ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2019年11月

2019年11月26日
於:サントリーホール(1階18列右ブロック)

ケルン放送交響楽団/マレク・ヤノフスキ2019来日公演
ヤノフスキー

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第五番「皇帝」(ピアノ:チョ・ソンジン)

ベートーヴェン:交響曲第三番「英雄」

ヤノフスキの凄味を感じた公演。これは強力なベートーヴェンである。
 まず「英雄」から。ベートーヴェンの音楽的精神構造として、よく言われるのは苦悩の認識と勝利の達成という英雄的気質である。そして苦悩は光明を見出すための人生の必要条件であり、ベートーヴェンは個人的な体験を音楽で普遍的に表現している。
 英雄以前の1番や2番の交響曲はいわば音楽の「音」を追求したものでありあえて言えば純音楽的なものである。それに対して「英雄」は純音楽の対極的なもの、あえていえば標題音楽である。ただベートーヴェンの場合は具体的な事象や体験を音楽にしたのではなくあくまでも精神的な体験を音楽にしている。プロセスでいうとこうなる。苦悩→絶望→不屈のエネルギー→高揚である。(参照:ベートーヴェンの精神的発展・SULLIVAN)

 そして今夜のヤノフスキは私たちにそのベートーヴェンの心の旅路を体験させてくれたのである。こういうことを感じさせてくれる「英雄」の演奏と云うのはもうあまりお目にかかることはなくなっている。CDでは古くはフルトヴェングラー、カラヤン、ベームそして最近ではティーレマンくらいではないか?古楽派とその影響受けた指揮者が大勢を占める中で、ベートーヴェンも純音楽的に演奏されるのがスタイルになっている。ノリントンの演奏を最初に聴いたときは口もきけないほど驚いたが、しかし今聴いてみると決してベートーヴェンの心の旅を共体験させてくれる演奏のようには思えないのである。
 ヤノフスキの演奏は1楽章からベートーヴェンの苦悩と闘争を感じさせてくれる、最初の和音はあたりが優しくおやっと思ったが、第1主題の提示の激しさには圧倒されてしまった。音楽は怒涛のように迫り、聴き手を押しつぶしてゆく。展開部でしばしの安らぎは感じるが、決然としたホルンによる再現部のスタートともに私たちはまた戦場に駆り出される。コーダの緊迫感は形容しようがない。主題の反復もいれて、相当速い演奏時間だが(約16分)、古楽風のあわただしさがないのは時折ふっと息を抜くようなところがあるからだろうか?最後の和音のあたりもやさしい。
 2楽章は比較的あっさり目だが中間ではベートーヴェンの絶望感を共体験ができる。そしてスケルツオでは再び闘争心を燃やしてゆくそういう音楽が聴ける。最大の聴きどころは4楽章である。ここは全編輝かしく(きらびやかではない)、勝利を確信した英雄の雄大な音楽である。この高揚感、久しぶりに感じた。おそらくベーム/ウイーンフィルのCD以来だろう。
 ケルンの演奏はロイヤルコンセルトヘボウに比べると幾分荒削りのような気がする。弦は時折ささくれだった音を出す。しかし今夜の演奏のスタイルにはかえって緊迫感を出していたのではないかと、ついひいきをしてしまう。指揮者がいかに重要かがここに示されているのだ。演奏後の盛大な拍手とブラボーの嵐は、熱狂的なヤノフスキのファンがいることを物語っている。ベートーヴェン指揮者としてのヤノフスキの注目すべき演奏だ。演奏時間は48分。

 「皇帝」というとなにかきらびやかな音楽と云う印象で、私はむしろ3番や4番すきだ。しかし学生のころはこの曲が大好きで特にルービンシュタインの演奏を何度も何度もくり返して聴いたのを覚えている。ルービンシュタインが来日してなんと武道館で演奏したのを聴きに行ったくらいなのだった。
 さて、今夜のピアノは2015年ショパンコンクールの優勝者チョ・ソンジンである。直後にショパンのピアノ協奏曲を聴いたが正直あまりインパクトはなかった。
 しかし今夜の演奏は立派である。これは先日聴いたランラン/ヤルヴィの演奏の対極に位置するピアノである。曲は違うがあのときランランは同じベートーヴェンの二番の協奏曲を弾いた。これは自由奔放でまるで草書のようなピアノ、いままで聴いたことのない演奏だった。しかしチョ・ソンジンはそのように崩して演奏はしない。むしろ厳格といって良いだろう。そしてピアノの音も決してきらびやかにならず端正な響きでとてもよかった。これはチョ・ソンジンには申し訳ないがおそらくヤノフスキの考えも相当反映されていたのではないだろうか?事実ここでのオーケストラの響きは「皇帝」ではないような渋くて重厚もので、この二つの芸術家の醸し出す「皇帝」も唯一無二、彼らのコラボレイションでしか生み出しえない域に達していたと思う。これは近年最も感動した「皇帝」だった、演奏時間は37分。アンコールはブラームスの間奏曲118-2.これも落ち着いたピアノのサウンドが曲想にあっていてアンコールとしては珍しく聴きごたえがあった。








2019年11月22日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)

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NHK交響楽団、第1926回定期演奏会Cプログラム
指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット

モーツアルト:交響曲第36番・リンツ

モーツアルト:大ミサ曲ハ短調
 ソプラノ:クリスティーナ・ランツハマー
 ソプラノ:アンナ・ルチア・リヒター
 テノール:ティルマン・リヒディ
 バリトン:甲斐栄次郎

ブロムシュテットはもうN響の看板指揮者といってよいだろう。いまさらなんだといわれそうだが、あらためて今夜の演奏を聴いてそう思った。N響は海外指揮者好きで常任ヤルヴィ他ほとんどが外人の客演である。大体他の在京オーケストラもそんなもので、もう少し若い日本の指揮者の登用なども考えられてよいのではないかと思う。ただ都響や新日本フィルは音楽監督に日本人を任命しておりその進む道を示している。ひるがえってN響を見ると、ヤルヴィ家が親子で出るなどの体たらくである。日本人の入る隙間はほとんどないといって良いだろう。しかし今夜のようなブロムシュテットの演奏を聴くと、これはやはりブロムシュテットしかできない演奏であり、日本人どころか凡百の指揮者では太刀打ちできないだろうと思わざるを得ない。若いころの彼は中庸の演奏で、まあオーケストラをうまく鳴らしている指揮者と思っていたのが、いつの間にか今夜のような大家になってしまった。今夜の演奏ではリンツがブロムシュテットしかできない唯一無二の演奏である。

 このリンツは古楽風でもなく、かといってモダンオーケストラのゆったりした演奏でもなく、あえていえばハイブリッド的な演奏のような気がする。全曲37分は反復をきちんと行っているためだろう。この反復と云うのは曲者で、例えば古楽のピノックの演奏だと私にはこの反復は少々だれる。
 またベームのように反復カットもなにか寂しいのである。しかし今夜のブロムシュテットは反復をきちんと行った上、緊張感も緩まないという稀有の演奏を行っているのである。
 全体の印象としてはきりりとしまった演奏と云えるだろう。オーケストラのプレイヤーも古楽オーケストラのように絞っているせいもあるだろう。質実剛健ともいえるだろうし、枯淡の境地ともいえようが、私はそうは思わない。これは宮廷音楽家から決別した若きモーツアルト(とはいえ27歳を彼の作曲人生からすると若いと云えるかは別の問題)の覇気を感じさせる演奏のように聴こえた。音楽は全楽章を通して停滞をせず、疾走する、その疾走感がたまらなく若さを感じさせ、これが90歳を越した指揮者が演奏しているとは思えないのだ。

 1楽章は序奏がなんともそっけない。そして序奏の余韻もなく、すぐ主題に入る。ここでは反復されるが、この提示があまりにも爽やかで、聴いていて反復してほしいなあと思っていたら、本当に反復してくれた。細身のオーケストラ、パンパンいうティンパニ、そこに美しい木管などオーケストラの響きも、ブロムシュテットのモーツアルトに大いに寄与していると思う。ただ先日聴いたロイヤルコンセルトヘボウの弦を思い出すと、N響にあのしなやかさが加わればと強く思われる。
 2楽章のアンダンテもモーツアルトのもつギャラントさはこれっぱかりもない。さわやかに、颯爽と突き進むアンダンテ。この楽章はいつもはもたれてパスすることもあるのだが、今日は本当に聴いていて面白く楽しい。
 唯一、モーツアルトの典雅な面が感じられたのは3楽章のメヌエットに挟まれたトリオの部分。美しい木管におぼれた。しかし前後のメヌエットはスケルツオのごとく、ごつごつと進むので聴き手は夢からすぐ目を覚ましてしまうのである。
 4楽章の疾走感は全曲を象徴するような演奏である。跳ね回るティンパニや木管、弦楽の高揚感など、すべて素晴らしく燃焼した音楽である。これはブロムシュテットが90歳にしてたどり着いたモーツアルトであり、彼の新しいベートーヴェン演奏と並んで忘れてはならない演奏だと思う。

 この頃宗教音楽は避けている。家でも聴かなくなったし、コンサートにも行かなくなった。一時バッハの受難曲を勉強しようとしたが挫折し、今では、せいぜい(失礼)ヴェルディのレクイエム、ベートーヴェンのミサソレムニス、モーツアルトのレクイエムと大ミサ、それにフォーレのレクイエムなどが私のレパートリーとして残ったが、それらもこの数年CDで聴くこともなくなった。
 今夜の大ミサも予習のため、カラヤンの演奏を聞いたが、残念ながら最後まで聴きとおせず、ほかの事をしながら聴くという失礼なことをしてしまった。そのためか今夜の演奏はどうしても演奏に没入できなかった。
 印象としては完成しているグロリアが冗長でつまらなく、クレド以下の未完の部分がきりっと引き締まってよかった。途中で指揮者の指示で合唱のパートが左右で入れ替わるまたはシャッフルされるなどの小細工をしていたが私のようなナマケモノにはなぜだかよくわからない。
 なお、楽器編成はほぼリンツとかわらない。コントラバスが少し増やされている。またトロンボーンが左右に分かれて配置されていた。左に1本、右に2本である。オルガンはホール右手横のオルガン台ではなく、舞台右手のヴァイオリンの後ろで弾いていた。ただCDでは聴こえるオルガンが今日ははっきりと聴こえなかった,座席のせいか、耳のせいか?
 今夜の演奏は未完部分は補筆・校訂された、ベーレンライター版を使用したとのこと。なおカラヤンの使用した版は未完の部分はなるべくそのままにして校訂したランドン版である。
 歌い手は第一ソプラノのランツハマーが美しく、声にも安定感があった。第二ソプラノのリヒターは声に段差があり少々聞き苦しかった。男性陣は安定していて過不足のない演奏だった。
 終演後のブラボーは相当なもの。ブロムシュテットもこれだけ喝采をもらえば、また日本に来たくなるだろう。
 〆



2019年11月19日
於:東劇

METライブビューイング2019-2010、オープニング公演(公演日10月12日)

プッチーニ「トゥーランドット」
指揮:ヤニック・ネゼ=セガン
演出:フランコ・ゼッフレッリ

トゥーランドット:クリスティン・ガーキー
カラフ:ユシフ・エイヴァゾフ
リュー:エレオノーラ・ブラット
ティムール:ジェイムズ・モリス
メトロポリタン歌劇場管弦楽団、合唱団

トゥーランドットを楽しむには、やはりこのような絢爛豪華な舞台と演出がふさわしいと思う。改めて痛感した。今年の新国立の新演出の陰惨な舞台と比べればよくわかる。両者を見比べれて気に入った舞台はどっちと投票したら、オペラファンだったらMETに票を入れるだろう。
 このゼッフィレッリの演出は1987年初演と云うから長命である。METにおける彼の演出でもっともロングランなのは「ボエーム」だそうな。なんと486回だという。別にこれはアメリカだからと云うことはない。先日見たウイーンのトスカは600回を越えているというから、良いものは残るのだ。今日よく見る一発芸的な演出はおそらく何百回も公演されることは期待してないのだろう。あのバイロイトだって10年もすればガラッと演出は変わるのだから推して知るべしだろう。
 オペラに新鮮さを吹き込むための新演出ということなのだろうが、先日新国立の「ドン・パスクワーレ」を聴いたときに感じたのだが、同じ演出だが違う舞台のDVD映像と比較してみると歌手が全く違うためだろうか、印象が全然違うのだ。新鮮さを求めるのなら音楽で求めるべきだし十分可能だと、思うのである。もっとも新演出は演出家と評論家の雇用対策なら別の話だ(冗談です)。

 さて、ゼッフレッリは今年96歳でなくなったそうで、今回の公演は追悼でもある。舞台も歌もオーケストラも充実したもので久しぶりにまっとうな「トゥーランドット」に接することができた。特に2幕と3幕は総合芸術として傑出している。

言葉での説明は煩わしいので映像で見て見よう。これと次の画像は2幕の2場である。背景は古代の紫禁城。トゥーランドットがローリン姫の悲哀を歌う場面である。皇帝アウグストは正面上段の黒い衣装。手前は北京市民だがこの演出での群衆シーンは実に質量とも迫力がある。大官や腰元たちは一部京劇風の衣装とメイク。またピン・ポン・パンは歌がない部分では京劇の役者が演技する。
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この画像は最も感動的な場面。3幕のリューの自己犠牲の場面。後ろに立つのはトゥーランドット姫。
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これは3幕の幕切れ。舞台手前に姫とカラフが立つ。


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この何枚かの写真を見るだけでもオペラファンはワクワクするのではあるまいか?

さて、歌い手だが、私にはティムールのジェームズ・モリス以外は馴染みのない人ばかり。
素晴らしかったのはブラットのリューである。特に3幕の彼女の歌唱は涙なしには聴けない。リューの心情が深くにじみ出ていた。こうなると声がどうこう言う(もちろん声も立派)レベルではなく、その役をいかに歌で演じ切るというレベルになる。
 そういう意味ではエイヴァゾフのカラフは声は立派だが役つくりと云う意味では物足りなさも残る。2017年にネトレプコ(彼はネトレプコの夫君)と来日した時にマンリーコなどを歌ったが、軽業みたいな声ばかり耳に残った記憶がある。ただ、インタビューでこのMETに初登場した感激を、自分の過ぎ越し苦難の年と重ね合わせ、ここまで来るのに20年もかかった、とうれしそうに語っていた。なんともほろりとさせるではないか?初舞台の緊張がほぐれ、役も増えてくるにつれ、真価が出てくるのではあるまいか?ただ雑誌では欧州の舞台での活躍などを見るので欧州では評価されているのかもしれない。体形は2017年の熊みたいな風貌から大きく変わって、体重をかなり絞り、カラフらしいスリムな若者の体形になっていた。ネトレプコと二人でダイエットしているのだろうか?
 トゥーランドットのガーキーアメリカの人らしい。昨年ブリュンヒルデを歌った実力者。今日のトゥーランドット姫も声としては悪くはないが、姫のカリスマ性からすると、古今の名歌手たち同列と云うわけにはいかないだろう。特に2幕の姫は氷の心をもった女として歌ってほしいが、聴いた印象ではもう氷が解けてしまっているように聴こえた。モリスは来年でMET50周年だそうだ。かつてウオータンなども歌ってきた。ティムールも立派すぎるくらい立派な歌唱だった。
 ピン・ポン・パンは2幕はあまり哀愁が感じられないのが物足りない。3幕のほうがずっと宦官らしい。
 セガンの指揮はダイナミックだ。強弱緩急の隈取がきついが、作品の表現としては聴きにくいということはない。むしろその迫力はこの豪華な舞台と立派な歌手たちにフィットして、じつにゴージャスなトゥーランドットだった。〆



2019年11月18日
於:サントリーホール(1階12列左ブロック)


パーヴォ・ヤルヴィ/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団2019来日公演


ワーグナー:タンホイザー「序曲」
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第二番(ピアノ:ランラン)

ブラームス:交響曲第四番

今秋、欧米のオーケストラをいくつか聴いてきたが、ロイヤル・コンセルトヘボウの音が私にとってベストの響きだったように思う。弦の響きがきつくなく、ゆるくなく、滑らかであり、どんなに大きな音を出しても美しさを保っているし、しかも金管などがおおきな音を出しても弦はまったく埋没しないのである。これに比べるとフィラデルフィアの弦ははきついし、ウイーンフィルですら少々華美に聴こえる。木管の充実ぶりも素晴らしい。ブラームスの2楽章や4楽章など美しい。金管もいくら大きな音を出してもうるさくならない。まさに理想のオーケストラといえよう。

 最初のワーグナーは今夜の公演の中ではもっともオーソドックスな演奏である。すっきりした響きはワーグナーとは違うというかもしれないが、私には全く違和感がない。通常オペラだとすぐバレエになってしまうのでこのような序曲を聴くのはオーケストラコンサートでしかあまりないので、この曲を素晴らしい演奏で聴けたのはうれしかった。私が好きな終盤のチェロとビオラが主題を弾き、ヴァイオリン群がどんどん上昇してゆくところは、オーケストラの極上の響きが聴けて、特に印象的だった。

 ベートーヴェンは驚くべき演奏だと思う。このように演奏するピアニストはおそらくランランしかいないだろう。特に1楽章が印象に残った。ランランはフレーズを弾き終わると、手をひらひらさせたり、指揮をしているようなしぐさを示したり、云っては悪いがあまりヤルヴィの事を気にしていない。勝手に、自由奔放に弾きまくるといって良いだろう。しかも聴いていて不思議なことに、この演奏はピアノの音がしているにもかかわらず、ピアノを聴いている気がしない。むしろランランがオーケストラや聴衆に語り掛けているようにすら感じられる。特に1楽章でいえば独奏の長大なカデンツァがそうだし、2楽章などはもうまるで自分の世界に入り込み、終盤は消えなんばかり。
 しかしだからといって決してオーケストラとピアノはばらばらと云うわけでもないのが不思議なことだ。オーケストラの沈み込むようなサウンドがこのランランのピアノにはからずもといってよいかどうかわからないが、ぴったりとこはめ込まれているのである。まあ並みの指揮者、並のオーケストラではこうはいかないのではあるまいか?今夜はむりとしてもこのようなランランならむしろ弾き振りのほうがよかったかもしれない。今夜の演奏を聴いて、モーツアルトを聴いてみたいと思った人は私だけではあるまい。すごいピアニストがいるものだと感じいった次第。演奏時間は37分。愛聴盤のツィンマーマンの弾きぶりは30分弱だから随分と印象が違う。おそらくカデンツアァも違うのだろう。アンコールはメンデルスゾーンの無言歌集から「紡ぎ歌」。

 ヤルヴィのブラームスは2014年12月14日にドイツ・カンマーフィルとの演奏を聴いていて、印象としてはその時とあまり変わらない。しかしオーケストラが変わったせいもあって響きは豊潤となって、実に聴きごたえのあるブラームスだった。この四番の交響曲は昔、音楽教室に飾ってあった、あのもじゃもじゃひげの、むさくるしいブラームスの肖像画のイメージで、渋く、じじむさい音楽だとずっと思っていた。しかしクライバーのような演奏を聴くと、そういうイメージが払しょくされ、実に若々しく、力感あふれたなかにも、哀愁がただようという、独特の交響曲だということがわかってくる。
 今夜の演奏もそういう演奏の一つだ。1楽章の冒頭はさらりと入り、深い思い入れは感じられない。そして音楽は素晴らしい推進力をもって突き進む。ここにあるのはあのハンサムな若きブラームスの顔だ。若々しく、エネルギをもって突き進む。終盤の力強さはオーケストラの威力もあって驚異的である。2楽章は感じてもいない寂寥感などただよわない。むしろ少しなまめかしいとすら感じさせる。身悶えするようなロマンの香り。三番の交響曲を引きずっているような印象だ。
 3楽章の力感も凄いが、圧巻は4楽章だ。前半はコンセルトヘボウの名技を楽しませてくれ哀愁も漂うが、すごいのは、主題が回帰して、次第にテンポを上げてくるところだ。ここは指揮者もオーケストラも火の玉になって進む。これを聴いていて熱くならない人はいないだろう。素晴らしい大伽藍を形成した中で終結する。
 カンマーフィルではテンポの上げ下げの不自然なところが散見されたが、今夜はそういう無理押しはほとんどない。実に自然にオーケストラをコントロールしていた。とはいえ1楽章の終結部や2楽章の終盤の休止などはヤルヴィらしいなと思った。演奏時間はカンマーフィルと同じで39分。
 アンコールはブラームスのハンガリー舞曲三番と一番。これも凄い演奏、とにかくいつまでも聴いていたいオーケストラだった。

2019年11月16日
於:新国立劇場(1階11列中央ブロック)
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ドニゼッティ「ドン・パスクワーレ」、新国立劇場公演/新制作

指揮:コッラード・ロヴァーリス
演出:ステファノ・ヴィツィオーリ

ドン・パスクワーレ:ロベルト・スカンディウッツイ
マラテスタ:ビアジオ・ピッツーティ
エルネスト:マキシム・ミロノフ
ノリーナ:ハスミック・トロシャン
公証人:千葉裕一

管弦楽:東京フィルハーモニー管弦楽団
合唱:新国立劇場合唱団

たしか、新国立ではドン・パスクワーレは初めてのはずだ。したがって新制作になるのだが、これは新制作でもなんでもなく、2002年のカリアリ劇場(サルデーニャ)の公演と同じ演出、舞台である。
スティール写真ではトリエステ劇場のものが使われているが、この演出の原典がいつのものかは定かではないが、カリアリ劇場の公演はDVDで見ることができる。本日の公演の復習をされたい方は是非ご覧になって欲しい。この公演ではノリーナがエヴァ・メイ、パスクワーレはアレッサンドロ・コルベリ、エルネストがシラクーザ、マラテスタがロベルト・デ・カンディアとすべて強力イタリア人で固めており、なかなか見ごたえ、聴きごたえのある公演となっている。同じ演出でも歌手が異なると随分印象も違うことがわかるだろう。ということは演出をとっかえひっかえしなくても作品の鮮度を保てるということだがいえるのだ。まあこれは別の問題。

 さて、このオペラはどうも好きにならないのだが、今日ライブを初めて聴いてこのオペラが長い寿命を保っている理由がよく分かった。
 大体この話は結婚詐欺まがいの陥穽にひっかかった、若い女の色香に迷った男の話だが、罠をかけたほうは仕事もしないぐうたらな甥とその恋人の未亡人のちょっとおきゃんな女で、最後は罠にかけたほうが、かかった爺さんに、年取ったら若い女に手を出すなと脅迫まがいの教訓を垂れるという正邪の逆転劇である。パスクワーレはけちで孤独な嫌な爺だろうが、だからといってこんなあくどい罠をかけて良いはずはないだろう。はてさて、へそまがりにこのオペラを見るとこうなるが、しかしこのオペラは数百年も好演され続けている人気オペラなのである。それはなぜか?
 一言でいえば、これはブッファだが実にその人物描写が巧みに、生き生きと描かれているのだ。要するにお人形ではなく、生身の人間なのである。
 パスクワーレはいかにもケチで偏屈そうなおやじだ。1幕のマラテスタと2重唱、その後のエルネストとのやりとりなどでよくわかる。今日の演出でもマラテスタにシェリー酒かなんかをふるまう場面でも、自分のグラスにはたくさん、マラテスタのグラスにはちょっぴりしか入れない。カリアリ劇場の場合は実際にお酒を注ぐのでよくわかるが実にケチなオヤジなのである。
 エルネストはお坊ちゃんだ、仕事もしないで、ぐーたらして、パスクワーレの財産を当てにしている。だが実は性格は素直なことが例えば2幕の最初のアリア「遠い国に行こう~」でよくわかる。
 ノリーナが一番曲者だろう。1幕のマラテスタとのコミカルな2重唱によくその性格が出ている。ただ悪い女ではなく、例えばパスクワーレに平手打ちをくわすところなどで、あとから後悔するような優しさもある。しかしこの時代の女性にしては自立性が高く、男に従うタイプではない。
 マラテスタは周旋屋だ、フィガロのようなところもあり舞台をくるくる回す、根は気のいい男なのだ。
 歌を聴いているとこれら主演の4人の性格がよくわかり、単なるおちゃらかものではなく、そこには人間ドラマがあり、その時代を切り取った世相もありで人々を引き付けるのだろう。ただそのためには歌手たちの歌の技量と演技力がすこぶる付きで問われる作品なのである。

 今日の歌手たちは見事に役どころを歌い分けていた。スカンディウッツイは少々重いパスクワーレだが、それがかえって、彼の性格を引き出していたように感じた。素晴らしいのはマラテスタのピッツーティである。コミカルな部分も面白いが、たくらみの設計者として、舞台をくるくる回している部分が愉快だ。声は気持ちよいもので、フィガロを聴いてみたい。
 エルネストは屈託のないお坊ちゃんと云う面が良く出ていたし、内面のデリケートさも感じられた。声は細身なところがそう感じさせるのだろう。カリアリのシラクーザとはだいぶ印象の違うエルネストである。
 ノリーナは直前でダニエラ・ドウニースがキャンセルになったのがとても残念だったが、トロシャンも若々しいノリーナを地で演じていたように感じた。2幕のマラテスタとのコミカルな歌唱、2幕の修道女上がりの花嫁役、3幕では、愛を勝ち取った現代に生きる女性としての喜びなどを感じ取れる歌唱だった。
 指揮のロヴァーリスは現在フィラデルフィアオペラの音楽監督だそうで、中堅どころのオペラのスペシャリストのようだ。音楽は自己主張はあまりなく、歌手と舞台に寄り添った進行をこころ掛けていたように感じた。

 演出は冒頭述べたようにすでにDVDでみることができるので、詳細は避けるが、妙な読み替えは全くない素直な演出で好ましい。時代もそれほど動かしていない、演出家によれば18世紀~19世紀ころをイメージしているそうだ。
 舞台はうまくできている。1幕1場はパスクワーレの書斎だ。骨とう品や古書が所狭しと壁に陳列されている。右手に机、左手にソファがある。1幕の2場はノリーナがオスティアの浜辺でのんびりしている場面。場面転換はこのパスクワーレの書斎がくるくるとたたまれ、さらに2分割れて左右に別れる。そして岩場で横たわるノリーナが舞台前面に移動してくる。
 2幕のエルネストがパスクワーレ家を去る場面は、パスクワーレ家の裏庭で、パスクワーレの分割された書斎が登場、その裏側が裏口になっている。ノリーナとのお見合いのシーンはまたパスクワーレの書斎に早変わり。とにかく舞台転換の時間が短いのが良い。
 3幕の料理人たちの噂話の場面はゴージャスである。前面に舞台いっぱいの長い調理台があり、そこで、料理人たちが料理をしながら歌う。テーブルの上にはソーセージやサラミが多数ぶら下がっている。
 3幕の最終場は写真(トリエステ)のとおりである。パスクワーレの裏庭である。
演奏時間は120分。楽しい公演だった。

 



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