ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2021年05月



今朝(5/27)コロナワクチンをうってきた。大規模接種ではなく、近所の病院だ。皮下注射は痛いので嫌いだが、今日はちくりともせず、あっという間に終わってしまった。いまのところ左腕全体が少しだるい程度。次回の予約もでき、なんとか6月中には免疫ができることを祈っている。そうすればある程度びくびくしないで音楽会やジムにも行けることになるだろう。

 実は、間抜けなことに(話は全然違いますが)、パレルモ・マッシモ劇場の公演がすでに再延期になったことを昨日知った次第。なんとも残念だったが、曲目を一部変えて来年(22年)にそのまま持ち越しだそうである。「ボエーム」と「シモン・ボッカネグラ」の二本立てだそうで、シモンはキャストは未定である。ボエームはゲオルギューが来る。今秋のNBSの招聘もどうなるか?やきもきしているところだし、新国立の2021-22もチケットの案内は来て申し込んだが、まだ梨のつぶて、今日(5/26)、会場で事務局の方に聞いたら、コロナの状況をもう少し見てから、発券しますとのことだった。オペラを含めてクラシック音楽界の世界の皆さんは私たち聴き手以上に、やきもきしていることだろう。


 さて、ルチア以来の新国立だ。緊急事態宣言下で不安は一杯、都知事の「外出自粛」のコメントが、なんとも効いているのだ。今日も電車の中を見渡すと、まず老人はほとんど見かけなかった(西武線)。ただ会場へ着くと私と同年配の人たちばかりがわらわらと入場。ほっと一安心だ。
 オペラは私にとって唯一の愉しみと云うことで、このドン・カルロは外せなかった。逆に渋谷を通らないとたどり着かない、目黒パーシモンホールでの「セルセ」(二期会)は涙を呑んであきらめた。(22日)

 そのような中聴いたドン・カルロ、このオペラの中核をなす6人の歌手の内3人が入れ替えと相成った。まずフィリポ2世がミケレ・アルベルトゥージから妻屋秀和へ、ドン・カルロがルチアーノ・ガンチからジュゼッペ・ジパリへ、そしてエリザベッタはマリーナ・コスタ=ジャクソンから小林厚子へ変更になったのだ。まあ藤原歌劇団のようなスタイルになったということだ。
 しかし、6人そろわなければ公演が難しいという中、よくぞここまでまとめたものだと、スタッフの皆さんに敬意とお礼を申し上げたい。世界の一流の舞台、そして私の持っている5セットのCDから比べれば、それらを凌駕しているとは決して言えない、パフォーマンスだったが、しかしこのヴェルディの名曲「ドン・カルロ」の音楽の素晴らしさは十分に感じ取れたのではあるまいか?少なくとも私はそうだった。
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 キャストは以下の通り。

指揮:パオロ・カリニャーニ
演出:マルコ・アルトゥーロ・マレッリ

フィリポ2世:妻屋秀和
ドン・カルロ:ジュゼッペ・ジパリ
ロドリーゴ:高田智宏
エリザベッタ:小林厚子
エボーリ姫:アンナ・マリア・キウリ
大審問官:マルコ・スポッティ
修道士:大塚博章
テバルド:松浦 麗
レルマ伯爵:城 宏憲
天よりの声:光岡暁恵

管弦楽、合唱団:東フィル、新国立劇場合唱団

 本演奏における指揮者の役割は大きい。つぎはぎだらけの歌い手をどうまとめ上げるという意味でである。
 このマレッリの舞台は、6メートル四方、厚さ1メートルほどの石壁(実際は発泡スチロールか)を何枚か組み合わせて場面場面の構成を組みたててゆく。したがって、と書きにあるような、宮廷やら、庭園やら、宮廷内の部屋やら、教会やらは聴き手・観衆はじぶんでイコライズしなくてはならない。しかしそういう冷たい石造りのような舞台の効果は、このドラマの肝は心理劇にありとみなしているかのようである。それは一部当たっている。つまりこのドラマの主人公のうち、すくなくとも4人は悩みを抱えているのだ。なお、この演出は今回で3回目である。前回は2014年11月30日。

 まず、国王フィリポは妻と息子のカルロとの不倫を疑って、嫉妬で夜も眠れない。大審問官にいって殺してしまおうと思うくらいである。カルロはフィリポの後継者ながら、エリザベッタががわだかまりになって,父親と敵対している。エリザベッタは貞淑な妻だが、こころの中ではカルロを忘れることができない。エボーリはカルロを愛しているが、実はカルロが王妃に恋していることを知り、嫉妬に狂う。この4人がからむ重唱は、彼らの心の葛藤がそのまま歌になり、その心理を、声でどう表現するか、つまりこのオペラの一つの側面は、そういう心理劇なのであり、この舞台の寒々とした閉鎖的な世界はだれもがそこから抜け出せない、そういう状況を表している。

 しかし、このオペラは一方では宗教対国王、フランドルに絡んだ内戦など政治劇的側面も大いにあるし、グランドオペラとして、盛大に盛り上がるシーンもある。だから心理劇に偏ると、このオペラの面白さの一面しか見ていないことになるのだ。
 そこで、このいくつかの側面の間隙を埋めたのが、カリニャーノだと思う。3幕の国王対大審問官との対決、2幕の2場の大グランドフィナーレ。3幕3場の群衆シーン、1幕の幕切れのポーサと国王の2重唱などの場面の豪快な音楽は、このオペラの素晴らしい一つの側面を描いている。

 一方1幕のエリザベッタのアレンベルク夫人への歌や、カルロとロドリーゴの友情の歌や、エボーリのベールの歌、2幕の1場の3重唱、3幕2場の4重唱、3幕2場のエボーリ姫の「むごい運命よ~」、4幕のエリザベッタとカルロとの2重唱につけたカリニャーノの音楽はこの作品の深部を抉っていて、聴きごたえが十分だった。東フィルの迫力のある演奏も印象に残った。

 歌い手について一言。本割のままの大審問官とロドリーゴは安定した歌いっぷりだ。審問長は不気味な雰囲気が出ていた。ロドリーゴは屈託のない役柄に思える。彼は心理的に裏表がない、要するにカルロを立て、自分は捨て石になっても良いから、フランドルを救いたいと思っているからだ。したがってストレート一本やりで大いに結構。その線で歌い切り、潔く、さわやかなロドリーゴと云う印象を与えた。今日の邦人ではベストだろう。

 カルロのジパリは衣装も薄汚れたようなジャケットを着ており、まるでホームレス、王子の片りんも感じられない。演出家のカルロへの思いや意図は、この衣装や立ち居振る舞いを見ただけではあまり伝わらない。鋭いのびやかな声は見事なものだ。しかしそれは果たして、役柄と整合しているのかと云う疑問が残った。

 妻屋のフィリポは弱弱しい場面での女々しさの表現がうまい。だから3幕冒頭の妻の不貞への疑念が晴れず、嫉妬が渦巻く、心の中を女々しく歌う。ここには傲慢な暴君の姿は微塵もない。また、1幕のポーサとのやりとりや、2幕のフィナーレ、3幕の大審問長との対決などでも、王としての威厳とか傲慢さが全く感じられず、人の好さばかりが目立って歌いにくそうだった。

 エリザベッタの小林は「ワルキューレ」のジークリンデがとてもよくここに抜擢されたらしい。声としてはジークリンデの方が成功していたような印象。たとえば4幕の「世のむなしさを知る人は~」はきれいに通る部分と、なんとなく口ごもるようになり、抜けが悪くなる部分とが、混在して、少々物足りなかった。1幕のアレンベルク夫人への同情も空虚で、共脳が伝わらない。印象だが、未消化な部分が散見されたような歌唱だった。

 最後は、キウリのエボーリ姫だ。彼女は新国立でカルメンを歌ったそうだが、あの時の方が声はもっとのびやかなような気がしたが、気のせいか、それともエボーリへの役つくりのためだろうか?彼女のエボーリを聴いていて、CDでこの間聴いた、シャーリー・バーレット(1970年ウイーンライブ)を思い出した。少々ドスの効いた姉御風のエボーリ、もっと言えば3幕の「むごい運命よ~」はまるでマクベス夫人の狂乱の場のごとく感じられた。これはすごい歌唱だが、はたして、ヴェルディの意図したエボーリとの整合性はあるのか、独自性は認めるが、好き嫌いは別れるだろう。

 しかし、このつぎはぎだらけのキャストで作り上げたドン・カルロは感動的であったことは間違いない。キャストの皆さん、まだまだコロナは続きそうですが、65歳以上の爺さんばあさんはワクチンを7月までには打ち終わりますので、応援に聴きに行きますから、いましばらく頑張ってくださいね。今日の公演誠にありがとうございました。

 なお、今日の公演は1884年、スカラ座での再演4幕版、いわゆるリコルディ版でカラヤンのCDで聴けるもの。演奏時間は175分。

 

 



2021年5月23日

オペラを聴き始めて半世紀と8年がたった。そのなかでヴェルディはもっとも重要な作曲家である。学生時代はワーグナー一辺倒だったが、社会人になって、ある機会からイタリアオペラにのめりこむことになった。いま最も自宅で聴くオペラはヴェルディかプッチーニ。ワーグナーはもうほとんど聴かなくなってしまった。体力の衰えとともにワーグナーはもう全曲がもたないのかもしれない。

 さて、今週も緊急事態宣言下で、この「絶望的音楽三昧」から抜け出られないが、新国立劇場で「ドン・カルロ」が聴けるので楽しみにしている。ヴェルディの「ドン・カルロ」はヴェルディの中でも好きな曲だ。ちなみにヴェルディと云うと「オテロ」、「マクベス」、「トロヴァトーレ」、「アイーダ」、そして「ドン・カルロ」が大好きなベストファイブである。ただ不思議なことに「ドン・カルロ」だけは、さて、聴こうと思ってCDを引っ張り出そうとすると、とても迷うのだ。
 しかし、そのほかの4曲は全く迷わない。「オテロ」はカラヤンの旧盤、「マクベス」はシノーポリ盤と迷うが、結局アバド盤、「トロヴァトーレ」はシッパース盤、そして「アイーダ」はカラヤンの旧盤である。
 ところが、「ドン・カルロ」となると我が家にある5セットのどれを聴くか、とても迷うのである。結局第一選考で残るのが、カラヤン盤、ショルティ盤、で後はその時の気分で聴く。
今週、「ドン・カルロ」を聴きに行くにあたって、5セットを聴き比べようと云うのが、今回の「絶望的音楽三昧」の趣向である。なぜCD選びに迷うのか、おわかりいただけよう。

 さて、5セット全部聴くとなると、15時間くらいかかるので、いくら暇とはいえ、ちょっと苦痛なので、自分の思う「肝」の場面に絞って聴いてみた。
 それは5幕版でいうと、第3幕の第一場、そして第4幕の第一場である。このオペラは政治劇と愛憎劇の混淆するドラマティックな筋立てて、その象徴がこの2つの場面だと思うのからある。

 その5セットについてのデータと私の印象は次の通りだ。
 なお、配役は以下の順番に記述する。演奏の版については、楽譜と照らし合わせたわけではないので自信がないが、ほぼあっていると思う。
  ①フィリポ2世
  ②ドン・カルロ
  ③ロドリーゴ
  ④大審問官
  ⑤エリザベッタ
  ⑥エボーリ姫

1.ガブリエレ・サンティーニ盤(1961年)/スカラ座(おそらく廃盤)
  (1886年、モデナ版、イタリア語,全5幕)/演奏時間190分
  ①ボリス・クリストフ
  ②フラヴィアーノ・ラボー
  ③エットーレ・バスティアニーニ
  ④イヴォ・ヴィンコ
  ⑤アントニエッタ・ステルラ
  ⑥フィオレンツァ・コッソット
 このCDでとりわけ、印象が強いのはドン・カルロ役のラボーである。彼が1972年(多分)イタリア歌劇団とともに、来日して「トゥーランドット」のカラフを歌ったのだが、それで、私は一気にイタリアオペラにのめりこむようになる。この時は他に、「ノルマ」なども演じられたが、すべて、エアチェックして毎日聴きまくっていた。後年その話をオペラ好きの友人に話したら、なんと、この「ドン・カルロ」を見つけてきてくれたのである。早速聴いてみたがラボーの声に懐かしさが先に立って、平常心ではきけないCDである。
 そのほかの聴きものは、バスティアニーニのロドリーゴが素晴らしい。ドン・カルロが卑小に見えるほど、高貴で英雄的だ。
 ステルラは今日ではほとんど聴かれないソプラノだが、セラフィンの指揮の「トロヴァトーレ」などでも歌っており、テバルディやカラスに負けずとも劣らない。このCDでもいかにも王妃然とした、気品と輝きが聴ける。コッソットのエボーリも良いが可憐すぎるような気がする。もう少し妖艶さが欲しい。クリストフのフィリポはギャウロフで洗脳されている耳には少々辛い。
 サンティーニの指揮は手堅いが、グランドオペラとしてのスタイルとはちょっと違うような気がした。録音は古いが聴くのに妨げにはならない。なお、この演奏は5幕の幕切れは1867年パリ初演版で演奏しており、静かに終わる

2.ゲオルグ・ショルティ盤(1965年)ロイヤル・オペラ(これもおそらく廃盤)
  (モデナ版、イタリア語、全5幕)/演奏時間198分
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  ①ニコライ・ギャウロフ
  ②カルロ・ベルゴンツィ
  ③ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ
  ④マルッティ・タルヴェラ
  ⑤レナータ・テバルディ
  ⑥グレース・バンブリー
英デッカのオペラ録音の黄金時代のころの作品。ショルティはワーグナーで多くの録音をデッカに残したがヴェルディの演奏も傑出している。RCAで録音した「リゴレット」は好きな演奏だ。この他のヴェルディでは「死者のためのミサ曲」が圧倒的なすばらしさ。
 この「ドン・カルロ」はプロデューサーのジョン・カルショー、エンジニアのゴードン・パリーとの組み合わせの録音で、今回聴いた5セット中では屈指の録音だ。オペラハウスの音場が聞きとれるところが、たとえ作られた音場であっても、素晴らしいと思う。
 ショルティの豪快な指揮は、カラヤンの豪壮華麗な指揮とともに、この5枚の中では傑出している。グランドオペラのスケールを味わえる名盤である。
 歌い手もデッカの擁する綺羅星のような名歌手たちの競演で聴きごたえがある。5セットの中ではもっとも歌手のバランスが良い。特に、ギャウロフ、ベルゴンツィ、テバルディは秀逸である。わずかにドイツ人のディースカウが少々出しゃばりすぎの感があって、煩わしい場面があるのが私には不満である。3幕のエボーリ、ドン・カルロ、ロドリーゴの3重唱もそこがちょっと不満だ。4幕のタルヴェラの声は大審問長にしては少し明るいが、ギャウロフとの対比でいうとそれほど気にはならない。これは私の一押しの「ドン・カルロ」である。


3.ホルスト・スタイン盤(1970年10月ライブレコーディング)ウイーン国立歌劇場(これもおそらく廃盤)
  (おそらく1884年、リコルディ版、4幕、イタリア語)/演奏時間169分
  ①ニコライ・ギャウロフ
  ②フランコ・コレルリ
  ③エバハルト・ヴェヒター
  ④マルッティ・タルヴェラ
  ⑤グンドラ・ヤノヴィッツ
  ⑥シャーリー・バーレット
 この盤はなんと言っても。コレルリが聴きものである。まあそのために買ったようなものだ。全盛期とは言えないまでも、彼の輝かしい声は他を圧する素晴らしいものだ。少々弱弱しいドン・カルロにしては立派すぎるかもしれないが、四の五の言わせない、存在感がある。
 ヤノヴィッツのエリザベッタはミスキャストかと思ったが、聴いてみると全くそうではなく、この5セットのなかでも1,2を争う素晴らしさ。3幕(4幕版)の1場のフィリポに軽蔑された後に歌う、歌唱は悲痛極まりなく、胸を打つ。バーレットのエボーリ姫は、姉御みたいな歌い方で、ちょっと驚くが、「DONO FATAL,~」の迫力の前には言葉もない。
 スタインの指揮はこれだけの歌手の前ではあまり手を出せないなあ、といった印象。
 録音は、この当時のライブとしては良い音だが、オペラの舞台が見えるような録音ではなく、歌手にフォーカスしている。

4。ヘルベルト・フォン・カラヤン盤(1978年)、ベルリンフィル(廃盤)
  (これもリコルディ版、イタリア語、4幕版)/演奏時間181分
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  ①ニコライ・ギャウロフ
  ②ホセ・カレーラス
  ③ピエロ・カップチルリ
  ④ルジェーロ・ライモンディ
  ⑤ミレルラ・フレーニ
  ⑥アグネス・バルツァ
ショルティと並んで、一押しである。なんといってもカラヤンの指揮が素晴らしい。先にも書いたが豪壮な「ドン・カルロ」と云えば、まずこの盤が思い浮かぶほどである。しかし最近聴くとちょっとしんどいところがある。例えば2幕の2場のグランドフィナーレなどは豪華で聴きごたえがあるが、ちょっと大げさでないかと思われるところもないではない。カラヤンと云えばウイーンフィルと録音した「オテロ」や「アイーダ」(いずれも旧盤)が彼のオペラ録音では随一のものだと思うが。このEMIの「ドン・カルロ」は過去のそういった、デッカで録音したイタリアオペラとは少しスタイルが変わったように思われる。しかし、そうはいっても、今日これほどの録音はそうざらにはなく、いまもって、カラヤンの代表作としての燦然とした輝きは失ってはいない。ウイーンフィルと録音したらまた印象が変わったかもしれないが、それはないものねだり。

 歌い手はどれも素晴らしいが、なかでもカレーラスのドン・カルロはいかにも白面の貴公子然として、ベルゴンツィと甲乙つけがたい。そして何と言っても傑出しているのは、カップチルリのロドリーゴである。これはバスティアニーニと甲乙つけがたい。ギャウロフ=フィリポというほどぴったりの役どころで、もう彼のフィリポ以外は考えられない。

 フレーニのエリザベッタは過去のステルラやテバルディに比べると、王妃のイメージは少々乏しいのが物足りないところ。バルツァの歌唱は圧倒的といえよう。

5。クラウディオ・アバド盤(1983年)スカラ座(輸入盤で入手可能)
  (1886年、モデナ版をフランス語に戻したもの。5幕版)/演奏時間232分
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  ①ルッジェロ・ライモンディ
  ②プラチド・ドミンゴ
  ③レオ・ヌッチ
  ④ニコライ・ギャウロフ
  ⑤カーチャ・リッチャルリ
  ⑥ルチア・ヴァレンティーニ・テラーニ
アバドのヴェルディは「マクベス」と「シモンボッカネグラ」の2本が私にとって唯一無二の演奏であるが、はてそれ以外のヴェルディと云うと「死者のためのミサ曲」以外あまり印象に残らない。この「ドン・カルロ」も私にはショルティやカラヤンの演奏と比べると大人しく、なんとなく影は薄いような気がするのはもう好みの問題かもしれない。フランス語というのもなんとなくしっくりこないのだ。

 歌手ではエボーリ姫のテラーニの歌唱が素晴らしい。彼女は初めてスカラ座が来日した時にヴェルディの「死者のためのミサ曲」を歌ったが、その感動的な声が忘れられない。この「ドン・カルロ」を聴くとその時の歌唱を思い出す。早逝したのが残念な歌手だ。
 リッチャルリはフレーニの時の印象と同じ。二人とも素晴らしい声だとは思うが、エリザベッタの私のイメージとは違うような気がする。
 ドミンゴのドン・カルロは少々立派すぎ、ヌッチのロドリーゴは少々貧相。ギャウロフとライモンディはカラヤン盤と役が入れ替わっているが、おそらくアバドの意図だろうが、狙いがわからない。

 さて、以上で5セットのレビューを終えるが、1983年以降ではどういうレコーディングがあるのかわからない。しかしどう転んでもこの5セットを凌駕する録音が出てくるようには思えない。
 オペラの新録音は少ないので、発売されるとつい手を出してしまうが、大体一回聞いてお蔵入りだ。例えば、「アイーダ」のパッパーノ盤。カウフマンのラダメスの「清きアイーダ」を聴いただけで、もう先を聴く気がしなくなってしまった。カウフマンが日本でリサイタルをやった時に、同じく「清きアイーダ」を歌ったが、まあ技巧を凝らした歌唱と云えば、聞こえが良いが、本当にアイーダを愛しているとは思えない。だからいまは新録音は全く聴かない。懐古趣味の老害と云われても仕方がありませんが。

 さて、余談になってしまったが、最後に「ドン・カルロ」のベストキャストを選んでみた。

フィリポ2世:ニコライ・ギャウロフ
ドン・カルロ:ホセ・カレーラス、カルロ・ベルゴンツィ(コレルリは好きだけれど少々立派すぎる、ラボーは別格)
ロドリーゴ:ピエロ・カップチルリ、エットーレ・バスティアニーニ
大審問官:ルッジェロ・ライモンディ
エリザベッタ:アントニエッタ・ステルラ、グンドラ・ヤノヴィッツ
(ステルラとテバルディは同系なので、ステルラを選んだ、ヤノヴィッツはフレーニやリッチャルリの延長線にあるような気がするのでその代表として選んだ)
エボーリ姫:ルチア・バレンティーニ・テラーニ、アグネス・バルツァ

なお、録音はもっともオペラハウスで聴いているイメージに近いのは古い録音だけれどショルティ盤である。


5/31、追記
我が家にもう1セット「ドン・カルロ」があった。リッカルド・ムーティ指揮のものだ。ムーティが壮年期に録音したヴェルディのオペラ11曲と死者のためのミサ曲が、28枚のCDに収められているCDボックスを失念していたのだった。
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データは以下のとおりである。
6.リッカルド・ムーティ盤(1992年、ライブレコーディング)ミラノスカラ座
(リコルディ版、4幕版、イタリア語)

①サミュエル・ラメイ
②ルチアノ・パヴァロッティ
③パオロ・コーニ
④アレクサンダー・アニシモフ
⑤ダニエラ・デッシー
⑥ルチアナ・デンティノ

今回久しぶりにこの演奏を聴いて、大いに感動してしまった。それはムーティの統率の元、歌い手たちは、この悲劇の中の人物を、あたかも実像のごとく歌っていることを改めて気づかされたからである。歌い手たちは単に譜面通りに歌っているのではなく、切れば血の出る人間として歌っているのである。
このオペラの主人公たち、フィリポにしろ、エリザベッタにしろ、エボーリにしろ、そしてドン・カルロは、大きな苦悩を背負っている。それが歌声を通して感じ取れる。それはおそらくムーティのリードなくしてはあり得ない。緩急強弱は相当激しいが、ライブを感じさせる激しさで、当日この演奏を聴いた人たちがうらやましい。そういう演奏だ。(このスカラ座の公演はゼッフィレリの演出と云うから、2重にうらやましいことだ。)

 特に2幕の1場の3重唱、3幕1場のフィリポのアリア、そして大審問官とフィリポの対決、続くフィリポ、エリザベッタ、ロドリーゴ、そしてエボーリ姫との4重唱、締めはエボーリ姫のアリアどれ一つとっても、火を噴くような演奏である。

 歌い手はまず、ラメイのフィリポ、明るく若々しい声は、ギャウロフの重い、重厚な声とは違うが、繊細な感情表現が素晴らしい、特に2幕の1場のアリアがそうだ。そして大審問官との対決も政治劇を感じさせる激しさ。ムーティに応えている。
 次いでデッシーのエリザベッタ、そのしっとりと濡れたような、若々しい声は魅力的で、独特の雰囲気のエリザベッタである。等身大のエリザベッタを感じさせる。3幕の4重唱の悲しみは胸を打つ。
 デンティノのエボーリはそれに対して、少し重々しい。大人の声を感じさせる。今まで聴いてきた歌い手の中では、テラーニに近い。3幕1場アリアの激烈さは、ムーティの作る音楽に乗って、圧倒的な感銘を与える。

 この3人に比べると、少々物足りないのは大審問官。作り声のような発声は、私には聞き苦しい。
ロドリーゴは3人に比べると印象が薄い。

 問題はパヴァロッティだろう。そののびやかな声は、57歳の当時も依然変わらないが、その屈託のない、歌いっぷりはムーティの作るドラマとの整合性と云う意味では、少々浮いた歌唱と感じられた。別格大本山というべきだろうか?



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著者の云われる通り、南北戦争についての著作と云うのは、アメリカにとってとても重要な内戦にもかかわらず、日本ではそれほど多くはないようだ。調べてみたのだが、なるほど海の向こうの国の内戦ということのせいか、多くはないのだ。

 本作はその間隙を縫って、多くの図版や戦場の作戦図などを駆使して、わかりやすい南北戦争を描いた。しかしそれは単なる表面をなぞっただけでなく、この戦争の、本質、実態についても紙面の許す限りの説明を加えている。

 著者は学者ではない。宗教専門誌「宗教問題」編集長という肩書はなにやら胡散臭いが、南北戦争とはあまり関係なく、要は素人歴史家による南北戦争入門書と思えばよいのだろう。南北戦争フォーラムと云うのがあるらしく、その事務局長を務められている。まあ同好会のようなものか?しかし冒頭述べた通り、侮ってはいけない。私はとても勉強になったし、第一面白い。

 本書によって多くの発見があるが、これは人それぞれだと思うので、いくつかのみ紹介しておこう。
アメリカの大統領選はトランプ対バイデンの争いで結局民主党のバイデンの勝利だった。単純にみると共和党のトランプは白人至上主義、そして極論すれば差別主義者である。しかし南北戦争当時および終戦後も、南部そして「民主党」の主流は白人至上主義で差別主義である。南北戦争当時はリンカーン率いる「共和党」は、奴隷解放という一つの公約で選挙を戦った、非差別主義である。この2大政党の流れと南北戦争との関係は新しい視点だった。しかしもうひとつ面白い視点がある。

 それは、産業である。南部は綿花の大生産地、そのころの世界の綿花を作る国は限られていて(今でもそうだ)、アメリカの供給なくして世界の紡績業はなりたたない。当然、イギリスを含む欧州各国との「自由貿易主義」が基本となる。一方北部の共和党はアメリカ独立のしがらみから、また産業革命初期と云う時代背景から、基本は「保護貿易主義」である。このように、南北戦争を起点にして、今日のアメリカの2大政党の政策と云うのは揺れ動いているのだということがよく分かった。


 もう一つは国家におけるリーダーの在り方である。南部連邦の大統領ジェファーソン・デイヴィスは軍人上がりで謹厳実直の男だったが、実に細部にまで容喙し、仕える者にとっては実にやりにくい相手だった。特に陸軍長官までやったということもあって、軍事作戦、用兵に細かい指示を出す。南軍の将軍たちの列伝を見ると、有能な人物が綺羅星のごとくいるが、例えば、戦後南部の聖人とまで言われたリー将軍などだが、有効に活用できなかった。
 一方北部のリンカーンは農業出身。軍事は専門家に任せる。大きな戦略の立案については自らが参画するが、現場の戦闘についてはすべてグラント将軍を信用して、勝っても負けても任せ続けた。そのほかにも北軍勝利の要因はいくつもあるが、これは大きな要因の一つといえよう。

 最後に、南北戦争と云うのは、アメリカ人が最も多くの犠牲者を出した戦争だった。それは兵器にも産業革命の波が押し寄せたからである。そしてそのことが、この南北戦争が後年の、世界大戦の戦略にも影響を与えたというのだ。
 たとえば、塹壕戦だ。かつての戦争に使う小銃は、筒に線条がないため、命中精度が低く、お互い、向かい合って、相手と正対しながら、撃ち合う。映画でもよく見るシーンだ。しかし南北戦争のころに、線条が刻まれたライフル銃が普及、しかも元込めで、連射に近いスピードで打てる上に、命中精度も格段にあがるから、そこではお互いの姿をさらした戦闘では、あっというまに死体の山になる。そこで塹壕戦となるのだ。さらに機関銃(ガトリングガン)の登場も軍事作戦に影響を与えたことは、想像に難くない。その他装甲蒸気船、無線の発達、蒸気機関車による物資の迅速な輸送など、多くの変化が戦争に影響した。それが直接関係したかどうかはわからないが、主戦場になった南部諸州では、民間にも多くの被害を与えたということで、後年の総力戦の芽生えを見ることができる。

 その他、南部連邦の大義と各州の独立性、それと南部連邦と対峙した北部合衆国の国家としての立ち位置などの関係もまことに面白く南北戦争を重層的に俯瞰できる。南北戦争の全体をさっとつかみたい人や現在のアメリカの成り立ちについて掘り下げたい人にはおすすめ。リンカーンやデーヴィスその他、軍人、政治家もあるときは辛辣さであるときは賞賛で、描写は興味深い。〆

2021年5月20日
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朝、ニュースを見ていたら、なんと朝乃山が休場。理由は週刊誌の記事で、コンプライアンス違反だそうだ。
 早速文春を読んだら、場所直前にキャバクラ通いをしたらしい。当初は否定していたが、最後は認めたらしい。大変なことになってしまった、そういう思いで国技館に向かった。
 今日の席は、東の升席。やはり正面か向こう正面の方が全体が見渡せるような気がして好きだ。抽選だから致し方ない。到着したら最初の相撲が十両の大翔鵬×松鳳山、実に激しい相撲で、ぱんぱんぶつかり合う音が聞こえ迫力があった。これは今日は期待できそうだと思っていたら、っその後の十両、幕内の取り組みは淡々と進んでしまう。今場所好調の遠藤も琴恵光となんとも無気力な相撲で、敗退するなど凡戦ばかり。

 しかし、幕内も後半戦になり、明生×御嶽海あたりになって、やっと目が覚めたのか、激しい相撲が見ることができた。貴景勝も難敵、逸ノ城を退けた相撲も良かった。しかし照ノ富士の強さはどうだろう。分の悪い阿武咲を問題にせず一蹴。舌を巻く強さだ。場所前は膝の調子がよくなく、けいこがあまりできないと弱気なことを言っていたが、今のところ、ひざは耐えているようだ。高安戦などは相当膝に負担がかかったはずだが、あの戦いをしのげたのだから、今のところ調子は良いのだろう。照ノ富士を倒すのはもう大関しかいないと思っていたら、その一角の朝乃山が不名誉な休場になり、これでは照ノ富士に優勝してくださいというようなものだろう。

 それにしても、場所を前にして、禁止されている、夜遊びに行くという精神構造はどうなっているのだろう。部屋としての規律の問題もあるかもしれない。部屋には関取は朝乃山だけ、しかも大関とくれば、元朝潮から譲られた部屋の親方、現高砂には厳しい指導はできなかったのではあるまいか?

 場所が始まってからも、朝乃山の相撲は大関になる前後の相撲とは様変わりで驚くばかり。強い時の朝乃山はまず低い姿勢で上手を狙う、それも浅く取り、相手を引き付け、それから右攻めになる。この左まわしを取るのが電光石火だった。しかし今場所は毎回判を押したように、右差し、それも無理にこじ入れようとするから、体が浮く。そこをつけ入れられる相撲ばかり。全く、理にかなっていない相撲で、いくらこの体でもこれでは勝てるはずがない。なぜ、それを指導できないのか、不思議で仕方がなかった。大関という目標を達成したことによる安堵感が厳しい取り口を忘れさせてしまったのだろうか?これは正代にも言えることだろう。

 どん底まで落ちた照ノ富士を励ましたのは親方の元横綱旭富士だったそうだ。師匠があっての弟子なのだということの証明がここにある。

 今日の相撲でほほえましかったのは英乃海、翔猿兄弟である。
 翔猿が霧馬山と対戦した際の西の控えは、兄の英乃海。英乃海に水を付けられて、弟の翔猿は勝利。
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そして、今度は勝った翔猿が兄英乃海に水をつける番だ。兄も勝ちめでたしめでたし。

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何となく後味の悪い12日目だったが、一服の清涼剤のような場面だった。
残り3日間、2人の大関に期待して、最後の最後で大盛り上がりの場所にしてもらいたいものだ。







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コスタ・カブラス監督、ジェシカ・ラング主演の法廷サスペンスである、根っこはナチによる戦争犯罪だ。

 戦争が終わってもう40年、シカゴに住むマイク・ラズロに特捜部から突如市民権はく奪、国外追放の文書が来る。ラズロは37年前にハンガリーからの移民ですでに市民権も得ている。妻を早くに亡くし、親子3人でつつましく生きてきた。長男は少々ずれているがまっすぐな男、長女はアン・タルボットという辣腕の刑法の弁護士である。ラズロは人違いだと主張し、裁判所に訴える。アンは移民法は畑違いだが父親の懇願で弁護を引き受ける。アンは名門弁護士タルボット家に嫁ぐが今は別居していて、長男と暮らしている。もと義父、元夫(タルボット)の支援もあり、弁護はスタートする。

 ハンガリー政府と組んでいる、検事側は次から次へとハンガリーからラズロをユダヤ人虐殺の主犯として訴える証人を連れてくる。アンは公正な判事の裁きもあって、一つ一つ論破してゆく。しかし裁判の過程で証人の証言を聴くたびに、深い疑念が芽生えてくるのを否定できなかった。はたしてこの裁判の行方はどう転ぶのだろうか?

 ジェシカ・ラングはこの作品でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、ベルリン映画祭で主演j女優賞に選ばれる。不安と苦悩を熱演。
 この映画は1990年に日本でも公開されたらしいが全く記憶がなかった。今回見たのはツタヤが5/6にリバイバル発売したためである。見る人によりいろいろな思いを投射させる映画だ。脇役が皆素晴らしく良い作品に仕上がっている。〆

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