2019年7月20日
於:新国立劇場(1階12列中央ブロック)
プッチーニ「トゥーランドット」新国立劇場公演
指揮:大野和士
演出:アレックス・オリエ
トゥーランドット:イレーネ・テオリン
カラフ:テオドール・イリンカイ
リュー:中村恵理
ティムール:リッカルド・ザッネラート
皇帝:持木 弘
ピン:桝 貴志
パン:与儀 巧
ポン:村上敏明
官吏:豊嶋裕臺
合唱:新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部、びわ湖ホール声楽アンサンブル、TOKYO FM少年合唱団
管弦楽:バルセロナ交響楽団
2018-19シーズンの最後を飾るのは、プッチーニの遺作「トゥーランドット」である。芸術監督の大野の力の入った公演だ。まず新制作であること。過去新国立では2回の公演があるが散発であり、新国立のレパートリーに残らなかった。今回のこのプロダクションはレパートリーとして残す意欲を感じられる。自分が常任をしているバルセロナ管弦楽団をピットに入れたのもそのせいだし、バルセロナオリンピックの企画者の一人であるオリエに演出を任せたのもそうだ。また興業の仕方としても東京文化会館やびわ湖ホールとの共催という方法をとっている。
歌手たちもテオリンをはじめなかなかのメンバーであり、大野でなくとも聴き手として、大いに期待が寄せられたといっても過言ではない。さて、結果はいかがだったろうか?通常の公演では、新国立の常連は案外とおとなしく、それほど熱くならない。さすがに今回は盛り上がるだろうか?と思いきや案外だった。通常の公演とそうは変わらないと云うのが私の印象である。
その一つの理由は演出だ。幕切れのトゥーランドットの自刃のシーンの後、幕が降りる。拍手の前、一瞬ため息のような重い空気がただよった。そのムードのためだろうか、拍手やブラボーにためらいのようなものを感じた。これにはデジャ・ヴュがある。あのカタリナ・ワーグナーの「フィデリオ」の後と同じ空気感だったのだ。まあ余談です。
私の率直な印象は期待外れと云うことだ。歌い手から入りたいが、歌い手にも影響を与えたと思われる演出にまず触れざるを得ないだろう。
これはプログラムを読まないとわからないのだが(オリエと大野の対談特にp27)、演出家と音楽家の間で、作品のコンセプトが明らかに違うことがどうしても気になった。つまりオリエはプッチーニのオペラの女性の主人公(例えばトスカ、マノン・レスコー、蝶々夫人など)の結末は悲劇なのだからこの演出もそうしたという。つまりトゥーランドットは死にカラフと結ばれてはいけないという。一方大野は、リューの死によって愛に目覚めたトゥーランドットは自由を得てカラフと結ばれ、更に、リューの深い愛は残忍な人々の心を解放すると云う。どう見てもこの二人には溝があると思わざるを得ない。
私はリューの死と云う大きな悲劇があるのだから、カラフとトゥーランドットは結ばれてハッピーエンドでも良いのではないかと思うのだが。この演出家はおそらくリューの存在を軽く見たのに違いない。ここが今日のパーフォーマンスを見て最も違和感を覚えたところだ。彼女は1幕と3幕でアリアを歌うだけだけれど、結局リューの精神が最も聴衆に感動を呼ぶのではなかったか?私は少なくともこのオペラをそう聞いてきた。リューにはプッチーニの愛してやまなかった、蝶々さんの精神を宿しているのだ。私にはなぜこのような演出を大野が認めたのか「なぞ」としか言いようがない。
さて、この演出家のコンセプトは権力=残忍である。舞台全体は薄暗く陰惨である。ト書きでは円筒形の壁に舞台が覆われているとあるが、ここでは逆ピラミッド形(舞台空間が逆ピラミッド型に見える)の壁になっている。壁の上方には生首が無数にある。
舞台全体を正面から見ると下に行くほどすぼまっていて、その底には王子たちが処刑される処刑台がある。壁には天井まで続く階段があり、そこに民衆やら役人やらがとりついている。天井に吊り下げられた巨大な建造物は皇帝や姫の部屋であり、3幕ではそれが下までエイリアンの宇宙船のように降りてくる。そして逆ピラミッドの壁の空間の中にすっぽりと納まるように設計されている。演出家はこの建造物をブレード・ランナーのタイレルの建物にたとえたが、私のこの舞台の映像のイメージは例えば「地獄の黙示録」のカーツ大佐の世界、または「マッドマックス・怒りのデスロード」の旅の果ての7世界である。あってはほしくない陰惨な死の世界である。そう言う意味では演出ポリシーどおりのイメージは出せていると思うが、この作品にふさわしいかどうかというとそれは別の話。大体みんな「誰も寝てはいけない」を聴きに来ているのではないか?なんでこんな陰惨な舞台を見せられなくてはいけないんだ?ゼッフィレッリのMETの演出を一度勉強してもらいたいものだ。
さて、衣装も凝っているが意味は分からない。まずピン・ポン・パンは1幕では酔っ払いの乞食、2幕では戦車隊の隊員、3幕では役人らしい?服装と着分けているがこの衣装で、これら3人にどういう役割を与えているのかさっぱりわからない。群衆の衣装は舞台が薄暗くよくわからないが、難民風である。衛兵は西洋の中世風でもあるし兵馬俑の鎧を着ているようでもある。皇帝と姫は白く長い裾の着物風、ただ姫は3幕では黒い衣装にになる。頭には兜のような三角巾のようなものをかぶっている。
演出は細かく書き出すときりがないが肝心の最後の部分だけ少し触れたい。映画ではこういうのをネタバレと云うが記憶として残しておきたい。
姫は空中から降りてきた構造物の底(舞台上では一段高い台になっている)からリューを見下ろす。リューはその台に上がって「はい、お姫様、お聴きください~」を歌う。そして歌い終わると、なんと靴下に挟み込んだナイフで自分の首を切る(まるで女スパイだ)、姫はおろおろする。その後、通常のの演出では民衆とチムールはリューを抱き上げ退場するが、今回の演出ではリューは舞台(中央の高い台)に残っている。そして面妖なことにリューの死骸の横で姫とカラフの2重唱、何か空々しい空気が漂う。二人は口づけをするが嬉しそうには思えない。やがて姫は何としゃがみ込んでリューの横に座り込む。そして最後の民衆の賛歌の中でリューと同じく首を切って、幕となる。
少し音楽に触れたい。テオリンは流石にいまだ健在という印象だが幾分平板な感じ。2幕と3幕の後半での変化がうまく出ない。ただ彼女は一度として舞台の上で歌わせてもらえていない。2幕では中ずりになった建造物の中で歌うし、3幕では最初はカーテンに囲まれた高い台の上で歌う。歌の印象はもしかしたらそのせいかもしれない。
イリンカイのカラフは2幕で精魂尽き果てた様子。2幕の「いやいや、傲慢な姫の心よ!」~「あなたは謎を出した」が今日最高の歌唱。きりりと振り絞られた声はにじみもなく美しい。弱音でも妙なファルセットにならず「しっかり感」がある。ただ3幕の「誰も寝てはいけない」はこれも姫と同様、中空の場所で歌わされる(空中階段)ので力が入らないのか「おう、夜を消え去り~」からは息も続かないようで苦しそうでVINCEROも尻つぼみ。これは一つは大野の超スローなテンポにもよるかもしれない。また幕切れの2重唱も演出のせいとおそらくカットのせいだろうかあまり盛り上がらない。
リューの中村は幸せ薄い奴隷の身を、可憐に歌っていたが、舞台を牛耳るほどの存在感に欠けていたのは、リキに欠けているためだろうと推察する。涙を誘うまでにはゆかなかった。ピン・ポン・パンは性格が読み取れないし、歌唱(歌詞)と演技がしっくりこないのは気の毒だった。2人のテノールは聴きごたえがあった。皇帝は今にも死にそうな爺さんらしく聴こえうまかった。
大野とバルセロナ、はたして東フィルだったらどうだったろう?バルセロナを呼ぶ必然性はあまり感じられなかった。演奏時間は113分。少々3幕でカットがあった(トスカニーニ版)。全体に重々しくまるでワーグナーを聞いているような印象を持ってしまった。プッチーニの持つ美しい旋律性を思い切り歌わせてくれていないという欲求不満の残る演奏だった。これが大野の行き方としたら、私はバッティストーニの東フィルとの演奏会形式のほうがずっと楽しい。
地獄の黙示録のカーツ大佐、英国作家のコンラッドの原作「闇の奥」の主人公からイメージされた軍人である。カンボジアの奥地に原住民やら脱走兵らと王国をつくる。その場面では生首が並ぶシーンがある
〆
於:新国立劇場(1階12列中央ブロック)
プッチーニ「トゥーランドット」新国立劇場公演
指揮:大野和士
演出:アレックス・オリエ
トゥーランドット:イレーネ・テオリン
カラフ:テオドール・イリンカイ
リュー:中村恵理
ティムール:リッカルド・ザッネラート
皇帝:持木 弘
ピン:桝 貴志
パン:与儀 巧
ポン:村上敏明
官吏:豊嶋裕臺
合唱:新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部、びわ湖ホール声楽アンサンブル、TOKYO FM少年合唱団
管弦楽:バルセロナ交響楽団
2018-19シーズンの最後を飾るのは、プッチーニの遺作「トゥーランドット」である。芸術監督の大野の力の入った公演だ。まず新制作であること。過去新国立では2回の公演があるが散発であり、新国立のレパートリーに残らなかった。今回のこのプロダクションはレパートリーとして残す意欲を感じられる。自分が常任をしているバルセロナ管弦楽団をピットに入れたのもそのせいだし、バルセロナオリンピックの企画者の一人であるオリエに演出を任せたのもそうだ。また興業の仕方としても東京文化会館やびわ湖ホールとの共催という方法をとっている。
歌手たちもテオリンをはじめなかなかのメンバーであり、大野でなくとも聴き手として、大いに期待が寄せられたといっても過言ではない。さて、結果はいかがだったろうか?通常の公演では、新国立の常連は案外とおとなしく、それほど熱くならない。さすがに今回は盛り上がるだろうか?と思いきや案外だった。通常の公演とそうは変わらないと云うのが私の印象である。
その一つの理由は演出だ。幕切れのトゥーランドットの自刃のシーンの後、幕が降りる。拍手の前、一瞬ため息のような重い空気がただよった。そのムードのためだろうか、拍手やブラボーにためらいのようなものを感じた。これにはデジャ・ヴュがある。あのカタリナ・ワーグナーの「フィデリオ」の後と同じ空気感だったのだ。まあ余談です。
私の率直な印象は期待外れと云うことだ。歌い手から入りたいが、歌い手にも影響を与えたと思われる演出にまず触れざるを得ないだろう。
これはプログラムを読まないとわからないのだが(オリエと大野の対談特にp27)、演出家と音楽家の間で、作品のコンセプトが明らかに違うことがどうしても気になった。つまりオリエはプッチーニのオペラの女性の主人公(例えばトスカ、マノン・レスコー、蝶々夫人など)の結末は悲劇なのだからこの演出もそうしたという。つまりトゥーランドットは死にカラフと結ばれてはいけないという。一方大野は、リューの死によって愛に目覚めたトゥーランドットは自由を得てカラフと結ばれ、更に、リューの深い愛は残忍な人々の心を解放すると云う。どう見てもこの二人には溝があると思わざるを得ない。
私はリューの死と云う大きな悲劇があるのだから、カラフとトゥーランドットは結ばれてハッピーエンドでも良いのではないかと思うのだが。この演出家はおそらくリューの存在を軽く見たのに違いない。ここが今日のパーフォーマンスを見て最も違和感を覚えたところだ。彼女は1幕と3幕でアリアを歌うだけだけれど、結局リューの精神が最も聴衆に感動を呼ぶのではなかったか?私は少なくともこのオペラをそう聞いてきた。リューにはプッチーニの愛してやまなかった、蝶々さんの精神を宿しているのだ。私にはなぜこのような演出を大野が認めたのか「なぞ」としか言いようがない。
さて、この演出家のコンセプトは権力=残忍である。舞台全体は薄暗く陰惨である。ト書きでは円筒形の壁に舞台が覆われているとあるが、ここでは逆ピラミッド形(舞台空間が逆ピラミッド型に見える)の壁になっている。壁の上方には生首が無数にある。
舞台全体を正面から見ると下に行くほどすぼまっていて、その底には王子たちが処刑される処刑台がある。壁には天井まで続く階段があり、そこに民衆やら役人やらがとりついている。天井に吊り下げられた巨大な建造物は皇帝や姫の部屋であり、3幕ではそれが下までエイリアンの宇宙船のように降りてくる。そして逆ピラミッドの壁の空間の中にすっぽりと納まるように設計されている。演出家はこの建造物をブレード・ランナーのタイレルの建物にたとえたが、私のこの舞台の映像のイメージは例えば「地獄の黙示録」のカーツ大佐の世界、または「マッドマックス・怒りのデスロード」の旅の果ての7世界である。あってはほしくない陰惨な死の世界である。そう言う意味では演出ポリシーどおりのイメージは出せていると思うが、この作品にふさわしいかどうかというとそれは別の話。大体みんな「誰も寝てはいけない」を聴きに来ているのではないか?なんでこんな陰惨な舞台を見せられなくてはいけないんだ?ゼッフィレッリのMETの演出を一度勉強してもらいたいものだ。
さて、衣装も凝っているが意味は分からない。まずピン・ポン・パンは1幕では酔っ払いの乞食、2幕では戦車隊の隊員、3幕では役人らしい?服装と着分けているがこの衣装で、これら3人にどういう役割を与えているのかさっぱりわからない。群衆の衣装は舞台が薄暗くよくわからないが、難民風である。衛兵は西洋の中世風でもあるし兵馬俑の鎧を着ているようでもある。皇帝と姫は白く長い裾の着物風、ただ姫は3幕では黒い衣装にになる。頭には兜のような三角巾のようなものをかぶっている。
演出は細かく書き出すときりがないが肝心の最後の部分だけ少し触れたい。映画ではこういうのをネタバレと云うが記憶として残しておきたい。
姫は空中から降りてきた構造物の底(舞台上では一段高い台になっている)からリューを見下ろす。リューはその台に上がって「はい、お姫様、お聴きください~」を歌う。そして歌い終わると、なんと靴下に挟み込んだナイフで自分の首を切る(まるで女スパイだ)、姫はおろおろする。その後、通常のの演出では民衆とチムールはリューを抱き上げ退場するが、今回の演出ではリューは舞台(中央の高い台)に残っている。そして面妖なことにリューの死骸の横で姫とカラフの2重唱、何か空々しい空気が漂う。二人は口づけをするが嬉しそうには思えない。やがて姫は何としゃがみ込んでリューの横に座り込む。そして最後の民衆の賛歌の中でリューと同じく首を切って、幕となる。
少し音楽に触れたい。テオリンは流石にいまだ健在という印象だが幾分平板な感じ。2幕と3幕の後半での変化がうまく出ない。ただ彼女は一度として舞台の上で歌わせてもらえていない。2幕では中ずりになった建造物の中で歌うし、3幕では最初はカーテンに囲まれた高い台の上で歌う。歌の印象はもしかしたらそのせいかもしれない。
イリンカイのカラフは2幕で精魂尽き果てた様子。2幕の「いやいや、傲慢な姫の心よ!」~「あなたは謎を出した」が今日最高の歌唱。きりりと振り絞られた声はにじみもなく美しい。弱音でも妙なファルセットにならず「しっかり感」がある。ただ3幕の「誰も寝てはいけない」はこれも姫と同様、中空の場所で歌わされる(空中階段)ので力が入らないのか「おう、夜を消え去り~」からは息も続かないようで苦しそうでVINCEROも尻つぼみ。これは一つは大野の超スローなテンポにもよるかもしれない。また幕切れの2重唱も演出のせいとおそらくカットのせいだろうかあまり盛り上がらない。
リューの中村は幸せ薄い奴隷の身を、可憐に歌っていたが、舞台を牛耳るほどの存在感に欠けていたのは、リキに欠けているためだろうと推察する。涙を誘うまでにはゆかなかった。ピン・ポン・パンは性格が読み取れないし、歌唱(歌詞)と演技がしっくりこないのは気の毒だった。2人のテノールは聴きごたえがあった。皇帝は今にも死にそうな爺さんらしく聴こえうまかった。
大野とバルセロナ、はたして東フィルだったらどうだったろう?バルセロナを呼ぶ必然性はあまり感じられなかった。演奏時間は113分。少々3幕でカットがあった(トスカニーニ版)。全体に重々しくまるでワーグナーを聞いているような印象を持ってしまった。プッチーニの持つ美しい旋律性を思い切り歌わせてくれていないという欲求不満の残る演奏だった。これが大野の行き方としたら、私はバッティストーニの東フィルとの演奏会形式のほうがずっと楽しい。
地獄の黙示録のカーツ大佐、英国作家のコンラッドの原作「闇の奥」の主人公からイメージされた軍人である。カンボジアの奥地に原住民やら脱走兵らと王国をつくる。その場面では生首が並ぶシーンがある
〆