ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2019年09月

2019年9月30日
モータルエンジン

「移動都市・イモータルエンジン」ヘラ・ラマー、ロバート・シーハン、ヒューゴ・ウイービング主演

フィリップ・リーブ著の小説の映画化である。いまからおよそ1000年以上後の地球を描いたSFである。数百年前に60分戦争と云うものがあって地球は壊滅的なダメージを受け、その形も変わったほどだ。その時の戦争の武器は量子エネルギー砲である。その開発を目指すサヂアズ・ヴァレンタイン博士(ウイービング)とそれを阻止しようする、彼に母親を殺されたヘスター・ショー(ラマー)、その恋人のトム(シーハン)との戦いである。
 人間と云うのはあさましい動物であって、現代の権力闘争に、数百年前の地球を滅ぼした武器を活用しようとする。そういう人間の権力に対する醜い心が底流にあるが、映像はむしろファンタジー的な1000年後の映像に満ち満ちていて、それを見ているだけでワクワクするファンもいることだろう。荒唐無稽と笑う人にはこの映画は蚊帳の外だろう。
 その頃の地球は移動都市と云い、都市が移動しながら弱い都市を捕食して、強い都市が生き残るという都市淘汰主義に基づいていた。ヨーロッパ最大の捕食都市はロンドンでほぼヨーロッパを食い尽くしていた。そして残るは非移動都市(シャンクァオ)であるが、それは巨大な「盾の壁」に守られた大都市で移動都市も手を出せなかった。そしてロンドンのリーダーのヴァレンタイン博士は強力な武器を手に入れ、「盾の壁」を攻める。結末はおいておいて、この映画の傑作な(笑ってしまう)ところは。「盾の壁」は万里の長城を思わせ、非移動都市はまるで中国(名前もシャンカオ)を思わせるような映像になっているということである。勿論リーダーは習近平ではないが、中国人だが、民族はインドあり、ヨーロッパ人あり排他的でない。今日の時代感(つまり次の地球のリーダーは中国)におもねったような話は好き嫌いが分かれることだろう。映像の楽しさで面白く見た。

2019年6月25日
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「その女アレックス」で日本に登場したピエール・ルメートル。その主人公のカミーユ・ヴェルーヴェン警部を主人公にした一種の警察小説三部作の番外編が本作である。その後彼「天国でまた会おう」でベストセラーを出し、ゴンクール賞まで取り路線を変えた。もうヴェルーヴェン警部を主人公とした作品は書かないらしい。145cmしかない異様な肉体を持った天才刑事、部下もユニークなヴェルーヴェン班の活動はとても魅力的だったのに残念だ。
 本作は三部作のように長編ではなく、また事件としては重たいのだが、なぜか犯罪の割には軽さが付きまとう、あえて言えば奇妙な作品だ。ヴェルーヴェン警部のユニークさは相変わらずだが犯人のガルニエ親子の異常さも半端ではない。
 パリに爆弾を7個仕掛けたと自首してきたガルニエ、条件をのまなければ、毎日ひとつづつ爆破するという。すでに一つ爆破し負傷者も多数出ていた。犯人のガルニエの狙いは何か?思いもよらぬ結末までページをめくる手は止まらないだろう!

2019年9月23日
於:東京文化会館(1階14列中央ブロック)

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英国ロイヤルオペラ 2019年日本公演
 ヴェルディ「オテロ」

指揮:アントニオ・パッパーノ
演出:キース・ウォーナー

オテロ:グレゴリー・クンデ
ヤーゴ:ジェラルド・フィンリー
デズデモーナ:フラチュヒ・バセンツ
エミリア:カイ・リューテル
カッシオ:フレデリック・アンタウン
ロデリーゴ:グレゴリー・ボンファッティ
ロイヤルオペラ合唱団
ロイヤルオペラハウス管弦楽団
協力:東京バレエ学校

オテロは悲劇であることは誰でも知っていること。しかし今日の公演を聴いてこのオペラが聞くも涙。語るも涙の悲劇であることを改めて思い知らされた。
 第4幕、オテロとデズデモーナの寝室の場。デズデモーナは「柳の歌」を歌い「エミリアさようなら」と歌いながらエミリアと抱き合う。今日のこの場面、いつも以上に絶望的に感じた。悲劇の予感!
そして、デズデモーナの「アヴェ・マリア」、この静かな語るような歌い口はもう心が清められた達観したような心境すら感じられる。
 そしてデズデモーナは浅い眠りに落ちる。ベッドには横にならず、ベッドの端に体を預けている。そこへオテロが登場。湾曲した剣を持ちデズデモーナを刺そうとするが躊躇。耳元に唇を寄せるとデズデモーナが目を覚ます。オテロがデズデモーナを殺害する場面。ここでなぜオテロがいままであのような態度をとってきたのかがやっとデズデモーナにもわかったのだ。カッシオとデズデモーナは関係は何もなくとも、親しかったことは事実。第2幕でカッシオがデズデモーナに復職を頼む場面で、親しげに本を挟んで顔を寄せ合う場面がある。そう言う積み重ねにヤーゴの油。デズデモーナが死の瞬間、後悔しなかったとは思えない。そういう場面だ。
 オテロはデズデモーナを枕で窒息させる。この場面どこかで見たことがあると思ったら映画「天井桟敷の人々」でシェークスピア俳優になったフレデリックが映画のなかでオテロに扮しデズデモーナを殺害する場面とそっくり。
 しかしエミリアが登場して事の真相が明らかになる。オテロの胸によぎる深い悔恨。クンデの歌唱からはそれが痛いほどよくわかる。人は後悔をしながら生きているようなものだが、このドラマのように取り返しのつかない後悔もある。だから悲劇となるのだろう。
 オテロの死の場面、私たちはオテロの深い悔恨に大いに共感するのだ。この4幕の演出はもちろんウォーナーだけれど、この公演ではパッパーノやクンデそしてバセンツらの音楽がなければ成り立たない、まさにオペラらしいパフォーマンスといえよう。今日の公演については、もうこれ以上書くことはあまりないが、いくつか印象に残ったを点描する。

 パッパーノは「ファウスト」も素晴らしかったが、「オテロ」は、一層と言って良いかかわからないけれど、パッパーノらしい。1幕のオテロの登場や2幕のヤーゴの「クレド」、オテロの「清らかな思い出は遠いかなた」そして2幕の幕切れの2重唱など火を噴くような場面があったかと思うと、1幕の愛の2重唱や4幕全体の情緒的な進行、心の機微をしっとりと描く場面もある。この対比が、この悲劇のためには、決して不自然ではなく、かえってこれは必然と思わせるところがすごいところだ。

 クンデは昨年デグリューを日本で歌ったが、その時ははたしてオテロはどうかと思ったが全く杞憂に終わった。次第にエンジンがかかり2幕はベストの歌唱だろう。4幕は上記の通り。過去のモナコやドミンゴとはまた一味違った苦悩の人の歌唱を聴かせてもらった。
 デズデモーナは3幕のオテロに侮辱されるシーンから歌唱がガラッと変わる。単なるお嬢様ではないのだ。こういう造形のデズデモーナは過去ないとは言えないが、今日のデズデモーナのオテロの侮辱に対する反応は今までになく激しく、驚かされる。これも演出なのだろう。4幕の歌唱の素晴らしさは上記のとおりである。
 ヤーゴは裏表のないオテロとデズデモーナを引きずり回す役どころ、これはフィンリーの見事な歌唱で聴きとれる。ただよく言われるヤーゴがオテロを食ったとか、タイトルはヤーゴにしたほうが良いというような言い方はできないと思う。この公演ではあくまでも舞台回し。悲劇の主人公はオテロとデズデモーナなのだ。

 ウォーナーの演出は案外とまともだった。奇をてらったところはなく、音楽に和した演出だと思う。彼は日本では東京リングの演出で知られていると思うが、あのメルヘンチックなリングとはまるで違う、シェークスピアの地元の舞台にふさわしいと思われた。
 ただ、装置の類は随分とシンプルなもので昔スカラ座の公演で見た豪華な舞台が懐かしい。唯一迫力のある場面は第3幕のヴェネチアの使者たちの登場シーン。
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この獅子の像はかなり迫力があったが、ほんの数十秒しか出てこないのは寂しい。3幕の最後でオテロがヤーゴに踏みつけにされる場面にも登場するかと思ったら出てこなかった。使者たちの入場の場面だけだったのはもったいない。ただ4幕ではこの像はばらばらになって舞台の右上の中二階のような部屋の置かれていた。

 舞台の背景は奥にすぼまって並べられているパネルが壁のようになっている。ただこの壁の何枚かはスライドして動き、それが透かし彫りになり。明るい場面では、照明効果で美しくなるが、大体の場面では薄暗いといえよう。正面にはスクリーンがあり、例えば1幕の幕切れのように星を映し出したりする。
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この場面は1幕のカッシオが酔っぱらう場面だが、かくのごとく薄暗い。
また、例えばオテロが歌う「神よあなたは私に不幸のすべてを与えられた」は真っ暗な中、オテロにのみ照明を当てられる。ここも薄暗いのだがしかしこのオテロの心情を語るにはふさわしい舞台だと思った。なおこの演出は2017年初演のもの。あの時はヨナス・カウフマンがオテロを歌った。

 演奏時間141分の、久しぶりに興奮をしたオテロだった。




2019年9月21日

於:サントリーホール(1階11列右ブロック)
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東響交響楽団、第673回定期公演

指揮:リオネル・ブランギエ
ヴァイオリン:アリーナ・ポゴストキーナ

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲

プロコフィエフ:交響曲第四番

ブザンソンコンクールの優勝者のブランギエとシベリウスコンクール優勝者の共演である。ブランギエはチューリヒ・トーンハレに26歳で首席指揮者/音楽監督に就任した俊才、あのダヴィッド・ジンマンの後継者である。彼についてはCDでラヴェルのオーケストラ曲の2枚セットを聴いて感心したのを記憶している。録音が良いというので買ったのだが、演奏も実に行き届いていて、なおかつ若々しさもかけていない。ラヴェルのオーケストラ音楽を一応聴いてみたいという方にはぴったりのソースである。

 ブラームスのヴァイオリン協奏曲で忘れられないのは2016年2月のN響定期でジャニーヌ・ヤンセン/ヤルヴィの組み合わせで聴いた演奏だ。ヤンセンの情熱的なヴァイオリンはまさに熱気を帯び、手に汗握る演奏にだった。それまではファウストがいいなあと思っていたが、今はまずヤンセンだ。
 ヤンセンが鉄火女ならポゴストキーナはクール・ビューティだ。キラキラと銀色に輝くドレスが彼女の体が動くたびにその輝きが放射され、音との相乗効果が美しい。この演奏で最も心を打たれたのは2楽章、ここではクールというより泣き節に近い。すすり泣くようなヴァイオリンは胸が締め付けられるように、こころに迫る。ブラームスではなかなかこのようには泣けない。いつも思うがこの楽章の冒頭の管楽器のアンサンブル(特にオーボエ)は誠に素晴らしい音楽だと思う。その音楽の後にこういうヴァイオリンが入ってくるから、泣き節になるのだろうか?ロシア人の血が騒ぐのか?
 さすがに3楽章はクールビューティーとはいかないが、音楽は決して性急にならず、美しくクライマックスを駆け抜ける。1楽章はブランギエのオーケストラと相まって悠揚迫らぬスケール感を感じさせるブラームス。小手先の技ではなくまさにオーソドッククスにオーケストラを叱咤する。3回出てくるオーケストラのみの部分が繰り返されるたびに熱気を帯びてくる。しかしクールビューティーのカデンツァは泣き節。このギャップもなんだかとても楽しい。
 アンコールはバッハの無伴奏パルティータ3番から「ガヴォット」、この有名な曲がまるで今作曲されたばかりのような新鮮さ。踊りだしそうな、浮き浮きした舞踏の音楽が聴ける。またわずかに聴こえる装飾音のせいか音楽全体が即興風に聴こえる。まことに驚かされた演奏だ。全曲を聴いてみたい。ちなみに彼女はバロック・ヴァイオリンを勉強したそうだからその影響があるのかもしれない。
 協奏曲はフランス人のブランギエ、ロシア人でドイツで学んだポゴストキーナ、このコンビネイションの妙もあったかもしれない。とにかく大変面白い演奏を聴かせてもらった。ライブはこうでなくてはいけない。なおポゴストキーナ異様ヴァイオリンは1752年製のカミッロ・カミッリ。

後半のプロコフィエフはライブでは初めて。この曲はもともと1930年にクーゼヴィツキの委嘱で書かれた音楽だが、バレエ音楽の引用などがあって、委嘱者の気分を害したなんていう逸話もあったらしい。初演はあまり良い評価ではなかったが、それでも一部評価する向きもあったらしい。しかし作曲家自身もなにかすっきりしないところもあったのか、1947年に大改訂をおこなう。これはほとんど作り替えといって良いような作業だった。とくに両端楽章は演奏時間も3割くらい伸びて全体に長大になっている。今夜の演奏は1947年版である。私は1930年版も小粋でそれなりに面白いと思っているが、正直両方とも何度も聴きたいとはあまり思わない。プロコフィエフなら1番、5番、7番を聴きたいところだが、4番を持ってきたところがブランギエスタイルなんだろう。
 今のところこの音楽に没入できるというところまではいかないので今夜の演奏をうんぬんかんぬん言えない。早速来シーズンも客演するところを見ると楽団との相性も良いのだろう。来シーズンはバルトークやストラヴィンスキーで得意のフランスものは封印しているようだ。



2019年9月20日
於:NHKホール(18列中央ブロック)
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NHK交響楽団第1919回定期公演
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
ソプラノ:ヴァレンティーナ・ファルカシュ

リヒャルト・シュトラウス:歌劇「カプリッチョ」から「最後の場」

マーラー:交響曲第五番

カプリッチョの最後の場は当たり前のことだがオペラの舞台を見たほうが一層その美しさを感じる音楽だ。2004年のカーセンの演出パリオペラ座の公演を見たことのある人(映像)はみなそう思うだろう。このDVDではルネ・フレミングが歌っていた。声の印象としては今日のファルカシュとはだいぶ異なる。フレミングはシュトラウスでも元帥夫人を歌う人だし、ファルカシュはどちらかというとデスピーナやスザンナ歌手なのだから異なって当たり前だ。しかしこのマドレーヌは鈴をころがしたようなころころいう声で誠に魅力的で、これはこれで素晴らしいマドレーヌだった。N響のサウンドもさいしょの月光からもうシュトラウスの豊潤な音の世界であった。

 次のマーラーはなかなか扱いにくい演奏だった。まるで顕微鏡で覗き込んだような実に微細な音楽を聴かせる。高級な細密画を見ているようだ。楽譜が読める人はおそらく、指揮者の細かい指示に狂喜乱舞するのではと思わせる演奏のようだ。しかし全体を通すと少し神経質すぎやしないだろうかとも思う。聴いていてとても疲れた。特に前半の3楽章はそうだ。2楽章の終わり方のいかにももったいぶった様子。3楽章のレントラー風のメロディーも素朴さよりも作為的なものを感じてしまう。その割には終結に近いところのホルンの掛け合い、そう奈落の底に落とされるような音楽は、あまり深刻には聴こえない。
 しかし、4楽章のアダジェットは素晴らしい。少しはやめのテンポでまるで一筆書きのように一気呵成に音楽が進む。ここではあまり作為的な部分は感じられず、音楽は自然に流れて今夜の白眉。わずかにクライマックスへむかう途中で揺らぎが出るが、これはかえって変化を与えて、音楽が膨らむ。見事な表現。オーケストラの透明感も引き立った。

 5楽章も素晴らしい。前半の3楽章と比べると音楽を自然に流しているように聴こえて、マーラーの持つオーケストラサウンドのパワフルさを引き出していたように思った。ヤルヴィはブラームスでも感じるのだが、時々楽章間のスタイルが変わるように思って、どうも全体の統一感にいつも物足りなさを感じるが今日の演奏も私にはそういう一面が出たような気がした。まあわたしの聴き方が固定観念にとらわれすぎているのでしょうね。
 N響後半2楽章のパフォーマンスはさすがと思わせるものを感じた


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