ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2021年04月

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東京で爆弾テロが起きたという話である。クリスマスイブに恵比寿や渋谷の繁華街に爆弾が仕掛けられたという事前通告が犯人からマスコミを通じて行われた。条件は首相と面談させろということだった。果たして、犯人の真の狙い、首相に何を要求するのか?

 平和ボケの日本に警鐘を鳴らす作品だ。そういう意味ではあたっているだろう。原作もそういう狙いがあったのだろう(読んでいませんが)。しかしこと映画作りと云うことになると少々出来上がった映像を見ると不満が大きい。

 まずこのような作品を90分で描くのは、どうしても説明不足になる、何かをカットしなくてはならないが、結構詰め込んでいるので、私のようなアルツハイマー寸前の老人にはよくわからないところがあるのだ。

 ひとつは、人間関係がよくわからない。佐藤浩市と石田ゆり子の夫は一体どこの戦場でどういう関係だったのだろう。これは戦争によるPTSDによるテロとも言って良い作品だろうが、その戦争なるものが、いかにも抽象的で、自衛隊がどこの戦場に何しに行って、それがどうして、テロにつながったということが、私の頭にはつながらない。大勢の人間が犠牲になるテロの原因が抽象的な概念と云うのは、ちょっと無理ではないのだろうか?

 首相のテロに対する硬直的な描き方は、時間の制約だろうかお粗末だし、若者たちのテロに対する、行動はいかにもステレオタイプであり、劇画風だ。
 要するに、爆弾を仕掛け、爆発させるという行為そのものはリアルに描かれているが、それをとりまく物語が、いかにも実在感が乏しいので、ドラマとしてどう受け止めてよいのやら。単なるアクションと描いたわけでもなかろうに?
 したがって、登場する俳優は如何にもありそうな姿で描かれているので、小説を劇画にしたように思える、決して生身の人間を描いているとは感じられなかったのである。もっと丁寧に描けばおそらく120分ははるかに超える上映時間になるだろうが、テーマがテーマだけに、そうして欲しかった。
 多くの著名な俳優を使っているのにもったいないことだ。犯人に操られるバイトの青年、ベテラン刑事(西島秀俊)、首相(鶴見慎吾)、なんだかよくわからない青年(中村倫也)、テロを見に行って友人に大けがさせる女(広瀬アリス)、怪しげな男(佐藤浩市)などなど、操り人形を見ているようだった。
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ネットフリックスオリジナルの映画である(2018年)。今年のアカデミー賞でも「マンク」や「シカゴ裁判」がノミネート・受賞するなど、ネットフリックスの作品は目が離せない。
 最近いくつか見ているが、興味深いのは、視点がハリウッドとはずいぶん違うことだ。例えば中東戦争をエジプト側から描いたり、キューバ問題をキューバ側から描く。それも主人公はサダトやカストロではなくごく普通の人々、軍人であったり、外交官であったりすることだ。

 この「ベイルート」もごく普通の外交官が主人公である。舞台は1972年、ベイルート内戦前のまだ美しいベイルートがあったころ。メイソン(ジョン・ハム)はベイルートの外交官の代表をしている、妻とパレスチナ人のカリームという少年を引き取って育てている。しかしこの少年はミュンヘンオリンピックテロ事件の犯人の一人、ラジャールの弟だったのだ。
 そして、この1972年、ラジャールらがカリーム奪回にメイソン邸に侵入する。カリームは奪われ、妻は殺害される。メイソンは失意のまま外交官をやめ、アメリカに戻り、アルコール浸りのすさんだ生活をしていた。

 そして10年後亡霊のようにカリームが現れた。メイソンの友人のカルを誘拐したという。米国NSCはメイソンに交渉人を依頼する。政府代表のガイザー、NSCのルザック、現地工作員のサンディ(ロザムンド・パイク)そしてメイソンと云うチームでカルの救出を図る。

 冒頭書いたようにごくごく普通の外交官が事件に巻き込まれ、内戦後のベイルートに戻る。夢のようなベイルートが、破壊の限りを尽くされた町に変貌していた。そういう時代背景の中での謀略戦。こひねりのきいた佳作である。〆


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2015年に単行本として出版されたものの文庫版である。直木賞(2021)を今年とった西條の傑作美術歴史小説である。

 「ごんたくれ」とはごろつきや困りものと云う意味で、もともとは浄瑠璃の主人公への表現だった。
本作では2人のごんたくれが登場する。いずれも西條の創造した画家であるが、しかしさらに言えば、いずれも実在したモデルがある。
 一人は淀藩の下級武士の長男、吉村彦太郎・胡雪(モデルは長澤蘆雪)、円山応挙に師事し、やがて頭角を現す。もう一人は商家の息子で幼くして両親を失い、辛酸をなめるが、砂絵を書く武士に出会い、絵の道に進む。特定の派に師事することなく、ほぼ独学にて、孤高の芸術分野を開拓する、深山筝白(モデルは曽我蕭白)。時代は18世紀である。円山応挙あり、伊東若冲あり、与謝蕪村あり、そして池大雅ありと綺羅星のごとく,大家がきらめいた画壇。そのなかを独自の画風を開拓した二人の天才を西條の筆が描く。

 二人の芸術家が自らの道を切り開く壮絶な物語でもあるが、まったく違った道を歩んだこのごんたくれの隠れた友情の描写も読みどころだろう。この作品の中で唯一心温まる場面は、池大雅とその妻玉瀾、筝白、そして胡雪が酒を酌み交わしながら、一晩中談笑するシーン。この場面は読み終わった後、読み返すと、一層素晴らしい場面であったということがわかるだろう。

 江戸時代の画家を描いた作品はあまたあるが、この西條の作品はそのなかでも抜きんでた一本であることは間違いないだろう。画家たちの苦悩や作品を描く場面など、読んでいて緊迫の一瞬一瞬がじつにリアルに描かれている。実在の人物をモデルにして、これだけふくらます想像力、創造力に脱帽だ。
 好みでいうと澤田瞳子氏の「若冲」と双璧の美術史小説である。

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エジソンが蝋管に音を録音した時に、彼はそれを映画と同期させようとした。しかしそれはえらく困難なことだったのだ。映画「雨に歌えば」にもあるように、無声映画からトーキーへの変化点のエピソードもそのことを物語っている。

 映画は映像(役者・映像)と音響(音楽も含む)とでできていることが認識されるようになったのはそれから、更にずっと後で3人の偉大な映画監督が「音響」の重要性を認識したからだった。

  スピルバーグ(プライベート・ライアン)
  コッポラ(地獄の黙示録)(ゴッド・ファーザー)
  ルーカス(スターウォーズ)

 この作品は、映画における、これら音響の重要性に気付いた監督と音響技師たちの苦闘の歴史をドキュメンタリーとしてまとめている。昔の映画が多く見ることができて楽しいし、音響技師たちの苦闘、つまり裏話は興味深い。映画に関心のない人には無縁の作品だが、映画好きには、珠玉の作品だろう。〆

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11人の男女が、口に猿轡をされている。広い野原で彼らは目を覚ます。そしてそのそばには銃器の収納された木箱が!突如彼らを銃やボウガンが襲う。人間狩りが始まる。

 ひょんなことから、富裕層たちが、ネットなどで過激な発言をしている人々をピックアップして、それを誘拐して、狩りをしようということになったのだ。しかしスノウ・ボールと名付けられた、一人の狩られる女(ペティ・ギルビン)のおかげで、プランが狂った。

 相当乱暴な話だが、ペティ・ギルビンのスノー・ボール役が痛快、表情も多彩で飽きさせない。彼女の演技でまずまずの映画になった。
 笑ってしまったのが、冒頭の音楽がマーラーの交響曲6番の1楽章、第1主題、そしてクライマックスの決闘シーンではなんとモーツアルトのピアノ協奏曲23番の3楽章を使っていること。この陰惨な物語の陰惨さを薄めている。

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