ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2021年08月



ネットフリックスオリジナル映画。サスペンスだが一種の謀略物ともいえるが、主人公レイチェル(イザベラ・メルセド)の成長物語でもあり、親子の愛情を描くホームドラマでもあり、110分に詰め込むだけ詰め込んだ映画だ。

 クーパー(ジェイソン・モモア)は3人家族、妻と娘のレイチェルだ。妻は末期がんだが、薬が高価であり、クーパーは家を抵当に入れたり、苦心している。そこに、ジェネリックで安い薬が発売されることになり、大いに期待するが、製薬会社の財政的理由(?)で発売中止になる。やがてその後まもなく妻は死亡してしまい、クーパーは製薬会社を大いに恨むのだった。そして、ある日新聞記者から製薬会社の陰謀を打ち分けられる。しかしその後その新聞記者とクーパーは暴漢に襲われ、新聞記者はなくなってしまう。クーパーは復讐を誓うのだった。

 しかし、その後この映画は奇想天外な展開を用意している。そこのみが唯一面白い映画だ。それをのぞけば凡庸なサスペンスといえよう。



清王朝の西太后の時代から始まった、「蒼穹の昴」、それはシリーズになって、「珍妃の井戸」、「中原の虹」、「マンチューリアン・リポート」、「天子蒙塵」、そして本作「兵諫」となりこれで完結かどうかはわからないが、そういう流れの作品である。
 このシリーズでは「蒼穹の昴」が最高の傑作である。読み始めたら止まらないとはこういう作品を云うのだろう。そして「中原の虹」と「天子蒙塵」がそれに続く大作で、いずれも面白い作品だ。「珍妃の井戸」と「マンチューリアン・リポート」それらに比べるとサイドストーリー的な作品だ。

 本作の「兵諫」もサイドストーリー的な作品のように感じる。「蒼穹の昴」のような大河ドラマではなく、ある時、つまり1936年を切り取ったような作品だからだ。1936年は日本にとっても中国にとっても大きな事件が起きた。それは2・2・6事件と西安事件である。「兵諫」ではこの二つの事件にはつながりがあるということを描いている。「兵諫」とは何か、兵をあげてでも王の過ちを諫めるという意である。これは「天子蒙塵」の第1巻の冒頭で張学良が兵諫を行うということが予言されている。おそらくその数行の予言の文章をベースにこれだけの小説を書いたということだろう。2つの事件を結びつける発想のユニークさに感心した。〆



珍しいイラン映画、それもイスラム革命前のパーレビ国王時代を舞台にしている。刑務所が舞台で、刑務所にはパーレビ国王の肖像写真があり、その刑務所は国王妃の乗る飛行機の滑走路の拡張のために取り壊しになるという設定である。原題のWARDENとは刑務所長である。主人公はその取り壊しになる刑務所の所長で、移設の手続きを行っている。過去の功績で彼は異例の抜擢を受け、警察署長を内示を受けている。とにかくこの移設を無事に終われば、彼にはバラ色の人生が待っているのだ。

 しかし、囚人の移動の際に、一人の囚人が行方不明になる。アフマドと云う死刑囚だが、本人は無実の罪だといっている。美人のソーシャルワーカーが絡んで話はややこしくなるが、要はアフマドはこの刑務所内にいるらしい。

 所員総動員でアフマドを探すがみつからない。アフマドは脱獄したのか、それともまだ、刑務所内に潜んでいるのか?ソーシャルワーカーは行けを知っているのか?などなど、刑務所長の苦悩が深まる。
解体工事までの期限は17時である。

 アフマドの捜索が全編描かれるが、その中に、パーレビ国王時代の政治体制について、細やかに挿入しているイベントがあの、王政時代を思い起こさせる。なかなか凝った映画であり、最後は気持ちがさわやかになる一編である。


もう1本は日本映画の「ファーストラブ」


これは少々がっかり映画だ。それはこの映画のモチーフは幼児が性の対象になるというというところにある。しかし本作品ではその描き方がオブラートに包まれたみたいで、隔靴掻痒の感があるからだ。
 父親殺しの女子大生とその女子大生のカウンセリングをおこなう、主人公の心理療法士の北川景子は、子供のころその対象になったというトラウマがある。この筋立ては良くある話だけれども、筋としては悪くない。しかしこの陰惨なモチーフが、ラブロマンスに薄められてしまうところが物足りない。原作を読んでもいないのに云うのもなんだけれども、原作はこの映画のムードとはもしかしたら違うのかもしれない。筋立てだけでこの映画を見たが、つくりが甘めで少々がっかり。万人受けするかもしれないが!




今年後半の芥川賞、直木賞の中で、最も印象的かつ面白かった作品だ。澤田氏がいまごろ直木賞と云うのも驚きだったが、別に賞にならなくても、多くの人を引き付ける小説だろう。

 それは、主人公の河鍋暁斎の娘「とよ」(暁翠)に対して、この作品を読んでいて、あたかも自分がとよになったかのように、感情移入できるためだろう。主人公に読み手がのめりこめない小説と云うのは、私の定義では、つまらない小説だ。

 偉大な画家、河鍋暁斎、鹿野派の画家と云われたが、そこから大きく逸脱して、まったく新しい日本画の世界を開拓した。その彼も明治22年、病を得て死を迎えている。その当時200人ほどの弟子がいた河鍋派の行く末に誰もが不安を持っていた。それは長男の周三郎は幼くして養子に出されていたが、17歳の時に養家から河鍋家に戻って、父に師事して絵画を書き始めた。しかし、別居をしていて、独自の道を歩んでいて、河鍋家をどうこうする意思がない。号は暁雲、画才としては暁斎に近いものを持ってた。
 その他、弟妹がいたが、いずれも河鍋家をどうこうする人物ではなかった。勢い、5歳の時から父親に師事して、父が亡くなる直前まで、ともに画業に励んでいた、とよの双肩に河鍋家の将来がかかっていたのであった。

 本作は連作小説のように、ほぼ5~10年ごとに、河鍋とよとそれに関わる人々とのかかわりあいを描く。
 そしてその背景に存在するのは、暁斎という巨大な影。とよは父であるが、師であるという暁斎との2重の関係を、吹っ切れない。師である前に、ほかの子供のような父親としてなぜ存在てくれなかったのか?父である前に師であるのはなぜか?終生、悩むことになる。兄の周三郎も同じ悩みを持ったはずだが、先に亡くなり、結局河鍋を名乗る画家として残ったのはとよだけだった。とよの人生を追うことのスリリングさを味わってほしい。〆



酒、薬、女そして挙句の果てははずみとはいえ人を殺めてしまった、あらゆる悪に染まった、青年ダニエルは少年院に入れられる。そこで出会ったトマシュ神父の私淑し(本音かどうかは不明だが)、神父には自分は司祭になれないか、相談するが、犯罪を犯した者は、なれないといわれた。その後この少年院には彼が殺した少年の兄が、入院してきて、彼を仇として狙う。トマシュ神父はダニエルの生命を心配して、仮退院を申請。トマシュは地方の製材所で働くことになる。

 しかし、彼はその村の教会に潜り込み、司祭が病気がちで入院をするということから、司祭代理を引き受ける。最初は見様見真似で怪しげだったが、次第に説教や告解などで、独特の話をすることにより、村人を引き込んでゆく。そして、村ではタブーだった7人が亡くなった交通事故にメスを入れるようになってから、次第に足元が危うくなってくる。

 なりすましの司祭に、信徒たちが従うと云うのは、オカルト集団のようであるが、ダニエルの信仰は一見カソリックの深く帰依しているように見えるところがみそ。悪(ワル)だったダニエルの性善説を信じるのか、騙された村人の無知を笑うのか?ラストまでわからない。
 アカデミー賞外国賞ににノミネートされた作品。


 次は、打って変わった、アクション映画。


ライアン・フィリップ主演、プロデュースにも参加、力の入った作品。「デルタ・フォース」といえば
「チャックノリス」だが、本作は2020年版。

 それにしても、ライアン・フィリップスともあろう人が、よくもこのようなどうしようもない作品を作ったなあと、つまらないことに感心した。
 テーマはアメリカにおける銃器規制にかかわる政争である。デーヴィス少佐(フィリップ)はデルタ・フォースの隊長、クリスマス休暇で、息子と別荘で過ごそうと、大学の寮に迎えに行く。
しかし、そこには、銃器規制派の判事の娘が、いて父親の派遣した車を待っていた。しかし何者たちがその娘の誘拐を企てる。それをデーヴィス少佐が息子の力を借りて、対抗するという内容だ。まあそれはいいのだが、政争のいかにもありえそうもないような有様。粗末なシナリオ。
 そしてアクション映画で大切な、一つ一つの場面の丁寧なつくりがおよそみえない。いくらでも弾が出てくる自動拳銃、弾倉を代えるそぶりも見せない不思議さ。格闘シーンのいかにも作り物めいた人物の動き。大体こういう荒唐無稽の作品は、話とは別に、細部を徹底することによって、生きてくるのだが、そこが全く忘れ去られている。お粗末の一言。


  

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