ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2020年03月

2020年3月29日

コロナ禍の中、音楽会がバタバタと中止になってゆき、外出も自粛、となるとなかなか楽しみがないが、その中でも読書が生活の中心になってきた。
 今回読了した「信長の軍師」はその中で面白く読んだ1作。
信長の軍師

もともと単行本2冊だったのを、文庫仕様で4冊に分冊。大作である。「信長」についての歴史小説と云えばどうしても津本 陽の「下天は夢か」が頭に浮かぶが、本作は津本の云う歴史小説をさらに大きく膨らませて、史実と創造の合間で面白い読み物を作ったという印象である。特徴はいくつかある。

 まず、主人公は信長ではあるが、実際はその軍師であった臨済宗妙心寺の第39代大住持の沢彦宗恩の物語である。彼は信長7歳の折からの家庭教師であった。そして戦場には出ないが、影の軍師としての位置づけで、それは信長が安土城を建てるころまで続いたとしている。

 もう一つは沢彦は塚原卜伝の弟子で武術の達人であるということで、彼の立ち廻りの場面は随所にあり、読みどころになっている。また公家の出ながら捨てられ河原ものになっていた母子を救い、その娘に翡翠となずけ、剣の道の達人として育ててゆく場面も、通常の歴史小説と云うより、剣豪小説に近い。

 また忍者たちの活躍、それは織田だけでなく、各戦国大名が皆飼っていた忍者たちの活躍も面白い。

 そして最も興味深いのはこの時代の臨済宗の住持たちが各戦国武将につき、軍師として活躍する部分である。彼らは横のつながりが強く、それが光秀の一つ謀反による、信長の死の伏線になる。また朝廷や公家の陰謀もそれらを串刺しにするような横線になって、クライマックスを迎える。そういう組み立てが面白い。そういう意味では4巻が最も面白く読めた。
光秀がなぜ謀反を起こしたのは諸説あるが、本作では陰謀説をとっているということだけを述べておこう。
 もしかしたらこれは歴史小説とは言えないかもしれないが、少なくとも歴史小説と時代小説のハイブリッド型のよくできた娯楽作品に仕上がっているといえるだろう。コロナで気が滅入るときに読むのにふさわしい作品の一つだろう。


2020年3月27日
ガーンジー島160

タイトルの「ガーンジー島の読書会の秘密」から連想するのは、こりゃオカルトものかとおもいつつ見始めた。
 しかしこれはそういう怪しげなものではなく、至極まっとうなヒューマン劇であり、ラブストーリーである。コロナウイルス禍で人と人との接触を断たざるを得ない私たち。それはこのドラマの1941年のナチスドイツ占領下の外出禁止令を彷彿とさせる。しかしこの島の何人かの人々はそういう環境の中でもあたたかな人間と人間とのコミュニケーションを維持してきた。これはそういう人々への畏敬とあこがれを持った女流作家の物語である。

 戦後1946年、ジュリエット・アシュトンは戦時中に書いた何冊かの本でベストセラー作家となる。
彼女の周りには人が群がり、賛辞の嵐、マーク・レイノルズという米軍の高級将校の恋人まででき毎日享楽の日々。
 しかしある日、見たことも聴いた事のないガーンジー島のアダムスという男性から手紙をもらう。ある随筆を彼が島の本屋で見つけたのだがそれにはアシュトンの蔵書のしるしがあったのだ。それから二人は文通をはじめ、アシュトンはガーンジー島の読書会なるものを知る。次の作品の題材に悩んでいた彼女は予告なしでその島を訪れ、読書会のメンバーとあって話を聞いた。しかし4人のメンバーは口を閉ざし、取材はおろか掲載も断ったのである。しかもこの会のリーダーだったエリザベスがいないのだ。
 アシュトンは丹念にこの島のナチス占領下で何が起きたのか、そしてこの読書会はどういうものだったのか、調べてゆく。二日の滞在予定が伸びに伸びてしまったが、アシュトンは真相を突き止める。それは驚愕のストーリーだった。まああとはご覧ください。損はしません。
 ここでは人間の生き方をエリザベスがアシュトンに教えると云ことになっているが、それだけではないいかなる非常事態において、最も大事なのは人と人との交わりであり、愛情だということはこの映画の観客全員に教えてくれる。
 
 ガーンジー島は初めて聞く名前だったが、ちゃんと地図に載っている。イギリス海峡のチャンネル諸島の中の島である。おそらく漁業・牧畜が中心の島なのだろう。イギリスよりもノルマンディーに近い。

 役者はみなうまい。アシュトン役のリリー・ジェームズ、アダムス役のミキール・ハウスマンが秀逸だが、脇では読書会のメンバー、こころの美しさだけが取り柄だといつも卑下している密造酒を作っているアイソラ役のキャサリン・パーキンソンが実に魅力的だ。助演女優賞を上げたい。
 なお、同じ読者会のメンバーの長老の郵便局長にトム・コートネイが出ていた。なつかしい。その他の脇も締まっていて、近来まれにみる佳作。

 なお、原題は「GUERSY LITERACY and   POTATO PEEL PIE SOCIETY」。ポテトピールパイなるものは食べたことがないが、映画の中でご覧ください。

2020年3月23日
ムンバイ

約2時間息もつかせぬ緊迫感。映像のせいか自分が体感しているようなリアリティが大きいのではなかったろうか?
 出演はホテルの従業員アルジェン(デヴ・パテル:スラムドッグでデビュー)、料理長オベロイ(アヌパムカー)、アメリカの建築家デヴィッド(アーミー・ハマー)、その夫人でインド人(ナザニン・ボニアデカ)、ロシアの富豪ワシリー(ジェイソン・アイザック)など。
 オーストラリア製作の映画のようだが、舞台はムンバイである
 2008年ムンバイの港に怪しげなボートが17-8歳の少年たちを載せて上陸。背中に重そうなリュックサック。そう彼らはこれからおこす同時多発テロの実行犯なのだ。2008年11月26日。
ムンバイ駅をはじめカフェやホテルを銃器をもって遅い無差別に殺戮を重ねる。およそ170名の死者が出たという大惨事を引き起こした。狙いは欧米人にあったらしいが犠牲者の70%はインドの人々だったそうだ。地元の警察力では広範なテロ活動を制圧できず、終息したのはなんと11月29日だったという。

 この映画では何人かの主人公がいる。しかし製作意図はこうだ。舞台のタージマハールホテルの従業員たちの献身的な活動を前面において、彼らの殉職の場面などを強調している。お客様は神様であるというスローガンを地で行くような彼らの行動が深い感動を呼び、ホテル再建後の集会でも大きな賛辞が寄せられたという。なかでもウエイターのアルジュン、料理長のオベロイの沈着冷静な行動に焦点を当てている。そのほか自己犠牲でお客を救ったフロントの女性たちなど、感動の場面が続出でそれぞれ胸を打つ。

 しかし、この映画の肝は同時多発テロを行った無知?な少年たちだ。彼らは教育によって神に捧げられるいけにえのようなものだが、本人たちは英雄的行為をしているものと思っている。タージマハルホテルはインドのみならず、世界でも有数のホテル、そこへはじめて入った時の彼らの感嘆の声。それは単なる無知とは片付けられない。その背景には大きな貧富の差。その一方の富の象徴がデヴィッド夫妻とロシアの富豪ワシリー。テロの真相はわからないらしいが、この貧富の差を少年たちに植え付けたイスラム原理主義差たちの教育の偏差には驚くというよりあきれるばかり。それを真に受けるイスラムの少年たち。その構図がこの映画で最も不気味なところだ。ようするに貧富の差なんて口実であり、テロの実行犯
たちへの引き金に過ぎない。

 シーク教徒のアルジュンは決して裕福ではない。子供がいて生活はかつかつである。しかししっかりとした教育を受け、貧しいが誇り高い男として描かれている、彼がテロリストの対極として描かれているところにこの映画のエンターテインメントとしての良さと、このテロの恐ろしい事実を直視する私たちへの救いをもたらしている。そしてそこに深い感動があるのだ。あざといが、これが映画の素晴らしさではあるまいか?



2020年3月18日
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このポスターを見てバート・レイノルズとわかる人はいるだろうか?彼の最後の作品は枯れた趣の演技が、スターの終焉をもの悲しくも、生き生きと描く。佳品である。

 ロスの豪邸に一人で住む、1960~80年代のアクションスター、ヴィック・エドワード(バート・レイノルズ主演)は孤独で偏屈、傲岸なオヤジになっていた。友人はほとんどなく、犬がお相手。そして病に侵されて、薬漬け。世の中の老人のサンプルのような男だ。

 そこへ、第5回ナッシュビル国際映画祭から特別功労賞を授与するので参加するよう依頼があった。その映画祭はヴィックの主要作品も上映されるらしい。過去イーストウッドやパチーノの受賞したという手紙を信じてナッシュヴィルに向かう。しかしこれはヴィックの映画愛好家の若者たちが集まって作ったじつにしょぼい映画祭。かの有名なナッシュヴィル映画祭とは似て非なるもので、ヴィックは怒り泥酔する。
 しかし翌日ロスへ戻ろうとしたヴィックだが、アシスタントのリルの運転でナッシュヴィルの隣町のノックスヴィルへ向かう。そこはヴィックの生まれ故郷だった。そこではまだ彼は生きる伝説俳優と云われていた。彼はノックスヴィルでは昔の自分をたどる。そして自分の人生を振り返り、いかに傲岸不遜な人生だったかを悟る。最後の彼のあいさつのようなモノローグは感動的。
 人生長く生きてきてああすれなよかった、こうすればよかった、と後悔しない奴はいないのだ。しかしその後悔の海の中で自分の人生が形成されてくるのも事実。そして年を経て振り返り、そうやって形成された自分の人生を見て、果たして自分はどう思うのだろうか?
 ヴィックはこの映画で到達した境地は「謙遜とプライド」だった。さてはて、何人の人がこの境地に達することができるのだろう。さしずめ私は落第だ。
 大変面白く見た映画だった。

2020年3月16日

chasei_obi

久しぶりの伊藤潤の歴史小説である。相変わらず読み口はよく一気読みした。戦国時代末期の題材と云えば信長、秀吉はじめ、武将たちが枚挙にいとまがないくらいである。そのなかで侘茶の創始者と云われている文化人を主人公にした本書の意義は奈辺にあるのだろうか?

 本書では利休の性格付けを一言でこういっている。利休にとって茶の湯は「聖俗一如」なのだと。つまり「利休には異常なまでの美意識という聖の部分と、世の静謐(平和といってよいだろう)を実現するためには権力者の懐に飛び込むという俗の部分があった。この水と油のような2種類の茶が混淆され、利休と云う人物が形成されていた」
 本書の面白いところはこの俗の部分の利休の描き方だろう。最初は信長に、後に秀吉に仕えたわけだけれど、その役職は茶頭であり、政治的には何の権限もない。あくまでも裏方である。それはあたかも例えは悪いが「ゴッドファーザー」のコンシエリ、俳優のロボード・デュバルが演じたあの役回りなのである。現代でいえば大統領補佐官か首相補佐官のようなものか?
 そのコンシエリ的な利休と時の権力者の特に秀吉との丁々発止のやり取りが本書の魅力といえよう。しかし芸術家の利休がなぜそのような俗世界に首を突っ込んだのだろう。侘茶の創始者としての孤高の芸術家として例えば「ノ貫(へちかん)」のように生きられなかったのはなぜか?
 本書では荒ぶる武人の心を茶の湯で穏やかにし、争いのない、平和な時代を築きたいというのが動機だという。この部分は少々美しいが、私には物足りないところだ。なぜ利休は「聖俗一如」の茶人となったのか?そしてその流れでなぜ死なねばならなかったのかは本書でもすっきりしなかった。
 なお本書では利休の2人の母違いの息子、弟子の宗二、弟子の古田織部、の描き方が秀逸。物足りないのは敵役の三成の薄っぺらさ。
 冒頭述べた通り、500ページもの大部にかかわらず、一気読みとなった。コロナウイルスでどこにもいけない老人にとって誠にありがたい作品だった。

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