ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2020年10月

2020年10月29日
於:サントリーホール(1階16列中央ブロック)

N響演奏会
指揮:鈴木雅明

シューベルト:交響曲第二番、第四番(休憩なし)


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今シーズンのN響の定期演奏会はすべてキャンセルとなり、毎月個別に企画され、その都度チケットが発券されることになった。今月は今回のサントリーホールの公演の他2公演が行われた。

 座席は隣に空席を設けたコロナ方式。ブラボーなしの時差退席、そして休憩なしと云う設定だ。1階席だけだが発券されたチケットはほぼ完売のようだった。
 
 今夜のプログラムはシューベルトの10代の作品、2曲。シューベルトの交響曲というと七番(未完成)、八番(グレイト)が最も有名で、今夜のような若いころの作品一番から六番まではあまり演奏されることはない。今夜のプログラムも並みの指揮者なら未完成を置くだろうが、そこは天下の鈴木氏である。初期の2曲を通しで演奏した。

 シューベルトの交響曲は未完成しか知らなかったのは学生のころ。グレイトを聴くようになったのはずっと後で、ベームの交響曲全集を聴くようになってからだ。しかしその全集に入っている一番から六番はほとんど聴くことがなかった。聴くようになったのは2008-9年の東響の定期公演でュベールスダーンがシューベルト交響曲全曲演奏をしたのを聴いてからだった。若々しさのあふれるスダーンの演奏のせいか、ひどく印象に残り、ベームの演奏も聴くようになった。更にスダーンのライブ演奏もCD化され、それも愛聴盤になった。廉価版になっていたカラヤンの演奏(1981年、一番~六番)も一時よく聴いた。そしてその後ブロムシュテット盤がSACD化されてから、ブロムシュテットがお気に入りになった。さらに最近ではアーノンクール/ベルリン盤も聴いてみた。

 今夜のこの公演にあたり、このプログラムの2曲をざっと聴いてみたが、最も印象に残ったのがスダーンの演奏だった。彼の演奏はモダンオーケストラで古楽風に演奏する、折衷スタイルで、響きの薄い弦や、乾いた響きのティンパニなど、とても新鮮に聴こえた。この響きはブロムシュテットやベーム盤ではなかなか味わえなくて、今回久しぶりに聴いて、サントリーホールでの東響/スダーンの演奏を思い出して、懐かしかったので、印象に残ったのだろう。

 今夜の鈴木のシューベルトもスダーンと同様の折衷スタイルである。しかしその徹底度はスダーンをはるかに超えていて、これは実に聴き応えのあるシューベルトだった。シューベルトがこの演奏を聴いたら「僕の曲ってこんなに立派なの!」といったかもしれない。
 弦の響きは薄くきりっとしており、じつに爽やか、ティンパニの強打はパーンと鳴り、腹に響くし、金管、特にトランペットの鋭く切り裂く音は、シューベルトとは思えない、力強さを感じる。

 まず、二番、速いテンポも驚くが、一音一音のメリハリが鋭く、今まで聴いた事のない響きに、少々動揺しながら聴いていた。反復もあり演奏時間は14分と云うのは、聴いた事のない長さである。
素晴らしいのは3楽章だ。メヌエットだがもうすでにこれは、スケルツオであり、後年のグレイトシンフォニーの3楽章を先取りしたような曲だ。これを超快速で突き進む演奏、手に汗握るとはこのことではあるまいか?中間のゆるかな部分でほっとするが、また狂乱のるつぼに落ち込む。4楽章も超快速で進み、圧倒される。2楽章のアンダンテはシューベルトの歌謡性を生かした名演だ。演奏時間は31分。

 四番は、二番以上にごつごつした音楽だが、鈴木の演奏では後半の2楽章でそのごつごつ感が強調される。同じ音型の繰り返しはグレイトの4楽章を感じさせる。最後のティンパニの強打で音楽の緊張感が解き放される。素晴らしいのは2楽章、二番と同様歌謡風のメロディ(後の即興曲に採用される)が印象的な楽章だが、この演奏を聴いていると、シューベルトは完全にロマン派の音楽家だと感じさせる。この楽章は本日一番の感動的な部分。一楽章は何か切羽詰まったものに追いかけられるような焦燥感が充満している。ここでの音楽的緊張感は相当なものだった。演奏時間は29分。

 N響をサントリーホールで聴くのはいつ以来か全く思い出せないが、今夜の演奏を聴くと、矢張りホールは大切だと感じた。N響だとトーチカの中から音楽が聞こえてくるようだが、このホールでは空中で溶け合ってきれいに耳に届く。トランペットの鋭い響きも、オーケストラの厚い響きを切り裂くように聴こえてくるのでとりわけ印象的だった。また木管群の響きの良さも印象に残った。久しぶりにシューベルトを聴いたが、しばらくわすれられないサウンドになりそうだ。


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原題も邦題と同じ「DANGER CLOSE」つまり至近着弾と云う事。邦題についた副題は極限着弾でこれは意味不明。至近着弾と云うのはせりふを聞いているとわかるが、味方が敵に接近されているときに、そこを破られると、隊全体が全滅する可能性が出てくるので、砲の着弾地点を味方の最前線に設定することをいう、いわば自殺行為であり、戦時としては英雄的な行為と云わねばならないだろう。

 1966年8月18日、ヴェトナム戦争に参戦したオーストラリアとニュージーランドの混成部隊の基地がヴェトコンの迫撃砲の攻撃を受ける。調べるとロン・タン(LONG TAN)地区から発射されていることが分かった。オーストラリア軍は1中隊(D中隊約100名)を偵察に派遣する。しかしこの迫撃砲の攻撃はヴェトコンによる新たな大攻勢の先触れだったのだ。1000名ものヴェトコンはD中隊を包囲、隊は全滅の危機! 原題についた副題は「BATTLE OF  LONG  TAN」。言うまでもないがオーストラリア映画。

 この映画はまるで「プラトーン」と「地獄の黙示録」をミックスしてオーストラリア版にしたようである。チャーリー・シーンのような新兵(ラージ)が主人公の一人になったりする。また女性ボーカルとバンドの慰問もあったりする。そしてヴェトコンによる包囲。ただこの映画の凄いところは118分のうちおよそ3/4は戦闘シーンやその他軍事行動に関すること、例えば砲撃や作戦会議など、に費やされていることだ。プラトーンのような人間ドラマはないことはないがむしろそれは添え物である。D中隊の戦いそのものが主人公の映画であり、したがって、映像もそれにフォーカスされる。見ているとしんどくなるが、プラトーンとは違ったかたちで戦争の無残さ、無意味さ、残酷さ、悲惨さを訴えていることは間違いないだろう。期待してみた映画ではなかったが、なかなか重たかった。


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原題は「CURRENT WAR」、つまり電流戦争。1880年から92年アメリカにおける電球とその電源にまつわる、エジソン(ベネディクト・カンバーバッチ)対ウエスティングハウス(マイケル・シャノン)の争いを描く。
 電球を発明したエジソンはそれを普及させるために地域を区切って実験を始める。メンローパークでの直流電源による実験の成功で一歩先んじる。一方エアー・ブレーキで財を成したウエスティングハウス は直流では一台の発電機でのカバー地域が狭いという欠点から交流を採用。交流対直流の争いが始まる。1892年のシカゴ万博で決着がつくが、そこまでの間に両者の醜い争いが繰り広げられる。皮肉なことに結局もともとエジソンのもとで働いていたセルビア人の天才技術家のテスラの発明した交流モーターが決着をつけることになる。

 この映画は事実に基づいた作品である。エンドクレジットを見る限り原作はないように思ったが、見落としかもしれない。 
 以前、グレアム・ムーアと云う人が書いた「訴訟王エジソンの標的」という小説(ハヤカワミステリ)を読んだが、それはほぼこの作品と同じ内容を描いている。ただ小説はウエスティングハウスの弁護士だったクラバスが主人公だった。本作も実に面白く、合わせて読むと一層この争いについてわかるだろう。

 映画はなんと言ってもマイケル・シャノンの重厚な経営者ぶりが素晴らしい、発明王エジソンは発明家として世間に名を知られていても、人間としての魅力は少なくて、この映画を見る限りはウエスティングハウスに軍配を上げたい。
 その他エジソンの秘書役のトム・ホランドの演技が好きだ。大変面白い映画で久しぶりに映画を楽しんだ。
 〆


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不夜城など新宿を舞台にしたハードな作品を書いたあの馳氏がこのような作品を生み出すとは思わなかった(失礼)。直木賞受賞作品。

 ペット(犬)による癒しの物語。スタートは震災の後の残る仙台、シェパードと和犬の雑種の「多聞」という雄犬が主人公である。犬と人間の交流を描く6編の連作集である。各編に出てくる男女はいずれも心に傷を持つか、生きることを何かに追い込まれた人々、彼らが多聞によって癒されてゆく。その過程がこの小説の読みどころだろう。放浪犬の多聞はそういう人々の前にまるで救世主のように現れる。しかし多聞は決してそこにとどまらない。彼の眼はなぜか常に南を向いており、そしてフリーになるたびに彼の足は南に向かうのだ。孤高の犬の姿はほれぼれするほど素晴らしい。

 しかし、多聞は決して無償の癒しを人に与えているわけではないと思う。彼に接する人々は、不思議と彼から視線を離せない。いつも多聞は傷つきボロボロになった、薄汚い、野良犬として、人々の前に現れるが、それでも人々は多聞を追い払わない。彼を病院に連れて行ったり、食事を与えたりして、彼を深く愛するようになる。この愛が多聞から人々に与える癒しに代わるのだろうと思う。ペットと人の愛は双方向なのだ。第6編の少年との交流がクライマックスになることは言うまでもないだろう。

〆 

10月25日(於:サントリーホール、1階15列目右ブロック)
都響スペシャル
指揮:小泉和裕

ベートーヴェン:交響曲第四番

ブラームス:交響曲第三番
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都響はイベントの基準が緩くなっても、依然コロナ対策で空席を設けた席配置にしている。やはりなんとなく、前後左右が空席だと安心する。発売されているチケットはほぼ完売のようで、1階席はほぼ埋まっていた(発売分)。

 何度も書いているがいま日本で独墺物を振らせたら小泉がナンバー1だと思う。オーケストラの鳴らし方がいかにもドイツ風の重厚さがあり、ピリオド派とは別世界を形成していて、今日では独特の音楽を聴かせてくれる。

 今夜の名曲2曲についても同様。ベートーヴェンの後半2楽章と、ブラームスはそういう行き方の典型のような演奏で、大いに楽しんだ。

 まずベートーヴェン。これはあたかもシューマンが「北欧の巨人に挟まれたギリシャ乙女」と形容したような演奏である。1~2楽章は、いささかそういう微温的な雰囲気が濃すぎて、音楽が少々のっぺりしているような印象だったが、3楽章からオーケストラの運動は活発になり、実に躍動的。ピリオドのようにはねっかえりのような印象は皆無で、ひと昔の大家たちの演奏を彷彿とさせる。クライバーよりカラヤンに近い。そして4楽章も実に生き生きしている。オーケストラをゆったりと鳴らしながら、活発な運動を確保しているのがじつに気持ちが良い。ファゴットもしっかり食らいついていた。
 ベートーヴェンはノリントンのピリオド演奏から始まって、ジンマンのベーレンライター版の演奏、ラトルやアバドの折衷型の演奏、そしてシャイーのそれらを融合して、再創造した、全くの新境地を開いた演奏などを聴いてきたが、今日の小泉の演奏を聞いていると、そういう演奏は忘れて、昔から聴いてきたベートーヴェンの世界に引き込まれたような気分になる。反復はカットして演奏時間は約32分。

 ブラームスは更に素晴らしい。1楽章の雄大な響きからもうブラームスの世界だ。都響からこういう響きを引き出せる人はそうはいないだろう。シャイーなどを聴いていると古臭いと思えるかもしれないが、しかしこれはこれで一つの世界だ。
 2楽章はなよなよしない、男性的なアンダンテ。ここはロマンの響きむんむんの演奏や、深刻ぶった演奏もある、そういうのもたまにはいいが、ここで聴く雄々しい演奏は共感できる。木管特に
オーボエとクラリネットの自立性のある響きは小泉の棒に一致している。この気分は3楽章にも影響している。ここでは甘い調べも幾分陰鬱で、英雄の苦悩を示しているかの演奏だ。ここでの木管も実に素晴らしい。
 終楽章は一楽章と同様雄大で男性的。再現部から終結までの道はサントリーホールを大伽藍と化す。
反復カットで演奏時間は34分。
 
 来年のニューヨークフィルの来日もとうとうキャンセル、12月のヤルヴィのベートーヴェンもキャンセルで海外演奏家は全滅状態の中、先日の新国立や今回の都響のように国内の演奏家がしっかりと穴を埋めてくれているのは実に素晴らしいことではあるまいか?


 

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