ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2020年07月


naifu
 密室殺人事件、謎解き名探偵ものである。タイトルのナイブズアウトは「KNIVES ARE OUT」と云う成句からきているようだ。互いに敵意をむき出しにするということである。
副題の「名探偵と刃の館の秘密」は舞台となった館が刃の館とはしらなかったので意味不明のタイトルだ。最後でわかるのだが!

 さて、ミステリー作家のハーラン・スロンビー(クリストファー・プラマー)はすでに8000万部を売っているベストセラー作家。大豪邸に住んでいる大金持ち。85歳の誕生日家族が集まるが、翌朝看護師のマルタ(アナ・デ・アルマス)が死体で発見。喉を短剣で掻き切っていて、警察は自殺と判定。しかしそこに私立探偵のブノワ・ブラン(ダニエル・クレイグ)が登場。名前からしてフランス人系でポワロのパクリ風。しかしブノワ氏は依頼者を知らないという。

 調べてゆく過程で長男夫婦と息子、次男夫婦と息子、三男の未亡人と娘ら残された家族はそれぞれハーランとトラブルを起こし、敵意を持っていた。そして、ハーランの遺産に期待をしていた。
 ブノワ氏は看護師のマルタが最後にハーラン氏に会ったことや、彼女の素直な性格から、ワトソン君に任命し、警察とともに他殺の線で捜査をしてゆく。話はとんでもない方向に広がってゆくが、果たしてアメリカのポワロはうまく解決するだろうか?

 凄惨な死体がある事件の割には作りは渋いユーモアに包まれているようだ。金持ちの事件だけに何となく他人事のよう。社会派でなく謎解きだからこれでも良いのだろう。ただマルタはウルグアイかエクアドルか(人によって言い方が変わるので正確には誰も知らないのかも)の移民で、特に母親は不法移民と云う設定にしているのが、今のアメリカ社会を垣間見る思いだが、物語としてはシンデレラストーリーにする以外は意味のない設定だと思う。
 俳優陣はクリス・エヴァンス、ドン・ジョンソン、マイケル・シャノン、ジェイミー・リー・カーティスなど勢ぞろい。少々オーバーなアクションがこの映画のミステリーとしての性質を物語っている。
 文句ばかり言っているが話としては大変面白かった。



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 洋画と思って見始めたが、どうもおかしい。香港映画のようだ。なつかしい、チョウ・ユンファがでている。
香港製の贋札王の物語である。

 主人公は売れない画家、レイ・マン(アーロン・クォーク)何年も目が出ない、一方恋人のユン・マンは大成功してゆく。
 贋作に天分のあった、レイはフクサン(ヨンファ)から勧誘を受け偽札作りに入ってゆく。レイはそれぞれの分野のエキパートを編成し新しい100米ドル作りに励む。相当粗っぽいことをしながら、資材をそろえ、完成する。
 一方カナダ警察と香港警察は協力してレイを追う。この作品はレイを逮捕して彼を尋問し彼の黒幕の「画家」とはだれかをはかせようとするところから始まる。怪しげな女が保釈人にになるが、レイの自白が条件で保釈は認められるという。レイは1985年からの物語を自白し始める。そこでは
偽札団の手口や売りさばき先などの情報が含まれていた。

 はたして、「画家」とはだれか、保釈を申請してきた女はだれか?なぞに包まれたたままクライマックスを迎える。

 相当手の込んだ作りである、時間と人物の混淆がカギだろう。仕掛けがわかるのに見終わってから2時間もかかってしまった。
 結局、キイワードは男女の愛憎劇とは安っぽく終わったものである。ハードボイルドを期待したが終わりはソフトムード。
チョウ・ユンファは年とったが元気な姿はうれしい。


ワイルド
 僕は「イエローで、ホワイトで、ちょっとブルー」が面白かったので、続けて読んでみた。
ブレイディ・みか子氏の作品である。前作は自分の息子の周囲を描いたものだが、今回は自分の連れ合い(夫だろうが、そう呼んでいる)とその仲間たちを描いている。もちろんイギリスのブライトンが舞台である。
 著者はおっさんたちを描いていると述べている。1956年前後に生まれた人々だから、いずれも60歳代である。いわゆるベビーブーマー世代である。
 ブレイディ氏の語り口は相変わらずくだけているが、描いている内容は結構厳しい。イギリスと云えば福祉国家、「ゆりかごから墓場まで」というのが金看板だったと思うが、どうもサッチャーからブレアへ続く時代から変わってきたらしい。本書は21のエッセイ(1章)と付録(2章)からなっているが、そのなかで、多くのページがそれに割かれている。一番大きい例としては保健センター(NHS)で、医療は無償のシンボルだったが、緊縮財政によりそれが変化していると云うのである。そのことが保健センターの恩恵を受けている人々がブレグジットへ向かわせた一つの理由としている。

 エッセイに出てきている人々は労働階級の人々である。しかしこの労働階級と云うのが読んでいて、ちょっと曲者。エリートやミドルクラスと比較して、ちょっと社会の底辺のような描き方をしているが、その仲間意識や、生活行動、家族関係は結構まともな生活である。日本でいう労働階級とはちょっと違うような気がする。
この労働階級のブレグジットに対する考えも本書のいたるところで描かれていて、この問題の難しさを改めて感じさせる。

 日本の小泉政権の民営化から安部政権のアベノミクスも日本社会の構造に大きな影響をもたらしているが、イギリスでも同様の変化が起きている。階級と云う点でいえば労働階級のクラスターが崩れつつあるということではないだろうか。従来のイギリス社会では、親が労働者階級なら子供もそれを引き継ぐという。教育によりジャンプする人々もいるが、多くはそうだった。しかし今日、その労働階級の子供たちがそれを引き継げなくなっている。それも本書では一つのテーマとして描かれている。

 本書を読んでいると、いかに自分がイギリスについて無知であるかがよくわかった。、
 また、ブレイディ氏のいろいろな引用(歌など)について行けないことなどにより、表面をかじる程度にしか読めなかったのがちょっと残念。

今年のレコード芸術の8月号を見ていたら、エソテリックがカラヤンの指揮したモーツァルトの「ドンジョバンニ」をリマスター、SACD化したという記事が載っていた。まあ宣伝もあるのだろうけれど大絶賛。おもわず心が揺れる。
すでに通常盤を持っており、それよりなにより、「ドンジョバンニ」は今はクルレンティスの才気煥発、飽きることのない千変万化の演奏を聴き始めたら、もう他はいらないという気分であったから、本当にこれは迷った。

 カラヤンのモーツァルトはとても懐かしい。1974年の夏のザルツブルグで一挙に4つのモーツァルトのオペラの公演があったのだった。「後宮からの逃走」、「フィガロの結婚」、「コジファントゥッテ」そして「魔笛」である。このうち「フィガロ」と「魔笛」はカラヤンが指揮をしたのだった。幸いにもこの4公演をすべて聴いた。まだ30歳前の、オペラを聴き始めたばかりの私にとって、
猫に小判のような時間だったし、いまではほとんど何も覚えていない。しかしときおりそのときのプログラムを見て、如何にすごい公演で、いかにすごい歌手たちだったのか、今見ると驚きのキャスティングだったのだ。もう今のライブ公演でこのような公演は見ることはできないだろう。

 後年ムーティが、ウイーン国立オペラを率いて来日、神奈川県民ホールで「フィガロの結婚」を振った。1974年のザルツブルグと同じくポネルの演出だった。
舞台は懐かしかったが、歌い手は若手ばかりで何か、寂しかったのを覚えている。もうあの素晴らしいポネルの演出をウイーンでは見ることはできなくて、日本でも最後と云われただけに、もう少しゴージャスな歌い手で聴きたかったのだった。

閑話休題

 さて、結局SACD盤は購入することにした。もうすでに数度聴いていて、やはりこれはこの曲の定番演奏と云われ続けただけに、随所に聴きどころがある。
例えは悪いが、クルレンティスは頭のいい奴がくるくると次から次へと出し物を出してくる、聴いている方は面白くて夢中になるという塩梅だが、カラヤンの場合は
まるで大船に乗ったようで、実にゆったりまったりと音楽が進む。ただそれが決して嫌ではないのだ。1幕を聴いていてドン・オッタービオの歌が長いなあと思っていたら
居眠りをしてしまった、でも目を覚ましたら、まだオッタービオ君は歌っていたのだった。この音楽に覆い包まれた時間は、クルレンティスのはしっこい演奏では
味わえないだろう。しかし結局は両者の演奏は2幕の最後の大団円ではモーツァルトってーのは本当にいいなと思わせるのだ。
 ドンジョバンニはこのほか、ジュリーニ盤やショルティ盤、ベーム盤を時折引っ張り出してくるが、いまのところカラヤンとクルレンティスで間に合っているといった所だろう。
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(カラヤン盤)

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(クルレンティス盤)

 エソテリックによるSACD化は成功している。詳しくはレコード芸術を見ていただきたいが、一言でいえば通常盤は額縁にはまった絵を見ているがごとき再生音。決して嫌な音ではなく、これはこれでカラヤンのモーツァルトをたっぷり味わえるだろう。しかしSACD盤はその額縁がない。広い空間は舞台を感じさせるし、声もオーケストラものびやかで、音に天井がない。

 なお、カラヤンの演奏はベルリンフィルである。やはりウイーンフィルで聴きたいと思うが、それはもうないものねだり。歌い手は女性陣のドンナ・アンナとドンナ・エルヴィーラの造形が物足りなく少々不満。
 クルレンティスの場合は歌手はドンナ・エルヴィーラのパパナタシュくらいしか知らない、国際的には無名に近い歌手たちばかりだが、彼のそのほかのフィガロやコジのように、発声法が通常と違っていて、実にピュアなため、歌唱が新鮮であり、切れのいオーケストラとともに、歌い手には不満がない。


 今月はもう一枚SACDを聴いている。正確に言えば2枚だ。ショルティの指揮でリヒャルト・シュトラウスの有名な交響詩をSACD化している。これはタワーレコードの企画である。演奏は定評のあるものだからうんぬんかんぬんいうことはないが、このセットの面白いのが曲によってオーケストラが違うというところだろう。通常のCDで聴いているとあまり意識しないが、SACD化されると、この違いがはっきりと分かってくる。例えば、「ツァラトゥストラはこう語った」はシカゴ交響楽団、
「英雄の生涯」はウイーンフィル、そして「アルプス交響曲」はバイエルン放送交響楽団。この3つの楽団でははっきりいって、バイエルンが一番聴き映えがしない。
例えばアルプスの「頂上にてからVISION」のクライマックスの部分の力感が乏しく聴こえる。シカゴのツァラトゥストラの1曲目、やウイーンの「英雄の登場」の場面を聴き比べればよくわかる。録音年代は数年と違わないのだから条件は一緒。まあホールは違うのでその変数と曲の違いは考慮に入れる必要があるが。

 余談だが、アルプスはティーレマン/ウイーンとカラヤン/ベルリンを聴くともう他はいらないという気になってしまう。ちょっとショルティの入るすきはないだろう。

 今月もう1枚CDを聴いた。これはSACDではなく、通常のCDである。フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮のレ・シェクル(オーケストラ)の演奏の「展覧会の絵」である。
 ロトの演奏は幻想交響曲にしても春の祭典にしてもすべてピリオド楽器、つまり同時代の楽器で演奏しているのが特徴である。このラヴェル編曲の「展覧会の絵}も同様である。
 これは説明が難しいが今まで聴いてきた、多くのメジャーオーケストラの名演奏とはまるで別のように聴こえる。誤解をおそれず、一言でいうとしなびたような展覧会の絵である。そこにはゴージャスな音の響きは全くなく、目を見張る音響効果はまるでないが、しかし例えば冒頭のプロムナードのトランペットや、ブイドロの地底から這い上がるような音楽、、リモージュの市場における音の運動、バーバーヤガにおける躍動感は、くすんだような輝きの中で、しなびた音楽のように聴こえるが、しかしそれはこのムソルグスキーがそもそも持つ、ロシアの大地からにじみ出るような音楽の根源を掘り当てたような気がしてならない。
 実に面白くて23日に入荷してから毎日聴いているが飽きない。


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 荒事芸の創始者、初代市川團十郎伝であるが、そこは今井今朝子氏の作品だけに、重構造のがっしりした骨格の小説となっている。おそらく、今年読んだ本の中でも一二を争うといえよう。
 史実に基づくフィクションとうことで、いわゆる伝記物ではなく、歴史小説としてとらえてよいだろう。例えば彼の死の真の要因は史実としては分かってはいないので、そういうところは、著者の創造である。まあそういう形式はどうでも良いが、本書の面白さはいくつかある。

 第一は江戸時代の(この作品では、17世紀後半から18世紀前半)町人社会の描き方がじつに克明であり、読んでいてまるで自分がその時代にいるような気さえするのだ。
 第二は人物の描き方である。本作品の主人公は名前から云えば團十郎だろう。事実の彼の描写については丁寧だが、それ以上に見事なのは彼の妻の恵以だろう。彼女は10歳のころから70歳までずっとこの作品に登場するが、子供の目で見た江戸の町、歌舞伎の世界、任侠の世界、海老蔵との結婚、海老蔵の芝居、息子の九蔵などの彼女の思いの描写がじつに生き生きとしていて読み手を引き付ける。その他恵以の父親、海老蔵の両親、任侠たち、歌舞伎役者たち、茶屋のおやじたちのどの一人をとっても、切れば血の出る生身の江戸の町人が描かれている。

 第三には作品の中で思わずもらい泣きをしてしまうような感動のシーンがいくつかちりばめてあり、そのシーンはまるで映画を見ているような描写で驚きである。例えば長男の九蔵の初舞台の描写などがそうだ。


 この作品は歌舞伎を知っていればとても面白いが、さりとて知らなくてもそれはそれでとても面白い。荒事の團十郎と実事の阪田藤十郎と京都で対面するが、そのシーンは実に印象的で、劇的である。まあそういう歌舞伎がらみのシーンが山ほどあると思って良い。
 

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