ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2020年02月

2020年2月21日
於:サントリーホール(2階5列中央ブロック)

東京フィルハーモニー交響楽団、第932回定期公演
 ビゼー「カルメン」・演奏会形式
東フィル



指揮:チョン・ミュンフン

カルメン:マリーナ・コンパラート
ドン・ホセ:キム・アルフレード
エスカミーリョ:チェ・ビョンソク
ミカエラ:アンドレア・キャロル
ダンカイロ:上江隼人
レメンダート:清水徹太郎
フラスキータ:伊藤 晴
メルセデス:山下牧子
新国立劇場合唱団、杉並児童合唱団

 「カルメン」全曲を演奏会形式とはいえ、定期にはめ込むとは、なんとも豪華なプログラムではあるまいか?N響も負けずにやるそうだが、あれは定期ではなく、特別公演だからまた別な話だ。今夜は定期公演と同じ19時開始なのである。休憩を1回はさんで、終演は21時50分頃だった。大変疲れたが面白かったし、ビゼーのカルメンと云うのはもうもったいないくらい名曲がぎっしりつまっているなあ、とあらためて痛感した。なお、実際の演奏時間は135分であった。

 演奏会形式だが、舞台上に譜面台を置いて歌うという形式ではなく、簡単な演技をしながら行うというもので、今の歌手たちは実に器用なものだ。カルメンと云うオペラは現在はオペラコミック形式のせりふ付きでオペラハウスでは上演されることが多い。ただ昔はギロー版といってせりふをレチタティーヴォにして歌われる形態が多かった。カラヤンの旧盤(ウイーンフィル)などはその例である。
 しかし、今夜の公演ではそのどちらでもなく、せりふ、レチタティーヴォは皆無に近い。したがって歌のナンバー1の導入部から26のカルメンとホセの2重唱で締めくくる終曲までを続けて聴くことになる。印象としては名曲コンサート風で歌い手が次から次へと登場してそれぞれが歌うという塩梅で、劇場で聴くようにドラマを感じるようにはなかなかならないのが欠点だろう。
 とはいっても2幕の「花の歌」の前のカルメンの繰り言からあたりから、2幕の幕切れまではさすがに手に汗握るやりとりで、オペラを聴いたなあと云う気分。3幕の幕切れ、4幕の幕切れ、いずれもホセとカルメンの絡むシーンはドラマである。またこの部分でのオーケストラの音楽も新国立で鍛えただけあって、見事なものだった。結局この全曲あっという間に聴き終え、このようなスタイルもなかなかいいものだなあと感じた。

 歌い手は主役から脇まで締まっている。カルメンのコンパラートはカルメンを得意にしているらしい。
ハバネラやセギデリアではお色気むんむんというわけにはいかないが、上記のホセと絡むシーンでの奔放な女としての生きざまは十分に感じられた。ただサントリーホールはオーケストラホールで残響が長いのがコンパラートには少々災いをしたのか、声が通らない部分もあった。
 ホセのアルフレードは今日もっとも感動させられた。女々しい極みのホセだけれど、男なら一度はこういう気持ちにさせられたことはあるだろう。そういう記憶を呼び戻させられる歌唱だった。特に「花の歌」は絶唱。
 ミカエラも素晴らしい。役柄にあった楚々とした声は、ホールに透明感を保ちながら通る。3幕のアリアが素晴らしかった。ドン・ホセはまずまず。

 脇に回った邦人の中では山賊とその仲間たち(ダンカイロ、レメンダート、フラスキータ、メルセデス)がそれぞれ存在感を示し、舞台を締めていた。2幕の5重唱の軽妙さ、忘れられない歌唱だろう。

 合唱も素晴らしいがとりわけ素晴らしいのは児童合唱だ。おそらく徹底的に鍛えられたのだろう、明晰な発音でホールの中に響きわたり気持ちよい。特に4幕の闘牛士たちの登場シーンは素晴らしい。

 チョン・ミュンフンはもう自家薬籠中の曲なのだろう、暗譜で演奏していた。彼のシンフォニーなどでの演奏でも感じられる、音楽の強弱緩急のめりはりが、オペラでは一層効果的に響く。2幕のリリャス・パスチャの酒場で始まるシーン、最初は猛烈に遅く、最後は狂ったようにオーケストラを煽る。素晴らしい効果である。昔は例えば、カラス盤(指揮プレートル)などではこのようには演奏しない。こういう演奏をするようになったのはアルコア版(オペラコミック版)が演奏されるようになってからだろう。CDではマゼール盤(カルメンはアンナ・モッフォ、ホセはコレルリ)が最初のはずだ。あのときの衝撃は今でも忘れられないが、今は大体今夜のミュンフンのようなスタイルなのであまり驚かない。それでも今夜のミュンフンはなかなかのドライブだった。
 しかし、彼の真骨頂はすでに記したように、ホセとカルメンの絡む愛憎劇の場面だろう。ここでの音楽と歌は軌を一にして実に素晴らしいものだった。
 自宅に帰ったら、23時。やはり18時半くらいにはじめてもらえんかなあ!


 

2020年2月20日
於:東京文化会館(1階8列中央ブロック)

2020 都民芸術フェスティバル参加作品

 ヴェルディ「椿姫」、二期会公演



指揮:ジャコモ・サグリパンティ
演出:原田 諒

ヴィオレッタ:谷原めぐみ
フローラ:藤井麻美
アンニーナ:磯地美樹
アルフレード:樋口達哉(前川健生、体調不良につき代演)
ジェルモン:成田博之
ガストン:下村将太
ドゥフォール:米谷毅彦
グランヴィル:峰 茂樹

合唱:二期会合唱団
管弦楽:東京都交響楽団

ヴィオレッタの谷原の歌唱が素晴らしく、まず歌い手から。谷原は二期会では「ナクソス島のアリアドネ」のエコーとか「蝶々夫人」のケートくらいしか登場していないから新星あらわる、といってよかろう。今年に入って新国立のロジーナの脇園 彩、同じく新国立でのムゼッタの辻井亜希穂といった、素晴らしい、若いソプラノにえらく感動させられてきたが、今日のこの公演でもこの谷原には大いに満足させられた。
 彼女自身の声が魅力である。隈取のはっきりした透明感のある声であり、なんといっても良いのは声に金っ気がないことだ。例えば1幕でのそはかの人か~花から花へ、アルフレートのバックステージの声と絡む場面、いくら大きな声を出しても金属的にならない。そしてさらに魅力的なのは声自身しっとりと濡れたような、しめりっけのある声で、このメロドラマにぴったりといえよう。例えば2幕で2回アルフレートと呼ぶシーンがあるが(1場と2場)その声のしっとりとしたさまは、それだけで悲しみを誘うのだ。
 ただ、3幕の「さよなら過ぎた日よ~」や幕切れの絶唱などは、新国立のパパタナシュのあの感動的な歌唱に比べると、今一つ表面的で、声の演技と云う面ではまだ課題があるかなと思った。しかし初役でこの歌唱は特筆すべきものであり、この公演全体をとても魅力的なものにしたのは間違いあるまい。
 彼女の作ったヴィオレッタと云う人物像は、花柳界で生きるが、純粋さは失わない、そういう女性である。演出によるものかと思うが、衣装は2幕2場以外はすべて純白と云うのもそういうヴィオレッタの性格を現わしているように感じた。したがって彼女がアルフレートを愛したのは純粋混じりけのない愛だったと云えるのだろう。

 アルフレートの樋口は代演と云うこともあってか、少々歌い口が粗っぽく聴こえた。そのせいかこのアルフレートは田舎の純朴な、お坊ちゃんと云う印象からは少し遠いところにあるような気がした。演出なのか樋口の歌い方なのか、原因はわからない。
 ジェルモンの成田はじつにやさしいジェルモン像を築いた。これは息子や娘に対するやさしい気持ちは当然ながら、ヴィオレッタに次第に共感し、共悩してゆく、それがその歌いっぷりで大いに感じられるのだ。したがって2幕での純粋の愛に生きるヴィオレッタと、父親としての立場を貫く、ジェルモンはすれ違っているようだが、お互い、心の底では理解しあっているということを、歌で気付かせてくれるのだ。そういう意味で、ここは誠に感動的な2重唱だった。
 その他脇役は特に誰とは言わないが大分ばらつきがある。特に男声陣がそうだ。先日の藤原のリゴレットと比べると脇の甘さをかなり感じた。また1幕や2幕2場の群衆シーンの動きも雑駁で、リゴレットの後塵を拝したといっても過言ではあるまい。ヴィオレッタとアルフレートとジェルモンがいればそれで椿姫になると思ってはいけない。

 指揮のサグリパンティは売り出し中らしい。生きのよさは感じるし、劇場の人のようで、歌い手に寄り添った音楽は全く舞台と軌を一にして安心して聴けた。演奏時間はおよそ2時間。

 演出の原田は宝塚の演出家だそうだ。最近の欧州化した二期会の路線とは異なり、舞台にト書きとの違和感は全くなく、この名曲を十分楽しむことができた。
 この舞台を見ていて、ヴィオレッタの純粋愛を主題にして、その愛が世の中のしがらみで壊されてやがて、自らも死んでゆくという話は、突拍子もない連環かもしれないが「トリスタンとイゾルデ」を連想させる。世の中のしがらみ(昼の世界)を死の薬で断ち切ろうとした二人は、媚薬を飲むことによって、純粋愛の世界に没入して、それは当然世の中には受け入れられず、忘我の世界で自死してゆくという話だ。まあ余談です。

この画像は2幕の2場でアルフレートがヴィオレッタを侮辱する場面。舞台上の白いオブジェは各幕共通である。このオブジェの間に階段や通路がある。芝居はこのオブジェの前方で行われる。3幕では舞台上方に(天井)丸い大きな鏡があり、舞台上が映される。このオブジェは椿の花をイメージしているそうだ(プログラム解説による)見ているときはそうは感じられなかったが、おそらく2階席以上から見るとそのように見えるかもしれない。
 久しぶりにまともな「椿姫」を見たような気がして、二期会がどうなってゆくのか心配していたが、ちゃんとこういう揺り戻しを用意していていただいた。ありがとうございました。大変良い公演でした。





2020年2月11日
於:新国立劇場(1階6列中央ブロック)

ロッシーニ「セビリアの理髪師」、新国立劇場公演
sebiria
(2016年)


指揮:アントネッロ・アッレマンディ
演出:ヨーゼフ・E/ケップリンガー

アルマヴィーヴァ伯爵:ルネ・バルベラ
ロジーナ:脇園 彩
フィガロ:フローリアン・センペイ
バルトロ:パオロ・ボルドーニャ
ドン・バジリオ:マルコ・スポティ
ベルタ:加納悦子
フィオレッロ:𠮷川健一
隊長:木幡雅志
アンブロージオ:古川和彦

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京交響楽団
チェンバロ:小埜寺美樹

先月聴いた新国立の「ボエーム」に引き続き新国立劇場の好演である。ただし良さの質が少し違う。あの「ボエーム」は二人の女性がその性格を型作った印象が強いが、この「セビリアの理髪師」、配役に穴がなく、アンサンブルオペラとしても十分楽しめるし、個々の歌手の技巧を凝らした歌唱も楽しめるといった、全体のバランスが非常に良いという印象である。そういう意味では藤原歌劇の「リゴレット」と似てはいるが、新国立はインターナショナルなメンバーでそれを達成している。本公演は再演であり、そういう意味では指揮者のアッレマンディが全体のかなめになっていたに違いない。

 冒頭の序曲を聴いても実に気持ちの良い音楽を聴かせる。いささかも不自然な流れがないのだ。演奏時間は151分。1幕は約93分。日ごろ聴いているパターネ盤やアバド盤より少し早いかもしれないが、そういう性急さは聴感上全く感じられない。各幕切れのアンサンブルもいかにも気持ちの良いロッシーニクレッシェンドを聴かせてくれるし、ソロにつけた伴奏も出しゃばらない。しかし単なる中庸の人と云うだけでなく、例えば2幕の嵐の音楽などホルンをボーボー言わしたりしてなかなか迫力があり、とにかくこの音楽は決して飽きさせない。ついでながら小埜寺の通奏低音の妙は相変わらずで錦上花を添えたといえよう。

 冒頭述べたように、歌い手にはまったく穴を感じない。演出との相性のせいか、私は2幕がずっと良いと感じた。1幕では例えばフィガロの町の何でも屋や、伯爵とフィガロの2重唱「あの全能の金貨よ~」などは音楽全体がほぐれていない印象だ。これは舞台上の黙役の動きやベルタの経営する売春宿などと書きにない部分が煩わしいせいが一つの要因ではなかったろうか?
 バジリオのアリアやバルトロのアリアも少々堅苦しく、きちんと音楽を聴くには良いが、ブッファと云う面ではもう少し面白みが欲しい。
 しかし、2幕ではそういう堅苦しさは皆無で、ドン・アロンソが登場してから、伯爵の大アリア、そして終曲のアンサンブルまで、演技と歌唱がどんぴしゃりでこの名作を十分に楽しんだ。

 フィガロはおそらく今まで聴いた新国立のフィガロの中で最も見事な歌唱といえよう。美しく張りのある声自身に魅力があるのだ。伯爵も負けてはいない、その軽やかで、若々しい歌唱はいかにもロッシーニ歌いにふさわしい。2幕の大アリアはCDなどでも通常カットされるが、今回はきっちりと歌ってくれてうれしい。昨年ボローニャの来日公演でシラクーザも歌ってくれたが、こういう難曲には是非チャレンジして聴き手を喜ばしてほしいものだ。
 ロジーナは昨年新国立で素晴らしいドンナ・エルヴィーラを聴かせてくれた脇園が歌った。中域以下の声の安定さは見事である。メゾで歌うロジーナの最良の歌唱が聴ける。1幕のアリアでのアジリタなど堪能できる技巧の持ち主である。若々しく、美しく、才知に富んだとても魅力的なロジーナを堪能した。
 2幕でのアンサンブルでの存在感も十分で今後大いに期待したい。わずかな希望を申し上げれば、最高音の今ひとつの透明感とのびやかさだろう。まだまだ若いので今後の成長が楽しみである。
 ドン・バルトロは2幕以降の自由闊達さが楽しい。若々しい、ドン・バルトロは珍しいが歌唱的には何の不満も感じられなかった。加納のベルタは定番みたいなもので、十分溶け込んでいた。フィオレッロの𠮷川もいかにも伯爵家の執事風の堅苦しい歌いっぷりがおかしかった。

 ケップリンガーの演出は今回で5回目である。初めて見たときは随分、と書きにない、余計なことをしているなあと云う印象だったが(特に1幕)、2幕の装置と音楽展開を見ているともうそういう不満はあまり感じなくなった。
 ただ1幕はどうもなじめない。全体にお金に固執しすぎていて、もっと気楽なブッファとして楽しみたいのに妙に現実感が出てしまうのが、現代的であり、不満でもある。
 フィガロが子供たちを使って、故買屋まがいの事をしてみたり、子供たちに掏りをさせたり、ベルタが売春宿を経営したり、伯爵が札びらをばらまいたり、そういったことに意味はあるのだろうけれど、このブッファを素直に喜ばさせないという意味しか私には感じられない。そういう意味では1幕は音楽もリラックスしていないように聴こえるのである。
 2幕ではそういう拝金主義的な要素が減り、バルトロ家のメルヘンのような部屋のセットのせいもあり、ロッシーニのこの曲の本来の持ち味を発揮していたように感じた。
 しかし、そういうことをのぞけば、音楽的にとても充実していたし、昨年のボローニャの公演に匹敵する水準の公演だったと思う。


 

2020年2月1日
於:東京文化会館(1階8列中央ブロック)

ヴェルディ:リゴレット
        藤原歌劇団公演・新制作
リゴレット

指揮:柴田真郁
演出:松本重孝

リゴレット:須藤慎吾
マントヴァ公爵:笛田博昭
ジルダ:佐藤美枝子
スパラフチーレ:伊藤貴之
マッダレーナ:鳥木弥生
ジョヴァンナ:河野めぐみ
モンテローネ伯爵:泉 良平
マルッロ:月野 進
ボルサ:井出 司
チェプラーノ:相沢 創
チェプラノ夫人:相沢 菫
小姓:丸尾 友香
合唱:藤原歌劇団合唱部
管弦楽:日本フィルハーモニー管弦楽団
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演出、指揮、管弦楽、歌手他スタッフも含めて純国産の公演である。このようなスタイルの公演としてはおそらく現在もっともすぐれて日本人にフィットした公演と云えるだろうし、全体の完成度も高い。二期会も同系だが、演出が欧州化してきており、私のような日本のオペラのオールドファンとフィットしているとはいえない。そういう意味でも藤原の今日の公演の存在意義は大きいと思う。

 藤原のいくつかの公演を毎年楽しませていただいているが、いつも感心するのはその歌唱の(合唱を含めた)緻密さと云ってよいか、それとも厳しく鍛錬されているといってよいか、日本語が浮かばないが、とにかくきちんと当該公演を徹底的、つまり手抜きをせず、に達成させてやるという強い意志を全員から感じることである。
 今日も1幕の公爵の屋敷でのご乱行も合唱、ソロが入り混じるややこしいところだが、各人のそれぞれのポジションをよく理解した動線が良く見えるのだ。こういう動線を綿密に決めると動作に堅苦しさが出るがそういうことはなくすべての人物の自発的な行動のように、卑猥な屋敷の有様を描く。しかも欧州ではやりのセックスと暴力は、極力抑えた節度ある演出も好ましかった。ようするにこの舞台は全編そういう意思統一ができているということなのだろう。

 柴田の指揮から触れるが、前奏から力のこもったもの。1幕の複雑な音楽のさばきも立派、2場への動から静への移行もスムースである。(ここで場面転換があるが音楽が止まっている間、リゴレットは衣装を衣装箱にしまう作業をする)。グアルティエレマルデを歌う佐藤につけた音楽も歌に寄り添っており、この場面を盛り上げた。ただ2幕最後の「呪いだ」と歌う部分、歌もオーケストラも少々力をセーブしていたがなぜだろう?
 2幕の「悪魔め鬼め」の急速なテンポはシャイーを思わせるが、リゴレットの心情を現わしており秀逸。そして圧巻はジルダが自己犠牲になって刺される3幕だろう。ここでのスパラフチレとマッダレーナ、そして、そこへ飛び込むジルダの歌唱と音楽の、手に汗を握る迫真力。そして最後のリゴレットの叫びの場面も秀逸だった。そして2度目の「呪いだ」はあたかもマーラーの六番の2度目のハンマーのように強烈だった。とにかく今日はこのリゴレットと云うヴェルディの中期の大傑作の持つ熱量を十分放射した柴田の指揮だった。

 リゴレットの須藤はせんだっての新国立でのジェルモンは演出もあってかしっくりこなかったので、今日はどのようなリゴレットを聴かせてくれるか期待した。正直1幕の歌唱は冴えないようにおもった。優しいリゴレットで存在感もない。モンテローネに呪いをかけられて初めて、あれ、居たんだという印象。2場の「同じ穴のムジナ」も心のひだが見えない。
 本領を発揮するのは2幕の「悪魔め鬼め」からだろう。ここでの彼の狂乱は娘を持つ親として大いに共感する。モンテローネの呪いは強力で、ジルダが凌辱されただけでなく、最後は死を迎えてしまう。ダブルなのである。モンテローネはまさに自分の娘のかたき討ちをしたのだ。演出を今いう時ではないが、今日の演出はこのモンテローネの呪いが二重にかけられていることが全曲を聴いているとよくわかるようになっている。それを歌い手も良く理解していて、悲劇性を増すのだ。
 2幕の幕切れの復讐の2重唱も相方の佐藤は非力ながら須藤と相対していて聴きものだった。昨年のボローニャのガザーレとランカトーレのあの強力な歌唱には及ばないにしても、最良の2重唱といえよう。

 ジルダの佐藤は声も細い上、声量もいまひとつ乏しいがそれを技巧で補っている印象だ。歌唱はきちんと型通りに歌われており、まとまっている。そういう意味では同様にきちんと歌う須藤との相性は良いだろう、しかし少し脱線しながら歌うマントヴァの笛田との丁々発止の面では、若々しさ、向こう見ずさと云うか、そういう若者の持つ何者かが欠けていて、例えば1幕2場の別れの場面の心の高揚と云う面では、少々不満。ただ終幕の歌唱は彼女なりに力があり聴きごたえがあった。
 笛田は久しぶりで、相変わらずのみごとな歌唱である。ただ全体のアンサンブルを大切にするこの公演の基本軸からほんの少々逸脱しているように感じる。たとえば私には終幕の4重唱は少々いこごちが悪い。笛田が抜けすぎているからである。笛田のいない最後の3重唱のアンサンブルの秀逸さと比べるとよくわかるだろう。とはいえ、日本のテノールの第一人者として、「女心の歌」は少し崩した歌い方がマントヴァらしく、多くのブラヴォーをもらっていた。
 スパラフチレは1幕2場では少々さえないが、3幕での悪党ぶりと武士道ぶりの両立は歌に出ていた。マッダレーナは4重唱と比べるとジルダを殺す場面の迫真の歌唱と演技だけで点を稼いだ印象。

 その他ではマルッロの月野が2幕でリゴレットにほろりとさせられるシーン、演出だろうが、こういう場面は他公演でも少なく印象に残るきめ細かいシーンだ。小姓の丸尾もきちんと歌われており歌い手のすべてが意味を持っているのが好印象。
 ただモンテローネはもう少し威厳があっても良いのではあるまいかと思った。

演出の松本は欧州のセックスと暴力の視覚化という演出の流れからうまく逃げている。1幕1場の公爵 邸でのご乱行も、その乱痴気ぶりを単純に視覚化するのではなく、私たち聴き手の想像の領域を残しているところがよい。
 冒頭、前奏が流れ、しばらくすると、幕が開きリゴレットが立っている。ここではシャツとズボンだけ。左肩?だったか、大きなこぶがみえる。ここまで露骨にせむしということをあらわす演出はあったかどうか?ガザーレは背中が少し丸くて見える程度だったと思ったが?その彼が舞台右手の衣装箱から道化の服を出して着始める。まるで「パリアッチ」であるが、リゴレットの心情は感じられる。
 1幕の舞台は右手に上る階段、奥が公爵の部屋、そこへチェプラノ夫人を連れ込むことを思わせる光景もある。舞台正面は貴族や武官、娼婦やら、貴婦人らが入り混じってのご乱行だ。
 2場は中央にリゴレット家の屋敷の塀である。その前でのスパラフチレとの2重唱。そしてジルダとの対面。リゴレットが去ってから植え込みに隠れていたマントヴァがジルダを口説く。
 アリアを歌いながら、ジルダ舞台左手の階段を上り。自室へ向かう。チェプラノたちは舞台中央の壁の前でジルダ強奪の策を練るところでリゴレットが登場。覆面をかけられはしごもちで、最後は騙された気付く。

 3幕は左手はミンチョ川の川岸、右手はスパラフチレのあばら家。1階は酒場のようなしつらえ、2階は野天のベッドである。
 4重唱は家の入口にリゴレットとジルダ、部屋の中にはマントヴァとマッダレーナが歌う。ジルダが戻ってきて死を決意する場面は、扉が開けられると同時にスパラフチレがジルダを抱き寄せ、おそらくマッダレーナがジルダを刺す。
 1幕、3幕について、長々と書いたが、要はト書きから大きく逸脱した部分はほとんどないといって良い。好演奏、好舞台の124分弱であった。この公演はわずか2公演、ダブルキャストというのは解せない。もっと多くの日本のオペラファンに見ていただきたい公演だ。








2020年1月31日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)

NHK交響楽団第1933回定期公演
指揮:ラファエル・パヤーレ
チェロ:アリサ・ワイラースタイン

ショスタコーヴィチ:バレエ組曲第一番
         :チェロ協奏曲第二番

ショスタコーヴィチ:交響曲第五番
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オール・ショスタコーヴィチプログラムをヴェネズエラの指揮者が振る。指揮者のパヤーレは1980年生まれでドゥダメルらと同じくヴェネズエラの音楽教育システム出身である。マゼールの代演をして、欧州で注目された。その時の曲もチャイコフスキーでロシア音楽との相性があるらしい。

 ショスタコーヴィチはロシアの音楽家だが、どうも私の頭ではあまりそういうようには分類されていなくて一人の現代音楽かとして聴いてきたような気がするが、今夜のショスタコーヴィチ、特に五番を聴いて、やはりショスタコーヴィチはロシア人であり、ロシア音楽が脈々と流れているということを教えられた。
 特に3楽章。これは今まで戦争の犠牲になった人々への鎮魂曲と思いつつ聴いていたが、今日の印象はそればかりではなく、広々としたロシアの悠久の大地、人間の悠久の営みを感じさせる音楽のように聴こえた。そして4楽章は戦争の勝利と云う意味ではなく、ロシア民族の爆発だ。クールな指揮ぶりだが、出てくる音楽は一味違うオリジナリティを持った演奏だった。N響も音がぎっしりと詰まった印象で充実していた。演奏時間は46分弱。

 バレエ組曲は1930年代に書かれたバレエを編集して1950年に出版したものだ。この第一番は「明るい小川」と云うバレエ音楽を中心に5曲編集されている。いずれも舞曲で、ショスタコーヴィチ風ユーモアと諧謔を織り交ぜた聴きやすい音楽だった。
 チェロ協奏曲はもっとずっとあとの1966年の曲である。初めて聴いた曲であるので印象だけいうと、決して聞きやすい音楽とは言えないが面白さはたっぷりある。特徴はいたるところで打楽器とのカデンツァがきけることで、大太鼓とチェロ、タンバリンとチェロなどユニークな取り合わせが意表を突く。朗々と響くチェロの魅力は十分に味わえたといえよう。

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