この作品は柚月裕子原作になっているが、彼女の著作にはこのストーリーはない。「凶犬の眼」と「暴虎の牙」は「孤老の血」の関連作品だが、本作品とは直接関係ない。まあそれはそれとして、これはLEVEL2となっているが、LEVEL DOWNである。
 暴力シーンはLEVEL UPしているが、肝心のストーリーがリアリティに乏しく(詳しく書くとねたばれになるので書かないが、みていただけばわかる)。日岡(松坂桃李)が静謐の世界にしたやくざの世界を、元に戻そうという力が働いたといっておこう。それに鈴木亮平扮する五十子組の後継者(自称)との戦いが注目点になっている。ここでは「孤老の血」のやくざの抗争は後ろに追いやられている。サイコパスと癒着刑事の争いなんて面白くもなんともないではないか?暴力シーンは手段であって目的ではない。大上と日岡のバディぶりは、今回の梅雀扮する公安相手では生臭すぎて白々しい。
 映画評では評判をとったようだが、私はとてもつまらなかった。


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