ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2020年05月

bobi

現代社会、なかんずく、アメリカ社会の明と暗を感じる、ドラマだ。サスペンスのジャンルに分類したが、これは爆破事件が背景にあったためですこぶるよくできたドラマといえよう。メイキングで監督のイーストウッドがでていたが、こういう正義を描いた映画を見ると腕は全然落ちていないと思う。
 彼の実話に基づく映画はこのところ、ハドソン川の奇跡や15:17発パリ行きなど冴えているが、この「リチャードジュエル」もその一本である。
 1996年アトランタオリンピックのさなか、隣接した公園のコンサート会場で不審物が発見される。それは古びたバックパック。発見者はリチャード・ジュエルという警備員である。ただちに警察を呼び点検してもらう。ジュエルは他の警官や警備員と避難誘導するが、間に合わず釘入りのパイプ爆弾が爆発して100人以上の死傷者を出した。これは実話である。
 第一発見者のジュエルは一躍英雄となり、母親のバーバラと喜び合う。しかしジュエルの過去をさぐるFBIやジュエルの過去の人となりを知る人々は、ジュエルを疑うようになる。
そして、わずか3日で暗転、地元紙にFBIが容疑者としてジュエルを上げていることがすっぱ抜かれると大騒ぎになる。ジュエルは昔勤務していた役所の同僚で弁護士のブライアントに助けを求める。
 物的証拠もなく、ただ孤独で警官願望の強い青年、しかし少々変人なジュエルはFBIやメディアにからめとられ次第に犯人に仕立て上げられる。
 彼は過去警察官だったこともあり、また警備員の仕事も多く経験していたが、どこの職場でも行き過ぎの行動をとり、変人扱いをされて、次々と首になっていたのだった。
 しかし犯罪を起こすようなやつではなく、ごく普通の市民が、英雄からあっという間に悪人に仕立て上げられる、現代社会の恐ろしさがひしひしと感じられ、これは単にアメリカだけの問題ではなく、現代のどの社会でも起こりうる、普遍的な事象だと作品は云っている。
 それを救ったのは、数少ないジュエルの理解者の弁護士の献身的な活動と母の愛である。これはイーストウッドの世界であろう。
 主演のジュエル役のウォルターハウザーはもちろんの事、弁護士ブライアント役のロックエル、母親役のキャシー・ベイツなどの役者陣にも恵まれて、頗る良質のドラマに仕立て上げられている。
女性新聞記者が枕取材をしたなど批判もある作品らしいが、イーストウッドの色付けと思いたい。



2020年5月30日
おろkまおの

秀吉の壮年期を描いたものだ。「愚か者の城」とは大阪城と思っていたが、そうではなかった、最後まで読むとわかるが、読み始めてタイトルが気になる小説である。
時代はまだ秀吉が藤吉郎と呼ばれていたころ、信長が藤吉郎の墨俣築城をきっかけに、美濃攻略に成功したころで、ようやく末席ながら侍大将となり、小六や前将やらの幕僚に加えて、竹中官兵衛が与力として加わる。まさにこれから大きく飛翔するそのときである。
 いままで、迷うことなく突き進んできた藤吉郎だが、2つの事をきっかけにスランプに陥ってしまう。一つはお市の方について、ねねと仲たがいをしてしまうことである。
もう一つは越前攻めの際、浅井が裏切り、信長は戦線を離脱するが、なんと藤吉郎が殿を買って出る。調略の秀吉と云われ、武功のないことに劣等感を抱いていた藤吉郎の一世一代の大博打。まあ秀吉物ではここは見せ場、采配を振るい見事脱出でめでたしめでたしとなるところだが、本書ではそうならないのだ。そしてそこから彼は精気を失い以前の藤吉郎とは別人のようになってしまう。やがて家臣らにも感づかれ、信長も知るところとなるが、藤吉郎は如何に窮地を脱しただろうか?さて、だれが秀吉を覚醒させたのだろうか?
 秀吉の人生を切り取った、興味深い視点の小説である。秀吉は晩年にいたるまで、苦を苦と思わぬ行動をとってきたように思っていたが、やはり彼も人の子このような視点は人間秀吉を見るようでうれしい。秀吉も云ってしまえば、戦国時代のサラリーマン。本書では、平社員からやっと部長になったところだろうか?
そう思うと、この本書の寓意はピンとくる。津本陽氏にいわせると、こういうのは歴史小説とは言わないようだが、睡眠不足になってしまったのだから面白かったのは事実だ。

 

社会派グルメリポートと云うジャンルがあるかどうかは知らないが、あるとしたらこの本がそれで、優れたリポートになっている。
もともとは、東京放送で放映されていた番組を今回単行本化したものである。あいにくTVで見ていないので活字でこのリポートに触れることになった。

はドボイルド



 
 この作品の主題は「ヤバイ世界のヤバい奴は何を食っているんだ」。そういう意味では日本でよく見るおいしいお店探訪とはまるで違うということを認識しなくてはならない。世界のおいしい店探訪記ではないのである。むしろここでは食うことの意味は生きることだということを強く感じさせる。

 特に最初と最後のアフリカのリベリアとケニアの記事がそうだ。リベリアでの一日一食しか食べないという彼らの食事のシンプルだが工夫があるレシピ?如何に、貧しくても人間は生きるために食わなくてはならないが、そのための、つまりおいしく食べるための工夫は如何に貧しくても加えている、そういうところが人間らしい。
 本著ではその他に台湾マフィアの夕食、ロシアのカルト集団の食事が取り上げられているが、ヤバイ世界と云うことは分かるが、食べている者は特に驚くべきものではないので、アフリカ篇より面白みには欠ける。しかしマフィアのボスだって、カルト集団の信者たちだって、飽食の国日本人だって、生きるために食うことには変わりはないということが大変よく分かった。

 この作品で唯一不満なのは、食べものの映像が皆無だということである。理由は不明だが、グルメリポートで食べているものを文章で判断せよと云うのはちょっと興ざめである。前もってTVを見ている人は良いが、はじめてこのリポートに接する人にとっては不親切だと思う。
 もっとも無料でリベリアは見ることができた。予想どおりでやはり見ると読むとでは随分と印象が違うのだということを改めた痛感した。

 しかし、これは新境地を開拓した上地氏の勇気に称賛をささげたい。最後に「この旅は絶対にマネしないでください」とあるが、しようとおもっても、並大抵のことではないだろう。


2020年5月28日 
160

1970年代を震撼させたシリアルキラー、テッド・バンディ(ザック・エフロン)を描いた作品。
この映画は陰惨な犯罪を起こした事件を扱っている割には、陰惨さはあまり感じられない。わずかに裁判の際の証拠書類にそれを感じるくらいだ。
それは、この作品はバンディによって人生を変えられた女性、エリザベス・ケンドール(リリー・コリンズ)の原作に基づいた映画だからだろう。
つまり女性の視点からのテッド・バンディなのである。
 エリザベスはワシントン大学の歯学部の秘書を勤めていたが、あるバーでハンサムな青年テッド・バンディと出会う。彼はユタ大学の法学部の学生と名乗り、あっという間にエリザベスと恋に落ちる。しかし1974年ころからシアトルやソルトレイクコロラドやフロリダで陰惨な女性殺人事件が起きる。
テッド・バンディはのっている車などからこれら事件の有力容疑者として注目され、やがて逮捕されフロリダで裁判される。
 実在の人物だけに、結末は周知の意実、1989年に死刑となる。
 エリザベスはバンディの犯罪を認めつつも愛する気持ちが変わらない、多くの女性は彼の犯罪は半信半疑だが、男としての魅力を訴える。
支援者のキャロルはなんと裁判所で結婚して、子供まで生んでしまうのだ。要するにこの映画は被害者側に立っていない。また警察や検事、弁護士などの既成権威者を茶化している。なんとバンディは国選弁護人を首にして自分で裁判の弁護をしてしまう。ジョン・マルコヴィッチ判事との掛け合いは面白いが
被害者の尊厳を無視したようなこの作りこそ恐るべきことだ。
 結局エリザベスは死刑直前のバンディの証言を聴いて、初めてバンディから解放される。人間の心理と云うのは事程左様に複雑だ。
とにかく、最後までこのバンディと云う男は不快な奴だった、


2020年5月27日

ワーグナー舞台清祓祝典劇「パルジファル」は見れば見るほど奥深いオペラ(とりあえずそう言っておく)である。最初に聴き始めてからもうすでに半世紀以上経過し、その間にいくつかのライブを見るが、そのたびに音楽の素晴らしさに感動すると同時に、手をかえ品を変え舞台を形成してゆく演出家たちの手練手管に毎度舌を巻く思いである。

 このオペラは道を踏み外したアンフォルタス王が、キリストの身代わりともいうべき聖器の中の、キリストを傷つけたという、聖なる槍をクリンゾルなる異教徒に盗まれる、そのうえその槍で傷つけられ,永遠にふさがらない宿命となるが、パルジファルによって奪還された槍で救済される話と、はるかな昔キリストをあざ笑ったということで死ぬことのできない苦しみ、泣くことのできない苦しみを与えられたクンドリーの救済と云う2重の救済劇である。
 
 クンドリーと云う人物は見れば見るほど興味深い人物であり、かのハンス・クナッパーツブッシュが学位論文にクンドリーを選んだくらいである。

 このクンドリーが第三幕でト書きとおりならば、死を得てこの大作は幕を下ろすことになっている。しかしこれからお示しする最近の演出では決してクンドリーは死なない。わずか1演出でクンドリーは死の救済を得られるのである。今日は5つの事例でそれを見て見よう。

 まずこの最終部分のト書きを見て見よう。
 パルジファルが「さあ、聖杯の覆いを獲れ。厨子をひらけ」と歌う。
(パルジファルは、祭壇の階段をのぼって、少年たちの手で開かれた厨子の中から、聖杯グラールを取り出し、黙とうのうち、跪きながら、じっと聖杯を見守る。聖杯はなごやかな輝きをましてゆく。上方からの光が加わるにつれて、下方は暗さを深める)

一同(最高所ならびに中段の高所からの声に合わせて、ほとんど聴きとれないくらいに静かに)

 この上ない救いの奇跡よ
 救済者への救済よ

(光線、すなわち」聖杯グラールの灼熱の輝きは、今や頂点達する。円天上からこの時白鳩が舞い降りてきて、パルジファルの頭上あたりにとまる。クンドリーはパルジファルを見上げながら、彼の前で静かに息が絶えて床にくずれおれる。譲位したアンフォルタスは王と長老グルネマンツはうやうやしくパルジファルの前に跪く。パルジファルは祈りをささげる騎士たち一同の頭上に聖杯をかざし動かしながら、祝福を続ける。幕(高木 卓訳)

さて、このと書きに一番近いのは1981年バイロイト公演だ。演出はウオルフガング・ワーグナー、指揮はホルスト・シュタイン、パルジファルはジークフリート・イエルザレム、クンドリーはエヴァ・ランドヴァである。

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 舞台設定は中世であるから違和感はない。ト書きの部分はこうだ。パルジファルはクンドリーとグルネマンツと登場し、アンフォルタスを救い、厨子を開けるように言う。厨子には赤く輝くグラールがあり、パルジファルは槍をグルネマンツに預け、聖杯を抱いて騎士たちに順次掲げてゆく。クンドリーは聖杯を前にして手を組み、かすかに会釈する。しかしそれだけでクンドリーは死なない。
 クンドリーは死なないがこれはト書きの文章を最もよくあらわした舞台と云える。ウイーラント・ワーグナーの弟、ウオルグガングは凡庸と云われていたが、どうしてどうして、この舞台はおじいさんの空気を一番持っているのではないかと思った。シュタインの指揮は速いテンポで豪快に進める素晴らしいもの。これは実に感動的なパルジファルである。

さて、次は2013年METのライブである。演出はフランソワ・ジラード、ガッティ指揮、カウフマンがパルジファルを、ルネ・パペがグルネマンツ、カタリナ・ダライマンがクンドリーを歌っている。この時期で最高の歌い手であろう。
 現代への読み替えである、全体に抽象的な要素が大きいので違和感がなく、何より最終場面の演出が私は最も気に入っている。

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 ここでは、ト書きにないがクンドリーがグラールの入った厨子を抱えて登場する。アンフォルタスの苦悩の歌を聴いている。やがてクンドリーは舞台前面に座り、パルジファルを待つ。パルジファルはグルネマンツを従え登場。ティトレルの墓に横たわる、アンフォルタスの傷に槍を当て彼を救う。
 クンドリーは金色のグラールを掲げる、横からパルジファルは槍でグラールと合一させる。やがてクンドリーはグラールを厨子に置き、アンフォルタスと一瞬視線を合わせる、そして横たわり、グルネマンツに抱かれながら息絶える。この場面はいつみても感動的でト書きのイメージを生かしている。最も好きな結末である。
指揮のガッティはスキャンダルがなければと惜しまれるほどの公演。パペ、カウフマン、ダライマンの歌唱も相まってMETでは最高のワーグナー。

続いて、だんだんおかしくなるが、2016年バイロイトライブ。フォークトのパルジファル、ツェペンンフェルトのグルネマンツ、パンクトローヴァのクンドリーである。指揮はハルトムートヘンヒエンである。演出は、ウヴェ・エリク・ラウフェンベルクである。舞台は現代の中近東のモスク。シリアかもしれない
 最終場ではもうクンドリーは登場しない。グラールもなく、聖槍はティトレルの柩に入れられる。アンフォルタスはもう血を流していない。ここはアンフォルタスやクンドリーの救済は主題ではなく、むしろ虐げられたいろいろな宗教の人々(かつては仲良く住んでいたのに)が融和し平和に生きることを示している。

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 なお、クンドリーは3幕の冒頭でもう呪いから解かれ、完全に老化している。車いすにのって家族とツーショット?などという脳天気な終わり方。息を引き取ったかは不明だが、パルジファルの洗礼はあまり効果がなさそうだ。この演出で見ものは1幕だろう。DVDで売っているはずだから興味ある方はご覧ください。

 2012年のバイロイトになるとわけがわからない。ステファン・ヘアハイムの演出でワーグナー家とナチスの没落をかけたような舞台で、とにかくさっぱりわからない。今もって何度か見ているがわからない。最終場はパルジファルは地底に消えてしまう。グラールは子供の作った小さな城、そこに槍を刺すと光り輝く。グルネマンツとクンドリーと子供は仲良く肩を組んでおしまい。

 それを超えたのは2013年ザルツブルグイースターでの公演。指揮はティーレマン、演出はミカエル・シュルツである。ボータのパルジファルがとにかく素晴らしい声だったが、見た目が太っているので本当に損している人だが、彼の歌では最高の歌唱だ。若くして亡くなったのが惜しい。クンドリーのミカエル・シュスター。なお、アンフォルタスとクリングゾルは同一人が歌う。ウォルフガング・コッフ。

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最終場はこうだ。アンフォルタスはもう情欲に溺れ厨子を開く意欲がない。パルジファルが槍を示してもすぐ女の方に逃げ込む。クンドリーはなんとキリストと和解してラブラブである。しかし二人は騎士たちにとらえられ、やがて聖なる槍でキリストはもう一度刺される。クンドリーはもう一度キリストをあざけるように強要される(ここは自信がない)とにかく。パルジファルはもう役立たずで棒立ちのまま幕。なんとも奇妙な演出でこれと、2012のバイロイトはいまもって未消化である。ティーレマンの演奏はシュタインとならんで気に入っているのだが!

 さて最後に変わり種を一つ。2012年の二期会公演、飯森泰次郎指揮、演出はクラウスグート。歌手はみな日本人である。
 ここでは、クンドリーは息絶えるのだが、なんと生き返って、カバンに荷物を入れて旅に出るのである。それを窓からパルジファルが見ている。
 そして表のベンチにはクリングゾルがやがてアンフォルタスが近寄り、和解するという。2016年のバイロイトに通じる演出だ。でも不思議なことにこれは実に自然なのが不思議だった。

 これから、どういう演出が出てくるかはわからないが、せめて最後にクンドリーに死の救済は与えるべきではないかと思うのだが、いかがでしょうか?

 冒頭の「救済者の救済」とは何をいうのかは論議があるところだが、もう書く気力が失せた。これから床屋に行こう。



 

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