ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2020年11月

2020年11月28日
於:東京文化会館(1階17列左ブロック)

都響スペシャル
 指揮:沼尻竜典
 ピアノ:アンドレイ・ガヴリーロフ

ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番

ブラームス:交響曲第四番


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上野の公園口を出てびっくりした。今までは文化会館の目の前に道路があり、横断歩道があったのだが、道路は消えて、広場のようになっていた。文化会館まで信号も何もなくなってしまって、広い空間のみ。なかなか気持ちの良い光景だった。

 さて、結局、都響は1月からの定期も全部キャンセルになり、今後はすべて今日のようなスペシャル形式でその都度座席を取る形となってしまった。いたしかたがない。それにしてももうすでに東フィルや東響などは来年度の定期公演のチケットを発売しているが果たしてプラン通りになるのかどうか?
今から心配しても仕方がないことだが!

 今日の公演はなんと言ってもモーツァルトが印象的だ。いままでライブでもCDでもこのようにこの曲が鳴ったのを聴いた事がない。
 1楽章、沼尻がオーケストラで導入を演奏するがこれが滅法早い。間違えではないかと思うほどだ。
そしてガヴリーロフのピアノが入ってくる。鋼のような響き。しかしきりりとして至極心地よいが、それが次第に奔馬のように走り出す。ある時はペダルを踏む足音がするほど、またある時は椅子が後方にのけぞるほど、ダイナミックだ。テンポは最初の沼尻の導入のテンポのままだから、まさに驀進といえよう。そしてベートーヴェンの書いたカデンツァ。これも今まで聴いてきたどの演奏よりも豪快である。ここにはもうあのモーツァルトのもつギャラントさは皆無に近いのだ。この曲はベートーヴェンの世界に半分突入している曲と云われているが、今日の演奏を聴いていると、ベートーヴェンと見まごうばかり。
 2楽章もすこぶる速い。ロマンスという表記だがそういう気分にならず、こころはずっと1楽章をひきずっておりざわざわした気分。
 3楽章も驀進が続く。この重苦しい気分は最後の転調した部分から解放されるかと思いきや、そんなに甘くない。オーボエの響きで音楽は一転明るくなるが、このオーボエが狂おしく吹かれ、明るい気分などいささかもなく、奈落の底へ落ちるように終わる。まあ何ともため息の出るような音楽だった。演奏時間は27分。大変な体験で疲れ果てた。
 アンコールは2曲、密集を避けるためか曲目を会場では掲示していないので正確には自信がないが、スカルラッティ(ソナタ、L366)とモーツァルト(幻想曲K397)だと思われる。

 沼尻の指揮は1年半ぶりに近い。最後に聴いたのが田園と大地の歌だった。彼は琵琶湖でオペラを定期的に振ったりして着実に大家の道を歩んでいるようだ。蛇足だが前日のメリーウイドーの沖澤同様、彼もブザンソンの優勝者である。

 ブラームスの四番の演奏も見事なものだ。まず骨格がじつに強固であり、音楽の枠組みがよく見える。そして音楽は肥大することなく、どちらかというと筋肉質のブラームスと云えるだろう。1楽章の後半、3楽章、4楽章の後半の疾走感はそういうスタイルだからこそ味わえるのだ。
 ただオーケストラともども、これがさらに一流の高みに近づくにはいくつかの課題があることも事実である。
 一つは音楽は筋肉質であるのは良いが、私にはもう少しどっしりした豊かさが欲しい。先日のウイーンフィルのようにどんなときにも弦が全体の音楽を支えるから、どっしりした響きが得られるのだ。先ほどの1楽章後半、3楽章,4楽章の後半の疾走感に足りないのはこの弦のどっしりした下支えだろう。2楽章のような緩徐楽章でも、木管ばかり浮き上がり、弦があまり印象に残らないのは、ブラームスとしては物足りない。コロナの影響で編成や配置の影響があるかもしれない。それと私は都響の定期をサントリーで聴いているがやはりサントリーのほうが響きが良い、そういうことも影響しているかもしれない。
 もう一つは音楽に吹き込むパッションだろう。昨年の「大地の歌」でも感じたのだが、音楽の持つ熱狂が音につながらないような気がする。例えば4楽章の最後の部分など、聴き手を熱狂の渦に巻き込むようなパッションが欲しい。まあそれはそれとして、一つの模範的な演奏としての答えだろう。
 演奏時間は40分。

 最初のプログラムはオペラではすぐにバッカナールに入ってしまう演出が多いので、この序曲の形で聴けるのはうれしい。主題が次第に上昇しながら音がもくもくと膨れ上がる終結の部分はいつ聴いても感動的だった。



2020年11月26日
於:日生劇場(1階 I列中央ブロック)

二期会オペラ・レハール「メリー・ウィドー」
指揮:沖澤のどか
演出:眞鍋卓嗣

ツェータ男爵:池田直樹
ヴァランシエンヌ:森田麻央
ダニロ:宮本益光
ハンナ:腰越満美
カミーユ:金田京介
オルガ:加賀ひとみ
ニューグシュ:山岸門人
合唱:二期会合唱団
管弦楽:東京交響楽団


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このご時世にメリー・ウィドーなどとめくじらをたてる方もおられようが、こういうのを聴きながらアハハと笑うのも一興。楽しい公演だった。

 厳重なコロナ対策の元、本公演は開催された。関係者のご努力に感謝したい。入場時に入場登録し、チケットも自分でちぎるなど、受け入れ態勢から丁寧に実施。あちこちに消毒液も設置。座席は一人置き、退場は時差退場と考えられる対策はすべて実施と云う印象。

 今回の二期会公演もこのところ続いている演劇畑の出身の演出。二期会は「蝶々さん」も「フィデリオ」も妙な読み替えでがっくり来た。本公演も内心びくびくだったが、さすがにオペレッタだけに、なかなかいじりにくいのか至極まともな公演だった。装置もごてごてせず、シンプル。最もウイーンのフォルクスオパーの来日公演などもほとんどはりぼてであったが、そんなことは関係ないとばかり楽しい公演だったので、このオペレッタはそういうものには(装置・演出)には関係なく、次から次へと登場する歌い手のナンバーに耳を傾け、ある時はアハハと笑い、ある時は舞台に和して手拍子をする、そういうものなのだろう。本公演もそういう精神を踏襲しているといえよう。

 今回の演出では日本語訳詞による公演だった。これは演出家の発案なのか、二期会の発案なのかはわからない。しかし訳がまともなので、とくにナンバー曲は違和感はそれほどなかった。ただつなぎの朗誦的な部分の訳はいささか違和感を感じたが、総じてうまくいっているといって良いだろう。せりふの部分はかなり自由に翻案しており、コロナも話題に織り込んでいた。
 しかし今日原語上演がもう一般になっているなかで、どうして日本語訳による公演なのか、その必然性がよくわからない。しかもナンバー曲にはわざわざ字幕までつけているのだ。私はナンバー曲は原語で、せりふの部分は日本語と云うスタイルがこういう音楽には向いていると思うのだが!

 舞台装置はポンテヴェドロ国のパリ大使館として作られている。正面左手には大使館のクロークがあり、その横奥には入り口。正面にはロビー風の空間があり、円形のソファーが置いてある。正面には2階に上がる、透かしの階段があり、上がるとすぐはバルコニーになっている。舞台右手は庭で樹木が植わっている。2幕の重要な装置である東屋(パヴィリオン)はここではクロークが代用されている。
 2幕では大使館はポンテヴェドロの民族的装飾がされているとなっているが、植物が少し変わるだけであまり1幕とは変わらない。2幕と3幕は休憩がなく、「ヴィリアの歌」の間奏曲の間は幕が半分ほど下ろされている。
 3幕のマキシムの場面は、空間は赤い布で覆われキャバレー風の雰囲気にしている。いずれにしろ装置そして衣装などは同時代とはいわないまでも、このオペレッタの設定と軌を一にしているといえる。

 歌い手はそれぞれ楽しませてくれた。

ヒロインのハンナの腰越はベテラン(失礼)らしい落ち着いた声が、若くして未亡人になった女性らしく、心地よい。ヴィリアの歌などなかなか聴かせたが、惜しいのは最高音に苦しさが感じられたこと。それ以外は演技もうまく楽しませてもらった。
 ダニロの宮本も安定した歌唱。二人で歌う聴かせどころの3幕の「唇は黙しても」はゆったりと歌い、聴き手にいろいろな思いを感じさせる名唱だった。過ぎ去りし青春が走馬灯のごとくよぎる。

 ツェータ男爵はいかにも世故にたけた老大使を演じていた。歌唱はすこしふがふがだけど、この役どころにはぴったりだ。
 ヴァランシェンヌとカミーユのカップルは森田、金山ともに初々しさが魅力だ。2幕の第11曲の2重唱は聴きごたえがあった。ただ金山は3幕のマクシムでのグリゼットの歌は声ができらず少々不満。
 
 2幕の「女女のマーチ」、3幕のフィナーレなどアンサンブルも満足行くもの。ただ3幕のマキシムでのフレンチカンカンはいささか上品で迫力不足。
 歌唱も含めて全体の印象は、随分と上品なオペレッタだなあということ。これがしかし日本の二期会スタイルだということだろう。こういうスタイルもありだ。一例をあげるとニェーグシュのセリフ。もう少し笑いを取る場面があるかとおもったが、アドリブ?も含めて案外とまともだった。ここで下品なギャグを飛ばすことも可能なのだが、それは抑制されている。

 指揮の沖澤はブザンソン指揮者コンクール優勝者。ブザンソンは日本の指揮者の登竜門のようなコンクールに思えるが、小澤をはじめ多くの指揮者を輩出している。そのなかでも最若手の沖澤の演奏は切れ味の良いもの。「女女のマーチ」で切れ味の良いパンチを聴かせたと思ったら、3幕のダニロとハンナの2重唱のしっとりした演奏で聴き手を酔わせる。今後大いに活躍をするだろうと予感をさせる指揮ぶりだった。演奏時間およそ2時間の公演だった。



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ヒトラーの生涯を小説仕立てで描くという試みは興味深く、さっそく読んでみた。ヒトラーと云う人物を描いた書物や映画、ドキュメンタリーはあまたあるが、小説と云うのは記憶にない。1889年から自殺するまでを描いているので、上中下三冊という大部の作品である。膨大な参考図書、映像などを駆使してヒトラー像を描いている。なかには漫画や映画(シンドラーのリストなど)やドキュメンタリー(NHKの映像の世紀)なども含まれている。

 印象としては劇画や映画のノベライズ 化と云う印象である。ヒトラーに語らせてというより、彼の発言や演説で物語をつないでゆく手法である。したがってなんとなく上っ面を描いているだけで、全体は時系列的に滑らかに歴史を追うという印象で、ヒトラーの内面に切り込めてはいないように感じた。ヒトラーはなぜそういう発言をしたのか、なぜそういう演説をしたのか、その内面である。彼の思想の柱は「反ユダヤ主義」と「ドイツの生存圏の確保」であろうが、彼の脳髄を構成するその二つのポリシーは如何に形成されたのかが、今一つ理解できない。そのため後段のオーストリア併合、チェコ問題、ポーランド侵攻などの綱渡りの決断がなぜできたのか?兵卒としての経験しかなく、政治家としての経験も乏しく、読書と「我が闘争」の執筆だけでそのような大胆な意思決定はできないように思うのだが?とにかく彼の上記の局面での意思決定はすべて綱渡り、それをすべてわたりきる胆力の源泉はなにかは疑問に残った。

 また反ユダヤ主義者と云うのはあまたいるだろうが、収容所で虐殺をするところまで行動した人物はいない。なぜ彼はそこまで実行したのだろうか?本作では後段でアウシュビッツを描く、それは生々しい描写であるが、しかしこの小説に期待されているのはそういう描写もさることながら、ヒトラーがなぜそこまでの行動に走ったのかの心理、行動、の分析ではないのか?これは小説なのだから、あるがままに描くことも重要だが、著者のそういうヒトラーの心象の読み取りが重要ではないかと思う。

 全体の構成はヒトラーとヒトラーの仲間たちとの対話編のようになっているが、最後のほうで一般市民、ユダヤ人が描かれるようになって、対話篇の部分がカットされてしまっている。したがって独ソ戦や英国との戦い、いやその前の西欧の占領にはあまり紙面が割かれていないのは、物足りない。
長い割にはちょっとさえないという印象だった。残念。

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アメリカ黒人奴隷解放運動家のハリエット・タブマンの半生を描いたもの。

 ときは1849年、ところはメリーランド州のブローダス農場。小規模な農場で親子代々ブローダス家が経営をしていた。資産の大半は黒人奴隷である。説明はないが結婚を奨励して子供を作らせそれを売る。つまり農場の経営の変化、例えば農作物の不作なときには、その奴隷を売って経営を支えていた。要するに黒人は商品だった。そういうことがこの時代の南部では当たり前のこと。男で700ドル、子供でも数百ドルで売れた。そのころの1ドルは今の100倍以上ではきかないのではあるまいか。経営の安全弁の黒人たちの不幸が前半では色濃く描かれる。

 主人公のハリエット(農園ではミンティという名前だった)は複雑な構造になっていた。夫のジョンは隣の製材所の元奴隷で今は自由民。母親はブローダス家の奴隷だが、父親はこれまた隣の製材所の自由民だった。ブローダス家の先々代の遺言でハリエットの母親が45歳の時に開放するということになっていて、遺言書を手に入れ、ブローダスに示すがブローダス家は拒否。母親が自由民になると子供たち、ハリエットらも自由民になる。しかしそういう夢は粉々に砕かれ、絶望の中、ハリエットは 自由か死かと誓い、無謀な逃走を図る。

 その後のハリエットの活躍が後半のストーリーだ。奴隷の脱出ルートを地下鉄道と云い、それを運営する人々、中でも実行部隊になる人々を車掌と云う。ハリエットは奴隷の時代に殴られそれ以来神の啓示を受けるようになり、車掌として活躍をしてゆく。

 闘争の場面のハラハラ感はサスペンス仕立てだが、結局はこのブローダス家に代表される奴隷を中心にした経営構造が、つまり奴隷は単なる無償の労働力だけではなく、卵を産む資産であり、商品だったということが、この奴隷制度を長らえさせたといえるのではあるまいか?そういう経済構造まで踏み込んで描いた奴隷解放のドラマは意外と少ない。秀作である。〆


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本書は書店で衝動買いしたものだ。しかしこれは実に面白い作品だ。

 古代メソポタミア(今のイラクとシリアの一部)を知りたいと思ったのはどういうわけか?学校で習った歴史の基礎くらい知っている、例えばハンムラビ法典とか、楔形文字 とか、バビロンの都とかだ。しかし最近再放送だがNHKで「アイアンロード・鉄の道」という番組が放映された。そこに鉄を広めた謎の民族ヒッタイトについてかなりの部分が割かれていたのだ。このヒッタイトはメソポタミアのみならずエジプトと衝突してこの古代史を彩るわけで、ではどのようにメソポタミアが関係してきたのかに興味を持った次第。
 ちなみにアイアンロードは更に謎のスキタイを通ってアジアに伸びて、朝鮮半島から日本にわたるというストーリーになっている。これは「シルクロード」はまた違うルートをたどる。政治史から云うとこのアイアンロードと云うのは世界史に大きな影響を与えた。と云うのは余談。

 さて、前置きはさておき本書は古代メソポタミアがシュメール人が最初の文明を起こしてから、新バビロニア帝国をアレキサンドロスが滅ぼすまでが中心である。その後は世界史にメソポタミアが主導権をとるという形では登場しない。しかしそれまでのおよそ4000年はこのメソポタミアが世界の中心であったといって良いだろう。本書はその長い歴史を新書の中にうまく、わかりやすく収めている。新書と云う枠はなかなか難しく、どうしても絞らないと散漫になってしまって頭に残らない。しかし本書はいくつかの理由で見事に収めている。

 一つは本書は書下ろしでなく,講座で話している原稿を起こしていることだろう。一度話している事だけに、実に整理が行き届いていてわかりやすい。4000年間の王朝の盛衰を描くのだから多くの人物が登場するのでへたをやるととても分かりにくくなるが、本書ではそういう問題は皆無とは言わないが少ない。

 二つ目は、本書の各章でかならず年表を付けていることだ。これによってこの章を読んでいる私たちはどの時代にいるかということがわかりやすいのだ。

 三つめは豊富な図版である。それは一つは詳細な地図。大体地図がついても文書と地名が一致しないなどいい加減なものが多いが、本書では文書に出ている地名は必ず地図上にも載っているので、私たちは今どの地域のことを読んでいるのかがよくわかる。これは当たり前のことだが、できていない本が多い。
 それから古代の建造物、彫像、美術品、特にアッシリアの豊富なレリーフは素晴らしい。できればカラーで見たいがそれはないものねだりだろう。図版だけで数えていないが200近くあるのではないか?新書の歴史もので、いや新書でなくとも、これほど図版の行きとどいている作品は初めだ。

 本書を読んで発見したことはいくつかあるが、一つは古代メソポタミアは、結局、南のバビロニアと北のアッシリアとの抗争の歴史であるということだ。ここでの権力者たちの栄枯盛衰は20世紀から今日になっても図式はそう変わっていない。そしてアッシリアとバビロニアにトルコ(アナトリア)、エジプト、イランなどが絡み合って行くのも現代とそう変わらない。読み終わった後人類と云うのは同じことの繰り返しをやっているんだということを改めて感じた。

 文化的に云うと面白かったのは楔形文字の生成が図で示されたこと。なるほど文字はこのようにできたのかと目からうろこだった。
 そして、前述のアッシリアのレリーフの優れていること。これは白黒の図でもはっきりわかり、古代の人々の芸術のセンスに大いに感動した。
 古代メソポタミアの入門書としてこれほど優れたものはないだろう。

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