ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2020年01月

2020年1月25日
於:サントリーホール(1階11列右ブロック)

指揮:飯森範親
ソプラノ:角田裕子(リーム)

ラッヘルマン:マルシェ・ファタール
アイネム:オペラ「ダントンの死」から4つの組曲(初演)
リーム:道、リュシール(初演)

リヒャルト・シュトラウス:「家庭交響曲」
東京

前半が前衛的な曲を並べたせいか、東響の定期にしては相当空席が目立つ。指揮者もそれを知っているので、演奏前に慣れぬマイクをもって、角田と曲目解説をするが、これがネタを言いたくてしかたがないお笑いのようで、まったく作品の全容をつかむ手助けになっていないところが悲しい。
 前衛音楽が日本人に忌避されているのであれば私たちの蒙を啓く工夫がこの程度のおしゃべりで何とかなると思っているようではいけないのだ。片山杜秀氏の力作「鬼子の歌」にあるように、日本の近現代の音楽家は想像を絶するような苦悩の中でいろいろと音楽を生んできた。少なくとも再生音楽家としてはその爪の垢を煎じて、今日のような音楽に臨むべきだ。
 たとえば、事前に曲の解説をするのであるなら、事前にオーケストラを並べておいて、音楽の触りを何小節か聴かせたうえで、コメントをするというくらいの工夫をしないと、初演の曲を聴いてくれと云う姿勢にもならない。音楽にもマーケティングは必要なのだ。

 前半3曲のうち、ラッヘルマンの行進曲は、決して前衛とは感じない平易さであるが、途中でレコードが壊れたような、音飛びをオーケストラに指示する。作曲家は同じ個所を7回以上ぐるぐる回せという。今夜の回数ははよくわからないが、その間指揮者は観客席に座り聴いているというパフォーマンス。プログラムによればこれはヘンゲルブロックのパクリのようだ。最後は風船のおもちゃをプーと吹いて終わり。なんとも独りよがりの音楽で辟易してしまう。
 アイネムとリームはいずれもビュヒナーの戯曲をベースにしたもの。アイネムはオペラにしてそこから抜粋して組曲を、リームは最終場に歌をつけたものを聴かせてくれた。いずれもフランス革命の陰惨さで先の大戦の陰惨さを暗喩させる狙いがあるようだ。同時代のブリテンの「戦争レクイエム」ほどのインパクトはこの抜粋だけでは感じられなかった。

 前半の前衛音楽の後に続くのは皮肉にも「家庭交響曲」。前半の退屈さの反動から、日ごろは滅多に聴かないこの曲も大変面白く聴けた。各首題の書き分け、ごっちゃにならないオーケストラ、飯森の棒は冴えわたる。全体に東響の今夜の演奏は楽器間の間にも音が埋まるような、ずっしりした量感の演奏でオーケストラ音楽を堪能した。演奏時間およそ44分。
 なお、ラッヘルマンは8分、その他の2曲はそれぞれ16分くらいの音楽だった。


2020年1月26日


プッチーニ「ラ・ボエーム」
          新国立劇場公演

指揮:パオロ・カリニャーニ
演出:粟国 淳

ミミ:ニーノ・マチャイゼ
ロドルフォ:マッテオ・リッピ
マルチェッロ:マリオ・カッシ
ムゼッタ:辻井亜希穂
ショナール:森口賢二
コッリーネ:松位 浩
ベノア:鹿野由之
アルチンドロ:晴 雅彦
パルピニョール:寺田宗永

合唱:新国立劇場合唱団
管弦楽:東京交響楽団


粟国ボエームはこれで6回目になるが、非常に安定したプロダクションで、歌手がいろいろ変わっても、定番と云う安心さがあり、今回もこの名作を楽しむことができた。

 今回の公演はその中でも出色の出来栄えだと思う。それは一つはマチャイゼの歌うミミの素晴らしさだ。第一幕の「私の名はミミ~」、3幕の2重唱から4重唱、そして幕切れの寝たふりをするミミ、どの場面をとっても心が動かされる。それはマチャイゼの歌詞に対する声の反応よさのせいだろう。いかに主人公に共感して歌うか、オペラとして最も基本のところが、素晴らしく自然で心にしみこむ。1幕のアリアでミミの心情を聴いただけで、なぜかほろりとするし、4幕の幕切れは切ない思いがいっぱいになる。平常心では聞けない歌唱である。
 続いてムゼッタの辻井である。彼女がムゼッタに与えた造形は、過去聴いた中でもっともムゼッタの人間としての本質を歌ったものだと強く思う。2幕のムゼッタのワルツで彼女の出番が終わりだと思う歌い手もいるなかで、辻井は3幕でも独特のムゼッタを描く。それはおきゃんで鉄火肌の女と云う面だけでなく、マルチェッロに痛罵されたことの悲しさが歌と芝居にはっきりと示されていたことである。さらには4幕でも存在感を示す。ここでは彼女がおろおろしている男たちを仕切るのである。コケットなムゼッタでおしまいにしない、辻井の新国立デビューを大いに歓迎したい。
 そして、加えてカリニャーニの棒が冴えわたる。この2人の女性につけた音楽の素晴らしさは、かれが多くの劇場で経験を経ていることを証明している。特に1幕のミミのアリアにつけた音楽は傑出していると思う。演奏時間は108分。全体にプッチーニの音楽を丁寧に再創造していたように感じた。

 さて、その他の歌手たちはどうか?男性陣はいわゆる私たちが日ごろ聴いているラ・ボエームの標準のものであると云えようが、女性陣がその殻を破ったほど見事な歌唱ではない。
 ロドルフォのリッピは若々しいのは魅力だろうが、マチャイゼに比べると詩をもう少し大切に扱ってもいいのではないだろうか。1幕のアリアなど少々歌い飛ばし気味に聴こえる。
 マルチェロの落ち着いた声は魅力である。しかし従来のマルチェッロの延長線であり、安心して聴けるがそれ以上でも以下でもない。その他邦人も基本的には上記二人の男性と大同小異。
 今回のボエームは紅組の勝ちだろう。
管弦楽、合唱団(含む児童)はカリニャーニに応えていたと思う。2幕の盛大なクライマックス。3幕の雪の降る場面の静謐さ、どれも素敵だった。



2020年1月24日
於:サントリーホール(2階5列中央ブロック)


東京フィルハーモニー交響楽団、第920かいサントリー定期シリーズ
指揮:アンドレア・バッティストーニ
ピアノ:阪田知樹

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第三番

ベルリオーズ:幻想交響曲

東フィル

新年最初のプログラム、ふさわしく豪華である。それぞれ大変個性的で面白い演奏会だった。

まず、ラフマニノフ。ピアノ協奏曲と云えばまず二番と思うのが普通の音楽ファンだろう。あの曲はラフマニノフの旋律美とロシア風?ロマンの香りのむんむんする曲で、大体そう演奏されるケースが多い。ランランなどもその部類。悪いと云っているわけではなくそれが当たり前。
 しかし、たまにはそういう気分から離れて聴きたい曲でもある。そういう時私は古いがセシル・リカド/アバド/シカゴの演奏を引っ張り出して聴く。これはラフマニノフの持つ爛熟したような旋律美から一線を画した様な演奏でわたしにとってはいまではこれ以外聴かない。

 さて、今夜の坂田の演奏を聴いていて思い出したのはそのセシル・リカドの演奏だった。二番ほどではなくとも三番も旋律美がみなぎる美しい曲だ。1楽章の最初の主題とその展開や、2楽章の後半の目くるめくようなピアノの饗宴、そして三楽章の後半のクライマックスなど聴きどころ満載である。しかし今夜の演奏はそういう大見得を切って弾きたいところをほとんどそうしていない。むしろさっとやり過ごしているような印象すら感じてしまう。おそらくピアニストはこの曲の演奏に際しての方向付けとして、ピアニズムの極限と云うテーマを掲げたのではあるまいか?それによって失われるものもあるだろうが、アウトプットとしての音楽はすこぶる清新な、手垢のまみれていない、新鮮なラフマニノフだった。わたしにはそういう演奏に聴こえた。バッティストーニはほとんどなにもしていない。ただ阪田のピアノにオーケストラをささげている。それだからこそこの2人の天才の作る音楽の独創性は唯一無二だ。
 アンコールはもういらないが、ラフマニノフのヴォカリーズ。

幻想交響曲もちょっと驚かされた演奏だ。4楽章になってバッティストーニが急に元気になって、音楽も活気づいてきたからだ。もともと4-5楽章にはそういう要素があるのはわかったことだが、それにしても寝たふり?をしている前半3楽章はなんだったんだろうか?
 この音楽は一種の標題音楽として聴く。ベルリオーズの恋愛の顛末の音化である。ベートーヴェンの心の成長の旅を描いた交響曲とは偉く違う世界だが、それがロマン派の時代なのだろう。
 今夜のバッティストーニの演奏の1-3楽章はそのロマンの香りの結実というべき片思いの「愛」が全く感じられない。あのミュンシュがボストンを振った古い録音と比べれば、一聴瞭然だろう。
 1楽章では濃密な片思い感がでないし、2楽章のワルツでの焦燥感も感じられない。3楽章の恋人との別れの苦しさも感じ取れない。音楽はただ美しく流れるのだ。おそらくバッティストーニはあまり劇的には振る舞いと決めて指揮台に立ったのではあるまいか、純音楽的な「幻想」と云うものを一度演奏してみたかったのかもしれない。
 しかしそのためにはもう少しオーケストラのレベルがあがらないと難しいのではあるまいか?東フィルは模範的な演奏を繰り広げていてそれはそれで満足なのだが、指揮者の枠を突き抜けるところまで入っていないように思った。1楽章はもっともっと濃密な弦が聴きたいし、2楽章の狂気のようなワルツも聴きたい、そして3楽章、美しいがそこには別れの予感というものが全く感じられない。テレサテンの演歌を聴いてもらいたい。あの肺腑を抉るような苦しみをこの楽章では聴きたいのだ。
 バッティストーニの成長期の記念すべき演奏として記憶にとどめておくとしよう。

2020年1月21日

(NHK TV放映1月19日)


プッチーニ「トスカ」ミラノスカラ座2019-20新シーズン開幕公演(2019/12)

指揮:リカルド・シャイー
演出:ダビデ・リーヴェルモア

トスカ:アンナ・ネトレプコ
カヴァラドッシ:フランチェスコ・メーリ
スカルピア:ルカ・サルシ

おそらく、今年の秋に来日するスカラ座の公演ではこのパフォーマンスを持ってくるに違いない。歌手はルカ・サルシは来る予定だが、メーリもネトレプコも来ない。指揮と演出は同じである。だから舞台と演奏は今回のビデオ放映で見聞きするのと同じはずである。前もって見ることの是非はあろうが、私は良い予習だと思った。なお、この演奏は1900年初演の初稿ということである。1幕のカヴァラドッシのアリアの後や2幕のトスカのアリアのあとなど聴いた事のない歌詞が散見するが、つきあわせたわけではないので何とも言えない。ふつうにみる/きくには何の支障もないのでは思われた。

 歌手はおいておいて、今回の演出は欧州にしては実にまともである。セックスと暴力に明け暮れる欧州のオペラ演出界だがさすがにスカラ座のトスカでは読み替えはできないのだろう。

 舞台はイメージとしてナポレオン1世時代の雰囲気が出ている。日本の新国立の舞台や伝統的なウイーンの舞台に負けないだろう。
トスカ1

 これは1幕幕切れのシーンである。中央の祭壇は回り舞台の上にあり、これがくるくる回り、舞台転換をスムースに行っている。群衆の動線もスムースであり、統一のとれた舞台である。このシーンのまえにアッタヴァンティ家の前で油絵を描くカヴァラドッシは3段に組み上げられた台にのり、その横に垂れさげられたキャンバスに絵を描く。CGで白黒のマグダラのマリアが一気に書き上げられ、カラーになるなどお遊びも面白い。

tosuka 2

 これは2幕である。ファルネーゼ宮殿のスカルピアの居室だ。手前は拷問されたカヴァラドッシを支えるネトレプコ、右の赤いガウンの男がスカルピア。上方のフラスコ画は絵ではなく、実際の人物が乗っている。この舞台の地下が拷問室になって入り、実際にはせりあがってカヴァラドッシの拷問シーンを見ることができる。

tosuka3

少々太めのトスカがスカルピアを刺したところだ。最後は首を絞めて殺す場面もある。しかしスカルピアの頭の上に燭台を置くことはないし、胸に十字架も置かない。ネトレプコが暗闇に浮かぶさっぱりした幕切れだ。

tosuka4

最後の銃殺の場面。舞台奥はサンタンジェロ城の天使の巨大な天使の羽である。羽の下が牢獄になっている。ここでは2重舞台が使われていないのでもったいない。トスカは幕切れでこの天使の羽の上に上り、飛び降りるがそのシーンはなく、スタントの女性?がティベレ川に落ちてゆくトスカの顔を映像に大きく映して幕である。この4枚の写真だけみても、かなりまともな舞台であるということがわかるだろう。

 さて、歌い手だが、かつてトスカやカヴァラドッシ、スカルピアを歌った歌手たちとは随分とは肌合いが違うものだ。ひとことでいうとこの1800年と云う時代がかった舞台とはそぐわないということだ。コスチュームプレーヤーのように芝居がかっては決して歌わない。ここにあるのは今日的なメロドラマの主人公の愛憎劇である。舞台はその飾りに過ぎないがこれは致し方がないだろう。これは例えは悪いが、日本の時代劇にジャニーズや「何とか坂46」の若者が出てくるようなそういう趣なのだ。
 こういう舞台だったらカラスやテバルディ、モナコ、ゴッビ、コレルリ、ドミンゴなどが出てくればさぞや映えることだろう。しかしそれももうないものねだりもいいとこだ。

 そういうことは忘れてこの演奏を聴くとなかなかい歌唱だったということがわかる。ネトレプコは相変わるずの低音の癖が気になるが、前半のラブシーンより後半2~3幕の劇的な舞台での歌唱は聴き手を引き付ける。メーリは日本ではがっかりする歌唱ばかりだが、ここでは彼なりのカヴァラドッシがある。つまりここでは自由主義の闘士と云う戦う男のイメージは全く感じられない。そのかわり女たらしとは言わないが、むしろ愛に生きる男、カヴァラドッシと云う印象である。そういうように聞くとこれはなかなかの歌唱。
 なかではスカルピアは存在感があった。いかにも人に嫌悪感を持たせる男を気持ちよく歌っていた。
その他脇のスポレッタ、堂守、アンジェロッティなどは一流とは言えない。スカラ座でもこの程度かと思うほど。日本ではどう歌ってくれるのだろう。

 シャイーの指揮はゆったりした棒。舞台には合っているが、歌い手にはもっときびきびしたほうが良いのではあるまいか?ボエームなどは超特急で演奏したので、やはり舞台負けしたのだろうか?演奏時間はアバウトだが121分強。

 なお、目玉のネトレプコは昔ウイーンで愛の妙薬に出ていたころに比べると随分と恰幅が良くなってしまった。顔もお盆のように丸いのはちょっと残念。もう少しダイエットが必要なのではあるまいか?日本に旦那と来た時のあの時よりまた太ったのではないか。あの時はオペrシティでかなり前のほうの席だったから一時太ったネトレプコが随分とスリムになったという印象を持ったのだが?旦那が熊のような男だったからかもしれない(失礼)。しかしそのジェイソヴィッチも独り立ちしてMETでは立派なカラフを歌っていた。まあこれは余談。

彼女の今の声ではマクベス夫人が最も適役だと思う。あの癖のある低音は凄味があって見事なマクベス夫人、METで歌ったのはもう何年まえだろう?




2020年1月17日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)


N響、第1931回定期公演、HKホールCチクルス

指揮:クリストフ・エッシェンバッハ
ピアノ:ツィモン・バルト

ブラームス:ピアノ協奏曲第二番

ブラームス:ピアノ四重奏曲第一番(シェーンベルク編)

N響定期1月

都合により1曲目の途中で退席してしまったので中途半端な内容になるが記録として書いておきたい。
ピアノ協奏曲第二番は私の青春の証明だ。20代前半、バックハウス/ベーム/ウイーンフィルで盤が擦り切れるくらい聴いてきた曲だ。今はバックハウスよりギレリス/ヨッフムの演奏を好む。ギレリスの男性的で、スパッと刃物で切るような鮮烈なピアノの音は何物にも代えられない。ロシア人だがヨッフムとの組み合わせで、ドイツ音楽を聴いたという気分にさせられる演奏だ。最初の主題がピアノで演奏されると背筋が伸びる。
 若手で伸び盛りのグリモーの演奏を聴いてみたがこれはギレリスとはま反対のまったりした、まるで日向ぼっこをしているような音楽。悪い意味ではなく、居眠りがお迎えに来るような演奏である。したがって私には今はギレリス一途でこの曲を聴いている。

 さて、今日のピアノはアメリカのフロリダ出身の人。巨漢であり見た目では年齢がわからない。豪快な演奏をするかと思ったら、1楽章の主題の入りなどなんとも繊細で面食らう。全体に緩急のギャップが大きい。駆け出したと思ったら、立ち止まり、そして駆け出す。そこにはなにか定まった考えがあるというより、感興のままに引き飛ばすという印象。しかし、例えば、1楽章では主題の提示の部分(展開部、再現部での主題の回帰も)では必ず立ち止まるような速度になり、そこからぴゅっと走り出すというワンパターンが次第に見えてくるのが興ざめだ。感興のままというよりわざとらしさのほうが気になってくる。

 最もそういうやり方にフィットしているのは、2楽章。最初の情熱的な主題のばりばり進むさまはさすがに熱くなる。そしてその後の中間の部分のしっとりしたタッチはわざとらしさは皆無で、自然な感情が感じ取れる。
 3楽章はエッシェンバッハとN響メンバーとのオーケストラの入りの(長大)部分がなんとも気持ちが良い。チェロのまろやかな音に木管が絡み極上の響きだ。しかし指揮者がそういう流れを作っているのに、ピアノは停滞感がはなはだしい。私はオーケストラの流れに乗って、さわやかに進めて欲しいのだが、ピアニストとしてここではねっとり表現しないときが収まらないらしい。
 4楽章は1楽章と同じような趣。
 エッシェンバッハとピアニストとは何度も共演しているらしく、呼吸はあっているはずだが、過去聴いたエッシェンバッハのブラームスとは随分と違った印象で、これは過去聴いたブラームスの二番の中でも相当ユニークな演奏であることは間違いがないだろう。ライブゆえ、このような演奏スタイルがあっても決してかまわないだろうし、こういう融通無碍な演奏を好む方を否定はしないが、この曲のもつロマンの香りやドイツ音楽的な部分が少し抜けているのではないかという疑問が最後まで残った演奏だった。
演奏時間は53分強。このような演奏スタイルだと曲が間延びするのは致し方あるまい。アンコールはなし。

所用で後半のプログラムはパス。



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