ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2020年09月


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 ペネロペ・クルスが演じている、キャスターのバージニア・ヴァレホの著書(LOVING PABRO HATING ESCOBAL)を下敷きにした映画である。
 麻薬組織メデジングループのリーダー、パブロ・エスコバルの1980年代から射殺されるまでのほぼ10年を描いている。

 コロンビアのメデジンを本拠地とする麻薬組織メデジングループはパブロ・エスコバルをリーダーに麻薬のアメリカ輸出で大きな財を成していた。しかしコロンビア政府は自国での制裁の困難さからアメリカと犯罪者引き渡し協定を結び、アメリカの法廷で裁きを受けさせるべく動いていた。パブロはそのような動きに対して自らが立候補して国会議員になり、法案を廃棄させるべく賄賂や暴力で、抑えていった。しかしメデジングループの中でもそういうエスコバルの過激な行動に批判的なカリグループなど、メデジングループも一枚岩ではなくなってきた。

 私生活ではエスコバルは愛妻家ではあったが、次々と女を変え妻を悩ましていた。コロンビアの放送局の美人キャスターバージニア・ヴァレホが1981年、メデジンのパーティーに招待された。
エスコバルがメデジンの貧しい人々に2000棟の家を提供するプロジェクトのお披露目パーティだったが、実はその日が麻薬組織メデジングループの結成式だったのだ。慈善を隠れ蓑にしたわけだ。バージニアは初対面のエスコバルに惹かれやがて二人は深い仲になる。

 小さな組織だったエスコバルが次第にのし上がり、頂点を極めるわけだが、スカーフェイス同様、しかし頂点の人間には落とし穴があったという寸法だ。それはエスコバルの完ぺき主義にあったということだろう。
 一切妥協は許さない。それは愛人に対してもそうだ。唯一の弱みは家族だというのは、本当だろうが、ほかでの悪逆非道ぶりから考えるちょっと疑問。ウイキペディアで彼の生涯を見てゆくと、本作品は他のエスコバル物に比べると、より本物っぽいといえよう。実に興味深い作品だった。他の麻薬組織ものの源流のような作品であり、そういう分野に関心のある方は必見。
 ハビエル・バルデムの麻薬王は見事なものである。相変わらずの役達者ぶりを見せている。お腹の人工的なメイクは異様だが、エスコバルのトレイドマークだったのだろう。
 ペネロペ・クルスも驕慢なジャーナリスト役が堂に入っている、没落の様も意味が通じる。いくつになったのだろうか?相変わらず美しい。


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 ロシア製のSF,エイリアンものである。原題はロシア語であるので意味不明。ただ邦題のアトラクションはいかなる意図のタイトルか、映画を見ても意味不明。
 ハリウッド製のこの手の映画に比べると、アクションシーンのもたもた感やカーチェイスのぎこちなさはいかにもと云った感じだ。

 冒頭数分にわたってこの映画の背景をフラッシュバックのようにぴかぴかと映すのだがこれがどうも短絡的で頭の回転悪い爺さんにはついて行けない。

 舞台は2019年のロシアらしい。いまから数年前に異星人の乗った物体が墜落地球に衝突。どうもそれに乗っていたエイリアンがロシア女性ユリアと恋をしたという設定らしい。
ロシアの国防省はその物体とそれに接触したユリアを調べて、そこから新たな武器を作ろうと意図している。ロシア国防軍のリーダーがなんとユリアの父親のデビドフ中将。
 異星人の男はハリトンと云い、どうもユリアの恋人だったらしい男チョーナに撃たれ行方知らずになったらしい。全部らしいで申し訳ないがそうらしい。

 異星人たちは地球の上空にとどまり地球を監視し続ける。地球のデジタル情報は全部吸収できる能力を持ち、それによって地球人を操作して進化を抑えようとする。ユリアに再会したハリトンは異星人の衛星ラーに戻るよう指示を受けるが、それを拒むことによりラーの怒りを買い、地球は滅亡の危機に陥る。
 しかしこれだけの大事件なのに、ロシアの中だけにとどめると云うのは、さすがに秘密国家らしい。時間の無駄のような映画だからよほどゲテモノ好きのSFファンにしか勧められない。


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 東京フィルハーモニー交響楽団、第942回サントリー定期シリーズ
指揮:渡邊一正

ドヴォルザークプロ
  序曲「謝肉祭」
  交響曲第八番

九月の東フィル定期は大幅変更となった。バッティストーニがコロナで来日できず、プログラムもベートーヴェンやシューマンからドヴォルザークプロとなった。指揮者は前月もドヴォルザーク新世界を振った渡邊である。

 公演は2曲だけで休憩はなし。前回も同様だが演奏の前にソリストが出てきて何曲か演奏する。
 今夜はまずコンサートマスターの三浦氏によるソロでバッハのヴァイオリン無伴奏「パルティータ第三番からガヴォット」、2曲目は三浦に弦3人を加えて弦楽四重曲を、「ベートーヴェン弦楽四重奏曲第十三番から第五楽章」、特にベートーヴェンはこういう時期でのコンサートにふさわしいすこぶるしめやかなもの。ただ中間のヴァイオリンのため息のような部分はいささか外面的。まあ会場は開演前でざわざわしているときに無理か?

 謝肉祭は聴き映えのするオーケストラピースだが、今夜の私には騒々しい音楽としか聴こえなかった。

 前回に引き続いてのドヴォルザーク、今回は八番である。新世界以上に構成的にシンフォニックにできているとの評価の高い曲だ。渡邊は新世界同様感傷を抑えて、交響曲としての構造を明確にした演奏。このようにがっちりしたドヴォルザークは聴きごたえがあるものの、わがままな言い方だが物足りなさもある。
 例えば3楽章の中間部などはもう少ししなやかさ、あえて言えば心に響くような演奏が聴きたい。4楽章も決して急がず穏やかな演奏になっているが、これも終曲部分などはもう少し大見得を切っても良いのではないか。
 カラヤンのウイーンフィルとの古い録音のやりすぎかと思われるくらいの終わり方はいまでも聴くたびに唖然とするが、なかなか今の指揮者は恥ずかしいのかその様にはやってくれない。いまの指揮者はおそらくセルの演奏が一つのお手本かもしれない。でも久しぶりにこの名曲を楽しんだのは事実である。


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 原題は「NIGHT CLERK」である。アメリカの地方都市の小規模なホテルの夜勤をしている青年バート(タイ・シェリダン)が主人公である。この作品の肝はこのバートがいわゆる障碍者であるということである。とはいっても五体健常である。彼はアスペルガー障害だったのである。人との接触・コミュニケーションがうまくできないのだ。
 母と二人で住んでいるが、バートは地下に住んでおり、母とは事実上別居、食事も別にとるのだ。しかしこういう彼には定職がある。支配人の理解もあり夜の20時から朝の3時45分までの比較的暇な時間のホテルのフロントを受け持つ。小さなホテルだからその間彼は一人になる。

 彼の持つ秘密は盗撮である。ホテルの部屋にカメラを仕掛けホテル内の動きを撮影しメモリーカードに保存している。目的は写した人物の会話をまねして、自分の会話力や当意即妙の返事をして
コミュニケーション能力の改善を図るという涙ぐましい努力をしていたのだ。ただそれがなぜ盗撮なのかはこの映画のシナリオの奇妙なところ。映画でも見て練習すればよいのにと思ってしまう。
盗撮をしているうちに彼はとんでもないものを見てしまう。彼の盗撮はばれてしまうが、警察も周囲もとてもやさしくて、バートは首にならずにほかのホテルに移動するだけってのも随分とやさしい。

 しかし新しいホテルで彼は運命の出会いをする。それはアンドレアと云う魅力的な女性である。ここからは話が複雑に展開するのでカットするが、終わり方が私にはよくわからない、随分と生煮えな映画だ。

 アスペルガー症候群の主人公では韓国映画の「無垢なる証人」というのがあるが、あの映画のほうがずっと社会的な問題提起をしていて、しかも実に感動的だった。主演の少女もうまかった。

 本作もそういう後味を期待したのだが残念ながらこのような作品を「スタイリッシュな」というのかもしれない。バートの演技も半端である。わずかにアンドレアと云う女性(アナ・デ・アルマン)
と云う女性がすこぶる魅力的なのが収穫、というのは作品の趣旨に反すれけど!


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 コパチンスカヤの新譜である。今回はバロック/ヴィヴァルディで、ジョバンニ・アントニーニ率いるジャルディーノ・アルモニコとの共演である。
 コパチンスカヤのヴァイオリンを聴いたのはクルレンティスと組んで録音した「チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲」だった。これは本当にびっくりドッキリの演奏で、聴き飽きたチャイコフスキーがまるで、生まれ変わって甦ったような演奏だった。しかもこのメンバーがすぐ来日ライブで聴けたのである。曲も同じチャイコフスキーである、
 ライブ演奏も基本的にはCDと同じであるが、裸足で演奏する野生児のような奔放なヴァイオリンにこれまた驚いた。しかし奔放と云っても野放図に演奏しているわけでないということは、たまたま、2回同じチャイコフスキーを聴くことによってよくわかった。クルレンティスとコパチンスカヤは実に緻密にこの曲を演奏しているのである。というのはこの2回の演奏会聴いた印象は両方とも全く同じなのである。同じところでテンポを上げるし、同じところで歌う。しかも演奏時間は秒と違わないのである。要するに古い型のよく言えば自発性に富んだ、そのときのケミストリーに任せて演奏しているわけではないということだ。音楽の再現性と云う意味ではまさに現代の演奏家の系譜である。

 さて、そのコパチンスカヤのヴィヴァルディと云ったら、聴かずになるまい。

 このCDのタイトルは「ヴィヴァルディ、その先に」で、原題「WHAT`S NEXT VIVALDI?」そのままである。プログラムはヴィヴァルディの協奏曲(ヴァイオリンソロあり、4丁のヴァイオリンあり、合奏協奏曲あり)が5曲で、その演奏の合間に現代のイタリアの音楽家の曲が挿入されている。要するにヴィヴァルディの先には今日のイタリアの音楽家があるということか?
 しかし、私にはこれらのイタリアの曲がヴィヴァルディの後継ぎとは到底思えない。わずかに18曲、19曲あたりがヴィヴァルディの香りを持っているような気がする。聴いているとこういうことだ、
ヴィヴァルディの協奏曲が終わると、すぐ現代音楽が始まるということで、木に竹を継いだ感がある。私のような老化が進んだ人間には、ヴィヴァルディだけが聴きたい。

 ヴィヴァルディの協奏曲と云えば私はすぐカルミニョーラを聴く。ヴィヴァルディの持つ切なく哀愁を帯びたメロディにはカルミニョーラのヴァイオリンはぴったりのような気がする。ビオンディも
聴くがカルミニョーラほどヴィヴァルディにフィットしていないような気がする。
 コパチンスカヤはこのレコーディングではソロの協奏曲を3曲演奏している。このなかで最もしっくりくるのがRV191である。カルミニョーラほど甘く切なく演奏はしないが、きりっとした透明感は、鋭さの一歩手前で止まっているところが良い。これ以上やられると刃を突き付けられているようになるそういうヴァイオリンだ。

 ついでRV208のムガール大帝が素晴らしい。ここでのスケール感は音楽の本質であり、驚嘆すべき演奏だ。特にヴィヴァルディがつけたというカデンツァは圧巻である。RV253海の嵐はちょっとお遊びがきつい。ライブではよいだろうが、CDで聴くにはいかがだろう。1楽章のカデンツァでウインドマシーンを使ったような音が挿入され(これがヴァイオリンの音なのか、ウインドマシーンなのかは定かではないが)、船が難破したかのように、何かが破壊された音がする。

 RV550(調和の霊感から)やRV157などはコパチンスカヤはジャルディーノ・アルモニコの中に入って演奏している。ここでは合奏の見事さを十分味わえる。
 
 コパチンスカヤは今後とも目が離せないが、今回のヴィヴァルディは、アイディア倒れのように思った。ヴィヴァルディだけでなく、その他のイタリアのバロックの音楽家の演奏も聴きたかった、
と云うのが本音だ。

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