ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2020年12月


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著者の作品の「煉獄の獅子たち」の続編である。しかしこちらの作品の方が先に出ており、時系列的には前後している。つまり「煉獄の獅子たち」の後の物語となる。

 関東の暴力団の雄、東鞘会が内輪もめに終止符を打った後の物語である。東鞘会は警察の潜入者である十朱が支配。しかし十朱は警察とは縁を切り極道の世界に生きる。そんな中、警視庁の組織犯罪対策部の隊長、阿内は新たに兼高と云う男を東鞘会の下部組織の神津組に送り込む。兼高は経済やくざ化しつつある東鞘会のなかで、過激な暴力で、短期間で神津組の若頭補佐までのし上がる。

 そんなか、「煉獄の獅子たち」で内輪もめに敗れ、海外に逃避した神津太一が舞い戻り、東鞘会の会長の十朱を狙う。警察と神津太一、そして東鞘組の三つ巴の凄惨な争いが繰り広げられる。

 前作同様、過激な暴力描写がきついが、潜入捜査官の苦悩が色濃く描かれている。この作者の描く人物は、現実に存在しそうもないように思えるが、それにリアリティを吹き込むところが、すごいところ。
〆 


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「レミゼラブル」はカンヌ映画祭で審査員賞を受賞した作品である。あのミュージカルのレミゼラブルとは違う映画だ。フランス映画。
 現代のレミゼラブルはとは移民の少年たちだという。最後にユーゴーの言葉を借りて本作のモチーフを表明している。
 ユーゴーの「レミゼラブル」の舞台になったパリのその地区は今はアフリカ系移民たちの住む、アパートメントが林立する、スラムになっている。映像では荒廃としたアパートメントが描かれ、働くとも、学校へ行くとも、なんとも行動が不明な人々が行き交う。

 主人公はルイスと云う犯罪捜査班にシェルブールから移ってきたルイスと云う男。3人でチームを組パトロールする場面が、前半を占める。そのなかでこの地域を支配する「市長」と呼ばれる男や、イマームを自称するアリと云う男、ドローンを飛ばして隠し撮りをするバズと云う少年、盗みの常習のイッサと云う少年らが登場する。

 事件はこの地域に興行に来たロマのサーカス団から子供のライオンが盗まれたことから起きる。ロマたちはこの地域に殴り込みをかけるぞと市長を脅す、クリスと云う警察官をリーダーとするルイスら3人のチームはそれを食い止めるべく子ライオンを探索する。やがて犯人が判明する。この小さな子ライオンの窃盗と云う小さな事件が、さらにとんでもない大きな事件を引き起こす。

 移民たちのなんとも言えない閉塞感が画面を通して痛々しいくらい、感じられる。特に少年たちの絶望感は果たしてどこからきているのだろうか?しかしこの映画、フランス人らしいフランス人はルイスらの上司の本部長とクリスくらいしか、登場しない。ルイスも生粋のフランス人とは思えない。フランスのこの現状にフランス人たちは頬かむりしていると監督は云いたいのだろうか?
 空回りしているがルイスの警察官としての矜持が痛々しいが、唯一の救いだろう。
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なお、クリスらを自警団といっている解説もあるが、映画の訳では犯罪対策班といっており、その位置づけはよくわからない。上司の事を本部長と云っているのだから警察組織だと思うのだが!今写真はその班の3人組。左がルイス、中央がクリス。〆

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我が家では2004年以来TVはケーブルテレビ(現J:COM)を通して見ている。そのJ:COMからレンタルしているチューナー(セットトップボックス)が老朽化して不具合を起こしがちなので、交換を依頼した。今まではDVDレコーダーとチューナーが一体型を使っていたが、現在ではもうそういうタイプは生産中止だという。現在はセットトップボックスとDVDレコーダーは別置となっているのだそうだ。しかしよくJ:COMの説明を聞くと、別置のHDDをつけるとセットトップボックスだけでいままでの数倍の録画ができるそうだ。容量は標準で2テラもあるのだ。だから別置のDVDレコーダーはほとんどDVDの再生用の機能しか必要ない。まあ随分と時代が変わったものだ。2テラなど想像を絶する容量だ。

 まあ長々とケーブルテレビの話をしてしまったが、セットトップボックス交換に際して、契約内容も見直してネットフリックスと云うものに入った。その最初に見た映画がこのアイリッシュマンなのである。わずかな月額金額でリストにある映画を見放題と云うのはおそるべきことで、さすがに現在契約しているツタヤのDVDレンタルに比べると映画の鮮度は落ちるけれども、ネットフリックスはいつでも見放題と云うのがレンタルと違うところだ。まあ映画好きにはなんとも便利な世の中になったもの。巣ごもり生活にはぴったりというべきか!

 さて、スコセッシ監督の「アイリッシュマン」、デニーロ、パチーノ、ペシとおなじみの役者が顔をそろえた重厚な映画に仕上がっている。主人公はフランク・シーラン(デニーロ)というアイルランド人。肉の運送トラックの運転手である。彼がマフィアのボス、ラッセル(ペシ)と親しくなることにより、マフィアとつながる自動車運送の組合、チームスターのボスであるジミー・ホッファ(パチーノ)とつながり、支部長まで上り詰めるという物語である。マフィアの中のアイルランド人という異色の存在が濃密に描かれている。
 3時間近い長尺である。面白かったが、俳優たちがあまりにももう高齢になってしまったので、若いころの役もみなじじむさくて、私にはミスキャストに思えた。

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これはツタヤのDVDレンタルで見たもの。ドイツ映画である。ドイツの富豪がモンテカッシーニから来た、コリーニと云う男に、惨殺される事件が起きる。コリーニは終始黙秘をしており裁判としては簡単なものと思われていた。弁護士も経験が2か月のライネマンという新米弁護士が国選弁護士になって担当することになった。しかしこの弁護士は殺害された大富豪とは恩人に当たる人物だったのだ。
 このままで行けば最高刑の終身刑になることが必至、の状況で、コリーニが次第に口を開き、ライネマンも綿密な調査を行う。事件は思わぬ展開となってゆく。背景にナチスがからむリーガルサスペンス。面白い作品だ。今でもドイツではナチスによる戦争犯罪がこのような映画になるということ自体に驚かされる。

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3本目は実につまらない映画。ロシア人のアナと云う女性がKGBに入り、2重スパイ、3重スパイになるという内容。お暇な方はどうぞ。主人公の足の長さには驚かされる。


2020年12月23日

来シーズンの日本のオーケストラの定期公演の案内が届きだした。私は東響、東フィル、読響、都響、N響、そしてオーケストラではないが新国立、そのほか二期会や藤原もほぼシーズンを通して聴いている。

 今現在届いているのは東フィル、東響、そして読響である。来シーズンのオーケストラはN響をカットするつもりなので、都響の案内が来れば来シーズンの国内オーケストラの予定は確定する。あとはコロナ次第。果たして1月から始まるような東フィルはバッティストーニが振るのが、来日できるか不安は残る。それよりなにより、不安なく聴きに行けるかの方が問題としては大きい。

 まあ、それはおいておいて各楽団のプログラムを改めて比較するとそれぞれ特徴があり面白い。

 まず、東フィル。これは分かりやすい構成で、バッティストーニとチョン・ミュンフンが全8公演のうち6回振るのである。どれも名曲ばかりと云うのも東フィルの特徴。現代音楽はほとんどない、わずかにバッティストーニがピアソラと自作の曲を演奏する程度でそれもメインではない。
 目玉はなんと言ってもチョン・ミョンフンのブラームスの交響曲全曲演奏だろう。7月と9月の2回に分けて行う。それと2月の「復活」も楽しみだ。まさにコロナから復活できるマーラーであってほしい。
 バッティストーニは1月の「ダフニス~」の2つの組曲と「火の鳥」の組曲版が聴きものだろうが、全曲盤でないのが少々残念。
 唯一邦人では得意のラフマニノフの交響曲第二番と「パガニーニ~」を上原彩子と組んで演奏する。
どの回も名曲ぞろいでこういうのは実にうれしい。こういう曲たちですらライブではなかなか聴けない日本なのだから、つまらん現代音楽など入る隙間などないはずなのだが、今どきの指揮者はどうしても音楽的未開の日本人の蒙を啓きたいようだ。

 その代表が読響の定期だ。ただ読響は別に名曲シリーズと云うのを用意していて、名曲ばかり聴きたい人はそちらをどうぞと云っているので、筋は通っている。

 私の感覚で読響の10回の定期公演のうち名曲と云うものはモーツァルトの21番のピアノ協奏曲、シューベルトのグレイト、ブルックナーの五番、ドビュッシーの「牧神~」、プロコフィエフの五番、チャイコフスキーのピアノ協奏曲くらいである。
 あとはすべて近現代の音楽。例えばデュティユー、ヴァレーズ、マルティヌー、ライマン、アデス、メシアン、フアン・デル・アー、フランツ・シュミット、それと日本人で、諸井三郎、細川俊夫など。全部初めて聴く曲ばかり、勉強するのが大変である。こういう音楽はコンサートで聴いてもまず私なぞは通常右から左でもう2度と聴くことはない。
 そのほかでは最も意欲的なプログラムとしてシュトラウスの「エレクトラ」を演奏会形式で全曲演奏するのが注目だろう。これは常任指揮者のヴァイグレがふる。ヴァイグレはシーズン通算で3回振ることになっている。彼の公演ではでは12/14が名曲コンサートだろう。
 そのほかでは下野や山田(和樹)、鈴木(優人)など邦人も活躍する。

 東響の定期のプログラム構成は上記の2つの団体のちょうど中間に位置してまずはノーマルな構成だ(自分中心です)。音楽監督のジョナサン・ノットは全10公演のうち4回振ることになっている。
 注目はマーラーの一番、シベリウスの五番、ブルックナーの四番、あたりだろう。なかでもシベリウスは初めて聴くと思うので期待したい。その他では若手の原田慶太楼による、ショスタコーヴィチの10番、ベルトランド・ビリーのブルックナー七番、ウルパンスキーのカルミナ・ブラーナあたりが楽しみである。
 邦人は原田以外には沼尻と秋山が登場する。

 何度もしつこいが、問題は外来の演奏家たちが来日できるかだろう。そういう意味では不安は尽きないし、絶望感も残っている。


 さて、ライブにはもう来月の5日まで何にもないので勢いCDを聴くことになる。あたらしいCD を買おうかとレコード芸術の1月号を見たがどうも買いたいと思うのがない。唯一ペトレンコ/ベルリンのCDは魅力的だがCD,ブルーレイCD,DVDがセットになっているのでは手が出ない。なぜ分割しないのか、商売がせこいとしか言いようがない。まあペトレンコの演奏はなんどか聴いているが今焦って聴く必要はないとおもう。とにかく一度日本に来なさい。
 その他ではレコードアカデミー賞をとったカサドと云う指揮者のベートーヴェンの第九の演奏も聴いてみたいが批評を見ると、過去聴いたノリントンやジンマンの延長のような気がしてなかなか手が出ない。そんなこんなで結局新しいCDは買わなかった。

 ということで、勢い古い録音を聴くことになる。大体最初は内田光子のモーツアルトのピアノ曲を聴いて、後はシンフォニーかオペラで〆るのが毎日だが、最近聞いた中ではワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」をショルティが指揮したものがえらく新鮮だった。
 ずいぶん昔に買って殆んど聴かなかったが、音楽プロデューサーの「ジョン・カルショー」の自伝を読んでいたら急に聞きたくなった。これはビルギット・ニルソンがリングでブリュンヒルデを歌う条件に一年以内にトリスタンを録音したいといったらしい。しかしカルショーはトリスタン役にウイントガッセンを考えていたので、そのウイントガッセンのグラモフォンとの契約が切れるのを待とうと提案した。ニルソンは待てないと云い、結局、東奔西走して見つけたのがフリッツ・ウールというテノールだった。
 この時代トリスタンの録音と云えば初の全曲録音盤のEMIのフルトヴェングラー盤であった。しかしそれはモノラルであり音響的に物足りなさもあったので、カルショーはステレオ版の意義はあると考えたのであった。さて、今回聴いてみてフリッツ・ウールがなかなか良い。ウイントガッセンのような英雄的なトリスタンとは違う、繊細で若々しい歌唱は聴くに値するものだ。時折ニルソンに圧倒されるがそれは仕方がない。
 ショルティの力にみなぎった指揮ぶりはフルトヴェングラーの沈み込むような演奏とは対極であるが、今回聴いてこういうトリスタンだって決しておかしくないと感じた。なるほど神格化されたフルトヴェングラーの演奏で聴く2幕のブランゲーネの最初の警告あたりから以降は、もうこれ以上の演奏は考えられないものだろうが、SACD化されて音質が良くなった盤でも結局穴倉から聞いているように感じられ、自室では音響的には、ショルティ/ウイーンフィルの音響美を超えることができないのがものたりなさでもある。
 常時聞くならショルティ盤、陶酔したければフルトヴェングラー盤だろう。ベーム盤も良いが今回改めて聴いてみて、いみじくもカルショーが述べていた通り、演奏が少々速すぎるように感じる。若い時はベームが一番と思っていたが、年を取ったのかもしれない。クライバー盤はイゾルデのプライスが苦手で滅多に聴かなくなった。
 こうやってオペラを聴き始めると次々と聴き始めてしまいがなくなってしまう。これを音楽三昧といわずしてなんと言おう。〆


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「天離り果つる国 」あまはつりはつるくにと読む。空のかなたに遠く離れた辺境の地と云う意味だそうだ。今日では観光地として有名だが戦国時代はそういう位置づけだった、飛騨の国、白川郷がこの作品の舞台である。この地は山深く、そして冬は雪に閉ざされてしまい、外敵から守られる。しかし幸か不幸か、この地には黄金とそして火薬の原料として欠かせない塩硝を産するのだった。それに目を付けた織田信長、そして豊臣秀吉がこの辺境の地をほっておくことはなかったのである。そういう舞台設定である。
 この地には帰雲山というのがかつてあり、その麓には帰雲城があり、内ヶ嶋氏理と云う武将が支配をしていた。この物語はこの平和で穏やかな里を外敵に襲われない、独立した地域として守ろうとした人々の物語である。戦国時代のユートピアが果たして可能だったか、上下2冊の中にたっぷり書き込まれている。
 この作品を読みながら思い出したのは小学生のころ見た東映の新諸国物語「笛吹童子」である。あの映画には帰雲城のような秘境の城があったし、氏理の娘(紗雪)のような美少女も出てきたし、竹中半兵衛の弟子の七龍太(七郎太)のような美少年も登場した。またこの小説に登場する下野頼蛇などというおどろどろしい名前の人物らしい悪役も登場した。
 この小説のしかけはなるほど戦国の英雄の信長や秀吉や家康らが登場するが、話の底流に流れるのは私が胸躍らせて食い入るように見た東映の時代劇の世界ではないかと思われるのである。あのころの中村錦之助、東千代之介、千原しのぶ、高千穂ひずるらの東映の俳優たちは私のアイドルだった。そういう人々に思いをはせながらこの長巻を楽しく読んだ。


 

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