ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2021年01月


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本作は週刊文春で連載された作品の単行本化である。初めは週刊誌の記事を毎週読んでいたが、そのうち1週間が待ちきれず、いずれ単行本になるだろうと思い、待ちわびていた作品である。期待にたがわず大変面白く読んだ。ただ600ページ近い大作であり、おちゃずけさらさらと云う具合には読めない。

 ロッキード事件にはその当時の自分の境遇を含めていろいろと想い出があり、懐かしい。懐かしいといったら失礼になるかもしれないが、もう事件から半世紀もたつのだから仕方がないだろう。
 その当時私はアメリカにいて経営学を勉強中だった。母親から送られた文芸春秋に立花隆の田中角栄の金脈について書かれた記事があり、興味深く読んだ。それは非常に緻密に事実を積みあげた内容で、すべての記事について、すべて裏付けの資料(EXHIBIT)がある。それもだれだれが云ったという2次資料だけでなく、1次資料で裏付けしてあるのだ。今までこのようなまるで建築物の構造のような論文にお目にかかったことがなかったので目からうろこだった。
 そのころ英文で論文を定期的に書かされていたのだが、果たしてどうやったら言葉の障壁のある日本人がアメリカの教授を説得できる論文を書けるのか大いに悩んでいたのであったが、これだと思った。テーマを決めそのテーマにかかわるデータを集め分析をする。そういう方法で論文をまとめだした。その成果は成績にも出たのか、無事卒業して帰国できたのだった。しかしこの考え方はその後の自分の社会人として、また組織人として活動するうえで、大いに役立ったといえよう。想い出とはそういうことだ。

 本作を読んだ印象は、結局闇は闇だということである。関係者の多くは亡くなっていて直接聞けず、海外の公文書には閲覧制限があり、そしておそらく国内にも、つまり1次資料ではそれほど新しいものが出てこないということである。結局伝聞やすでに発表されたものを丹念に読み解き、矛盾点を見出すというアプローチにしかならなかったと云うのは、著者としても悔いの残るところだろう。
 田中角栄に関する記述はまだしも、児玉や元総理の佐藤、中曽根に関する記述は、憶測や推論が多いのが物足りないが、それは裏付け資料がない悲しさでやむを得ないところだろう。少なくても関係者がまだ存命の10数年前だったら違った作品になったかもしれない。

 結局田中はロッキード以前に、立花隆の金脈研究で退任に追い込まれたといっても過言ではないだろうが、その金権体質がロッキードまでひきずってしまったということだろうか?同じころウッドワード&バーンスタインの記事で退任に追い込まれたニクソンとの相似形を感じてしまう。

 歴史は繰り返す、ニクソンのようにトランプもニクソン同様身から出てさびでホワイトハウスを去った。
 この二人、ニクソンがロッキードの購入を田中にせまったと同様に、トランプは安部にF-35を迫った。歴史は繰り返すのだ。そして2人のアメリカの大統領は消えてゆく。

 日本も国家が議員活動の資金まで面倒を見てくれるというのに、まだ金の問題が付きまとう。もう死語と思っていた贈収賄と云う言葉が依然新聞記事として載るのだ。金権体質とまではいわないが、ここでも歴史は繰り返されているのであろうか?

 日米関係も戦後の関係をいまだ引きずっている。ニクソンと田中、トランプと安部の関係には、アメリカ側の日本のアメリカへの従属と云う感覚が共通して残っているのだ。いつそれは消えるのか?

 本書を読んで痛感したのはそういう「歴史は繰り返す」と云うことだった。そういう意味ではこれは過去を回顧する書としてではなく、未来を読み解く道しるべともいうべき読み方をせよと云うことを著者は語っているように感じられた。
 これはロッキードを知らない多くの若い人に読まれる作品だと思う。大部でしんどいが、文章は平易であり読みやすいということは強調したい。〆

ライブに行けない絶望的な気持ちを綴っている。

 でも音楽は聴きたいからCDを聴くことになる。最近、ふとプレーヤーに載せるCDのジャンルが妙に偏っているのに気付いた。大体通常は一日2~3時間聴くが、オペラ1曲か、マーラーかブルックナー、そして小曲を数曲聴いて終わりになるのだ。
 しかし、この数日の音楽は以下の通りで従来とは随分とは違うので、改めてちょっと驚いた。これもコロナ禍の不安な気持ちの表れだろうか?ここから少しこの数日の音楽の旅を追体験してみたい。

 まずバッハの無伴奏パルティータ2番と3番、演奏は神尾真由子。この演奏は別稿でも書いたように、今までのバッハとは異なるアプローチ。ファウストのように舞曲を意識したともいえるが、それ以上にこの大輪が開いたような演奏は、あの気難しそうなバッハ先生の曲とは思えないほど、バロックだ。この曲たちを聴いていると、気分が晴れてくる。録音もSACDで浜離宮ホール音をいかした素晴らしいもの。

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 ヴァイオリンついでに聴いたのがイザベル・ファウストの弾いたフランクのヴァイオリンソナタ。ファウストと云う人はもう世界的なヴァイオリニストで私もライブでなんどか聴いていて、その素晴らしさを体験しているが、私には今一つ食い足りないところがある人でもある。それは決して鉄火のように燃え上がらないことだ。しかしこのフランクは初めて聴いたときに驚いた。ものすごい熱気である。この演奏を聴いて改めてフランクのソナタの情熱を感じた。
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 ただ今回聴いて最初に聴いたときほどの熱気は感じなかったのは不思議だ。そこでべつのCDを取り出した。

 この曲は昔はこの人の演奏しか聴かなかった。それはチョン・キョンファである。1975年の古い録音だがファウストを聴いた後でも全く色あせていない。彼女の熱気は相当なもので、少々辛気臭いフランクの曲が別のように聴こえる。ピアノはルプー、この日はフランクを2回も聴いてしまった。
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 さて、もうひとつファウストには気になる演奏があるので聴いてみた。それはシューベルトのファンタジアである。この曲はかつては骨太のクレーメルとアファナシエフの演奏ばかり聴いていたが、ファウストの評判をきいて、早速聴いてみた。あれはもう2年くらい前だろうか、聴いてみて全く覇気がない演奏でがっかりした。即お蔵入りとなった。繊細感はあるが、シューベルトの情熱が通じない。
しかし、今回改めて取り出して聴いてみたが、これは実に素晴らしいと再発見した。フランクは最初良かったと思ったが、今回聴いて食い足りないと思った反面、このシューベルトは全く別印象なくらい今回の演奏が素晴らしく聴こえる。その繊細感は圧倒的であるが、起伏の大きさに驚き、スケール感に目を見張る。
なお、ピアノはメルニコフである。

 シューベルトでもう1曲。それは弦楽5重奏曲である。亡くなった年に書かれた曲の中の一つ。3つのピアノソナタも素晴らしいが、この弦楽5重奏曲は聴いていると胸苦しくなるほど、シューベルトの心が感じ取れる。アルカント弦楽4重奏団にチェロを加えた演奏が今の愛聴盤。4楽章以外はすべて音楽は明と暗が描かれる。明るくなったと思ったら、荒れ狂ったり、打ち沈んだり、こころの変化が感じ取れる。そういうように聴きたいと思ったら、このアルカントの演奏がベストだろう。しかし4楽章は舞曲風の明るい音楽で締めくくられているので、聴き手の気分を解放してくれるのだ。
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 さて、またピアノが聴きたくなった。モーツァルトのピアノソナタを何曲か聴いた。6番とか9番とかまあそんな曲たちである。演奏は内田光子。もう何年も彼女の演奏聴いていて今もって全く飽きない。録音も古くなったが、イギリスの古いホールで録音していて、その響きが素晴らしく、オーディオ的にも満足だ。情感あふれるという言葉かふさわしいだろうか?それが重苦しいという人もいるだろうが、最初の音が鳴っただけでもう彼女のモーツアルト世界である。
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ついでにピアノ協奏曲も23番を聴いた。演奏は内田光子、この曲は編成は小さいが、実にチャーミングな曲で、今モーツアルトのピアノ協奏曲と云えばこの曲を聴く。この曲を聴いて気分が浮き浮きしない人はいないだろう。ファゴットなど木管楽器の沸き立つ部分も素晴らしい。
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ついでにもう一つモーツアルト。田部京子と下野竜也のコンビの演奏。20番と21番のカップリングだが、私は21番の演奏の方が好きである。この前の曲の20番に比べると随分と世界が違うが、心が癒されるのはこちらの方だ。zaP2_G7295889W

 モーツアルトが続いたのでショパンが聴きたくなった。zaP2_G8021146W
日ごろは24の前奏曲はアルゲリチと同じブエノスアイレス生まれのイングリッド・フリッターと云う人の演奏を聴いている。それはリン・オーディオの素晴らしいサウンドに圧倒されたからである。もちろんSACD盤である。この豊かさと輝かさとが両立した録音を聴くともうライブはいいやとも思わせる。特にピアノのライブはこのごろ大ホールで演奏される傾向があるのでどうしてもサウンド的には大味になる。紀尾井とか浜離宮で聴くのとは随分と印象が違う。
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まあそれはどうでも良いがとにかくこの録音は素晴らしい。演奏はおおらかなものでゆったりと聴くショパンもいいなあと思う人にはおすすめ。しかし今回はどういうわけだか、古いアルゲリチの演奏を聴いた。昔はこの演奏ばかり聴いていた。おそらくこれ以上の演奏はまず現れないだろう。24曲をあたかも一つの連続した音楽のように弾いて行く。抒情性と豪快さとを併せ持った稀有なピアノが聴ける。これはいやされるというよりすかっとするといって良いだろう。

 最後は歌が聴きたくなった。EMIに録音したフランコ・コレルリのオペラのさわり集。これで聴くコレルリはもう唯一無二としか思えない。「清きアイーダ」から始まって「誰も寝てはいけない」までの18曲。特にマンリーコ、カバラドッシ、カラフについては彼に対抗できる人は今日の世界では皆無だろう。このすかっとした気分で不安はぶっ飛ぶ。724356653320




 

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ミッドウエイ海戦をほぼ史実(時系列)に基づいて作られたという。日米海戦関連映画では、日米合作の「トラ・トラ・トラ」がある。あの映画は日米をほぼそれぞれが制作しており、戦争映画としては比較的偏りが少ないといえるだろう。

 本作はアメリカ映画(中国の資本が入っているようだが)で果たしてどういうスタンスで作られているのか、興味深く見た。冒頭に山本長官とアメリカ人の将校との会話などを聞いていると、これは至極客観的に作られている印象だ。

 勝敗は時の運と云えようが、初戦の真珠湾の勝利を得た日本が物量(航空母艦や航空機、操縦士の技量など)では有利と云えた、次のミッドウエイで日本はなぜ負けたか?これはその後の日本の敗北への道を暗示しているようで意味深い。

 山本長官が云うように日本海軍の動向は暗号解読でほぼ読まれていたことが敗北の一因であることは間違いあるまい。真珠湾の際もアメリカはすでに知っていたということはすでに通念になっているほど、日本の情報戦はお粗末だったといえよう。逆にアメリカ軍は情報の重要性の認識と情報将校への信頼が日本より勝っていたといえるだろう。

 もう一つ日本の敗因は命令系統の確立だろう。アメリカ側はニミッツ=ハルゼイ(途中で交代)=スプルーアンスは同じ情報を持ち、同じ目的(日本の空母を沈める)を持っており、その目的意識は将校クラスまで浸透していたということ。それに反して浅野忠信(何の役かはわからない)が云うように南雲中将が果たして、真珠湾攻撃やミッドウエイ海戦の戦争目的を、山本長官と共有していたかという問題が浮き彫りにされている。軍隊は組織であり、組織には目的があり、それが共有されていないと、組織的な行動にならない。本作を見ていて、それが日米の大きな違いではないかと思った。その後の日本での例えば本作でも浮き彫りになっていた陸軍と海軍の組織間の齟齬は、終戦まで引きずった問題だった。

 役者陣もみな奮闘しているが、ニミッツ役のウディ・ハレルソンは貫禄があり、もう彼は大物俳優の域に達したと思わせる。チョイ役のアーロン・エッカート(ドーリットル中佐)とデニス・クエイド(ハルゼイ)は懐かしいが、クエイドの大根役者ぶりが悲しい。戦争映画の作りとしては全体の中の個の描き方がキイになるが本作では、全体と個のバランスが至極良いのが気に入った。若い将校たちの好演も目立つ。
 日本勢は豊川悦司の山本長官は貫禄もあり好演。三船敏郎や役所広司が演じた役だが、彼ももうそういう演技をしても違和感がないということだ。国村隼とその他のエキストラ的日本人は滑舌が悪く何をしゃべっているのか、相当ボリュームを上げないと聞き取れない。

 映像については公開時から話題になったらしいが、これは矢張り映画館で見るべきものだろう。その映像と音響は相当な迫力である。CG映像だが、不自然さはほとんどなく、空中戦、海戦を描いた映画としては出色の物と云えよう。ミッドウエイ海戦の決定版と云っても差し支えないと思う。〆

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コロナで外出自粛の中、なかなか音楽会へ行く勇気が出なくて、今月はまだ一本も音楽ブログを書いていない。今月オペラの予約をしているがおそらく行かないだろう。もったいないが、命には代えられない。自分は良いとしても、かかったら家族に感染するリスクがある。入院がなかなか難しい中、結局自宅療養にならざるを得ないからだ。最近感染者が減り、再生産率も1を切る状況は喜ばしい。このまま終息していってほしい。しかし欧米の状況はどう見たらよいか、日本の10倍以上の感染者が各国で毎日増えているのは、誠に不思議なことだ。ネアンデルタール人DNA説がほんとうかな、なんて思ってしまう。

 そんなこんなで、毎日レンタルDVD,録画した映画鑑賞、読書、そしてCD鑑賞しかやることがない。運動もスポーツジムにも行けない(もう1年も休会している)のでウオーキングと配信ストレッチでなんとか体重を維持している。トルチャフィットネスというのは有料の配信だが、レパートリーが豊富で、一日2セットやっている。一人でもくもくやるよりインストラクターの指導を受けながらやるのは大変よろしい。

 さて、本題のスターウオーズエピソード9であるが、これで完結だそうだ。長く続いて後半のエピソードは繰り返しどこかで見たような画面で新鮮味がないが、あのジョン・ウイリアムスの冒頭の音楽が鳴ると浮き浮きしてしまうのは、条件反射かもしれない。最初にこの映画を見た衝撃は今も忘れられない。
 だんだんこのシリーズも主人公の名前の付け方まで雑駁になっているようで、レイだのレンだの、ポーだの、フィンだのいい加減なもので、なかなか覚えられない。今もってレイとレンはどっちだっけと云うくらいだから見ている方もいい加減だ。レイア姫とスカイウオーカーとかハン・ソロとかが今回も随分年を取ってでてくるが、それでも懐かしくうれしい。なんとランドもパラパティーンまで出てくるから、今回の作品のサービス精神は旺盛である。

 本作のミソはレイのルーツが明らかになることだろう。これは驚愕としか言いようがないが、レイとレンの何となくつながりを、最初から感じていたが、それがこのような形ででてくるとは、うまく作ったものだ。
 本作を見ていて、強く感じたのは、レイを演じた女優の演技が数段うまくなっていることだろう。顔の表情や、アクションシーンでのきめポーズなど立派なもの。気合が入りすぎた顔は、先場所優勝した大栄翔に似ていて、ちょっと笑ってしまった。こんな人は私だけだろうと思うが。
 先ほども書いたが懐かしい人々が皆登場して、この長大なドラマをうまく締めたと思う。私は大変面白く見た。〆


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バブル経済の折、大阪の 北浜の天才相場師と云われた、尾上 縫をモデルにし、社会派ミステリースタイルにした小説。かなり実在の尾上を思わせる記述もあるが、創作部分がかなり多いので小説のジャンルだろう。

 面白いのは小説のスタイルである。著者と思しき人物が、コロナ禍の現在、尾上 縫を題材に作品を書こうと、尾上にまつわる人物たちをインタビューする。そういうインタビュー形式で次第に尾上の素性を明らかにしてゆく。ここで登場するインタビューを受ける人物たちの造形が面白く、尾上が主人公だろうに、わき役のような印象すら受ける。ただその造形は小説的に見て面白いのであって、リアリティと云う意味では少々物足りない。ノンフィクションにしてはその面白みが消えるので、小説にしたのは正解だろう。しかしこの尾上なる人物、小説にしてもノンフィクションにして魅力的な人物であることは間違いあるまい。
 最後でこの作品がミステリー仕立てであることがわかるという寸法。なかなか凝った作品だ。好みとしてはノンフィクションで読んでみたい。〆

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