ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2019年10月

2019年10月28日
於:サントリーホール(2階3列中央ブロック)

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チェコフィルハーモニー管弦楽団/セミヨン・ビシュコフ、来日2019公演

スメタナ「我が祖国」全曲演奏
 1.ヴィシェフラッド(高い城)
 2.ヴルタヴァ(モルダウ)
 3.シャールカ
 4.ボヘミアの森と草原から
 5.ターボル
 6・ブラニーク

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今年聴いたオーケストラコンサートで5本の指に入る素晴らしい演奏だった。私の好みとしてはボヘミアの自然を描いた1,2,4曲目が好きだが、ビシュコフはどちらかというと伝説や歴史を描いた叙事的な3,5,6のほうが好きなようで、気合が入っていた。いずれの曲の曲想もうまく描き分け、この指揮者の力量を感じさせた演奏だった。音楽監督になって2年目だが、息があっているように思った。

 最も聴きごたえがあったのは6曲目の「ブラニーク」だ。ターボルとブラニークは続けて演奏され、ターボルで使われた主題の一部がそのまま使われており、1っの曲のように感じる。この曲の後半、第1曲目の「ヴィシェフラド」のハープの主題が戻ってくると、音楽は素晴らしく大きくふくらみ、実に聴きごたえがあった。
 「ボヘミアの森と草原から」も聴きごたえがあった。最初の主題を目をつむって聴いていると、ボヘミアの大草原が目に浮かぶようである。ここではオーケストラの恰幅の大きさを感じる。中間のうきうきした農民の踊りやポルカなども楽しいが、最初の主題がとても好きで、いつもこの部分を聴くと胸がいっぱいになる。これはボヘミアを描いているというより、人類が共通に持っている「郷愁」の普遍化した音楽だろう。ビシュコフの演奏はスケールが大きく、この曲の本質を現わしているように思った。

 超有名曲の「ヴルタヴァ」も名演だ。これは後半の曲に比べると、少し小粋といって良いくらい、チャーミングな演奏だ。源流の描き方からしてそうだ。最初の主題の描き方も実に自然で全く無理がない。次第に音楽は盛り上がるが、力みは全くない。そしてヴィシェフラドが目の前に立ち上がるが、ブラニークよりも強烈でなく、自然な現れ方で、いかにも川の一生を音にしたというこの曲の成り立ちを感じるのだ。
 1曲目の「ヴィシェフラド」はその中の主題が全曲を支配しているのでまるで交響曲の提示部のような趣である。ここでのビシュコフは実に精彩で丁寧な描き方で、主題を聴き手に聴き分けさせるような印象だった。

 オーケストラの配置はなかなか凝っている。コントラバスがなんとステージ正面の最奥に8本並ぶ。ハープはステージ中央部の両端に別れて1台づつ配置される。1曲目の冒頭はハープが奏されるが、左右で交互に演奏されステレオ効果満点である。木管・管楽器は四管だが、ホルンは6、トロンボーンは5である。弦楽器はステージ一杯に並び1ヴァイオリンは18(多分)、チェロ10と大編成である。しかし座席のせいもあるのだろうけれど、これだけの大編成は思えないほどバランスが良い。そしていくら大きく演奏してもうるさくないし、音場もピラミッド型が崩れない。弦楽部のしなやかさも特筆したい。ヴルタヴァの最初の主題から盛り上がるまでの弦のサウンドはその例だろう。なお、演奏時間は80分。休憩なし。アンコールなし。

 会場はいささか空席も目立つ。「我が祖国」では満席にできないかもしれない。ステージに向かって左の1階席と2階席に数十名チェコの皆さんと思われる方々が小旗を振っていた。

 「我が祖国」はブラックディスクのころ実によく聴いていた。アンチェルだったかクーベリックだったか忘れたがオーケストラはチェコフィルだった。CDになってからはとんとご無沙汰だった。そして、久しぶりに今夜再会して、大いに感銘を受けた。もう一度聴きなおそうと思う。



2019年10月26日
於:新国立劇場(1階5列中央ブロック)
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プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」、新国立劇場公演
      
振付:ケネス・マクミラン
指揮・マーティン・イェーツ

ジュリエット:木村優里
ロメオ:井澤 駿
マキューシオ:木下嘉人
ティボルト:中家正博
ベンヴォーリオ:速水渉吾
パリス:小柴富久修
新国立劇場バレエ団他
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

この公演の直前に今年のロイヤルオペラのコベントガーデンでの録画収録したものを見た。4/13及び27の公演である。この公演には日本人の高田 茜と平野亮一がジュリエットとロメオを踊っている。そのほかの踊り手は、皆西洋人であるのでどうかと思ってみていたが、全く違和感がなく、日本人の体格の向上に驚いた。そしてそれ以上にバレエそのものの素晴らしさによって、主役に抜擢されたのは当然といっても良いだろうと改めて感じた。そしてこれは快挙ともいうべきことだと私は思う。

 ひと昔前は、日本人がバレエを踊ると何か違和感があった。しかし今の若い人たちを見るとすらっと伸びた長い手足で全く違和感がない。先日の熊川版カルミナブラーナでは特に男性陣のバレエの素晴らしさに感嘆した。
 そして今日の公演。今では新国立の舞台は全員日本人であり、それがもう当たり前のように受け入れられるのである。今日の公演の振付は新国立劇場のもう定番になったマクミラン版である。大体なにやかにやでほぼ毎年ロメオとジュリエットの公演に接しているが、ほとんどがこのマクミラン版である。わずかにマリンスキー劇場の公演が原典版のラヴロフスキーの振付である。今日のマクミラン版を見てやはりこの振付が優れているなあと改めて思った。それは踊りを通じて人間とそのドラマを描いているからである。けっして踊りのための踊りではない。すべてはこの若い二人の性格描写や悲しい運命を表現することに捧げている。

 今日の公演でジュリエットの木村の踊りに感心させられた。それはジュリエットの心の動きや人間としての成長がその踊りを通じて明確に感じられたからである。1幕での乳母との戯れは本当に幼い少女である。次の場面では少々驚いた。パリスが婚約者として登場。この場面はパリスに対しての恥じらいがパリスを避けているというのが普通の解釈だろうが、過去のマクミラン版ではどれもジュリエットのパリスへの嫌悪を感じさせてきた(そう感じるのは私だけかも)。しかし木村の演技は幼い少女の恥じらいそのものである。それはその後の舞踏会でのパリスとジュリエットの関係を見てもよくわかる。ジュリエットはロメオに会う前はそれほどパリスを嫌っていないのではないかと木村の演技で気付かされる。ここもいままで見てきたマクミラン版ではジュリエットのパリスへの感情が決して好意的でないように踊られてきたように思っていたから実に新鮮だった。
 1幕のバルコニーの場では木村はもう少女からもう一つ成長した姿を感じさせる。そのすっくとたった立ち姿のりりしさがそれを物語っている。
 3幕ではもう大人のジュリエット。パリスを毅然と拒否する姿などでそれを感じるし、見せ場のベッドで静止する姿はけなげなジュリエットを感じさせる。この部分は木村の表情は少し幼いが、それは14歳の少女としては自然なのだろう。最後のジュリエットの悲痛な叫びはもう少し演技力をみがく余地はあるだろうが、二人の運命を思い、深い共感を呼んだことは間違いない。

 その他の踊り手はどれも過不足なく素晴らしい。また今回公演で感心したのは1幕や2幕の冒頭の群衆シーンである。2016年の公演では少々機械的な踊りのように感じたが、今日の公演ではどの人々も生き生きとその役割を演じており、素晴らしく活気を帯びた、リアリティのある場面だった。
 2幕幕切れの、キャピュレット夫人の悲嘆の演技もこれぐらいオーバーにやったほうが見ていて、悲しみが伝わると思った。本島の演技に拍手。

 イェーツはバレエのスペシャリストのようだ。手堅い指揮で2016年に引き続き指揮をしていた。群衆シーンなどもう少しパンチが欲しいほどおおらかな演奏。ただそれが騎士の踊りでは豪壮な雰囲気を出していて満足のゆくものだった。3幕は特に幕切れがさらっと行き過ぎているように感じた。ここはもう少し大きくオーケストラをあおっても良いのではないかと感じた。演奏時間は130分。なお高田 茜の今年のコベントガーデン演奏時間はほぼ同じの126分強だった。






2019年10月25日


ヴェルディ「シモン・ボッカネグラ」、ザルツブルグ音楽祭2019(映像・クラシカジャパン)

指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
演出:アンドレアス・クリーケンブルグ

ボッカネグラ:ルカ・サルシ
アメーリア:マリナ・レベカ
フィエスコ:ルネ・パペ
ガブリエレ:チャールス・カストロノヴォ
パオロ:アンドレ・ヘイボエル
ピエトロ:アントニオ・マテオ
管弦楽:ウイーンフィルハーモニー管弦楽団
2019年(8月)、ザルツブルグ祝祭大劇場にて収録

ゲルギエフはこの年の夏は超多忙だったらしい。この月にはあのバイロイトで「タンホイザー」を振っているのである。タンホイザーの公演はNHKでみたが終演後にブーイングらしきものがとんだりゲルギエフの指揮については毀誉褒貶があったようだ。私がTVで見た限りではテンポの加減速に不自然を感じたくらいで、それほど違和感はなかった。それ以前にあの独創的(?)な舞台に目が釘付けになり音楽どころではないというのが本音である。

 さて、ザルツブルグのゲルギエフだ。全曲聴きとおして感じたのはTV経由でと、断りを入れつつも、繊細感と云う面では聴くべきところがあったように感じた。1幕の入りや3幕冒頭などいずれもしなやかで透明感を十分感じられた。ウィーンフィルの威力もあるだろう。
 ただそうはいっても一つ物足りないのは、この演奏には海の香りがしないということではないだろうか?古くはスカラ座の初来日のアバド、新しくは先年のローマ歌劇場のムーティの作り出す、ジェノヴァの磯の香。海賊であったボッカネグラ、アメリアの幼少期に住んでいた海岸、ボッカネグラの屋敷の外の空気、そういったものはすべて海の香りがしているはずだ。それが感じられないのがこの演奏の全体の特徴でもあるのかもしれない。

 歌い手は皆素晴らしく聴こえた。タイトルロールのサルシはもう少し輝かしさが欲しいが、落ち着いた声は英雄ボッカネグラにふさわしい。フィエスコのパペは昔聴いたギャウロフのようなカリスマ的な貴族ではないが、その深みのある声はいつも魅力である。アメーリアのレベカは初めて聴く歌い手だが、TVを通してもそののびやかな声が魅力的に聴こえた。ガブリエレのカストロノヴォは最初声がつぼまって聴こえたが、次第にほどけて2幕以降は満足行くもの。悪役のパオロはボッカネグラの参謀と云うより、小悪党と云う性格付けが声に出ていた。
 インターナショナルなキャスティングだがチューリヒの「ナブッコ」に比べればイタリア人と思われる歌手が多く、ヴェルディを聴く楽しみを味合わせてくれた。

 演出は現代への読み替えである。
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この映像はプロローグである。民衆は携帯をもって総督選挙の人集めをしている。中央にはパオロとボッカネグラ。背景の映像はメールのようだ。こういう小道具を使うのは最近の演出ではよく見かけるが、この演出は少々安っぽい。

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この映像は2幕である。舞台全体はこの構造で1~3幕を通す。右半分の半円状の構造物は回転して開いたりとしたりするようになっている。この場面はこのオペラの見せ場である。右手上バルコニーにはボッカネグラがアメーリアを誘拐した罪をパオロに糾弾し、パオロは自分で自分を呪う場面。ヴェルディの劇的表現の冴えわたる場面だ。中央の水色の衣装がアメーリア、左端はパオロ、中央の青年はガブリエレだと思う。右手バルコニーの下のメンインブラックのような衣装を着けた男たちは議員たちだが、どうみてもマフィアである。この物語は平民対貴族の権力闘争が一つの主題になっているが、どうみてはそのようには見えず、マフィアかギャングの抗争劇のように思えてならない。例えば1幕でパオロがヘロインを吸入するシーンなどそういう姿を象徴した小道具だろう。そうなると歌詞との齟齬は大きく、複雑な構造に輪をかけてわかりにくいオペラになりそうだ。

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上の映像はガブリエレがボッカネグラを襲うシーン。ここでアメーリアはボッカネグラの娘であるということをガブリエレが知る。中央のドン・コルリオーネ風のこげ茶の背広を着た人物がボッカネグラである。
その下の場面はボッカネグラの死の場面。中央に立つオーバーを着た男はフィエスコ/アンドレアである。右手の3人は左からガブリエレ、ボッカネグラ、アメーリアる。いずれも3幕である。

最近TVで見た「リゴレット」「ナブッコ」、「シモン・ボッカネグラ」はそれぞれト書きとことなる装置だったり、時代背景だったりしていて、歌詞を読んでいるといろいろな違和感を感じるのは事実ある。しかし見ているとそれほど大胆に物語をぶち壊していることはしていない。特に登場人物たちの性格付けは原作の持つ大枠の範疇に入っている。
 例えばカタリナ・ワーグナー演出した新国立の「フィデリオ」のように正邪が逆転することはないのである。だから歌詞との齟齬などの気持ち悪さはあるが、さりとてヴェルディの音楽を楽しむのにそう邪魔なわけではないのだ。

 








2019年10月21日
於:サントリーホール(2階5列中央ブロック)

東フィル

東京フィルハーモニー交響楽団第928回サントリー定期シリーズ
指揮:ミハイル・プレトニョフ
テノール(リスト):イルカー・アルカユーリック
合唱:新国立劇場合唱団

ビゼー:交響曲第一番

リスト:ファウスト交響曲

ビゼーの交響曲は懐かしい、もう全く聴くことはない曲だが、私がまだ若いころエアチェックした演奏を何度も聴いていたころがあった。明るく、若々しいこのビゼーの学生のころの作品は、あの「カルメン」のヴェリズモを思わせる陰惨さは感じられないが、若者の覇気は大いに感じらた。今夜の演奏は例えば3楽章のスケルツオなど実に立派な演奏で堂々としており、私が聴いていたころのイメージとは随分と違うような気がした。もう少しこの曲は南仏を思わせるような明るいではなかったかと思うが、プレトニョフ流だとこうなるのだろう。比較的大きな編成でたっぷり鳴らした、少々重量級のビゼーもなかなか良かった。ビゼーが聞いたらビックリするような立派な演奏ではあるまいか?(失礼)
 ビゼーとリストの組み合わせとは奇妙な感じだが、2人はある会で出会い、ビゼーがリストの前で演奏したらしい。その曲がグノーのファウストのワルツ(リスト)だったというトリビアな話がプログラムに載っている。こういう話に食いつくところはプレトニョフらしいといったら怒られそうだ。個人的にはファウスト一曲で十分だ。

 ゲーテの「ファウスト」を題材にした曲は多くあり、その中には私が比較的よく聴くボイートやベルリオーズのオペラやまた最近では先日来日したロイヤルオペラの「ファウスト」なども良く聴くようになった。別格では第2部の終幕を交響曲の第2楽章にあてた、マーラーの「交響曲第八番」なども良く聴くが、リストはすっかりご無沙汰だ。
 この曲は上記のオペラのようなストーリーは全くなく、3楽章それぞれでこのゲーテの主人公の性格を現わしている、ロマン的な作品である。リストの管弦楽の粋を集めたような曲で最後は合唱とソロが出てきて、「うつろいゆくものはすべて~」と歌いあげ、オルガンも加わって盛大に盛り上がる。この部分はマーラーの八番と同じである。ただ好みだろうがマーラーのほうが数等パンチがあり、さすがのリストも勝てないだろう。このリストはショルティ/シカゴのCDで聴いているがCDで聴いた印象ではかなり大きく盛り上がる部分がある。ただ今夜の演奏では案外と盛大に盛り上げない。そういうスタイルの演奏なのか、はたまた2階席のためなのかはよくわからない。
 その反面と云い手良いかどうかわからないが各楽章とも透明度はすこぶる高く、それゆえかいくつかの主要主題が実にわかりやすく聴きとれるのは指揮者の意図したところかもしれない。久しぶりに聴いて、大変面白かったが、とても疲れた。
 サントリーの2階席の音のバランスは素晴らしくきちんとピラミッド型の音場になる。そして音が溶け合うのが聴きとれるところが、生理的に実に気持ちが良い。これで終楽章がもう少しパンチがあればサウンド的には申し分のないところである。

 終楽章に男声合唱とテノールソロが加わるが、3楽章が始まっても出てこない。3楽章終結部の「神秘の合唱」の直前の静かな経過部分に歌い手たちが登場するという段取りになっている。これはなかなか気の利いたスタイルだ。合唱はおよそ30人でステージ後方に2列に並び、その中央にソロが配される。ソロは透明感あふれる声で曲想にあっていた。トルコ生まれのウイーン育ちだという。

 なお演奏時間はビゼーがおよそ30分、リストがおよそ79分。

 
 

 

2019年10月18日
於:NHKホール(1階18列中央ブロック)

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NHK交響楽団、第1922回定期演奏会
指揮:トゥガン・ソフィエフ
ピアノ(ラフマニノフ):ニコラ・アンゲリッシュ

バラキレフ:東洋風幻想曲「バラキレフ」
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲

チャイコフスキー:交響曲第四番

このところ、良いオーケストラのサウンドを楽しんでいる。例えばベルリンドイツ/ティチアーティや都響/小泉の演奏である。これらはホールはそれぞれ違うが基本は一緒である。つまりオーケストラの基礎である弦楽部がどっしりとかまえ、真ん中の木管がその中間にぽっかりと浮かぶ、そして頂点には金管群。いわゆるピラミッド型の音場である。私にとってはオーディオでもライブでもオーケストラを聴くときはまずこの音場がしっかりできているかが最大の関心事なのである。

 今夜のN響は残念ながらそうは行かなかった。特にチャイコフスキーは金管の威力が強すぎて、音場は逆ピラミッドに聴こえるのである。もう1楽章の冒頭からしていけないのである。したがって両端楽章は私にとってはとても苦痛な演奏。金管だけが盛大に鳴り、弦は消え去っている。
 しかし2,3楽章はトゥッティの部分が少なく、小編成のオーケストラを聴く趣で、各パートが非常に明快に聴こえ、これはとても素敵な音楽に聴こえた。

 私が疑問なのは、ソヒエフは自分の出す音を例えばリハーサルで聴いているのだろうかと云うことである。聴いたうえで今夜の音を出しているのなら、これはソフィエフの嗜好なのだからうんぬんかんぬん云っても仕方がない。もうソフィエフは聴かないだけだ。しかし聴いていないのなら一度是非一階席で自分のサウンドを聴いて欲しい。
 N響のNHKホールで聴いてきてもう何年にもなる。音響については私も書いてきたし、だれもが悪口を言う。しかしそういうなかでいろいろ工夫して実に素晴らしい演奏を聴かせる公演もあるのだ。
 私が聴いた中で最高なのはクリストフ・エッシェンバッハの演奏したブラームス、おそらくあのサウンドは私がNHKホール聴いた中で最良なものだ。弦楽部に支えられたオーケストラはいかにも独墺系の良い音楽を聴かせてくれた。
 もう一例をあげると、ロジャー・ノリントンのベートーヴェンの演奏である。彼はオーケストラ中央の最後部に高い台を組みその上にコントラバスを置き、さらに反射板までおいて、低減の量感を補強していた。切れ味もよい、しかも量感もある素晴らしいベートーヴェンだった。
 N響の指揮者で何人がこのホールとサウンドの事を考えてくれているのかは私にはわからない。一度アンケートを取ってもらいたいくらいだが、これは冗談です。しかし過去聴いてきた演奏会を思い起こすとそういう工夫をしている指揮者は少ないのではないかと思わざるを得ない。
 一言言っておくと今夜の音の印象はあくまでも1階の18列の印象である。2階3階ともなるとどう響いているかはわからない。かつて2階席で1シーズン聞いたがはるかかなたで音楽が鳴っているようですぐやめてしまった。今の席は何度も試行錯誤をしたうえで決めた席だから、私にとっては満足のゆく席である、にもかかわらず久しぶりに今夜のような演奏会に遭遇してしまったのは実にショックだ。
 もしかしたら2階席、3階席に金管の音が聞こえるように今夜のような演奏になったのかと勘繰りたくなる。

 それはさておき、何度も会員をやめようかと思ったが、サントリーホールのBチクルスは入手困難でもあり、うじうじしながら今日まできている。とおもったら、来年からホールを改装することになり、Cチクルスは東京芸術劇場に移るという。ということで継続するか思案中である。

ラフマニノフの演奏までもう書く意欲がなくなった。すみません。聴きものの第18変奏もなにかとつとつとして全体に華が感じられなかった。アンコールはショパンのマズルカ63-2.



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