ぶんぶんのへそ曲がり音楽日記

オペラ、管弦楽中心のクラシック音楽の音楽会鑑賞記、少々のレビューが中心です。その他クラシック音楽のCD,DVD映像、テレビ映像などについても触れます。 長年の趣味のオーディオにも文中に触れることになります。その他映画や本についても感想記を掲載します。

2019年08月

2019年8月31日
biri-bu

「ビリーブ」、フェリシティ・ジョーンズ主演
原題は「ON  THE  BASIS OF SEX」。人種差別を主題にした映画はあまたあるが、本作は性差別を主題にしている。
 主人公はルース・ギンズバーグ(ジョーンズ)、1956年、ハーバード大学ロースクール入学の9人の女性の一人である。すでに結婚しており一児を設けている。ご主人マーティもロースクールの学生である。マーティは一足早く卒業しニューヨークの法律事務所に職を得る。それに伴ってルースはハーバードからニューヨークのコロンビア大学に移籍し、そこを首席で卒業する。しかし就職活動は全く実らない。女性でユダヤ人で子持ちと云うことが原因らしい。とくに性による差別が大きいという。アメリカ1959年のことである。
 人種差別は大いに話題になるが、性差別はならない。それは女は家にいるもの、男は外で仕事をするものというのが建国以来のアメリカ社会の通念だったからである。女性がなれない職業はその当時あまたあったのである。また時間外労働も女性はできなかった。何度か訴訟はされたがことごとく跳ね返されてしまった。はてさて、自由の国アメリカでもこうだったのか、まったく知らなかった。少なくても法の下では男女は平等だと思っていたのだ。

 さて、ルースは結局ラトガー大学のロースクールの教授の職を得る。そして時代は経て1970年、彼女はある訴訟に目を止める。
 コロラドのモリッツ氏が母親の介護費用の税控除を申請する。しかし税法では女性の申請は認めるが、男性の申請は認められないこととなっておりそれを不服で訴え出ているのであった。ルースは女性に対する差別は風穴を開けられないが、もしかしたら男性に対する性差別なら風穴をあけ、法律の不備を認めさせることができると考えた。ここからルースの獅子奮迅の活動が始まるのである。
 裁判のシーンは物足りないが、非常にまじめに作られた映画だ。正座してみなければなるまい。


2019年8月29日
於:オーチャードホール(1階22列右ブロック)
yaruvi

パーヴォ・ヤルヴィ&N響
 ベートーヴェン「フィデリオ」(演奏会形式)

レオノーレ:アドリアンヌ・ピエチョンカ
フロレスタン:ミヒャエル・シャーデ
ドン・ピッァロ:ヴォルフガング・コッホ
ドン・フェルナンド:大西宇宙
ロッコ:フランツ=ヨーゼフ・ゼーリッヒ
マルツェリーネ:モイツァ・エルトマン
ヤキーノ:鈴木 准
囚人1:中川誠宏
囚人2:金子 宏

合唱:新国立劇場合唱団

素晴らしいフィデリオだった。第16曲の「おお、神よ なんという感動のこの時~」から最後の重唱と合唱が和して終わるまでの音楽はいつも感動的だが、今日はさらにいっそうこのベートーヴェンの音楽の崇高な精神性を強く感じた。それがいやでこのオペラはいままであまり好きではなかったが、今夜の演奏はそういうことを四の五のと云わせないだろう。

 まずヤルヴィとN響の演奏の素晴らしさを上げねばなるまい。ヤルヴィの筋肉質のベートーヴェンはこのオペラの主題にふさわしいと思う。そしてぜい肉をこそげとった音楽は非常に機敏に動き、いかにも現代に生きるベートーヴェンだ。1幕のジングシュピール風のスタイルと2幕とのスタイルとはギャップがあると専門家の指摘するところだが、今日のような演奏を聴くとそれがほとんど気にならない。つまらないと思っていた第1曲もきびきびしてとてもよかったのがそのよい例だろうと思う。だからといって音楽がいつも突っ走るわけではない。上記の第16曲「おお神よ~」のソプラノに合わせて吹かれるオーボエはゆったりして、高貴な音楽にふさわしいのだ。N響もよくヤルヴィの棒に応えていたと思う。2013年のヤルヴィ/ドイツカンマーフィル・ブレーメンのライブ映像に比べると編成はだいぶ大きいのはこのホールゆえだろう。もう少し編成を絞ればさらにヤルヴィの設計通りになったのではないだろうか?

 歌い手の充実ぶりはおそらく今世界の劇場でもこれほどのメンバーをそろえるのは難しいのではないかと思わせるほどだ。事実昨年の5月の新国立劇場での公演と比べればはるかに今夜の水準が高いということがわかるだろう。
 ピエチョンカは初めて聴く(映像では薔薇の騎士の元帥夫人を聞いたことがある)が、もう昔からの大歌手だ。今夜も素晴らしい。昨年の新国立のメルベートもよかったが、これは甲乙つけがたい。
 シャーデのフロレスタンは決して英雄的なテノールでないところが良い。勿論彼はジークフリートも歌うわけだけれど、決して歌が肥大しないところが今夜のような演奏にあっていて、今夜最も素晴らしい歌唱だったと思う。
 マルツェリーネのエルトマンは2013年のヤルヴィとも共演している。あの歌唱にも驚かされたが、どちらかというと刺身の褄のようなマルツェリーネの位置づけだが、彼女の存在感を十分感じさせてくれた。今夜も全くそういう歌いっぷりである。つまりあくの強いロッコの言いなりの娘ではなく、自己主張を持った娘であるということだ。
 ロッコのゼーリッヒは日本でもおなじみな人だ。ここでのロッコは、ブッファ風の歌唱を排して。彼の本質は気の小さい、まじめで、善良な男であるということを示している。
 ピツァロのコッホは第7曲など、幾分力任せのところを感じたが、そういう役だから致し方がないだろう。
 ヤッキーノとフェルナンドは邦人だったが、立派な歌唱である。ただ幾分さっぱり声なので海外の歌手たちと比べると大人しく感じる。新国立の合唱団の安定さは云うまでもないだろう。

 演奏会形式であるが、歌い手は譜面台を見ることはなく、動きは少ないまでも演技をしながら歌うスタイルだ。なお、舞台上には2台のモニターが設置してあった。それがプロンプター代わりなのだろう。せりふの部分は話の展開に必要な程度にとどめられている。2013年のカンマーフィルとのライブ映像ではせりふはほとんどカットされていた。
 序曲は1幕はフィデリオ序曲、2幕の初めにレオノーレ3番が演奏された。これも実に勢いのある演奏で痛快極まる。演奏時間は126分。
フィデリオ



2019年8月26日
マリアカラス

「私はマリア・カラス」
不世出のソプラノ、マリア・カラスの生涯をインタビューと公演映像とで綴る。映像は初出のものもあるらしいが、どれがそれかはよくは分からない。ただトスカやノルマの映像はよく見るが、本作の冒頭の映像は1958年の舞台、マダムバタフライの1幕の蝶々さんの登場シーンで、おそらく初出ではあるまいか?ここでは素晴らしい蝶々さんが聴ける。

 原題は「MARIA by CALLAS」である。主にインタビューではマリア・カラスの素顔をクローズアップしようとしているように感じた。1961年のローマでの失声症(気管支炎)でキャンセルした後のインタビューなどは生々しい。また良き夫と家族を夢見たが、その夢はオペラ歌手としての名声によりついえたと何度も云っているのが印象的だ。最初の夫との離婚やオナシスとの愛などは彼女の夢と現実とのギャップを感じさせる。そういう私人マリアの対極にあるのが大歌手カラスである。これは本作では多くの映像によってクローズアップしている。あるときはオペラ劇場で、あるときはリサイタルで。
 ただ私人マリアと大歌手カラスとの間のケミストリーというものがあまり感じられないのは少々物足りなかった。つまりカラスの私生活、例えば愛などが歌唱にどう影響しているのか?映像の羅列(失礼)だけではなくもう一味演出があったらよかったのではないかと思う。
 まあそういうことは置いといても、彼女のトスカやノルマでの劇的な歌唱には圧倒される。古い映像だが音質も良く、また映像も美しい。特にカラー映像の美しさは特筆すべきだろう。カラスファンのみならずオペラファン必見の映画だ。


2019年8月24日
shougunnnoko

「将軍の子」佐藤巖太郎著、文芸春秋
著者の作品では「会津執権の栄誉」がすこぶる面白かった。長編だが連作風になっていてゆるみのない歴史小説で久しぶりに緊張感をもって読んだ。

 さて、本作は保科正之の半生を描いている。文章の形態はやはり連作の形である。一部は書下ろしだが、大半が既出のものである。いずれも正之の事を描いているのはもちろんだが、各章で正之とともに彼と因縁のある人物を絡めて描いているところが特徴だろう。そしてこの多くの人物との邂逅が彼の人となりを作ってゆくというところが著者の云いたいところだろう。正之は将軍秀忠の子であった。しかし母方は大奥にもあがっていない身分のため認知されない。そして武田信玄の娘の養子となって、やがて高遠藩の養子になる。その間多くの人が正之を守るともなく守ることになり、幼いながらも正之もそれを知っているのだ。彼が元服したのは非常に遅く21歳のころ。彼の育った環境がわかるというものだ。もうそのころは正之の異母兄の三代将軍家光の世である。もちろん家光と正之を描いた章もある。
 しつこいようだが、正之を守った多くの人がいたから、正之の人となりを作った。それは秀忠の次男忠長とはまったく異なった人生だった。忠長は兄の家光より才気煥発で両親から溺愛された。しかし大御所家康の鶴の一声で長子相続が決まった。忠長は一大名ととして家光に仕えるが、本人としては鬱屈したものが多々あったろう。箱入り息子としてちやほやと育てられなければまた違った人生が忠長を待っていたかもしれない。人間の成長の妙意を忠長と正之の比較で描いている。
 大変面白く読んだが、一度書下ろしで歴史長編を読んでみたい作家だ。

2019年8月22日
女流作家

「ある女流作家の罪と罰」、」メリッサ・マカーシー主演

リー・イスラエル(マカーシー)は伝記作家で実在の人物である。彼女が本作の主人公である。過去ベストセラーを出したが、今は売れない作家で、雑誌社につとめていたが、そこも首になり、家賃も払えない始末。彼女はアルコール依存症で身なりに頓着せず、粗野な話っぷりでこのような時期にでも自分を売り込むのが不器用な作家だ。
 1991年のある日いよいよ生活に困り果て、彼女が持っていたキャサリン・ヘップバーンのサイン入りの手紙を古書店に持ってゆくとかなり高額で引き取ってくれたのだ。そこで彼女は有名人のサイン入りの手紙の偽造を商売にするようになる。酒場で知り合ったゲイのジャック・ホック(リチャード・E/グラント)と組んでますますエスカレートする。彼女は偽造の手紙の文章を推敲することに創造の喜びを感じ始めてしまう。行き着くところまで行った彼女の運命は如何に?
 イスラエル自身の伝記の映画化である。彼女の死後(2014年)に映画化されたもの。さすがに存命中は映画化は難しかろう。原題は偽造手紙の中の一節「CAN YOU  EVER  FORGIVE  ME」である。
 マカーシーの演技が見どころだろう。顔の表情の変化の豊かさを見ているだけでこの映画の面白みを感じてしまう。ゲイ役の得体のしれない男ホック(グラント)の快演も忘れられない。その他わき役もみな優れており、見ごたえのある映画となっている。

 

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