ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2020年06月


黒い司法
 黒い司法なんてまるでマフィア映画のようなタイトルだが、原題は「JUST MERCY」、正義の慈悲とも訳せるだろうが、私はほんの「ちょっとの慈悲」と訳したほうが良いように感じた。というのはこれは冤罪事件でもあるが、この作品の中のサイドストーリーを見ていると死刑制度に対する批判ともとれる。
 だからちょっとの慈悲のではないか?

 1987年アラバマ州モンロー郡でジョニー・Dと云う黒人が逮捕される。容疑は18歳の少女殺しである。ジョニーは製材をしながらパルプ業を営んでおり3人の子供との5人暮らし。ごく普通の黒人家族だった。しかしろくな裁判もなく、司法取引の証言ひとつで死刑を宣告される。

 ブライアンはハーバードのロースクールを出たばかり、志があってあえてアラバマでEIJ(EQUAL JUSTICE INITIATIVE)という死刑囚相談所を開く、支援者は白人のエヴァと云う女性のみ。ブライアンは刑務所で面談を繰り返し、やがて、ジョニー・Dが冤罪であることを調べ上げる。事件はモンロー郡、あのアラバマ物語の舞台であるという。そこにはアラバマ物語博物館などというのもあり、ブライアンは検事秘書から博物館を見たらと云われる。
 しかしそういう舞台でまたこのジョニー・Dのような冤罪事件が起きたのである。

 本作は弁護士ブライアンの著書をもとにして作られており、事実に基づいた作品とされている。本作はこの冤罪事件を中心にブライアンやDの家族、エヴァなどの人間模様を絡めながら展開する。
 サイドストーリーでヴェトナム帰りの死刑囚エバートの逸話が挿入される。彼はヴェトナムでの体験で精神を病み、いわゆるPTSDでしかるべき司法処置がとられていれば、死刑ではなく、病院おくりだったかもしれないが、死刑が執行されてしまう。少女を爆殺した罪は重いが、わずかな慈悲をブライアンは求める。しかし却下される。
 
 このわずかな慈悲、直訳的に云えば正義の慈悲は果たして貧困の黒人に降りてくるのだろうか?それがこの作品の肝であろう。

 ジョニー・Dは証拠はほとんどないのに、死刑宣告を受けた。あえていえばマイヤーズと云う囚人がDが現場にいたという証言だけである。それ以外一切物的証拠も含め、証拠はない。むしろ黒人側からのアリバイ証明など多数あったが、それらは証拠として採用されなかった。
 トランプの云う法と秩序のアメリカでこういうことがわずか30年前にまだあったのである。オバマはこの映画を評価したらしいが、トランプははたしてどういうツイートをするだろうか?

 ブライアンを演じたマイケル・B・ジョーダンの正義を貫く意思を感じさせる静かな演技は共感を呼ぶ、ジェーミー・フォックスはうまいが、演技をしているのがわかるうまさ。
 それと驚くべきはジョニー・Dを死刑に導いた証言をしたマイヤーズを演じたティム・ブレイク・ネルソンの演技だろう。彼は多くの作品で脇を演じており、ここでも見事な脇でこの作品を締めていた。

 おりしも全米は黒人差別に反対する運動が澎湃と沸き起こっているが、冷静になってこの作品を、黒人も白人も見て、トランプの云う「法と秩序」とはいかなる意味か、考えてもらいたいものだ。民主主義の先生であるアメリカで、いまだにこういう映画がつくられねばならないとは、なんと嘆かわしいことだろう。それに気づかないアメリカ人も悲しい。


グッドバイ
 朝井まかての小説にはずれなし。本書も実に面白い。彼女の作品をすべて読んでるわけではないが、「阿蘭陀西鶴」が最も好きな作品である。西鶴の娘の描写は特に抜きんでている。
 さて、本作は朝日新聞で連載の物。江戸時代の末期ペリーの来航のころから、明治初期にかけての長崎商人「大浦屋・お希以、後の慶」の一代記である。
 長崎の油問屋大浦屋を女ながら継いだ、お希以は旧態依然の油問屋に飽き足らず、何か新しいことができないか悶々としている。
 しかも、その時代、関西から油を運んで売っているような、問屋組合のやり方では、地場の安い油に駆逐されてしまう環境にあったから余計お希以の焦りは募る。
 そのような折、料亭の女将から日本の小物をを頼まれる。それはオランダからの船に乗ってきた船乗りのテキストルと云う少年の依頼だった。
 お希以はわずかな望みで、お茶の見本をその少年に託す。まわりまわって、数年後お希以のところに、イギリス人が舞い込んできた。それはテキストルの茶の見本を見て、お茶を買い付けに来たオルトという若い商人だった。1000斤という途方もない発注を受け付けたお希以は、油問屋の本業そっちのけで海外商人を相手にお茶の商売を本格的に始めたのである。それはアメリカにおける茶の需要の急増と軌を一にしていたのである。
 そして、もうその頃は(1850年代後半)は日本人が外人と取引をしても黙認されたのである。

 お希以の海外貿易の成功に伴って、海外に目を向けた幕末の志士たちが、大浦屋にやってきて、酒盛りしたり、逗留したりしたのである。
坂本龍馬、大隈重信、岩崎弥太郎などその名は枚挙のいとまがないほどだった。本書ではそのころの交流の逸話が面白い。
 こうしてお希以は事業に成功するが、明治維新を迎え、思わぬ試練が待ち受けていた。

 本書においても主人公の希以の魅力は大きい。それは彼女の企業家精神と云うべき、商人魂だろう。祖父譲りと云われている。江戸開府から身分制度とともに商売の枠組みは型にはめられていて、お希以のような進取の精神を持つ人間からみたら息の詰まる思いだったろう。
 彼女は、その中でお茶の海外貿易と云う新事業を立ち上げることに成功したのである。それには彼女はいくつかのタブーを破ることになる。
油問屋の組合にいながらお茶の商売をすること、海外と直取引をすること。特に後者は抜け荷と云って世が世ならお縄が後ろに回っても仕方がない行動だった。江戸幕藩体制末期にはこういう企業家精神や科学的精神(合理化精神)をもった人々が輩出する。いずれも彼らは小説の主人公にもなる興味深い人物だった。そしてこういう人材がこのがんじがらめの身分制度の中で次々と輩出したことが今後の明治維新の下ささえになったのだろうと私は思っている。
 大浦屋のお希以のちのお慶もその一人だ。その痛快な人生は読み手を不眠症にするだろう。


マザーレス
 ジョナサン・レサム原作の小説を、エドワード・ノートンが脚本・監督を手掛けたもの。
 1957年のニューヨーク市を舞台にした犯罪もので、最初はエルロイの原作と思ってみていたが
最後のエンドロールで原作が判明した次第。原作では1999年を舞台にしているが本作では57年に翻案している。
撮影としては大変だろうが、映像としては丁寧に作られていて見ごたえがある。音楽もけだるいジャズがBGM風に流れて舞台設定としてはよくできていると思った。

 主人公は探偵事務所に勤めているライオネル・エスログ(ノートン)、見ているとわかるが原題はこの主人公を指している。事務所の所長はフランク・ロス(ブルース・ウイリス)で、ライオネルを含め4人の部下はみなニューヨークのカソリック系の孤児院出身。要はフランクが拾ってきて、教育し、調査員に仕立てていた。
 ライオネルはチック症で、自分を抑えられず、意味のない言葉を発して周りを驚かすが、驚異的な記憶力、洞察力を持っておりフランクの信頼は厚い。しかしそのフランクはある調査中に何者かに射殺されてしまう。その場にいたライオネルはフランクの死の原因を調べ始める。調べてゆくうちに住宅差別委員会のローラとか、ニューヨーク市の都市計画立案者のモー(アレック・ボールドウイン)
、その兄のポール(ウィレム・デフォー)ら、がからみ深い背景があることがわかってくる。

 まあそうそうたる俳優陣には驚かされ、それだけでも見ごたえがあるとわかる。ただノートンのチック症はあまりにもはまり役で、面白くない。
 というより、少し演技っぽく見える。あの「真実の行方」のような2重人格的な面白さには欠けるのは、おそらくライオネルはいい人だからだろう。
 その他の役者云うことがない。特にデフォーの演技には圧倒される。

 映画は133分の長尺ものだが、その割には肝心の陰謀やなぞの部分をオブラートに包んだようにしか見せないのは私には欲求不満が残る。例えば、汚職の書類とか、出生証明書の中身とか、土地の証書、新聞社への情報など、ちらちらとしか見せないので何が何だかわからない。
 そういう謎解きよりも人物に焦点を当てたいのだろうか?メロドラマではないのだから、肝心な部分ははっきりしてほしいものだ。
 そういう意味では、謎解きの後半は眠くなり、何度か巻き戻しをした。前半の緊張感が後半に続かないのがもったいない。


2020年6月24日(公演日)
於:サントリーホール

東京フィルハーモニー管弦楽団、第939回サントリー定期シリーズ
指揮:渡辺一正

ロッシーニ:歌劇「セビリアの理髪師」序曲

ドヴォルザーク:交響曲第九番「新世界より」

およそ、4か月ぶりのオーケストラコンサートである。奇しくも最後が2月22日の東フィルの定期、カルメン全曲の演奏会形式だった。本日のサントリーの公演はもともと、プレトニョフ指揮でカルメン組曲とチャイコフスキーの組曲3番を演奏する予定だったが、今のロシアでプレトニョフが来日できるはずもなく、急遽指揮者と曲目変更となったのである。

 東フィルから連絡があり、人数を3密を避けた形にするために減らして、座席をシャッフルするという。早速申し込んだが、幸いにも、もともとの定期と同じ2階席のC席だった。当日いってみると、なるほど前後左右は空席になっており、ゆったりとした気分だ。座席指定の番号が書かれた葉書にはなんと入場時間まで指定されているというほど、念の云ったもの。私は18時だった。
サントリー

これは、18時ごろのサントリーホール入り口である。入場を待つ人々もきちんと1mあけて会場を待っていた。

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これは2階席へ上がる階段から撮ったもの。中央の人々はホールの関係者で体温を見ているようだ。入口で手を消毒して入場。

 18時入場と云うことは一時間前である。こりゃ退屈だなあと思い、本を読み始めたが、そのうちフルート奏者が一人舞台に登場してきて何やら吹き始める。それも自分の席ではなく舞台前方で。しばらくするとクラリネット、ホルン、オーボエ、ファゴットが登場し曲名は不明だが、いろいろな管楽5重奏曲を吹き始めたのだ。どこかでは冒頭G線上のアリアを最初に演奏したらしいが、東フィルの今回の幕開け前の前座的な演奏は、実に気が利いていて、感心してしまった。さすがオペラの東フィルである。

 舞台上は一部透明な遮蔽版のようなものが見えるが、2階席からなのでよくは分からない。ただ弦楽器など通常より席を離して演奏しているように感じた。

 今夜は2曲だけなので休憩なし、その代わり、途中入場、退場は自由と云う、柔軟な対応で、東フィル側の工夫・苦労がよくわかった。

 当日でがけに、東京のコロナの新規感染者数が51名と聞いて、やめようかと思ったが、強行した。途中の電車はラッシュ前ですいていたが、乗り換えターミナルでは若い人で混雑しており不安だった。やはり年寄りは少なく、皆さん自粛されているのだと感じた。

 会場も私のような年齢の方も散見したが、矢張り年代的にはもう少し若い人が多いように気がした。約半数カットしたそうだが、見た目では半数の8掛け程度だと思う。

 最初のセビリアは久しぶりのせいか、少し硬く、軽快感が乏しい演奏のように感じたが、ドヴォルザークは堂々とした演奏だ。1楽章の主題の対比は明快であり、音楽の構造をはっきりと示してくれて、この音楽の通俗的な名曲というレッテルをはがしてくれる。2楽章の木管のアンサンブル十分美しく、3楽章のスケルツオは少々大人しいが、トリオでの民謡風の音楽には心が動く。
 渡辺の指揮は実にオーソドックな表現で安心して聴いていられるが、わずかにコーダの部分で見えを切るようなところがあり、ちょっと全体を壊したような印象を受けた。しかし久しぶりに聴いたライブの音はやはりとても美しく、力強かった。東フィルのスタッフの皆さんありがとうございました。



記憶
 先日、ベルルスコーニをモデルにしたイタリア映画を見たばかりで、政治ものが続いている。しかしあの映画はベルルスコーニをロロ・トマシ(映画・LAコンフィデンシャルを参照)として描いており、この三谷版政治ドラマのコメディ仕立てとは肌合いが違う。
 ちなみにロロ・トマシとは悪いことをしているのにうまく逃げている人物の総称だという。ガイ・ピアース、ケヴィン・スペイシーがその名前を出している。あれがLAコンフィデンシャルのテーマなのだろう。
 まあ、これは余談だが、三谷幸喜によるこのドラマはそういう深刻なテーマは抱えていないように感じた。
 現職の首相・黒田啓一(中井貴一)は支持率2.3%の過去最悪の首相と呼ばれ、国民から総すかん、家族からも総すかんの悪役であるが、演説会で石をぶつけられなんと記憶喪失になってしまう。子供時代の記憶はあるが、政治家になってからの記憶は全く失われてしまった。妻(石田ゆり子)も認識できない。普通なら辞職だろうが、なんと秘書官(ディーン・フジオカ、小池栄子ら)に助けられ実務を少しづつこなし始める。
 やがて、黒田は政治に覚醒する。果たして首尾は如何に?
 このドラマはそういう単純なストーリーで、スリルもサスペンスもない。へらへら笑ってみていればよいわけで、それじゃつまんないという方もおられよう。
 しかしこの映画の私なりの見方は、そういう変容を遂げる黒田を取り巻く人物の緻密な描写が肝なのではあるまいか?
 大体これだけの役者をそろえればどんな映画でも作れそうだけれど、まあそう思えるくらい役者ぞろい。特に女優陣は個性的で面白い。
 秘書役の可愛いけれどしっかり者の小池栄子、まるでどこかの総理夫人みたいな、石田ゆり子、総理官邸のお手伝い斉藤由貴、第二野党党首の吉田羊の怪女ぶり、アメリカ大統領がなんと日系2世の女性大統領の木村佳乃、そして通訳の富沢エマのとぼけた味、愉快なのはアナウンサーの有働由美子が超厚化粧で、アナウンサー役として登場、これが最後まで誰だか分からないほどの怪演と云った具合で、みなそれぞれ楽しみながら芝居をしている風で実に楽しい。
 それに比べると、男性陣は少々演技がオーバーアクションでそれが作り物(まあわざとそうしているのだろうけれど)めいていて今一つ笑えない。特に官房長官の草刈や政治ごろの佐藤浩市など。男性陣で唯一楽しんでいそうなのは、田中圭の交番の警官でSP志望の男。いやあのびのびやっていたなあ。
 この映画で唯一辛口なセリフは官房長官がはく、政治信条、「つまり如何に長く政治家であり続けるか」が目標と云う発言だろう。政治家になるということが目的化になっていることが、わが国の政治風土を不毛のものにしているにちがいない。これがこの映画の肝だと思う。
 
 どう見ても現政権のパロディだろうが、当事者が見たら笑えるだろうか?

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